(You can)live in this moment

現実を踏み外して過去にスリップする感覚に慣れることはない。もちろん今ではバイザーなしでもある程度制御できるようになったが、モノに引かれる瞬間というのは確かにあって――うっかり潜り込んでしまうことも少なくない。今回のトリガーはテーブルだった。部品を取ろうと久々にこの部屋に来て、うっかり触っただけだ。そんなの避けられるわけないじゃないか。シスコ・ラモンは辺りを見回す。ここはスターラボ、研究室のひとつ、自分と『彼』とがよく使っていたその部屋。工具が乱雑に置かれていて、現在ではないことがわかる。現在だったらもっと片付いているはずだからだ。ぶっきらぼうに出ていったように見えてきちんと片付けて元の世界に帰ったからだ。彼が。カレンダーを見る。なるほど十二月か。中央管制室のクリスマスデコレーションに使ったモールの端切れが研究室にも飾られている。
緑と青のスパークル、忘れがたいあのクリスマスの残り香。
ここで何が起きるかはだいたいわかっている。全部は覚えていないけれど、どうせ毎日そうだったんだ。
青のノイズがちらつく視界に、『自分』が入ってくる。
そしてもうひとりいる。
青色に寄った視界の中にもなおきらめくアイスブルー、零度の視線にぬくもりがあったことを知ってしまった今、もしかしたら別の未来があったんじゃなかったと思ってしまう。
ああやって終わるのではなくて。
「ラモン、対反次元生成装置のロジックはこれで組めるはずだ」
「亜高速電子回路は使う?」
「試してみよう」
『過去のシスコ』と『彼』が会話をしているのを、現在のシスコは眺めていた。
ドライバーでネジを締めたり、クリアボードでああでもないこうでもないと試行錯誤したりするのを。
これは過去の記憶であって、過去の事実であって、現在の事実ではない。
過去は変えられないし、変えるつもりもない。
だけど、それでも、願ってしまった。

あの瞬間が永遠に続けばよかったのに、と。

バイブによる過去とのシンクロが終わる。もちろん近い記憶だったから、シスコも覚えてはいた。数々の日常の中に埋もれた光景だけれども、そんなことはあったな、くらいの距離感の記憶だった。
だが実際に見てしまうと話は違う。まるでフラッシュバックみたいだ、とシスコは思う。まるで自分がほんとうにそこにいたかのように――実際いたのだけれども――感じてしまったら、完全に現在に戻ってくるのは難しい。ひとつ大きく息を吸う。息を吐く。よし正常、塩化コバルトを取りに来ただけなんだ。とシスコは薬品瓶を掴んで部屋を後にした。
ここからでも潜れる、別の時間に、あらゆる場所に存在するあらゆる記憶にアクセスすることができる。シスコにはそれだけの能力があった。
そしてどこからでもあの時間に行くことはできるだろう。
どこにだって彼の存在した痕跡があるのだから、ここには、スターラボには。
そういった事実を忘れられるように、シスコは足早に歩いた。

ワークショップに戻る前に、シスコは中央管制室を通る。
人気はない。
モニタを見るに、今日ここに来ているのはバリーくらいのようだった。
ようやく警察に復職した彼だが、警察の仕事もフラッシュとしての仕事もそこまで忙しくなく、訓練をしているらしい。彼が忙しい状況というのはあまり治安がよくないということだから、それでいいのだろう。
ケイトリンは休暇だし、ラルフは『生き返って』からの身辺整理に手間取っているのだそうだ。通例、死亡届が出た人間がまた往来を堂々と歩くことはない。また出生届を出すわけにも行かないし……と、セントラルシティ市役所は困惑しているのだそうだ。スターラボには顔を変える装置もあるが、ラルフは自分の能力で顔を変えることができる。でも自分の顔で生きていきたいのだとか。
シスコが今日ラボに来たのは、プロジェクトを進めているからだった。事件がたくさんあったりしたらそんな趣味の延長みたいな研究なんてやっていられない。だけど、まあ、完成したらうまいこと使える機会もあるんじゃないか、シスコは生来の明るさでそう考えていた。

翻るのは黒点のこと、基本的には現在のことしか考えてないし、未来の明るさを夢見ているシスコの脳裏によぎる過去のこと。
だからここに来たんじゃないか?と思わなくはない。
急すぎる別れだったから仕方がないじゃないか、と思わなくもない。
ワークショップを使うたびに、研究室に行くたびに、この世界に、このラボにもう彼がいないことを認識させられる。
ハリーがいなかったことなんてよくあることなのに!
むしろ彼がいないことのほうが多かったはずなのに、ものを机から落としたりあまつさえ投げつけたりもしてきたのに、どうしてこんなに不在を感じるのだろうか。
最初はむしろ彼の面影に誰かを見ていたのに、いつから彼そのものが見えるようになったのだろうか。

やろうと思えばほんもののハリーに会うこともできる。アースの境目を軽々と飛び越える、どちらかといえばそちらがシスコのメインの能力だとすらいえる。アース2に行けばきっとハリーは家族と暮らしているだろう。ジェシーと。そして、何をしているかはわからないけれども、しあわせに生きているはずだ。
あれから一ヶ月以上が経つ。
ハリーは一度もアース1に来ることはなかった。
シスコは一度もアース2に行くことはなかった。
バリーがスピードフォースの囚人となったときは、シスコもハリーに相談をしにアース2へ行くことがあった。それは彼が全宇宙で最高峰の知性を持っていたからだ。彼に聞けば有益な知見が得られると思ったからだ。実際そうだったし、バリーは帰ってきた。いくつかの偶然もあっただろうが。
それからコーヒーブレイクを楽しむことができたからだ。
ハリーの作業机にはいつもマグカップが置いてあって、アース2にはアース1にはないコーヒー豆もある。シスコは彼の作業場を思い出す。お互いに修羅場じゃなければ会いに行ったっていいと思っていた。こちら側からスタバの新作を持っていくこともあったし、新しいフラペチーノを買って帰ることもあった。

そう、だから、今回だってコーヒーブレイクだって行けばいいのであった。
「おはよう、こっちももう朝?」
「残念ながら夜だ」
だなんて実のない会話をすればいいのであった。リドリー・スコット監督の新作がこっちではもうやってるとか、MCUの新作がどうだってはなしとか、スター・トレックリブートってどう思う?とか、スター・ウォーズ新三部作の推しは誰?とか、そういったはなしをすればいいのだ。

なぜそれをしないのか、という理由はシスコには見当がついていた。
彼は今家族といてしあわせだからだ。
それ以上の論理の底には進みたくなかった。家族といてしあわせな日々を送っているんだ。それを壊してどうするんだ、いや、おれが行った程度で壊れることはないってわかってるけど、じゃあ本当の理由は?
彼に会いに行っても、あの頃の『彼』はいない、だからなんだ、だからなんなんだって、シスコの推論は先に進もうとするけれども、感情がそれを押し止める。
そうだ、そうだな、ジェシーは家族だろう、アース2が彼のホームだろう。
だけど。
じゃあこの世界は、アース1は、チームフラッシュは、なんだったんだろうか。
おれたちだって家族だろ、と言った、あのときの、感情の濃度はあまり思い出したくはない。

その代わりにシスコが行ったのはいつものあの店だ。
世界の終わりがすぐそこまで来ていたというのに、ジッターズは通常営業をしていた。隕石が落ちてきたりするくらいでは、セントラルシティはびくともしない。メタヒューマンの犯罪に慣れすぎて、地上最速の男が事件を解決するのに慣れすぎて、世界の終わり程度が新聞の一面を飾ることなんてできない。
「フラッシュ二杯で」
ジッターズの基本にして最高のブレンド。もうそろそろエロンゲイテッドマンとかも出てくるのだろうか。伸びるコーヒーというのはあまり想像がつかない。トルコアイスあたりになるのかもしれない。
店員はそれでは、と言って、シスコは受け取り口でコーヒーを待つ。
カウンターには新製品のカップケーキが並んでいる。アイシングとアラザンで飾られたかわいらしいそれは、どうやらストロベリーとラズベリーのフレーバーのようだ。
「それからカップケーキ二つ」
追加の料金を払って、カップケーキを注文する。糖分は大切なのだ。そういうことにしておく。決していつか徹夜したときに誰かと一緒に食べたな、なんて、そんな理由からではない。

シスコはスターラボの訓練場に向かう。使用中の赤いランプが点いている。中に入ると、稲妻の音が鼓膜を震わせる。
「バリー、もうそろそろ休憩にしない?」
バリー・アレン、地上最速の男はランニングの途中だったようだ。もっとも彼のランニングは音速を超えているのだが。
数値を見るといつもどおりハイスピード。バリーはランニングマシンから出てきた。スターラボのTシャツには汗ひとつない。
「いいよ、何かあった?」
「事件とかじゃない」
「それはよかった」
シスコはバリーにジッターズのコーヒーを手渡す。テイクアウトしてきたばかりだから、まだ熱い。
「これは先払いのコーヒー」
「今から借りを作るつもりか?」
「まあちょっと話を聞いてくれってことだ」
これはおまけのカップケーキ、と渡すと同時に、シスコは一口自分の分をかじってみる。
さすがジッターズ。安心と安定のクオリティ。
「なんかさ、ええと、こっちもはなしがまとまってないんだけどさ」
「ハリーのはなし?」
「なんでわかるんだよ」
「図星だ」
だって最近用もないのにラボに通ってるからさ、とバリーは言う。
長いこと付き合いがあるせいか、バリーにはお見通しだったようだ。もっとも、このくらい他人を思いやれる人間だから、今までこうやって『ヒーロー』でいてこれたのだろう。
「なんかラボでバイブで過去にスリップして、あのころが見えたんだ。ハリーと一緒に研究してたころさ。いたって普通のことだったのに、今はもう、できないことだ。おれの能力でできるのは『過去を見る』ことだけだ、これはこの場所の過去なんだ、っていうのはわかる、なのに、思い出すんだ、あのころのおれたちは、って」
「それは自然なことだよ。もし過去が変えられたとしたら、変えないというのは難しい選択になる」
バリーは真剣な面持ちで言った。
彼にも経験はあった。できるからという理由で、過去を変えてしまった。その結果どんな惨事が訪れるかも知らずに。過去を変えるというのはそれに連なるすべての因果を変えること。
それは決してひとりの背負える責任ではないのだ。
「ごめんバリー、責めるつもりはなくて――おれだってハリーが戻ってきたと思ってる。ハリーも『よくやった』って言ってくれた。それに、帰ってきたなら、家族の元に帰るべきだとも思う」
シスコは一拍置いて言う。
「でも、あのとき、『おれなら戻せるかもしれないのに』と思ったのも、ほんとうなんだ」
コーヒーの香りはどうしたってハリーを思い出させる。ワークショップに研究仲間がいたときのこと。空気のように普通で、だから失われるなんて思わなかった時間のこと。
「昔のハリーに戻ってほしい、って思うってこと?」
「そうじゃない、そうじゃないんだ、今のハリーも昔のハリーもなにも変わらない。ファミリーだ、チームフラッシュにいるんだ。もとから同じひとだって、わかっているのに」
ハリーの本質が知性にあるのではなく、ジェシーを育て上げたような心性にあるのだと言ったのはシスコだった。どこにも帰る場所がない、と思っていたハリーに、チームフラッシュは家族だ、だからハリーも家族だと言ったのもシスコだった。
それと同時に、ハリーの知性が戻ってきて、またこれまでみたいにいられるのだと、思ったのもシスコであった。
たとえハリーが現状で十分なのだと、何も欠けてはいないのだと言っていたとしても。
「まるで『ウェルズ博士』とハリーが同じようなものだと思ったみたいに、時系列で隔てられた、ふたりのハリーがいるのかのように感じてしまう」
このハリーと、そのハリー、シスコは両手を使って示した。
……そうだね、はじめてハリーに会ったとき、ジョーなんて撃とうとしてたからね、あのときはあれが最善とはいえ」
「結局、ハリーはひとりなんだけどな」
シスコは広げた両手を重ね合わせた。どちらのハリーも彼ひとりである。時系列なんかあるからややこしくなるだけであって、ほんとうは簡単なことなのだった。
「もう一度、シンプルに考え直していいのかもしれない。ウェルズ――ソーンとハリーは当然別人だし、ハリーとHRは別人だし、そしてハリーはひとりしかいない」
バリーはコーヒーを飲んでから言った。
「今回は誰も失わなかった。ラルフも帰ってきたし、ハリーもそうだ。僕たちは家族を守れたんだ」
チームフラッシュはあまりにも多くを失ってきた。世界を守るため、といって、たくさんのものを犠牲にしてきた。別可能性の自分自身も含んで、近いものをたくさん。
それはもううんざりだった。世界を守るためになにかを失うのは。
だけれどもハリーは違う、とバリーは思う。
彼は失われていないのだ。
そこにいるのに、会いに行けるのに、行かないだなんてそんなのはあまりにも。
「家族なんだから、いつどこで会いに行ったって構わないじゃないか」
仮初の別離をほんとうの別離にしてはならない。
「そうかも、しれないな」
行くなら早くしたほうがいいんじゃないかな、いつ忙しくなるかわからないし。とバリーは言う。
「どこに?」
「わかってるだろ」

シスコはもう一度ジッターズに行き、コーヒーとカップケーキを注文する。それぞれ二つずつ。
同じ店員だったが、特に何も言われなかった。一日に何度も来る常連客も多いのだろう。
それからシスコは世界を渡るためにバイザーを掛ける。
スリップではなく、意図的に。
「じゃあ行きますか!」
アース間移動は、今となっては歩くくらい簡単だ。

青いゲートをくぐって、座標はアース2のスターラボ、ハリーの研究室、でいいだろうか。
それ以外の場所は知らない。部署異動してなければいいんだけれども。
シスコがアース2に降り立ったときに、はじめに視界に入ったのは少女の姿だった。見覚えがある。
「いらっしゃいシスコ、パパがさみしがってた」
そして見覚えのある声。
彼を迎えたのはジェシー・クイック――ハリーの娘で、いっときこちらの世界にいたこともある――だった。特に驚いている様子はない。白衣を着て、クリアボードに白いペンで何やら書いているようだった。シスコが見たところ、宇宙物理学だろうか。
「え?」
「だってパパ、研究はたのしかった、もうできないけど、ラモンはなんでもできるから私がいなくてもよくやってるだろう、ってよく言ってるから」
「まあうん、研究はやってるけど」
研究は行っている。ハリーとは微妙に専門領域が違ったけれども、彼が残したタスクもできるだけアース1で実現できるようにしている。
ジェシーはクリアボードの数式をポインタで指して言う。
「わたしも、パパより賢くなっちゃって――同じボードで議論することはなくなったけど、その代わりに学校のはなしとか聞いてくれるようになったの、あのパパがだよ!?」
「それは驚くよな」
シスコよりも長い時間ジェシーはあの氷の女王かマレフィセントみたいなハリーと過ごしてきたわけだ。それがいきなり『普通の』ひとになったのだから。
小学生に2次方程式を教える代わりに、他愛のないはなしを聞いてくれるひとに。
「まあそれにしたってどっちも最高のパパよ、どっちもちょっと過保護だけど、それがパパってものね」
あまりの屈託のなさに、シスコはジェシーに質問した。もしかしてアース1で起こったことを知らないのだろうか。
「ハリーから事情は聞いてる?」
「うん、それなりには。でも細かいところは知らない」
彼女はすべてを知るべきではないのだろうか?どうしてこうなってしまったのか、だってハリーは彼女の父親じゃないか、そう思っていたところに、彼がやってきた。

相変わらず黒を基調とした服を身に纏った彼は、最後に見たようなやわらかい笑顔で言う。

「おかえり、ラモン」
「ただいま、って、ここおれの家じゃないからな」
ついただいま、と言ってしまったが、ここはシスコのホームではない。アース1が彼のホームだ。
そんなシスコの逡巡をよそに、ハリーはあっけらかんと言う。
「家族の元に帰ってくるときは、おかえりでいいだろう?」
それを聞いて、なんだかこれまで考えていたことは全部どうでもよかったのかもしれない、とシスコは思った。
ハリーはすっかり変わってしまって、これまでと同じ時間を過ごすことはできない。
でもそれで構わないのだ。こうやって新しいハリーに出会えるのだから。
つまり、ここもホームじゃないか。おれにとって。
そして、自分もホームになるのだろう、彼にとって。

「えっと、これがまず、おみやげのジッターズで」
シスコはテイクアウトバッグをテーブルの上に置いた。アース間移動にもきっちり耐えてくれたようだ。カップケーキの甘い香りが鼻腔をかすめる。
「久々ね」
「じゃあジェシー、勉強は一時やめにして、コーヒーブレイクと行こうじゃないか」
ハリーは微笑んで、おかえりのハグがまだだったな、とシスコに言う。

2020-06-02

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