アイシーブルーの感傷

俺は、彼を何と呼ぶのが適切なのか、いまだにわからずにいる。
戸籍上の名前は知っている。彼が直接名乗りはしなかったものの、警察内部のデータベースを見ればすぐに判明した。呼ぶ機会がなかっただけで。
ほんとうの名前も知っている。彼が最後に教えてくれた。呼ぶ機会などあるわけがなかった。
俺との間柄も知っている。それを用いて呼ぶのが正しいのかはわからない。
だから俺はその男を、彼とだけ、呼称する。
彼もまた、憐憫も後悔も、望んでおるまい。

あの事件から一週間後――俺が、俺たちがすべての運命を終わらせて、それぞれが『ひとり』になってから、一週間。
休日の午前十一時、俺は警視庁に向かっていた。東野市からは電車で三〇分ほどの駅にある、その石造りの建物は、いつだってひとを拒絶するかのように立っていた。
守衛が俺を呼び止める。
「ご用件は」
「怪盗ダークの事件の事後処理だ」
守衛は承知しました、総司令殿、と俺をそのまま通した。
無論嘘である。怪盗ダークはもはや存在しないし、これから存在することもないだろう。二度と。
俺がここに来たのは、彼の荷物を整理するためだった。俺の、目の前で、消失した、彼の。
彼は警視総監だった。若くして、というよりも、若すぎるのにもかかわらず、彼がその地位についたことに、誰も疑問を抱くことがなかったが、それも彼の魔法のうちだったのだろう。誰もが、彼が警視総監であることに疑問を抱くことがなかったのと同じように、彼が突如失踪したことにも疑問を抱くことがなかった。おそらく、現在その椅子には違う人間が座っており、万事障りなく業務が進んでいるのだろう。
まだ彼の魔法は解けきっていないようで、もはや一介の中学生であるはずの俺は、難なく警視庁に入ることができた。ダーク捜査の総司令であった、俺の身分は、今やどのようになっているのだろうか。誰の記憶にも存在しない怪盗を追う、捜査官とは、何者なのだろうか。氷狩以外の何でもないはずの俺は、かつての残照のおかげで、ここにいられる。

エレベーターで十階まで昇る。そのフロアには一切の扉が存在しない。あるひとつの扉を除いて。ただひとつの扉にたどり着くための、その道順を熟知している。大理石の廊下を進んでいくが、誰ともすれ違うことはない。他のフロアでは警察官たちが大勢いるのだろうが、普通の人間向けの認識阻害がかかっており、今は警視庁に十階が存在することを忘れているはずだ。

ひとつきりの足音が高い天井の廊下に響く。ここにくる時はいつだってひとりだった――かつては影に、もうひとり、も、いたけれども、今はもういない、さいわいなことに。

三つ曲がって、突き当たり。
豪奢な装飾を施されたその扉には鍵がかかっていなかった。
そもそも、魔法に関する素質のない人間には視認すらできないだろう。警視総監の執務室であるというのに。
いや、だからこそか。
誰にでも開かれているふりをして、実のところ入れる人間は限られている。
その在り方は、今思えば彼に似ていた。

真鍮のドアノブはひんやりと冷たい。かすかに軋む扉は開き、シャンデリアを模した電灯は自動的に点灯した。
この執務室には大きな机と、それに合わせた黒い椅子しか置いていなかった。これが警視総監の執務室として異例のことであると、知ったのはつい先日のこと。通例、警察官はこんな貴族の邸宅みたいな部屋にはいない。そういった常識的なところに気付かせない、細々とした魔法が、彼の立場を支えていた。
大きなガラス窓からは朝日がさしこんできていた。俺は目を細める。
この部屋が眩しかったことなど、一度もない。
彼が俺をこの部屋に呼びつけるのは決まって夜のことだったからだ。

広い部屋に歩みを進めていく。絨毯の敷かれた床は、靴音を吸い込んで静かだ。

今日俺がここに来たのは、彼の魔法を終わらせるためだった。
もし誰かがうっかりこの部屋を見つけて、彼が『存在した』ことを知ってしまったら、魔法は破れて怪盗ダークの存在、ひいては魔力を持つ美術品たちの存在に行き着いてしまうかもしれない。
それは、氷狩の末裔として避けるべき事態だった。
だから、この部屋を、処分する。

部屋の入り口から一五メートルほど離れたところ、ステンドグラスにも似た窓を背にして、黒い机と椅子が置いてある。それらは持ち主の帰りを待つように佇んでいるが、魔力は欠片も持っていない。意思も何も持たない、ただの家具のようだ。
彼はいつも、その椅子に座って俺を呼んでいた。
俺はいつも、彼から距離を取っていた。
その距離はもうなくて――今あるのは空の机のみ。

回り込んで、木製の引き出しを開けようとすると、右腕がかすかに痛む。長袖の下には無数の傷があることを知っていて――治りかけのそれらは、クラッドにつけられたものだ。左手はまだ使うわけにはいかない。てのひらに深い傷跡があり、ものを掴むのにはあまり向いていない。
彼は俺に直接的な危害を与えることは基本的になかったが、あの日だけは違った。クオリアの銃に氷狩の血液を与えるためにナイフで切り付けられた、日。もちろん彼は『俺のため』だったのだと、だから正当化されるのだと、言うのだろうが。もし聞けば、のはなしで、俺は、聞かなかった。
聞いたところで無駄だと、思っていたから。

わずかな痛みを噛み殺して開けた、一番上の引き出しには、手帳が入っていた。今年のシステム手帳だ。ブラウンの革カバーがつけられている。市販品だろう。彼も一応働いていたのだろうか。ひとの手帳を覗き見る趣味はない。危険性もなさそうなので、それを引き出しに戻す。戻そうとした、そのときに、手帳から一枚の写真が落ちる。拾い上げてみたそれには、三人の姿が写し取られていた。

白いワンピースを着たひとりの女性が、生まれたばかりであろう幼児を抱いている。その顔は薄く微笑んでいるが、慈愛の笑みというよりは、自然界の真理を発見して喜ぶ数学者のようだった。
その横には男性が立っている。スーツ姿で、眼鏡をかけたその男性は、女性の肩に手を置いている。
誰の顔も、知っている。
そう、これは。
俺と、母と、彼の、写真だった。

こんな写真が、残っていたのか。
俺が持っていたのは、母との写真しかなかった。誰が父親かなんてどうでもいいと考えていた。俺は氷狩の人間だからだ。父は氷狩以外の誰かで、それだけなのだろうと。母も父親について言及したことが一回もなかったと記憶している。
しかしここには写真がある。

それはまるで、幸福な家族の写真のようだった。

彼とは一体、何者だったのだろうか。
そんなことはわかっている。
エルムルート、氷狩の『美術品』、氷狩を支えて生き続けた杖、そして、俺の、父親。

「怜」
と呼ぶその声は、母を亡くした俺に目的をくれた。
黒翼を完成させ、生き延びる、という、目的を。

それからパーティーの飾りものにして、大学に行く金を出してくれて、ダーク捕獲の司令官の位置につけさせられて――もっとも最後のひとつは、俺が望んだものなのだが――すべてを与えるふりをして、全てを奪っていった、男。

俺は写真をテーブルの上に置いた。陽光がその写真を照らしていて、それはひどく輝いて見える。
「これを、どうしろと言うんだ」
写真を握りつぶしてしまいたかった。今更こんなものを、見せられて、届かない記憶を、見せられて。どことなく息が苦しくて、埃ひとつない部屋で咳き込む。まだ大丈夫だ、まだ。
何が起ころうとも、誰も答えてはくれない。ひとりしかいない、この部屋では。

この写真を、見ていると、もしかしたら、と、思ってしまう。
もしかしたら俺たちには、『普通』の生活が、あったのではないのだろうかと。
たとえば、そう、丹羽のような。

俺はその写真を引き出しの中の手帳に戻した。これは、自分が持っているべきものではない。この部屋と一緒に――彼と一緒に、葬るべきものだ。

中段の引き出しには、怪盗ダークと氷狩家の美術品に関する資料が入っていた。ただ、どれも一般公開されている程度の情報に過ぎない。探りを入れたい人間であれば、このくらいのレベルには到達するだろうし、このくらいのレベルでは真相になどたどり着けない。このまま処分して構わないだろう。

最後の引き出しに入っていたのは、俺が彼にはじめて出会った頃――十歳ほどの、頃の、絵だった。アイシーブルーを基調としたその絵の中央には、色鉛筆の濃淡を用いてひとつの羽が描かれている。羽が地面に落ちる瞬間、それを描こうとした記憶がある。冷たい氷のような淡い色を、当時の自分はよく好んでいた。
「怜、絵を描くのかい」
「当然だ。俺は氷狩だ」
「ならひとつ、私に描いてはくれないか」
俺は十分もかけずにこの絵を描いて、彼に手渡した。彼のにやついた顔をよく覚えている。それが嫌だったから、適当な絵を渡したのだ。
当然、技量としては現在の自分に劣る。この数年、絵を描く余裕などなかったから、これが彼の目にした、俺の最後の絵になるだろう。
これは、どうすればよいのだろうか。
俺が――氷狩が作ったものとはいえ、未熟なものだ、魔力など持ち合わせてはいない。ならば、無力化する手間をかけなくても、燃やしてしまえば済むはなしだ。
ふと声がした、ような気がする。
「怜、絵を描きなさい」
端正な顔から発せられるその声はソプラノ。天より舞い降りて俺に命じる、その声はあくまでも軽い。
彼女にとってそれが、当然のことだから。
「あなたの絵はうつくしい」
おぼろげに記憶にある母の声はいつだって、俺の絵についてのことだ。
俺についてのことではない。

額装することもなく、かといって捨てることもなく、この絵を引き出しにしまっていた、彼の考えることなどわからない。俺はこの絵も処分することにした。自分のかつての作品ではあるが、これはもう、彼に与えたものだ。
俺のものではない。

その他に隠し扉などがないかも確認したが、そのようなものは見つからなかった。ぼんやりと魔法の気配がする以外は、いたって普通の、部屋だった。

ひとつ息をする。目を伏せる。
この部屋に見るべきものはもう何もない。
俺はポケットからマッチを取り出して、机と椅子に火をつけた。青白い炎が天板を走る。この炎は、魔法にかかわるものだけを燃やす。建物自体に魔力はないから、火事になることもない。振り向かずに扉へと向かった。きっと、窓辺のカーテンも燃えていることだろう。

扉へと向かう、その数十歩が、やけに長く感じた。

部屋を出る。重々しい音が廊下に響き、鍵のない扉は閉じられる。ダークを追う以外に、警察に関わる理由などなかったから、俺がこの建物を訪れることも、もうないだろう。この扉を開ける者も、もういないだろう。感傷はない。それを望まれてもいない。カバンの中には、この部屋に入ったときと同じものしか入っていない。ここで見つけたものはすべて、この部屋と一緒に燃える。
彼との思い出と一緒に――ろくな思い出はないけれども、たしかに、存在した、思い出と一緒に。
魔力を帯びた炎はひとを傷つけることなく、轟々と燃え盛り、部屋ごとすべて、なかったことにしてしまうだろう。
廊下を歩く。誰もいない廊下を。これから誰かが訪れたとしても、同じ景色は見えないであろう、廊下を。たったひとりで、これからも、ひとりで、歩き続けることになる。片翼を失ったこの身体は、それを望んでいたのにもかかわらずどこか空虚だ。
なのに。
エレベーターに乗り込む瞬間、ふと、ひとつ、くちびるからこぼれたことばがある。

さよなら、おとうさん。

2023-12-23

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