その部屋は花に埋めつくされていた。
かつては夫婦の寝室だったのだろう、ダブルベッドの中央にはひとりの女性が寝かされており、その周りには色とりどりの花が飾られている。
足元には赤いコスモスが、腕のあたりには黄色いスイートピーが、胸の上には紫色のキキョウが。
顔の周りには白いバラが。
季節も色もばらばらのそれらは、奇妙に調和していた。
家の主はベッドの側に立っている。
「ありがとうございます、みほちゃんに会いに来てくれて」
せっかくだからカレーでも食べていきますか、と、雉野つよしは微笑んでいる。
おれはあんたに会いに来たんだ、と桃井タロウは答える。
桃井はこの部屋には長居するものではないと思った。あまりにも静かで、なにもない。
ふたりは彼女の眠る部屋を出た。雉野は扉を後手に閉めた。
ダイニングテーブルには花が飾られていた。クレマチスだろうか。小さなガラスの花瓶に生けられたそれからは、あの部屋にあったものよりも生気を感じられた。
桃井さん、お花好きなんですか? と雉野は言う。
「いや、ただ、あれだけ多くの花があれば、管理が大変だろう」
「あれはプリザーブドフラワーなんで、埃を払うだけでいいんですよ。毎日ちゃんと世話してます。これだけたくさんあるから、ぜんぶ掃除するのは骨が折れますが、みほちゃんのためですからね」
プリザーブドフラワーというのは聞いたことがある。特殊な処理をすることによって枯れないようにした花のことだ。ならば生命力をあまり見いだせないのもうなずける。
雉野は鍋に入ったカレーを火にかけながら言う。
「ねえ桃井さん、スパイスカレーってけっこうかんたんにできるものなんですね。レシピさえあればぼくでも作れるくらいですから」
キッチンからはスパイスのよい香りがした。こちらからもいくつかガラス瓶が並んでいるのがうかがえる。彼が買い集めたものなのだろうか。それとも彼の妻が買ったものなのだろうか。
雉野は青い皿にきれいにカレーを盛り付けて持ってきた。上にはフライドオニオンも乗せて。緑色のグラスに入った水と小さなサラダもついて見た目だけならさながらいっぱしのカレー屋のようだ。
桃井はいただきますと手を合わせてからスプーンでカレーを口に運ぶ。
「五十点だ」
「桃井さんにしては高得点なんじゃないですか」
「クミンとカルダモンのバランスがとれている。ただ、塩気が若干多い」
「いつもの桃井さんって感じで安心しますね」
雉野も普段どおりに見える。
普段どおりに見えるほうがおかしいのではないか、と、桃井は感じている。
みほ――雉野の妻が鶴の獣人であることが判明したとき、雉野はいたく混乱し、落ち込んだ。妻を深く愛していた彼のことだから当然のことではある、と思った。
獣人は人間とは相容れない存在だ。すでに多くの被害を出していることは明白であった。しかし獣人は不可殺の存在であると、脳人たちが教えてくれた。
ならばどうすればいいのか。倒す方法がないとすれば。
「ダメージを与える方法なら、あるよ」
マスターは言った。
曰く、雉野のポイントを大量に使えばいいのだという。かつて、雉野がポイントを使った際、その対価は妻が支払うことになった。猿原やはるかがポイントの対価を自ら支払ったのとは対照的に。この世界の摂理として、ポイントを使えば大切なものを失うことになっているのだそうだ、それを活用すれば獣人であろうと損害をもたらすことができる。
その事実を聞いたとき、雉野は一度目を伏せた、数瞬の後、彼は言った。
「それなら、ぼくに、永遠をください」
マスターは雉野つよしのポイントを行使した。
行使した分の反動はすべて彼の妻に渡った。
彼が永遠を生きるためのコストとして、妻には永遠の眠りが訪れることとなった。
彼は眠る妻を永遠に眺めながら生きるつもりだという。
鶴が目覚める気配はない。
スプーンが皿に当たるかちゃかちゃという音だけがしばらく響いていた。氷が幾分か溶けた水で喉を潤してから、桃井は言う。
「あんたはこれでいいのか、雉野」
「これで、って、どういうことですか?」
「他に方法はあったはずだ」
ああ、そのことですか。雉野はスプーンを置いた。
「それで、桃井さんに迷惑をかけましたか? 呼ばれたらちゃんと戦いに行ってるじゃないですか。仕事にも毎日行ってますよ」
「なら質問を変えよう」
あんたはしあわせなのか、これで。
「ぼくはしあわせですよ。だって、みほちゃんとずっといっしょにいられますから」
彼の瞳に狂気の色は欠片も見いだせない。そこに存在する感情はガラスの中に入った水のように透明だ。
だけど、だからこそ、桃井タロウにとっては不可解だった。それと同時に、
「おれにはしあわせはわからない、だけど、今のお前がしあわせだというなら」
なぜだか、それはとても、さみしいように思える。
桃井のことばに、雉野はそうですか、と穏やかに答える。
リビングのガラス窓は閉じられており、風が入る余地はない。
2022-07-20
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