One spring day

確か、春先のことであったと記憶している。

僕は家庭教師から逃げ出して、近所の草原で寝転がっていた。教科書だけ持って。初級の綴り方だ。
教科書さえ持っていれば、そこまで文句を言われないことを僕は知っている。
本を読むのは嫌いではないが、数字を扱うなんてもってのほかだ。
雲を数える以外に数を使わなくてはならないことなんてあるだろうか。
大体、しなくていいことならばしない、というのが幼い頃からの僕の信念である。つまり、数学の時間は僕が逃げ出すのにふさわしい。
というわけで、僕は開きもしない綴り方の本を小脇に抱えてここにきたのである。昼間なら、あまりひとも寄り付かない。茂みを幾つか正しい順序で抜けた先にある、僕の秘密の場所だ。雲を数えることくらいしか、やることはないけれども。しかも曇天だ。数えるべきものならば無数にある。無為は有為よりも幾分徳が高いだろう。
鳥の声なんかを聞きながらぼうっとしていたら、急に視界が明るくなった。雲の隙間が大きく開き、光の柱が顕現する。レース仕立てのカーテンが揺らめくように、淡い光が移り変わっていく。
天使の梯子、というらしい。少し前に母親が教えてくれた。珍しいもので、綺麗だなあと見つめていたら、
「何をしているんだい」
もっと綺麗なものが、目の前に現れたのだった。
この辺りでは見たことのない少年だった。同世代の僕からしてみても、均整の取れた顔立ちだというのはすぐに分かる。一番印象的なのはその瞳で、黒曜石の欠片に似ていた。利発そうなそれが、僕を上から覗きこんでいる。
枝に少し引っ掛けてほつれたブラウスから見るに、それなり以上の金持ちの息子だろう。
僕は彼の質問も忘れて、こう言うしかなかった。
……君は天使か何かか」
「どうして?」
「さっき天使の梯子が降りてきたから」
上体を起こして、ほら、と空を指し示したが、すでに光の祭典は終わりを告げていた。
何の面白みもない、ただの曇り空だ。
「見間違いじゃないのか」
ならばあれは、僕にだけ開かれた真実であったのだろう。
そういえば、と眼前の少年は涼やかな声で僕に問う。
「僕はアンジョルラス。君は?」
「グランテール」
よろしく、と笑う彼が陽光よりも眩しく思えた。

確か、春先だったから。

送信中です

×

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!