月光の聞くか天上の歌

 時の皇帝カラフと寵姫トゥーランドットの婚礼の儀の際、トゥーランドットは刃にて御身を傷つけ給う。カラフ、姫の生命を救うべく仁丹を与える。七日七晩の苦しみの後、始皇帝より伝わりし霊薬は辛くも姫の命を永らえさせる。寵姫トゥーランドット、皇帝カラフにいたく感謝し、皇帝に身勝手な行いへの許しを伏して乞う。寛大なる皇帝カラフの寵姫への慈愛、黄河よりも深く、皇帝陛下と女王陛下の統治は臣民の平安を齎す。皇帝カラフと寵姫トゥーランドットのお並びになった姿を見た者はその光輝に心打たれたと伝えられている。

これが中国の歴史書に書かれた歴史だ。
さて、行間から声なき者の声を拾ってみようじゃないか。

トゥーランドットが目を覚ました時、天界ではないことに落胆し、自らの最期を思い出し納得し、それからここがずっと暮らしてきた王宮の中だと気が付いた。
「目を覚ましたか、トゥーランドット」
声を掛けてきたのはカラフであった。真っ白な服を着ており、トゥーランドットにはそれが父のものと同じだとわかった。
ああ、わたしにはもう、この服を着る資格がないのだ。
トゥーランドットの寝台は黒に覆われていた。手触りはかつてと似通っていたが、間違いなく違う。等級を下げた絹で織られているのだろう。
「トゥーランドット、婚礼の儀をやり直そう」
「わたしは死人だ。死人と婚礼をするものがあるのか」
「あのとき我々は永遠の愛で結ばれたのだ。だが、臣下と臣民には儀礼を見せてその婚姻を認めてもらう必要がある。父上も納得しておられる」
父上というのはトゥーランドットの父、先代のことであろう。父よ、わたしの意向を聞かず『皇帝』にわたしを下げ渡した者よ。
「父を引き合いに出すか」
だけれども、トゥーランドットにとっては確かに大切な家族であったのだ。その権威のみを引き合いに出すような言い分には少々腹が立った。
「おれはお前を手に入れたし、今だってそうだ」
「それならまた、わたくしは刃を取りましょう」
「寵姫トゥーランドット、愛しい人よ、ならばおれはお前の手を切ろう。二度とその美しい身体を傷付けないように」
「それはあまりにも酷くございます」
傍に控えていたピンが顔を上げずに言った。
カラフが答える。
「ならばどうしろと言うのだ。この女が死んだら、おれはもう皇帝にはなれない」
「トゥーランドット様は疲れていらっしゃるのです。だからこのようなことを申すのです。皇帝カラフ陛下、トゥーランドット様を静養させましょう。戻ってきたらきっと、あなた様への愛を思い出すことでしょう」
幸いなことに、いい庵を知っておりますと忠臣は言う。
カラフはそれをよしとした。

トゥーランドットは粛々とその決定を受け止めた。まだお身体を動かすときではないでしょうと臣下たちがカラフをとりなしてくれた。彼らはトゥーランドットの療養についてくるのだという。おおかた監視役だろう。どうせわたしに選択権はないのだ。だがまだ権力はある。
それを使って、トゥーランドットはひとつのことのみを望んだ。

長安の外れ、清らかな水の流れる場所にピンの知る庵はあった。北京に比べて空気が美しいものだ、とトゥーランドットは思う。彼女自身は降り立ったことはなかったが、北京の仮想には瘴気が渦巻いていたという。民たちはマスクなしでは生活できなかったという。
トゥーランドットは生まれてはじめて地面へ足を下ろした。これまでは城にいるか、輿に乗っているかで、地面に直接立つだなんてことはしたことがなかったのだ。
大地は大理石の床に似ていたが、凹凸が多く、歩くには多少慣れが必要だった。
一緒にやってきたピンたちは古典漢籍を読んで暮らしていた。ここに仕事はそれほどないのであった。
「ああ、最高だ、生きている間に、このような暮らしができるとは!」
「王族でなく、貴族でもなく。僧侶になるには遅すぎた、我々にも未来があったのだ!」
「書を読め、注を付けろ、知識を得て、孔子に近付こう!」
トゥーランドットに万が一のことがあったら仕事もあろうが、大方の予想を裏切って彼女は何も問題を起こすことはなく生活を送っていた。
彼女は何をしていたのか?
リューと語らっていたのである。
トゥーランドットはリュー――彼女もまた仁丹で生き延びていたのだ――を側に付けるようにとカラフに望んだのであった。カラフはそれをよしとした。

トゥーランドットは謎を作る側として生きてきたのだ。
謎を解く側ではない。
もしもリューの見せたあれが愛であるのならば、カラフのそれは愛ではなかっただろう。
だからこそ高らかに叫んだのだ、お前の名は愛であると。
間違えるのならば、決定的に間違うべきだから。
「お前はどうして生き延びた?」
愛ではないものはわかった、ならば愛とは何であるか?
「私の胸に満ち満ちた、カラフさまへの愛でございましょう」
トゥーランドットはそれを探すために、リューを呼び寄せたのだ。リューは桃の染め物をした服を着ていた。一介の女奴隷に着せる服ではないが、トゥーランドットの側仕えをするのならばそれなりの服にするべきだと家臣が進言したのだった。
「仁丹がお前を救ったのだ」
「私はあの時死んでいるのです。あなた様も同じでしょう。死んでいるのならば、どうして生きていられる理由を探さなくてはならないのですか」
リューは歌うように述べた。王宮にいた誰よりも、それは心からの言葉であっただろうとトゥーランドットには思われた。誰もが自分のことだけを考えていたあの王宮では、誰も彼女の味方ではなかった。
だがリューは違う。カラフを――トゥーランドットはリューの愛する者を殺そうとしたのだから――愛しているのにも関わらずトゥーランドットに対して真摯に答えてくれた。
「理解した」
トゥーランドットはリューの答えをよしとした。

一日に数刻ほど、トゥーランドットはリューを呼びつけて話をした。カラフはどのような人間だったのか、どうしてこうやって働いているのか、住んでいた場所はどのようであったか。
リューはすべてに淀みなく答え、トゥーランドットはその答えをよしとした。
何が悪いのか、彼女に判断することはもうできなかったからだ。

それは月の光が降る夜のこと、トゥーランドットはリューが歌っているのを見た。彼女の知る言葉ではなかったし、彼女の知る旋律ではなかった。
何もわからないのに、トゥーランドットには好ましく思われた。儀礼的に鳴らされる銅鑼の音よりも深く響き、戦火を広めるラッパよりも勇猛で、警告の笛よりも遠くまで届くようだった。
歌が終わるのを待っていたら、リューはトゥーランドットに気付き、歌うのをやめてしまった。
「なんだ、なぜ止める、その歌は終わっていなかっただろう」
「どの節で止まってもよいのです、トゥーランドット様」
トゥーランドットには音楽の知識が多少あった。民を治める者としての教養としてだが。
そこに終わりのない音楽はなかった。リューは自分よりも詳しいのではないのだろうか。
「お前には音楽の心得があるのか。戻ったら、楽師になってもよいのではないか」
「私は文字を知りません。ましてや楽譜など、読めるわけがありません」
「では、どのようにしてお前は歌う?」
「母の口遊んだ歌を繰り返して歌うのです。友の踊りを真似て踊るのです。そして私が子を成した時、私が子に伝えるのです」
「そうか」
リューは異国の地に生まれ、村に育ったのだと聞く。トゥーランドットには想像もつかない生活だった。母が子供を直接育てるのだと、友が側にいるのだと。
どれもなかった、どれもなかった、何も。
トゥーランドットの持つ歌は楽譜に書かれた音符のみだった。楽師と合わせて皇帝に献上するための供物だった。
「わたくしは歌うことができるか?」
「どの歌をでしょうか?」
「お前の歌ったものを」
「それはできません」
リューがトゥーランドットに対してはっきりとものを断ったのはこれが初めてのことだった。
「あなた様が歌った歌は、あなた様のものになりますから」

そしてリューは先程の歌の続きを歌い始めた。トゥーランドットはそれを真似て旋律に重ねた。
月光が二人を照らし、二人の音楽を見守っていた。

2020-04-23

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