すべてを規範のうちに収めてしまえば、日々の流れることはなくなる。ジャン・バルジャンの辿っている生活は、そのような種類のものだった。朝が来れば目を覚まし、食事をとり、決まった道筋を散歩し、夜になれば眠るのだ。生活の円環は粛々と進められ、そこに差異はなかった。それらを乱すものですら、規則のうちにあった。娘との面会であっても、あらかじめ決まった予定、決まった場所でしかありえなかった。そうして決まった量の、ささやかなしあわせを得るのである。雨や風は物の数に入らなかった。歩ける限りにおいて、それらは彼の行動を変えるものではなかったからだ。彼の出会う雑多な人々はしっかりとした足取りに微振動すら与えなかった。
――つまるところ、わたしはまた囚人であるのだ
シシュポスが岩を運び続けるがごとく、同じ道を歩み続けるということ。誰に課されたわけでもない刑罰を、自らに課す、ジャン・バルジャンは己を囚人と規定した。肩に掛かっていた重石は、現在においては心性へとのしかかるものではあるのだが。
半ば努めのようにして、いつものようにオンム・アルメ街からほど近い路地をバルジャンは歩いていた。そうしていると、いつもは止まるはずのないところで立ち止まった。
「ふむ、これは」
日頃なら足を止めることなどない露天商の、その声に耳を傾けたのは、おそらくは偶然であろう。ただ、目を留めたのは偶然ではなかった。バルジャンが東洋風の刺繍が施された敷布の上に見つけたのは、黒い硝子で出来た飾り玉の入った皿だった。
「お客さん、お目が高いね」
露天商はバルジャンに馴れ馴れしく話しかける。
「モントレイユ・シュール・メールの黒玉さ。一時は大流行したものだった。腕輪になってないが本物だよ。ほら、この光沢、この色、他の工場じゃ出せないからな。まあ、最近となっちゃめっきり見ないから、珍品と言ってもいいだろう。確か、マドレーヌだかなんとかっていう市長がいなくなってから、そんなに出なくなったんだ」
それらは疑うまでもなく、『マドレーヌ氏』の黒玉であった。彼が間違うはずもなかった。読者も御存知の通り、ジャン・バルジャンはかつてマドレーヌ氏としてモントレイユ・シュール・メールの市長を務めていたからだ。
断りを入れ、黒玉を手に取る。何かに使えないだろうか。例えば、娘への贈り物であるとか。自分のために欲しいなどとは、微塵も感じなかった。
そんな時、家にある古びたロザリオを思い出した。金具の部分が壊れて、黒檀の珠が散逸して、そのまま放置してあるものだ。落ち着いた色合いで、年頃の娘が持つには地味なものではあるが、価値はそれなりにある。それを直すのに申し分のない大きさだ。色も近いし、黒檀よりは安い。それに、これらの黒玉はかつて自分が作ったということで懐かしさもあった。
年を取ると感傷的になるものだ、とバルジャンは思った。
「数は」
「これしかないなあ」
なんてったって希少品だからな、と露天商は言う。
「あとひとつかふたつ、あればよいのだが」
今出ている分だけでは、おそらく足りないのだ。露天商はようやく売れそうな客を見つけたため、どうにかして売りつけたいと思い、何か代替品でもないかと探す。
「こいつはどうかな、黒曜石っていうんだ。東洋では硝子の代わりに使われたりするらしい。大体色だって似ているだろう」
たくさんのポケットの付いた鞄の底から取り出した、麻の袋に入ったそれは、確かに硝子によく似ていた。しかし、手に持つと僅かに重く、品のある怜悧な冷たさを持つ鉱石であった。バルジャンはそれを気に入った。取り合わせも、悪く無い。
「それなら買おう」
硝子と黒曜石の飾り玉を合わせて、ちょうど1フランになった。
手先を使うのは嫌いではなかった。彼は力持ちであるだけではなく、細かな細工物も得意としていた。そうでなくては装飾品など作れまい。そうでなくては硬貨の中に刃物など仕込めまい。
金具なら全て揃っていて、だから珠を通して繋いでいくだけで良いのだ。手先が器用であったが、バルジャンは年老いていた。繊細な働きをするには、すこしばかり節くれだった指だった。拡大鏡を覗いても、焦点が外れることがままあった。銀色の針金に珠を通すのだけでも一苦労だ。ひとつの珠が指から零れ落ちた。
取り落とした黒玉は、床の木目に沿って転がっていく。ニュートンが運動法則を示したのと同様に、摩擦力によって止まった。
そういえば、ロザリオを作るのは初めてではなかったのだ。その時は、今回のように鳥落とすことなどなかった。若さは彼に味方していた。工場の黒玉が余ったからと、それから新しく警官が赴任するなら、何ならそいつにあげれば良いと思ったのだ。周りの人々に感謝するのが市長の勤めで、ならば警官であろうとも同等に扱わねばならないと。特段深い理由はなかったのだ。まさかその警官がジャベールだなんて、思いもよらなかった。作ったのは勿体無かったので、押し付けるようにあげてしまったが。
あのロザリオは、どうなったのだろうか。その後、ジャベールとそのロザリオについて話す機会などなかった。当然のことだ。
潔癖な彼のことだから、きっと、わたしが徒刑囚だとわかった途端に捨ててしまったのだろう。
単調な作業は過去の記憶を掘り起こす。珠に針金を通すこと。針金を曲げて、接合部を作ること、針金と針金を繋ぐこと。その繰り返し。
茨の冠を編むように少しづつ、バルジャンはロザリオを直していった。
「あら、ジャンさん、最近元気がいいのね」
コゼットは通例の面会に来たバルジャンの顔色が良いのに気付いて思わず微笑んだ。彼女にとってバルジャンは未だ父親であった。疎遠になってしまってはいたが、できるだけ相手のことを想いやりたいのが娘のやさしさである。
「そうですか」
バルジャンがなかなか打ち解けて話してくれないことを、コゼットは気にかけていた。季節のせいかしら、だなんて、年若い人間らしく浅い思慮でもって解決していた。
「いつも何をしているの?わたしに会いに来る以外で。お散歩なさっているって、近所のひとたちが言っていたわ。でも、話しかけてもあんまり答えてくれないって。ねえ、何をしているの?」
「手元にあったロザリオを直しています」
大したことではないようにバルジャンは言うが、コゼットはそれにも嬉しくなった。
「そうよ、そうやって何か仕事をすると良いのだわ。その調子で、わたしのところへもっと来て頂戴」
コゼットはお父様、と呼びたいのをすんでのところで飲み込んだ。その言葉がバルジャンの顔を曇らせるのを知っていたからだ。
実際、バルジャンの生活には変化が訪れていた。小さなものではあったが、それは彼に活力を与えるに足るものだった。老いを迎えた彼の身体は、過度の集中を好まなかった。その代わりに、毎日こつこつと組み上げていくことを好んだ。そうしてロザリオを紡いでいった。
そして、ひとつの輪とひとつの鎖を聖母マリアのメダイで結べば、それで円環は完結する。黒曜石の飾り玉はそのひとつあと、十字架の上に置いてみた。完成したロザリオを眺めているうちに、バルジャンは同じ黒の中にも輝きの違うものがあることを見て取った。
黒檀は静かな黒である。主張はしない。最も敬虔な色合いを持つのがこれである。硝子玉は艶があるが、軽薄だ。しかしどこか深みを宿し、全体を取り持っている。そして黒曜石は厳然としている。バルジャンは黒曜石から拒絶の感情を想起し、恐ろしくなった。それは夜の底知れぬ闇にも似ていた。それから、石がわたしを拒絶するはずがないのだ、あったとしたら、それはわたしの心情の問題だろう、と考えた。
めでたし、聖寵充満てるマリア、
主 御身と共にまします。
御身は女のうちにて祝せられ、
御胎内の御子イエズスも祝せられ給う。
天主の御母聖マリア、
罪人なるわれらのために、
今も臨終の時も祈り給え。
天使祝詞はアーメンで閉じられ、通例ならば、次の珠に移動し、次の天使祝詞を始めねばならぬ。そうでなければ、黙想を。しかしバルジャンは、そうすることが出来なかった。黒曜石である。十字架の上の、メダイの下の。多少色艶が違うだけのそれから、バルジャンは目を離すことが出来なかった。夜闇の暗さを、その奥の星々を。星があるから一層、夜というのは暗いのか。またもやその逆か。
バルジャンは思い出した。どうしてこれが気にかかるのか。彼が黒曜石の中に見たのは、かつて彼を追った警官の姿だった。思い出すというのは今初めて浮かんだ考えに対して適当ではないが、彼にとってはそうだったのだ。昔から存在した事実が白日のもとに晒される、それは記憶によく似ていた。
バルジャンはささやかな違和感の中に暮らした。ロザリオの祈りが黒曜石に辿り着く度に、彼はジャベールのことを思い起こさずにはいられなかった。黒曜石まではなかなか辿り着かないにもかかわらず、それでも彼は毎日思い出さざるを得なかった。
もう官憲に追われることはなかった。彼は逃げ切った。だが、彼は囚人であった。時と運命、それから過去からの視線は、彼を逃がすことはなかった。それを否応がなしに感じさせるそのロザリオを、バルジャンは離すことはなかった。何故か? 老境において人間は時に不可解な言動を取ることがある。バルジャンもそのような種類の人間であったのだろうか。否。彼はいついかなる時も明晰であった。肉体の衰えはその精神に悪影響をおよぼすことはなかった。では何故バルジャンはロザリオを手放さないのか。それはひとえに彼が罪を忘れないためであった。警官ジャベールに追われることは、彼の罪の証左であった。そして、ジャベールの死によって追われなくなった今でも、確固たる罪はそこにあり、それは追跡者を要請するのであった。物言わぬ追跡者は、しかしバルジャンにとっては果てしなく有能であり、雄弁に彼を追及するのである。
それらもまた、彼の生活の規範に組み入れられる。習慣となった感情は、もはや挨拶となんら変わりはしない。信仰も、娘への愛も、変わりはしなかったが、普遍となるために永遠を志向するのと同じように。
彼の単調な生活は劇的に終わりを告げる。隠された真実は顕になり、バルジャンの予想しなかった結末を遂げる。娘夫婦は彼の本意を知り、死の間際に立ち会うことができた。彼らの聞いた遺言の中には、このようなものがあった。
「この部屋にあるものは、お前が持って行って構わない。暖炉の上にロザリオがある。それも、よかったら使ってくれ」
コゼットは頷いた。かつてバルジャンの言っていたロザリオは、きっとそれなのだろう。こんなもの残しておいてくれるよりも、あなたが生きていてくれたほうがよかった、と涙を流した。元気だったじゃない、あの時は!
最期に娘夫婦に永遠の愛を説いて、ジャン・バルジャンは眠りについた、しかし。
ジャン・バルジャンは知らない。またもや、知らない。
天使を見た、と感じた彼は、地上に残してきたものを知らない。
彼の直したロザリオの、彼の指し示したロザリオの、黒曜石に細かな罅が入って、二つに割れて、銀の金具から転がり落ちていったことを、知らない。
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