天才は何を考えているのかわからないといったステレオタイプな物言いはシスコの好むものではない。それは個別性を無視して過度に一般化することばだからだ。なのでハリーに対してその言い回しを使いたくはなかった。
だけれども、さすがに今回はそう思わざるをえなかった。
「科学の基本は?」
ハリーがワークショップでの作業中にいきなり声をかけてきて、こう尋ねたのだった。
「仮説と検証」
大学初年度の学生に聞くんじゃあるまいし、こんな当然のことを、とシスコは思っていたが、続いた言葉から雲行きが怪しくなってきた。
「そういうわけで、今夜は空いているか?」
「え?」
「きみで試したいことがあるんだ」
文脈が読めない。
きみ『と』ならわかる。なんか実験の手伝いをしろっていう意味だ。でも『で』はわからない。
それじゃあまるでおれで実験をするみたいじゃないか。人体実験的な。
実際のところ、当たらずとも遠からじといったところだった。
当たってくれなくてもよかったのだが。
「ええと、ハリーはおれがいると安眠できると思ってるっていうことで、いい?」
ハリーの説明曰く、こうだ。
この前あったウェスト家でのパーティーの際、次の日が休みだからといって飲みすぎて、大体のメンバーはそのへんで転がって寝ていた。もちろんハリーも例外ではなかった。
そして翌朝、ソファの上で目を覚ましたハリー・ウェルズは気付いてしまったのだ。これがアース1に来てからもっともよい睡眠時間であったことに。
「概ね正確な理解だ」
「でもいろんなファクターがあるだろ」
当然そのくらいは理解している、とハリーに睨まれる。
「アルコールのせいか?と思って実験したがそうではなかった。一般に、就寝前のアルコール摂取は寝付きがよくなるように感じられるだけで、実際は気絶しているのだと言うが、その通りだったな」
「寝酒はよくないってやつだ」
「当然、カウチでなんかろくに眠れるわけがない」
「まあ、たいてい体が痛くなるよな」
「だから、残ったファクターはきみだ。目が覚めた時、隣にはきみがいたからな」
そういえばあの晩は同じソファで寝ていたような気がする。バリーが毛布をかけておいてくれたみたいでありがたかった記憶もある。
「要するに、わたしはきみに安眠効果があるという仮説を立てている」
科学の基本は、仮説と検証。
何も間違ってはいない。ある現象の裏に何か原因があるのではないかと考え、要素を洗い出し、ひとつづつ検証する。非常に科学的な態度だ。
ハリーが洗い出した最後のファクターがシスコだということ。
だからハリーはシスコと一緒に寝ればよく眠れるのではないかと考えていること。
「なるほど?」
論理的だし、その論理に間違いのないことくらいはシスコにもすぐに分かる。だけれどもどこか釈然としないというか、丸め込まれているような気分になってしまう。
シスコは心のなかで呟く。
天才は何を考えているのかわからない。
そういったわけでシスコとハリーは仮眠室にいるのであった。スターラボは基本的に残業を推奨しないが、科学者たちが自らの興味に応じて、あるいは世界の危機に対応するために必然的に、つい夜が遅くなってしまうことはままある。『ウェルズ博士』の時代はラボのメンバーも多かったので仮眠室が一杯になることも多かったが、今はそれほど使用されていない。
だからシスコは目の前の光景に驚いたのであった。
「あのさ、このベッドは」
「買った」
「買った」
買ったのか。これを。
仮眠室――だった場所はちょっとしたマンションの一室のようになっていた。壁をひとつ壊して広くしたらしい。ハリーがラボの外に住む場所がないから仮眠室を改造したとか聞いていたけど、ここまでやったとは思っていなかった。壁は真っ白からやさしいグレーに塗られており、机はしっかりしていて最新鋭のパソコンが置いてあり、それから目を引くのはベッドだ。シスコでもわかるようなエージェント・オブ・シールドの天才科学者と同じ名前の高級寝具メーカーのロゴが書いてあるような気がするし、目を擦っても消えない。その上に大きい。ダブルサイズだろうか。
そういえば何日か前にやたら大きな荷物がラボに運ばれてきていた記憶がある。これか。実験器具を誰かが注文したんだと思っていたけれども。これか。
「もちろん自分のベッドだけクオリティを上げるのはよくないだろうから、仮眠室のベッドはすべて変えておいた」
「ありがたいけどこれいくらしたの」
正直なところシスコにはベッドの相場はよくわからない。でもここにあるものが他の仮眠室にもあるとすれば、少なくとも一般的なラボでの3ヶ月くらいの給料が吹き飛ぶんじゃないだろうか。
「アース2と通貨単位が同じでよかった」
そういえばハリーはあちらのアースでのスターラボのオーナーなのだ。当然金ならあるだろう。アース間資金移動が違法であるという判例は出ていないはずなので合法のはずだ。というか現在のセントラルシティにそんな事態を規制する考えすらないだろう。
「どのアメリカもドルだよ」
多分。文明が崩壊していない限りは。
それにしてもこれはいいものなのだろう。まず見るからに真っ白でふかふかだ。手で押してみるとふわふわしているが適度な弾力がある。自分の家のマットレスを悪いものだとは思っていなかったが、これを知ってしまうと買い替えを検討してしまうレベルだ。いくらするのかは置いておいて。
「申し分ないと思うが。ほんとうはわたしがアース2で使っているものを持ってこようと思っていたが、裂け目を通すのが難しくてな」
「これよりすごいのがあるのかよ」
「当然だ」
ハリーは得意げに言う。
アース2は技術が発展しているからということだろうか。シスコはこれで十分なんじゃないかと思う。確かにこんなベッドがあれば家に帰るのが楽しみになるだろう。自分の家にはちょっと大きいかもしれないが。
「これだけいいベッドならおれがいなくても変わらなくない?」
「統制群の実験はすでに実施済みだ」
「じゃあこれでもあまりよく眠れなかったってことか」
それならおれがいたところで何か変わるんだろうか、と、シスコは思う。考えられる限り最高の寝具があって眠れないって、それは自分ごときで解決することなのだろうかと。
シャワーは浴びたし、歯磨きもしたし、別室でパジャマに着替えてもいる。寝る準備は万端だ。シスコはハリーが寝るときにどんな服を着ているのだろうかと少しばかり楽しみにしていたが、あまり普段と変わらない、黒のスウェットにTシャツだった。いやここでいきなりシルクのナイトキャップをかぶっていたりしたらどう反応すればいいのかわからないんだけど。
枕は二つある。布団はひとつ。
シスコは布団に潜り込む。思っていたよりも肌触りがいい。軽いのに必要十分なあたたかさがあって、このままずっとここにいたいってくらいだ。この生地でケープとか作ったら売れるんじゃないだろうか。手放すことができなくなるかもしれない。
ハリーはシスコとは逆の側から布団に入る。マットレスが揺れる。
「消灯時間だ」
その声とともに寝室の電気が落ちる。音声認証にしてあるらしい。便利なことだ。
「おやすみ、ハリー」
ああ、とかなんとか向こう側から聞こえる。シスコは寝付きのいい方だと自負していたがこの状況には慣れていない。恋人でもないひとと一緒に寝ることは少ない。家族と寝るのだってかなり幼いころのことだ。物心ついたころには他の多くのひとと同じようにひとりで眠ることになっていた。友人の家に泊まったらこうなることも……あったが他人の家ならソファでいいと言うことの方が多い。前にバリーがシスコのフラットに数日滞在したときは日毎に交代した記憶がある。
ハリーは今どうしているのだろうか。
ほんとうにこれでよく眠れるのか?
そんな疑問を抱きながら、シスコは目を閉じる。
なんとなく胸にざわめきがあるが、それは眠りの波にさらわれて消えていく。
目覚まし時計が朝7時を告げる。うるさくはないが確実に目を覚まさせてくれるサウンド。
シスコは布団から出て軽く伸びをした。体が軽い。
ハリーも目を覚ましたようだ。
「よく眠れた?」
「ああ。実験は成功だな」
「それはよかった」
実を言うとこちらもなぜかぐっすりと眠れたので、もしかしたらハリーに安眠効果があるんじゃないかとシスコも考えたりしたのだが、こちらは統制群の実験をしていないので、確定だとはいえない。
ということにしておく。
それからたびたびシスコとハリーは一緒に寝ることとなった。特に何があるというわけでもない。ただ、なんとなく、一緒にいるとよく眠れるような気がするのだ。ハリー曰くリラックスしているときの脳波が出やすいのだとかいう。
「てかさ、それはいいけど、なんでおれ以下の単位で安眠効果を実証しようとはしないわけ?実は体積の問題で、大きなぬいぐるみを置いておけばいいとか、なんかその、芳香成分が含まれていて、アロマオイルでも使えばいいとか、そういうのかもしれないだろ」
シスコはある夜ベッドの中でハリーに聞いてみたことがある。最近では、寝る前にちょっとした会話をすることもあった。まるで親友みたいだ、と、シスコは思う。
「第一に、今こうやって結果が得られているのだから、これ以上追試をしたところであまり意味はない。たとえその原因を突き止められたとしても、再現するコストが今以上に掛かる可能性もあるからな」
「おれって低コストな人材なのかよ……」
「人材というか……それは置いておいて、第二に、第二には、まあそれは言う必要がないだろう」
「えっ気になるんだけど」
「聞かなかったことにしろ」
そう言うとハリーは消灯時間だ、とそっぽを向いてしまった。なんだったんだろうか。ハリーが口ごもることは少ない。だいたい明快かつ簡潔に言ってのけるものだ。それからぼんやりとしたざわめき。胸の苦しさに似ているけれどももっとかすかなもの。それからシスコは目を閉じる。さすが最高のベッド、最高のマットレス、最高の枕、最高の毛布、あっという間に眠りに誘われて、直前まであった疑問も溶かしてしまう。
その日のシスコはケイトリンとバリーとスピードメーターの最終調整をしていたところだった。夜も更けてきたが、どうにもうまくいかないのでいくつかパラメータを操作しながらコーヒーを飲む。昨日は何時に寝ただろうか。そんなに早くはなかったことは覚えている。バグを深追いしていたら深夜になっていたのだ。
そういえばハリーが見当たらないな、他の作業をしているのだろうか、と思っていたところにはりーがいきなりやってきて、
「ラモン、寝る時間だ」
ハリーはシスコをどこかに引っ張っていこうとする。
「ちょっと待っておれにも人権があるんですけど?」
「あたたかい毛布は非人道的な取り扱いか?」
「この上なく人道的」
それはわかるけれどもどうして自分はこうやって引っ張られているのだろうか。シスコは困惑しつつもハリーの手を振り払ってついていくことにした。何かあるのだろう。
ハリーは振り返らずにバリーに指示を出す。
「バリー、そこのパソコンを保存してシャットダウンしておけ、それからきみたちも帰れ」
「ああ、いいけど」
あれはなんなんだ?とバリーは思ったが、言われたとおりにしておく。
どうせこれ以上作業をしても今日中に成果が出ることはないだろう。明日に回すのが賢明だ。
「ハリー、最近変わった……?」
ふたりが去ってからケイトリンはバリーに言う。
「なんか、落ち着きがあるような気はするけど、シスコと何か関係があるのかな」
明日シスコに聞いてみようか、と、バリーとケイトリンは片付けながら話していた。
「どういうことだよ、まだ11時なんだけどさ」
廊下を歩きながらシスコはハリーに言う。こんなことははじめてだった。だいたいシスコがハリーに常識な睡眠時間を取るように勧めているのだった。
「わたしにきちんと寝ろとか言うわりに、きみは昨日何時に寝たんだ」
「えーと、まあ3時くらいかな……」
そのくらいはよくあることじゃないか、と言おうとしたシスコをハリーが遮る。
「人間が健康的に過ごすために必要な睡眠時間は」
「7~8時間」
「そういうことだ」
そういうことらしい。ハリーも人間を思いやることがあるんだなとシスコは思う。
というか、シスコを寝かせるためならハリーがいなくたっていいのだ。最近それを忘れてしまったけれども。多分このためにハリーは自分の作業を早く終わらせたりしたんだろう。
ぼんやりとした頭で寝支度をして、いつものように布団に潜り込んで、ああいつもよりもずっと疲れていたし眠たかったんだなとわかる。身体が重い。重力に負けないようにマットレスが身体を支えてくれる。
「消灯時間だ」
ハリーの声とともに、部屋の電気が消える。
「あんたにしては強引だな」
「そうか」
「それからあんたにしてはやさしい」
そうか、とハリーは言って、それからはなにも話さなかった。
シスコはハリーの体温を遠くに感じる。布団というのはひとりよりもふたりのほうがあたたかい。熱源がふたつあるから、そんなのはわかるけれども、それではないあたたかみがどこかにあるように思えてしまう。
シスコにとって『ウェルズ博士』は遠くて近いひとだった。とても親しく扱ってくれるけれども、どこかに距離があって、そしてそれが全部嘘だってわかって、だから。
どう扱っていいのかわからないひとだった。そしてハリーは彼と同じ顔をした別人だ。それはわかっている。顔が同じだけで、まったくの別人だって。
だけれどもどこかに彼を重ねてしまうことがあった。これまでは。
もうハリーはハリーなのかもしれない。これからは。
もうハリーと近くにいても緊張することはない。そうじゃなきゃよく眠れたりなんかしないだろう。そしてここにはあたたかな気持ちがある。これに名前をつけるならなんだろうか。安心?安全?それとも。
あの時ハリーの言おうとした二つ目の理由がわかったような気がする。明日言ってみようか、あえて言わないほうがいいのか、シスコは未だ答えを出せずにいる。
2020-06-21
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