まちがわない手
ルービックキューブは好きだ。好きっていうより、嫌いじゃない。別にそのビビットな色合いが好きだっていうわけじゃない。もしもパステルカラーだったとしてもある程度は好きだと思う、そう、好きなのは所定の回し方に従えば六面きちんと揃うその律儀さ。所定の回し方に従えば六面きちんと揃うその律儀さを嫌いになれないってこと。ぼくの人生もそんな感じだったらいいと思う。
残念なことにそうではなくって、人生に所定の回し方なんかなくって――でもなんだかいい感じに回転して、ぼくは今、ニューアベンジャーズとやらの一員になっている。
ニューアベンジャーズ。
世界を救ったヒーローたちは、もう現れることがない。
ならば新しいヒーローを。
そんなコンセプトでつくられた、ということになっているぼくらは、大きなポスターとして街中に貼り出されたり、スーパーヴィランと戦ったり、車の新モデルのお披露目に呼ばれたり、銀行強盗を倒したり、シリアルのパッケージになったりしている。
とはいってもぼくにそういった大きな仕事が回ってくることはない。当然だ、ぼくには戦闘経験なんてろくにないし、特段すごいスーパーパワーがあるわけでもない。ぼくじゃない『彼ら』には、まあ、いろいろあるけど、それは置いておいて、戦闘のスペシャリストだったり、やたらめったら強い力を持っているひとたちだったりがこのチームにいるのだから、そういうのは彼ら彼女らの担当だ。
だから、うん、退屈だ。ニューアベンジャーズが結成されてから三ヶ月。なかなかどうして暑くはなってきているのだが、ぼくはいずれニューアベンジャーズタワーと呼ばれることになるんだろうけど、今のところウォッチタワーということになっている建物に半ば閉じ込められていた。だから支障がないと言われれば、そう。
一応タワーから半径十キロくらいまでならひとりで移動してもいいことにはなっている。それ以上は誰かの付き添いが必要だ。なにかあったら困るというのがヴァルの言い分。必要なものは通販で買えばいいから、生活に困ることはない。タワーにはトレーニングルームも娯楽施設もあるから、ここでなにもかもを完結させられるのだけれども、それでも退屈だ。
そういうわけで、ぼくは見晴らしのいいラウンジで、タワーに併設されたカフェでテイクアウトしたホワイトラテを飲みながら、ルービックキューブを回していた。本を読む合間に手を動かしていると、何も考えずにすんでいい。本に没頭するのって、体力いるし。
眼下に広がるマンハッタンは、今日も平和そうだ。この高さからだと、ひとをひとりずつ判別できるわけなんかなくって、だから平和そう、っていうのは、空には雲も少なく、地上では煙が上がってないとか、そのくらいの意味になるんだけど。幸か不幸か、コミックブックの中のヒーローみたいに、悲鳴を聞きつける耳などぼくは持っていない。だから、ぼくは何が起こってるかもわからない街を見下ろしながらのんびりしていられるってわけ。
揃ったルービックキューブを崩す。崩してまた揃える。ルービックキューブは、手元を見なくたって揃えられる。タイムアタックができるほどの腕前じゃないけど、そのへんのひとたちよりはうまいと思う。
そんなことを考えていたら、ラウンジに人影があったので、
「おはよう、ウォーカー」
「おはようには遅いだろ」
「まだ十時だよ」
十時はもう昼だ、とか言うウォーカーは、たぶんトレーニングから戻ってきたところなんだろう、軽装で、首に薄手のタオルをかけていた。
ジョン・ウォーカー。ニューアベンジャーズのU.S.エージェントと言ったほうが通りはいいだろう。あるいはキャプテン・アメリカのなりそこない。後者を本人に言うつもりはないが、インターネットではそう呼ばれている。
ニューアベンジャーズの中では、なんとなく距離があるな、と思っている相手だった。最初に会ったときは明確に苦手っていうか嫌いな気がしてたんだけど、というか、端的に、父親っぽくて嫌いだという第一印象があったんだけど、今はそれほどじゃなくって、ただ、距離がある。
ウォーカーはその距離を知ってか知らずか詰めてきて、いや物理的な距離じゃなくって精神的な距離の話をしてたんだけど、今は物理的にこっちに歩いてきて、ぼくの持っているルービックキューブを一瞥して、
「貸してみろよ」
ウォーカーはぼくの手からルービックキューブを取り上げて、淀みのない手つきで回した。あっという間に六面揃っていて、ぼくにそれを投げ返してくる。
「意外」
ウォーカーはアメフトの経歴を自慢したりしてたし、どちらかというと、こういうインドアな趣味には理解がないんだと思ってた。
ルービックキューブの青色よりは淡い青の瞳を薄めて、ウォーカーは笑う。
「ハイスクールで一瞬流行った」
「でもぼくのほうが早いよ」
「揃えばいいだろ、遊びなんだから」
「言えてる」
それに関しては意見が一致した。
誰が揃えたって、ルービックキューブの色は最終的には同じになる。当然の話だ。そのあたりも人生に似ているのかもしれない。到達点は同じ。良くも悪くも。速さだけが、違う。この見解についても一致するかは知らないが、この見解について問う気はない。
ウォーカーは自分の部屋に戻っていくようだった。ぼくはルービックキューブにも飽きたし、と本をもう一度開いた。アガサ・クリスティ『春にして君を離れ』。タイトルだけは聞いたことはあったけれども、読んだことはないから、時間があるときに、と、思って。
ぼくの時間はそのようにして過ぎていく。かつての暮らしからすると信じられないくらいのどかだ。エレーナには、ハードな暮らしをしてきたんなら、少しくらいのんびりしな、と言われた。それは彼女自身にも当てはまることだと思う。
時間はたくさんあるけど、予定も多少はある。トレーニングとか。毎日夕食後に一時間入っているそれは、ぼくがここにいるための義務のようなものだ。
トレーニングとはいってもガラスを割ったり、重いものを持ち上げるだけだ。ただし、テレキネシスで。今日は三メートル先のガラスにヒビが入ったし、五キロの鉄球が十センチ浮いた。このくらいなら腕力でもできるのではないかという説はあるが、遠隔でできるのが大事なそうだ。強化プラスチックの向こう側にいるトレーナーは毎日ほめてはくれるけれども、数ヶ月ろくな進捗を出さないぼくに内心呆れているのではないかとびくびくしている。なにか精神的な不調があったらすぐに止めるように言われているが、今のところぼくはぼくのままで、要するにろくなパワーもない一般人だ。単純な筋力も多少は増強しているそうなのだが、それも日によってまちまちで、安定することはない。
スペック上、一応ぼくは飛べるらしいのだが、自分の意志で飛べたことはない。それに加えて、このタワー全体の電力供給とかできるらしい。当然理論値なので、ぼくがそれを達成したことはない。
『ぼく』じゃなければもっとうまくやるんだろうけどな、と思いながら、今日もトレーニングルームを後にする。
そうそう、『セントリー』と『ヴォイド』の映像を見せてもらったことがある。自分が何をしたのか知りたかったからだ。セントリーのときは途中までの記憶があった。髪を染められたのがとにかく嫌だったのは覚えている。それから、みんなに対峙したところくらいまでは、でも、どこだろう、どこからか記憶があいまいで――目が覚めたら、市街地は大変なことになっていて、みんなはぼろぼろだった。記憶が飛び飛びなのは、『こう』なったのが理由じゃないのは知ってる。治験に参加する前からそうだったのだから。
セントリーはなんだか偉そうで自分じゃないみたいだった。もしかしたら、ハイになっているときの自分ってこんな感じなのかもしれないけれども。改めて外から見てみても、金髪はあまり似合わないなと思う。
セントリーに関しては、ヴァルが報道機関に流す用にタワーにたくさんカメラを仕掛けていたようで、一本の映画みたいに見ることができた。そりゃあひとをどんどん吹っ飛ばしたり、ウォーカーの盾をくにゃっと曲げたりするのは、常人ではありえない。その映像はみんなが立ち去ったところで終わっていたので、その後のセントリーがどうなったのかはわからない。
ヴォイドの映像はあまりたくさんは残っていなかった。街中の監視カメラを繋ぎ合わせた記録によると、それは真っ暗で、どこかで見たことがある、すべての光を吸収してしまうから真っ黒に見える素材みたいな感じで、街を闇に飲み込んでいき、人々を影の中に消していっていた。これも自分じゃないみたいというか、これを自分だと認識するのは誰にとっても困難だろう。だって真っ暗なんだから。夜よりもなお暗く、光をまったく通さないんだから。こんなひと、いるわけない。
でも、みんなの話によると、これも自分なのだ。みんなはこの闇のなかに入っていって、戻ってきて、そうするとぼくがこの地上にいたらしい。
闇のなかで何が起こったのか、ぼくは知らない。こちら側からしてみると、深い眠りに落ちて、夢ひとつ見ずに目覚めたみたいな感じだった。
これから先、何が起こったかを、みんなが教えてくれることもないだろう。
ただひとつ、言えることは。
こういう夜に感じる寄る辺なさが、ふと消える瞬間があるということだけだ。
明日は週に一度の定例ミーティングがある。ぼくがいなくちゃ回らないってことはないけど、参加はしている。それに、集まったところで今のところ重要な任務がたくさんあるわけではない。だいたい集まって、現状を確認して、最終的に最近どう? になる。それで毎回、なにか話すことある? って振られるんだけど、だいたい今週読んでいる本の話しかすることがない。でも今読んでる本ってそんなに明るい話じゃないしな、って思っていたところに、ひとつ脳裏によぎった考えがある。
これはみんなによろこんでもらえそうだ。
ミーティングがはじまるのは朝の十時。ぼくはまだ眠たいけれども、みんなはしゃっきり目覚めているみたいだった。ぼくとは違う種類の人間なのだろう。司会は持ち回りで、今日はエイヴァが担当していた。いくつかの議題が提起されて、さくさくと解決されていって、じゃあ最後に何か言うことある? と言われたところで、ぼくは手を挙げる。
「あのさ、ひとつ提案があるんだけど」
エイヴァがじゃあ話して、とぼくに促す。
「ぼくがセントリーになれたら戦力になれるんじゃないかな」
ぼくにパワーがないわけではない。セントリーの存在の余波で、自分の意識がある状態でも多少のテレキネシスやその他の能力を行使することはたまにできるのだが、せいぜいスマートフォンのバッテリーをのんびり充電したり、マグカップをわずかに浮かせることができるくらいだ。それ以上のことをしようとすると、頭がくらくらしてきて、意識が遠くなる。たぶん、この波に乗ったら、ぼくはセントリーになるんだろう、とは思う。乗れたことはない。
向かい側に座っているバッキーがうんざりした顔で言う。
「あれには二度と会いたくない」
その横のエイヴァが眉を顰める。
「交渉の余地があるとは思えない感じだったもんね」
「もしかしたら、はじめてだったから、その、セントリーも緊張してたのかもしれないし」
ウォーカーがコーヒーを飲みながら、
「というか、お前はセントリーに意図的になれるのか?」
「うーん、なれる気はあまりしないな……」
なんせあのときも、自分からセントリーになったわけではない。いや、あのコスチュームを着たあたりまではたしかに自分だったんだけど、みんなと戦ってた時は確実に『自分』じゃない。
おずおずとぼくは言う、
「まあでも、もしかしたら、戦うぞ、って気分になったら出てくるかもしれないし……」
「再戦したっていいだろ」
アレクセイが元気よく宣言するので、エレーナが、
「戦うぞ、って気分になってあれが出てきたら困るんだよ」
「私たち結局、『あれ』には勝ってないからね」
「でも、ぼくもみんなの役に立ちたいし」
何ができるのかはわからない。でも、今よりはずっとマシなはずだ。
ウォッチタワーで飼い殺しにされているよりも、外で戦おうとしてもがいたほうがいい。みんながぼくを救ってくれたように、ぼくもみんなの力になりたい、そう思ったのだ。
場の空気が重くなった中、エレーナがひとつ手を叩いて、
「――わかった、訓練場を取ろう」
みんながエレーナのほうを向く。
「やってみて、だめだったら、それはそれで経験だよ」
世界を滅ぼさない方法は、もうみんな、知っているわけだし。と彼女は言って、ぼく以外のみんなは軽く頷いて、ぼくはちょっとだけ疎外感を覚える。
セントリーを呼び出すテストはそれから一週間後に行われることになった。その間、ぼくはできるだけのことをした。できるだけのことって、そりゃあ、トレーニングとかなんだけど、治験の影響で知らない間に体力が増強していたようだった。それは知ってたんだけど、改めて見てみると、こんな引き締まった身体になっているなんてまるで自分じゃないみたいだった。それに、見た目がよくなっているからって、それを十全に発揮できるわけでもない。
そう、どんなに筋力が上がっていようとも、身体の動かし方は依然としてぼくのままだから、戦闘経験のある、というか豊富すぎるみんなにコーチをしてもらっていた。
エレーナからはしなやかな身のこなしを習ったけれども、ぼくはその十分の一もできなかった。彼女曰く、十分の一でもこの時間でできたら上等ね、とのことなのだが、まあまあ悔しい。
ウォーカーとはかんたんな組み手をした。盾はなしで、と彼は言って、彼の強さは盾にあるんじゃないなっていうのがわかった。まあ、今の盾は丸くないんだけど。身体能力がどうこうっていうより、場数が違うんだな、って痛感した。
アレクセイはとにかくぶつかってこいと言った。ぶつかってみたら痛かった。それはそうだ。
一週間なんてあっという間に過ぎてしまうもので、ぼんやりしていたつもりもないのに、すぐにその日がやってきた。ニューヨークの郊外にあるその訓練場はたいそう丈夫で、ハルクが暴れても問題ないらしい。セントリーが暴れても問題がないかどうかは、これから判明することになる。暴れないのが一番なんだけど。
セントリーのコスチュームは予備があったけれども、今回着るのは丁重に辞退した。素の状態で着るにはあまりスタイリッシュとはいえない。いやデザインに文句を言っているわけではなくって、なんとなく嫌だなっていうはなし。
そういうわけでぼくは、手持ちの中でいちばん動きやすいかなという服、すなわちスウェット姿でここに来ることになった。
せっかくならコスチューム着なよ、とからかってきたのはエレーナだったんだけど、エレーナの戦闘服はかっこいいからぼくとは違うよ、と返すほかなかった。
そういうわけでぼくの目の前には、きっちりと武装したニューアベンジャーズのみんなが並んでいる。
まるで世界の敵になったような気分だ。
「それで、どうしよう」
「とりあえず、カップでも割ってみる?」
と言ったのはエイヴァで、ぼくは持ってきたマグカップを割ろうとするけど、うまくいかない。ついでに、意識が遠のくこともない。
「『ぼくは神だ』とか言ってみる?」
エレーナの提案に、ぼくはおずおずと口を開く。
「えーっと、ぼくは神だ……?」
「ぜんぜんボブ」
「セントリーの欠片もない」
口々に言われ、そうだよね、とぼくは肩を落とす。
セントリーを出してみようと言ったのはぼくなんだけど、どうやったらセントリーになれるかはまったくわからない。気合でなれるんだったらとっくになっているはずだ。えっと、あのときと今、何が違うんだろうか、と思ったところで、
「わかった! ぼくのこと撃ってみるっていうのはどう?」
はじめて空を飛んだのは、一斉掃射を受けたときだ。なら、同じ状況を再現すれば、セントリーが出てくるんじゃないだろうか。セントリーが何を考えているかは見当もつかないが、ぼくが死ぬのは避けてくれるはずだ。
あれ。
いいアイデアだと思ったのに、みんな呆れ顔でぼくを見ていて、ぼくにはその理由がわからない。最初に口を開いたのはウォーカーで、
「ミスったら死ぬだろ、お前が」
「たぶん死なないよ」
「たぶんで他人を撃てるかよ」
と涼やかに言うのはバッキー。
「これじゃ堂々巡りだよ」
エレーナが肩を竦める。
彼ら彼女らの懸念もわかる。わかるけれども、一度セントリーに出てきてもらわないと困る。困るというか、なんとかしてあれをみんなの役に立てたいのだ。
そうしたら。
そうしたら、なんだか、生きてていいような、気がする。
「えーっと、じゃあ、みんな、精一杯ぼくを殴りに来るってことで」
おそらく、そのくらいしか、方法はない。自分自身に、世界の敵なのだと誤認させるくらいしか。
それに。
「だって、みんな、ぼくに倒されるほどやわじゃないでしょ?」
「たしかに、ボブならね」
「対処法ならわかってるからな」
「掛け声はゴー、サンダーボルツでいいか?」
アレクセイの提案にみなが頷く。
それじゃあ、とエレーナは言い、
「ゴー、サンダーボルツ」
それと同時にみんながこちらに向かって走ってくる。
目は閉じない。
恐ろしくはないからだ。
頭のどこかにふわりと浮くような感覚があって、ぼくはそれに身を委ねて意識を手放す、たぶん、ぼく以外の誰かがうまくやってくれることだろう。
目覚めたのは自室で、ぱっと目に入るところにエレーナとアレクセイがいて、あと壁際にエイヴァが立ってて、ドアのそばにはバッキーがいて、そんなに広くはない部屋にみっちりとひとがいて、なんかみんなほっとした顔をしている。ぼくはベッドに寝ていて、身体を起こしても何の違和感もなかった。
「成功だよ」
とエレーナがぼくの肩を叩いた。
それからエイヴァがやってきて、携帯端末を差し出して、これが証拠映像、と言った。その映像を見る限り、金髪になったぼくが中心にいて、服はスウェットのままなんだけど、友好的な様子で手を挙げていて、最初はなんか話し合いをしていて、そのあとはちゃんとした戦闘訓練っぽかった。ぼくっていうかセントリーも加減してるっぽいし。言うことを聞いてくれるかはともかくとして、意思疎通が取れたらこいつも戦闘に出られるんじゃないだろうか。
「勝手に金髪になるんだ……」
「今はもとに戻ってるから安心しな」
携帯端末のインカメラで確認すると、ちゃんと普段のぼくがその中にいた。
「あれはちょっと嫌だからね」
とぼくが言うと、部屋にいたみんなが苦笑した。まあ、金髪よりこっちのほうがずっといいよ、とエレーナは言う。
ぼくは、そういえば、と、
「というか誰も怪我してないの?」
「手加減してって言ったら手加減してくれたみたい」
「ハルクよりは制御できてるのかもね」
もちろん、ぼくはハルクがどういう機序で出てきているのか知らないけど、知ってる限り、めちゃくちゃ人類に敵対的ってわけではなさそうだし、セントリーよりはマシなんじゃないだろうか。
「まあでも、一回出てきただけで三日寝込むなら、当分セントリーを出してみるのはやめたほうがいいかもね」
エレーナがぼくにペットボトルの水を渡しながら言う。
そうか、三日も寝てたのか。そのわりには身体も痛くないし、ただ日付をスキップしただけみたいな感じがある。セントリーが友好的になってくれたとしても、自分の制御からまったく離れる、っていうのは怖いし、
「じゃあぼくは切り札ってことで」
「そうしておけ」
と言ったのはバッキー。あんまり深く関わる機会はないけれども、この三ヶ月でいいひとなんだな、っていうのはなんとなくわかってきている。
ここには、エレーナがいて、エイヴァがいて、アレクセイがいて、バッキーがいる。
そういえば。
「――あれ、ウォーカーは?」
そう、ウォーカーだけここにいない。まあ、彼のことだから、ぼくのことなんか放ってトレーニングルームにいるのかもしれないけど、と思ったところで、エレーナに、
「あいつは別件の任務があるって」
と言われる。
「大変だね」
チームでの仕事以外にも、個人に割り振られる仕事もあって、とくにウォーカーは何かと外していることが多かったから、納得したのだ。
そのときは。
相変わらずぼくの能力のトレーニングは続いていて、相変わらずぼくはちょっとモノを浮かせるのが精一杯だった。空を飛び回るなんて夢のような話だ。ぼくではない誰かの気配もない。やっぱり、彼らは殺気に反応して出てくるんだろうか。平和なのはいいことだし、ぼくもむやみやたらに寝込みたくはない。
夜十時過ぎ。一般的に、コーヒーを飲むには遅い時間だが、ぼくはそんなにカフェインが効かないというか、とりすぎのきらいがあって効かなくなっているというか、そういう感じなので、コーヒーを飲んでしまおうかな、とは思っているのだが、コーヒーメーカーを動かすのも面倒で、冷蔵庫に入っていたアイスコーヒーをグラスに注いだだけだった。
ラウンジから眺めるマンハッタンの夜景はきれいだ。ぜんぜん真っ暗ではなくて、色とりどりの光がまたたいていたり、忙しなく動いていたりする。夜景がきれいなのはたくさんのビルに光が宿っているからで、すべての光の向こうにひとがいるのだと思うとなんだかくらくらする。そんなことさえ考えなければ、ただのきれいな光の集まりなのだけれども。そういうことを考えてしまうのがぼくの性分で、あまり考えないようにするためにルービックキューブを回している。
そうしていたら、カウンターキッチンのほうにいつの間にかウォーカーがいた。
最近見なかったけど、エレーナが言ってた単独任務から帰ってきたのかな。プロテインをつくって飲んでいる。ぼくは舌に残る独特な味がどうしても好きになれないのだが、彼としてはそうではないのだろうか。
あちらもぼくに気付いたのか、シェーカー片手によう、と挨拶をしてきた。ぼくはやあウォーカー、何してるの? と聞く。
「見りゃわかるだろ」
「プロテインって、あんまりおいしくないよね」
「そうか?」
ただ単に、ウォーカーに味のこだわりがないだけなのかもしれない。
それから窓際の席に近付いてきて、ぼくの手の中にあるルービックキューブを一瞥すると、借りる、と言って取り上げてくる。またかよ、とは思うが、ウォーカーに渡さない理由もないので、そのままにしておく。
「自分の買えばいいのに」
でも釘は刺しておく。ウォーカーはこちらのほうも見ずに、
「そこまで好きじゃない」
「別にいいけど」
そこまで好きじゃないなら、なんでやってるんだろうとも思うが、たしかに自分も、ルービックキューブが大好きなのかと言われたらそうでもない。ほかに有効な思考のそらし方があったらそっちをやるんじゃないかな。ということは、ウォーカーもなにか、気をそらしたいことでもあるんだろうか、と思いを馳せる。あのウォーカーが?
いや、まあ、彼にだって何かあったりはするだろう。でもぼくみたいなかたちで表出するようにはあまり思えない。
かちゃかちゃと音がするので、ぼくはウォーカーを見上げる、天井の照明がちょっとまぶしい。この前はあれだけなめらかにルービックキューブを回していた指が、なんとなくぎこちなく見えた。
「あれ、ウォーカー、怪我でもしてるの?」
「――大したことねえよ」
とか言いつつ、あれ、手順通りのはずなんだけどうまくいかない、とかこぼしてる。注意深く見てみると、なんだ、さっき右に回したところが左なだけじゃないか。ウォーカーも抜けてるところがあるんだな。というか怪我してるのは否定していない。
ならぼくが揃えてあげようか、と、ルービックキューブを返してもらうために、立ち上がって、ウォーカーの左手に触れた、指先だけの接触。
静電気よりもかすかなパルス、痛みはないのに存在はする違和感。それは寒気にも似た、世界がひっくり返るような、皮膚の裏側を触られているような感覚、あの訓練場のときとは違って、ぼくはいまだに自分のままで、なのに、ぐるりと回って、どこかに連れて行かれる。
そしてぼくは『見た』。
別に金髪じゃないしあの服も着ていない、けど、その視界にあるのはたしかにそれはぼくじゃなくって誰か、誰かっていうかセントリーで、それは目を見ればわかって、ぼくのものではない瞳、底なしに深くきらめく青と金、くちびるは薄く笑みを浮かべていて、足は地面から数メートル離れていて。
斜め前にみんながいるのが見える。
これはウォーカーの記憶なのだ、というのはすぐにわかった。誰かの過去の視界を覗き見てしまうことはたまにあった、今回もそれだ。ぼくの視点はウォーカーの斜め後ろにあって、動くことはない。
エレーナがなにかを叫んでいる。やっぱりこうなるんじゃん! と悪態をついている。
セントリーはコンクリートの床を剥がしてこちらに叩きつけようとしてくる。エイヴァがすり抜けようとするけど、瞬間移動に等しいような速度で彼女の目の前に現れて、首根っこをつかんで地面に叩きつけていた。エレーナが走り出そうとしたときにはすでに、セントリーはそちらに移動していて、彼女を妨げた。
アレクセイを止めるのはコンクリートの塊、彼はそれを押しのけようとするけれどもうまくいかない。バッキーは鋼鉄の義手でその塊を掴んでセントリーに投げつけた、それでもセントリーはびくともしない。
ぼくは思わず叫んでいた、走り出そうとした、でもできない、これは他人の記憶、過去、変えられないもの。
だから目を閉じようとしても閉じることができない。ぼくはそれを、見ていることしか、できない。
「やっぱりあっち側から干渉するしかないんじゃないか⁉️」
ウォーカーが飛んでくるコンクリートのかけらを盾でいなしながら叫ぶ。
「同感、だけどどうやって?」
エレーナはなんとか歩を進めながら答える。
「近付いて影を叩くしかないだろ」
ウォーカーはなおもセントリーに近付こうとする。
あっち側? と思ったぼくの目に入ったのは、セントリーの足元にある色濃い影だった。普通に光が当たった程度では、あんなに真っ黒にはならない。よく見ると、セントリーの足元はぼんやりとその黒に侵食されていて、おそらくあれが進行したらヴォイドになるんだろうなっていうのは推測できる。
セントリーが右手を掲げると、コンクリートの壁のなかに入っていた鉄筋が伸びてきて、それがみんなの足を地面に縫い留めていく。
なんとかかわしたのがウォーカーで、お前いいかげんにしろよ、と叫びながらセントリーに近寄ろうとする。
セントリーが右手を下げる。
鉄筋が壁から伸びてきて、セントリーはそれを掴んで、ウォーカーの左胸をわずかに外したところに鉄筋を刺し貫く。
それから世界が黒に覆われる、その黒は光を通さない黒、なにもかもすべてを拒絶する虚無、視界のすべてが虚無でいっぱいになったところでぼくはその記憶からはじき出された。
血の気が引いた。
そんなつもりじゃなかった。見るつもりなんかなかったのだ、それはずっとそうなんだけど、いや、そうじゃなくって、こんな、こんな、あの映像は何だったんだ? この記憶が正しいのであれば。
セントリーが、ヴォイドが、つまりはぼくがウォーカーを傷つけたことになる。
ぼくは手足がわずかにしびれているのを感じた。今見たものが信じられなくって。立っていられなくなりそうだったのを、ウォーカーが肩を支えてくれてなんとか持ち直す。
ぼくはウォーカーの目を見る、見てしまった、それは揺らがない青、揺らぐことを自らに許していない、青。なんでウォーカーは平然としてるんだろう、だって同じものを見たはずなのに。一度経験したからなんだろうか、それにしたって。
ぼくはなんとかこう言うことしかできなかった。
「なん、で」
ウォーカーは、なにごともなかったのかのように、答える。
「スーパーソルジャー組のなかで、おれが一番若いだろ? 治りがいいのは当然」
「でも、隠さなくたって」
そう、実験は失敗した、それでよかったじゃないか。よくはないんだけど、偽物の映像を作ってまで、ぼくに隠さなくたってよかったわけだ。
ウォーカーはぼくの質問には答えずに、冷静に言う。
「いいか、おれじゃなければ他のやつが刺されてた。ある程度接近するしか、あれをもとに戻す手段はない、たまたまおれが行けたから行った」
戦術的に正しい判断だ、と言う彼に、
「だからって」
「じゃあほかに誰がいた、おれしかいなかった」
ぼくが何も答えられずにいると、
「――この話はこれで終わりだ」
ウォーカー、と思わず口にしていた。彼はこちらを振り返ったが、ぼくをちらりと見ただけで、長い歩幅ですたすたと歩いていってしまった。
彼はラウンジから立ち去った、残されたのはぼくだけだ。窓から月光が差し込んできていて、いつものマンハッタンの、いつものきれいな光で、ライトの光量に完全に負けているその光が床に届かないことすら、ぼくは苛立たしく感じた。
追いかけられればよかったのかもしれない。だけどぼくにその資格があるんだろうか。記憶がないとはいえ、仲間を傷つけたのだ。
まだあれは仕方がないと思える。最初にセントリーになったときのことは。ヴァルの口車に乗せられていたわけだし。でも今回は違う。自分から言い出したのだ。言い出して、みんなの役に立てるようになれると思って、なれなくってこのざまだ。
それからウォーカー。
悪いやつじゃないのはわかってる。ほんとうに悪いやつだったら、今ここにはいないはずだ。今回だって仲間のために自分が先陣を切ったというわけだ。それこそ戦術的には正しい判断だったんだろう。
でも。
それが、なんだか、気に食わない。
ぼくが立ち尽くしていると、後ろから肩を叩かれた。
「……エレーナ」
そこにいたのはエレーナで、まあこれでも飲みなよ、とラウンジに常備してあるペットボトルの炭酸水を手渡してきた。ぼくは指先に触れないように気をつけながらそれを受け取った。
キャップをひねると、炭酸が吹き出しそうになったから、急いで口をつける。とりあえず座りなよ、と彼女が言うので、ぼくはカウンターに座る。エレーナもその隣に。
それから、ぼくはエレーナに尋ねる。
「ウォーカーのこと、知ってたの」
「当然、あの場にいたんだから」
「ぼくがあんなこと提案しなければよかったのに」
まあまあ、こうなるってわかってたわけじゃないんだから、とエレーナは笑う。
「ここだけの話だけどさ、あんたに口裏合わせてくれって頼んできたのはあいつだよ」
「え?」
それはどういうことなのだろうか。自分が傷ついたのを認めなくない、というわけではなさそうで、意味がわからない。なんか、自分が心から正しいと思っていることをやっている、そういう感じに見えた。さっきのウォーカーは。
エレーナは棚から取り出してきたクッキーを一口かじって、あんたも一枚どう、と言ってくれる。ぼくはキャラメルチョコレートクッキーを食べる。甘い。甘すぎるほどに。でもそれが身体にしみた。
エレーナはちょっと遠くの方を見ながら、
「ぼろぼろなのに、柄にもなく頭下げてくるから、つい」
あのくらいの映像なら、一日もかからずにここの優秀なグラフィック班が作ってくれるからね、と彼女は言い、
「あんたを落ち込ませたくなかった、っていうのはみんなそう」
だからあたしたちはみんな同罪、と、エレーナは続ける。
「それはありがたいけど、隠し事しなくたって」
そう、ぼくが混乱していたのは、みんながぼくに、セントリーが暴走したことを隠していたこと。それから、セントリーの状態でみんなを傷つけてしまっていたこと。
守られているのかもしれないけれども、守られているばかりではいたくなかった。
エレーナは静かに言う。
「そうだね、あたしたちはチームだ」
マンハッタンの明かりも徐々に少なくなってきて、最後に残るのがこのウォッチタワーだなんて、言われることもある。
彼女はその明かりに似ている、と思うことがあるし、今もそれだった。
「あんたのことも当然信頼してる、ボブ」
「……ありがとう」
「別に前線に立って戦うだけが貢献ってわけじゃない、わかってるでしょ?」
「まあね、お湯を沸かすくらいならできるし」
クッキングヒーターのほうが早いけど、キャンプのときには役立つかもね、とエレーナは口角を上げて、
「それに、セントリーが消えたわけじゃないっていうのはわかった――ついでにヴォイドも。ってことは、ボブのパワーはそこにあるってこと」
「じゃあ、いつかぼくのままでもちゃんとパワーが使えるようになるかもしれないってこと?」
「それはわからない、あたしが『できる』って断言することなんかできない」
でも、と、エレーナは息をついて、
「あんたのことはみんな好きだよ、それもわかってるでしょ?」
「――うん」
ぼくは炭酸水を飲み干した。口の中がぴりぴりする感覚のことは、あまり嫌いでもない。
まあ、そんなことがあったとはいえ、そのあとももちろん、ウォーカーとはいろいろなところですれ違うことになる。ぼくは挨拶をしたけれども、ウォーカーはちょっとこちらから目を逸らしつつ返してくれるくらいだ。まあ、自分を傷つけた相手のことを、かんたんに許すなんてことできないよなって思う。
みんなといるときも、なんとなく気まずかった。定例ミーティングでも、いつもより離れた席に座ったし、あまり目を合わせられなかった。コーヒーを渡すときも、手が触れないようにテーブルに直接置いた。ウォーカーはなにか言いたげな目をしていたように思えたけれども、ぼくはあえてそれを無視した。なにを言ったところで、彼は切り捨ててくるだろうという諦めもあった。あの行動が正しかったのだと言ってくるのだろうとしか思えなかった。
それでも、ちゃんと、話をしなければならない、と思って、ぼくはミーティング後にウォーカーを呼び止めた。
「――ごめん」
「まだ謝るのか、その話は」
苛立たしげに、もう終わっただろと言おうとするウォーカーを制して、
「いや、そうじゃなくって」
ぼくはラウンジの黄緑色のソファに座った。ウォーカーもそばに座ってくれる。ふかふかのソファがあれば、会話も少しは和らぐんじゃいか、って思って。
ぼくはそっと切り出す。
「ごめん、勝手にきみの記憶を見て」
「制御できることじゃねえんだろ、仕方ない」
「そういうところも合理的なんだ」
ここで怒られたってもいいとは思っていた。なのにウォーカーはそれを仕方がないと言ってくれる。たしかにそうではあるんだけど、そういうやさしさがあるタイプのひとなのだという側面に、はじめて触れたような気がする。めちゃくちゃ合理的であろうとするのに、それがなぜか他人へのやさしさになるような。
ぼくがえへへ、と笑っていると、
「は?」
きょとんとしているウォーカーに、ぼくは、
「そう、だから、ありがとう、って言いたくて」
またも目を丸くしているウォーカー。そんなに意外なことだろうか。ぼくは普通のことを言っているるだけなのに。
「まだ隠してることあるんだろうけど、いいよ、たぶんそれは、ぼくのためなんだろうから」
でもあんまり嘘つかれると、ぼくも傷つくからね、と続けて、
「だからありがとう、ジョン」
「おい、今なんて」
もう一度呼んであげようか? と笑うと、彼はいやそうじゃなくって、と言い、
「なんで感謝するんだよ、おれに」
「理由はよくわからないけど、今ここにぼくがいるのは、きっときみのおかげだから」
彼は、誰だってそうした、と言う。
それもきっと、ほんとうのことだろう。
このチームにいる誰だって、同じことをしたのだろう。
だからといって、彼がぼくを助けてくれたという事実が、なくなるわけじゃない。
「――まあ、そうだな。それは、嘘じゃない」
きまり悪そうに彼は立ち上がって、そういうむずがゆくなるようなことはもう二度と言うなよ、とか言ってるんだけど、ぼくにはそれが照れ隠しのように見えた。
これは、誰にも言うつもりなんかないけど。
そういえば。
最初にヴォイドになって、戻ってきてから。
あの父親のことを思い出すことが少なくなってきていた。
× × ×
それから一ヶ月がすぎて、ジョンの傷も完全に治っていた。本人曰く、あのくらいなら何もしなくたって治る、ということだ。超人血清ってすごいんだな、と他人事のように思う。別の薬品とはいえ、なんらかの化学的な成分のおかげで、自分の傷の治りとかも、たぶん早くはなっているんだけど、さいわいなことにそんなに怪我することはなく、あまり実感はない。
ぼくはといえば、相変わらずスーパーパワーのかけらしかないし、セントリーもヴォイドも出てくることはない。また隠されている可能性もなくはないが、記憶が飛んだらさすがにわかるだろう。今のところ、仲間たちのおかげである程度平穏な日々を過ごせていた。『退屈さ』にも慣れつつあった。ニューアベンジャーズの仕事って、荒事だけってわけじゃないし。
この前はみんなで地元のフェスティバルに出た。バッキーが腕を外すと観客は大いに湧いていた。そんな一発芸みたいな扱いでいいんだろうか。
そんな折、ニューヨーク近代美術館、通称MoMAからニューアベンジャーズ宛に無料招待券が届いた。ウォッチタワーからほど近いその美術館は、どうやらニューアベンジャーズが来たという実績を積んだり、SNSからの発信を通じたりして、若い世代の集客を試みているようだ。調べたところによると、年間二百七十万人くらいは来るらしくって、今でも十分なんじゃないか、とは思うんだけど、なかなかどうしてニューヨーカーは貪欲だ。ルーブルにでも並ぶ気なのだろうか。
その週のミーティングの終わり、誰が美術館に行く? ということになった。他の仕事の関係で、今週はバッキーはリモートでの参加だ。
「二枚しか送ってくれないなんて、MoMAも意外とケチだね」
エイヴァが画面を見ながら言う。紙チケットは廃止されていて、QRコードで入ることになるようだ。ぼくとしては、紙チケットがあると、その日の思い出になってうれしいんだけど、ペーパーレスの時代だ、仕方ない。
エレーナが画面上に表示された地図を指差す。
「ウォッチタワーから近いのはありがたいけど、見るのにはどのくらい時間かかるの?」
MoMAは、ぼくらのいるタワーからはそう遠くないところにある。ウォッチタワーの近くにはニューヨーク公共図書館もあるし、ちょっと足を伸ばせばブロードウェイもあるし、ここがマンハッタンの一等地であることを実感する。地価がどのくらいなのかは、あまり考えたくない。ここに住めているのはラッキー、と思うこととする。
ぼくは、タワーの図書室から借りてきたアメリカの主要な美術館ガイドを見ながら答える。
「さっと回っても三、四時間はかかるから、だいたい半日はみたほうがいいって」
そう、MoMAは広い。入場料もそれなりにする。そのぶん、国内外の有名な作品がたくさんある。印象派あたりの絵から、キャンベルスープで有名なアンディ・ウォーホルとかまで。それ以外にも現代を生きる有名作家の作品が目白押しとのこと。実を言うと、名前しか知らないっていうか、ぼくは名前も知らない作家だらけみたいだけど、美術の世界では有名なようだ。
「しかもこのチケット、月末までだ」
じゃあ誰が行く、と、ニューアベンジャーズの共有カレンダーを眺めていたら、
「えーっと、二十八日はジョンもボブも空いてるね」
とエイヴァが画面を指差す。この週はみんなそれなりに仕事があるが、たまたまジョンには空き時間があったのだ。ぼくはだいたい空いてるし。
ぼくが、
「美術館行きたかったから楽しみだな」
と呑気に言ってると、ジョンは手にしていたマグカップをかちゃんと置いて、
「おれがボブと!?」
「何、不服なの?」
まあ、あんたみたいなのはアートに興味ないかもしれないけど、とエレーナが続けて、
「いや……そういうんじゃないけど……」
「じゃあ決まりね」
そしてぼくらはおおむねスケジュールの都合で、MoMAへと行くことになった。
ミーティング終わり、ぼくはキッチンでふたりぶんのコーヒーを作って、ラウンジでくつろいでいるジョンのところに行った。ぼくのぶんにはシロップを入れて、ジョンのぶんにはミルクを入れて。ジョンは、ミーティングが終わるといつもすぐトレーニングとか自分の部屋とかに行っちゃうから、珍しいなと思いつつ、大きなモニターで昔のアクション映画を見ているジョンに話しかける。
「ジョンって絵とか見るの?」
「自分からは見に行かないな」
それはイメージ通りだ。なんか、校外学習とか美術の課題とかで見に行ったことはあるけど、展示会があるからってわざわざ行くようには見えない。好きな作家がいるってひとだとも思わないし。
「いい機会じゃん」
「一応なんとなくの知識はある。印象派とか」
「印象派はみんな好きだよ」
「ゴッホとか」
「MoMAにはゴッホもあるらしいよ、有名なやつ」
たしか『星月夜』があったはずだ。青くてぐるぐるしててきれいな絵。よく本の表紙とか映画のオマージュ元になっていたりするやつ。
ジョンはコーヒーを一口飲んで、
「そういうお前はどうなんだよ」
「うーん、あんまり、美術館に行ったことはないかな……」
子どものころは、親が美術館に連れて行ってくれるほうではなかったし、学校行事に積極的に参加することもなかった。大人になってからも、まあ、それどころじゃなかったというのが大きい。
「偉そうなこと言っといてないのかよ」
「だから楽しみ」
ジョンと一緒なのも、とも思っているのだが、それはまだ、口にしないでおく。その代わりに、みんなにお土産買うのが楽しみなんだよね、と言う。
「遠足じゃあるまいし」
画面の中では有名なアクションスターが列車の上で戦っている。並走する列車の屋根を飛び移りながら戦う姿は、さながらヒーローだ。もちろん、実際にやっているのはスタントのひとなんだろうけれども。
「ジョンもこういうことしたことあるの?」
「近いことなら」
あるんだ。冗談で聞いたつもりだったんだけどな。
その日は快晴だった。
美術館に行くのに天気は関係ないのだが、晴れていたほうが、なんとなくうれしい。ウォッチタワーからMoMAまでは歩いて行ける。マンハッタンの街並みに突然現れる、つやつやした黒い直方体のようなそのビルは、見かけからしてスタイリッシュだった。特別入場券で入ったけど、特に声をかけられることはなかった。かけられたほうが気まずいかもしれない。
それにしても。
「広いね……」
事前に知ってはいたものの、ぼくはそう呟くほかなかった。
六階建てのフロアには、ふんだんな空間を使って、さまざまなアート作品が飾られている。わかりやすくきれいなものから、よく見たってなんなのかわからないものまで。上のフロアの方が年代としては古いので、ぼくらはとりあえず上から見ていくことにした。
五階の、印象派やポスト印象派のエリアには、存在は知っていたけれど、見たことはなかったゴッホの有名な絵があったり、モネの大きな絵があったりして、その色の繊細さや、筆致の大胆さに心惹かれた。
モネの絵は、どちらかというと、ふわふわとしている。世界にもやがかかっているような絵が多くて、自分も、こんなふうな視界だったらいいのにな、と思う。
世界にはこんなにうつくしいものがあるんだ、と、なんだかうれしくなった。
ジョンは、ぼくが絵をじっと眺めていると、この絵にはこういう背景があって、というのを教えてくれたりした。なるほど、この点描の絵の、ジャケットを着ているひとの後ろに描かれている渦巻きみたいなのは、当時の色彩理論を表しているのか。
「実はけっこう美術に詳しかったりするの?」
「行くならちゃんと調べといたほうがいいだろ」
せっかく行くなら十分に楽しむべきだ、と。真面目だなあ。ぼくは気になった作品があったら後で調べればいいかなと思う。何をきれいだと思うかは、自分では決められないし。
そして四階に降りる。ここに来ると、前のフロアよりはだいぶ現代だなって感じがしてくる。言ってみれば、『わかりにくい』ものが多い。ジョンもこのあたりはコンテキストがありすぎて、ホームページなどで調べたけど理解できなかったものもあった、と言っていた。
配色としてはきれいだったり、かたちとして整っているものがあったり、モチーフはわけがわからないけど目を惹かれるものがあったりした。
「ジョンはこれ好き?」
「おれにはわからないな」
そんな会話を交わしながら、ぼくらは、展示室をひとつずつ歩いていく。四階の時点で情報量の多さにくらくらしていた。サイズに関係なく、すべての絵の情報量がすさまじい。こんな調子で最後まで見られるのだろうか。
とか、思っていた、ところで、ぼくはその絵に出会う。
身長よりも大きな高さの、縦に長い長方形のキャンバス。全面に濃いグレーが塗られており、上からにオフホワイト、曇ったブルー、落ち着いたイエローで、縦の長さが違うラフな長方形が描かれている。
マーク・ロスコの絵であることは、その後キャプションを読んで知った。
この絵が何を表しているのかを、ぼくの知識で理解することはできない。あまりにも抽象的すぎる。ただの長方形の連なりだ、と言われてしまったらそれまでだ。だけれども、これを見ていると、なんとなく、
(不安、なのかな、それとも)
これがどの感情なのか、うまく言葉にすることができない。なのに、ただ、この絵から目を離すことができなかった。とにかくその絵がぼくを呼んでいるような気がしてならない。その色の調和、なのだろうか、どちらかといえば反対色であるはずなのに。その形のバランス、なのだろうか、長方形はわずかに縁がにじんでいて、あいまいなものであるのに。
瞳孔が開いていくような感覚、見えるものすべてがクリアだ、世界にはぼくとこの絵だけがあって、ぼくがそれに溶け込んでいくような。ぼくが色で、色がぼくの内側から出てきているかのような。そう、まるでぼくみたいだ、と思った、なにがどうぼくなのかは説明できないけど、これは、ぼくなんだろうなって、思った。なんだ、自分がいなくたって、ここに、絵があるのならば、それで代替できるんじゃないだろうか、だなんて錯覚に陥る。
それは錯覚だよという声と、それが真実だという声がする。
地面に足がついていない気がする、この床がふわふわで、不安定で、いつ落ちてもわからない、みたいな。
ぼくは息をするのも忘れていた、ように思える、そこに、ひとつの声が降る、
「――おい、何フリーズしてんだ、行くぞ」
それはジョンで、なんか怪訝そうな目でぼくを見ていて、
「え、あ、ありがとう」
このままどこか行っちゃうみたいな顔してたぞ、お前、と、ジョンはぼくから目を逸らしつつ言う。
その『いつも通り』の声が、ぼくを地上に戻してくれた。
「この絵、気に入ったのか?」
「気に入ったっていうか、引き込まれたっていうか……なんか、色の中に溶けそうだった」
ぼくはそれしか言うことができなかった、口にできることはそのくらいで、ことばにできるのはそのくらいだった。もっといろいろな感覚があったはずなのに、現実にそれらを持ってくることはできないのだ。
「……大丈夫なのか、それ」
「でも平気、きみがいたから」
ジョンはすこしの間きょとんとしていて、それから、まあ、行くか、と言う。
ぼくらはロスコの絵がいくつも飾られている部屋を後にする。一度だけ振り返る。そうすると、さっきの絵が遠くから見えて、やっぱり引力はあって、でもこの引力にとらわれてはならないのだと、先に進む。
彫刻にもいろいろおもしろいものがあった。何をかたどっているのかわかるもののほうが少なくって、金色で、つるっとした卵の一部が欠けているようなかたちだったり、ざらざらした表面の大きな塊みたいなものがあったりした。
「これ何かな」
ぼくが指さしたのは、なんとも言いがたいかたちをした彫刻だった。
「すごく抽象化された犬、とか……?」
「ぼくには寝てるヒトっぽく見える」
「解説見てもわからないな……」
暗いか明るいかと言われたらどことない不安を感じる雰囲気の彫刻だったけど、なんらかの力があるのはたしかだった。
「でもおもしろいよね」
なんか、わけのわからないものではあるけれども、それをつくった人がいるということ、意図があって、伝えたいことがあって、これがつくられたということ、それそのものが、ぼくにとっては興味深かった。
「ボブ、おまえってすごいな」
「なに、急に」
こういうものを『おもしろい』って思える時間が、今までのおれには、なかったから、と、ジョンはこぼす。
各階に置かれている椅子で休憩しつつ、上から下まで見て回ったら、昼前に入ったのに、あっという間に閉館時間が近づいていた。あのマーク・ロスコの部屋がほんのり名残惜しいところだが、またトリップしかけてもあれだし、最後にミュージアムショップで、みんなへのおみやげを買うことにした。やたらセンスのいいものばかりが売っていることでおなじみのミュージアムショップで、何を見てもいいなと思えてしまったんだけど、それぞれの顔を思い浮かべながら、何なら喜んでくれるかなと考えた。
エレーナには、丸っこい形をしたテーブルランプを。部屋にこういうのがあったら、落ち着くんじゃないかって。
アレクセイには、底だけ赤い色をした、透明なガラスのコップを。これでおいしい酒を飲んでいる姿が目に浮かぶようだ。
エイヴァには、パステルのバイカラーで、持ち手がかわいいマグカップを。シンプルなコントラストが、彼女に似合いそうだ。
バッキーには、ぱきっとした色の幾何学模様の大判のタオルを。たぶんこれで髪を拭いていたらかっこいいんじゃないかな。
「ジョンは自分用になにか買わないの?」
いっこうにカートにモノを入れる様子がないジョンに、ぼくは言う。
「こういうところで買った『おしゃれなモノ』って、だいたい置物になるだろ」
まあ、たしかに、ジョンが言うのも正論だ。ミュージアムショップで買うものにはそのような傾向があるかもしれない。こういうのって、おしゃれではあるんだけど、実用性に欠けるものがある。それに、ここはウォッチタワーから近いし、すぐに来られるのだから、今わざわざ買う必要もない。
でも、せっかく来たのだ。楽しかった思い出を持ち帰るのも悪くないだろう。
広い店内を、気が乗らなそうなジョンを連れ回して眺めていたら、
「これにしなよ」
それは、何の変哲もないルービックキューブだった。別に、特殊カラーとか、そういうものでもない。ぼくが持っているのとまったく同じ。新品の分、それよりは多少、ぴかぴかしているが。一応、これもなんらかのデザインの賞をとっているらしい。
「それこそ、どこにでも売ってるだろ」
たしかに、そのルービックキューブには、外箱にMoMAのロゴシールが貼ってあるだけだ。開けてしまえば、ただのおもちゃと同じだろう。
「でも、ここで買ったなら、なんとなく、記念になるよ」
「お前がやってるからたまに触ってただけだからな」
なおもジョンが渋るので、
「じゃあ、ぼくが買ってあげる」
カラフルなその六面体が、店のライトに照らされて光っている。それは、どんなおしゃれなグッズよりも、今のジョンに合ってるんじゃないかと思った。
「だから、ぼくのぶんを、ジョンが選んでよ」
そう、この広い店内で、みんなのお土産を探しながら、ぼくは自分の分のなにかもほしくなっていた。当然だ。だけれども、この店にはあまりにもすてきなものが多すぎて、自分じゃ選べない。
ならジョンに選んでもらえばいい、という、シンプルな発想だ。
ジョンは、
「……おれでいいのか?」
「人が選んでくれたものなら、なんか特別になるし」
なんせ、プレゼントをくれるようなともだちは、これまでいなかった。モノをもらうために取引をしたことはあるけど、それはともだちじゃないし、それはプレゼントじゃない。ジョンがともだちなのかは――どうだろう、まだ、言い切れるってほどじゃないけど、でも、確実に、仲間なのだ。
ジョンは頭を掻きながら答える。
「ああ、わかった、ちょっと待っててくれ」
ぼくがレジに並んでいる間に、ジョンは店内をまた一周してきたようだった。ぼくの会計が終わったところで、ジョンが並び始めた。何を持っているのかは、ここからではまだわからない。
会計が終わったところで待っていたら、ジョンが、MoMAのロゴが入った袋を手渡してきて、
「ほらよ――これでいいのか、わからないけど」
その袋の中に入っていたのは、オラファー・エリアソンという現代アーティストの『リトルサン』だった。黄色いひまわりのようなかたちの手のひらサイズのライトは、ソーラー電池で動くらしいし、この収益は、電気が届かない地域の人たちに電気を送ることにもつながるそうだ。
「なんか意外」
なんとなくだけど、ジョンはもっと実用的なものを選ぶんじゃないかと思っていた。災害時とかには役に立つかもしれないけれども、それだったらもっと実用的なものはある。これは、どちらかというとアートと実益を兼ねたプロダクトだ。
ぼくはプラスチックのひまわりを見ながら言う。
「でもこれ、黄色いから選んだの?」
「そんなわけあるか!」
お前はお前だろ、と彼は続ける。
セントリーの黄色だったらどうしよう、って思ったけど、そうじゃなくってよかった。
ジョンはおずおずと言う、
「――なんか、お前がいると、周りが明るくなるだろ、だから」
それでライトにしたんだ、と、言う。
そう思ってみると、太陽光の力で半永久的に使えるこのライトを、自分みたいだ、って思ってくれたのは、なんだか面映ゆい。それって、充電さえすれば、ぼくって光れるっていう、ことだから。
「ちゃんとぼくのこと考えてくれたんだ、ありがとう」
「なんか、お前が最近やさしくて調子が狂うな」
「そうかな、そんなつもりはなかったんだけど」
というか、周りへの当たりがやわらかくなっているのはジョンのほうなんじゃないか、と思うのだが、これを言ったらさすがに怒られそうだ。
ウォッチタワーへの帰り道、もう日は暮れていて、夕日がビルの影をつくっていた。ぼくたちはたくさんのお土産を両手に持ちながら進んでいく。
ぼくは今日見たいろいろな絵や立体作品のことを思い出していた。ロスコがいちばん印象には残っているけど、あれを好きというのは違う気がする。あれはぼくをどこかに引っ張るものではあるけれども、好きっていうのはもっとポジティブなものだろう。
一番楽しかったのは、たしかジェームズ・タレルだったと思うんだけど、なんらかのトリックで宙に浮いているように見える立方体のライトだったかもしれない。なんか、不思議な趣があって、どこまでもきらきらしていて、おもしろかった。
さくさく歩いていくジョンに、ぼくは尋ねてみる。
「ジョンはどれが楽しかった?」
「どれが、って、重要な作品はたくさんあったけど」
「いや、ジョンが気に入ったのはどれ?」
交差点の信号で停まる。いくつかの沈黙の後、ジョンは言う。
「――ゴッホのあの、夜空の絵、かな」
最初の方に見た、『星月夜』か。うつくしい青色が渦を巻いている中に、黄色い月や星が輝いているのが印象的な絵だ。
「どのへんが?」
「そんなこと聞いてなにが楽しいんだよ」
「ジョンがどんな目で絵を見てるんだろうって、気になるんだ」
たぶん、ぼくとジョンの感性は、ぜんぜん違うだろう。見えてる景色は、まるで異なるだろう。だから。
だから、何が好きなのか、知りたかったのだ。
信号が青になる。それは『星月夜』の生き生きとした青とはまるで違って、無機質な青だ。
「なんか、描線と、鮮やかな色のコントラストが、調和しているようで、バランスはいいんだけど、なんだろうな」
ほんとうにおれが美術なんか語っていいのか? 一夜漬けだぞ? とか言うジョンに、
「いいよ、続けて」
「とにかく、筆致に力がある、ってこういうことなんだなって思った。なにか、執念みたいなものを感じるっていうか、あまりうまく言えないけど、描かなきゃいけないから描いてるんだろうな、って」
それは同感だった。ゴッホの絵は、有名なだけあって力があった。人の視線を引き込む力だ。MoMAにあった作品にはどれも力があったけれども、それぞれ別種だったように思われる。それがアートってものなのかもしれないけれども。
ぼくはぽつりと、こう呟く。
「なんだ、ジョンも楽しかったんじゃん」
「え?」
「なんか行く前は乗り気じゃないんだろうなって感じがしてたから」
「そうでもないぞ」
「忙しいだろうに、たくさん下調べもしてくれてくれたし」
お前が絵とか、彫刻とか見るときの、横顔を見てるのも、楽しかった、とジョンは言う。
ウォッチタワーはすぐそこだ。近くのカフェテラスに寄って、コーヒーメーカーよりも上等なビバレッジをみんなに買って帰るのも、悪くないかもしれない。
おみやげはけっこうみんなにウケた。まあ、あの店にはいい感じのものしか置いていないから、どれを選んでもよろこばれたんじゃないかな、とは思うけれども、自分が選んだものを使ってもらえると、うれしい。
今度は全員で一緒に行こうよとエレーナが言った。
たしかに、みんなが何の前で立ち止まるのか、どれは苦手なのか、どれはわかって、どれはわからないのか、知りたいな。いろいろなところから集まっているのだ、好みは違って当然だ。
それにしても。
あのたくさんの絵のなかで、ジョンが気に入ったのはゴッホであることを、知っているのはこのなかにぼくしかいない、っていうのは、多少ゆかいだという側面がある。
リトルサンを首からかけて、ぼくはいつものようにラウンジにいた。黄色いひまわりを模した、ソーラーパワーで動くそのライトは、電源をオンにしたから光っているんだろうけれども、昼間に光らせてもあまり意味がない。でも気持ち手元が明るくなる。明るくなると文字が読みにくいという説もある。
今読んでる、『春にして君を離れ』は、どんどん不穏になってきた。この主人公が言ってることって、ほんとうに信用できるんだろうか? もしかしたら、本人が思い込んでいるだけで、真相は別にあるんじゃないだろうか? と思ったところで、自分のこともぜんぜん信用できないじゃないか、と。セントリーもヴォイドも『いる』のだ、今のところ出てこないっていうか、ぼくに知覚できないだけで。仲間たちを信じるならば、彼らはあれ以降出てきていない。ぼくは仲間たちを信じることにしている。
紙面に集中できなくなったところで、コーヒーでも飲めばいいかな、なんならエスプレッソでもいいかなと思って、キッチンに向かう。
「おはよう」
「おはようって時間じゃないだろ」
たしかに今はもう十一時だ。一般的にはおはようじゃないかもしれない。おはよう、って時間じゃないのに、ぼくがおはよう、って言うのは、もしかしたらジョン相手だけかもしれない。
いつものように返してくれたジョンはジャケット姿で、かっちりしたバッグを持っている。まるで商談帰りみたいだけど、ジョンってそういうこともするんだろうか、とか、思ったところで、なんか、違和感があるな、と思う。いやまあ、服装がいつもと違う、っていうのはあるんだけど、なんか。
なんか心ここにあらずって感じ、テンションのギアがローに入ってるっていうより、存在感が希薄。いつもあんなに自分のスペースはここだって言い張っているような立ち方をしているのに、なんだか借りてきた猫みたいだった。
ぼくはできるだけ明るく、カウンターの向こうのジョンに話しかける。
「どうしたの?」
「どうもしねえよ」
いつも通りのぶっきらぼうな返事にもあまり生気がない。
「ぼくの故郷では今にも吐きそうな顔したひとにはホットミルクをあげろって言われてる」
「お前の故郷どこだよ」
「どこだろうね」
あまり思い出したくはない。家のことも学校のことも。そんなことより今ここで生活できているのがしあわせだ。
それにしても、ほんとうにホットミルクでも作ってあげようかな、ミルクパンってどこにあったっけ、と思っていたところに、ぽつりと、
「――ホットミルクより、カフェラテのほうがいい」
「わかった」
自分も何か飲もうとしていたところだ。一杯作るのも二杯作るのも、そんなに手間は変わらない。そうだ、戸棚にチョコチップクッキーなかったっけ。ホワイトチョコレートのやつ。棚の右端のほうにこっそり置いてあって、でも名前は書いてないから、ぼくらが食べてもいいはずだ、と、何枚か皿に盛る。
ぼくがカフェラテを作っているのを、ジョンはずっと立って見ているので、
「座れば?」
と言ったら、素直にそうしてくれた。カバンは横の席に置いて。
すぐにコーヒーメーカーがふわふわのカフェラテを作ってくれる。マグカップを手渡ししようとしたら、テーブルに置けと指差される。
「覗いたりはしないって」
そうか、とジョンは頷く。なんか、素直すぎてちょっと変だ。ジョンってもっと、少なくとも表面上は憎まれ口を叩くひとじゃなかったっけ。
記憶を覗いたりはしない、と言ったけれども、そもそも自分で制御できるものでもない。お互いに感情的になっているとき、というのがひとつのトリガーのようなのだが、感情が定量的に計れるわけでもなく、そのテストがうまくいったためしはなかった。
だからぼくはこう言う。カフェラテを飲みながら。ふわふわのスチームミルクのあとに、エスプレッソの苦みが来る。
「きみが話すまで待つよ」
ジョンはせっかくのカフェラテを見るばかりで口をつけない。空調の音が耳障りに感じる。
「ああ、もちろん,話すことがあれば、だけど」
長い沈黙の後、まあ、そのうち、誰かにバレるんだろうし、と、ジョンはうつむきながら言って、
「――オリヴィアと別れた」
オリヴィア、っていうのは、ジョンのパートナーで、というところまで記憶がつながるまでにほんの少し時間がかかった。
ジョンはぼくの方を見ないで続ける。
「いや、おれのせいだから、何も、釈明するつもりはない」
ジョンが家庭でどう振る舞っていたのか、ぼくは少しだけ知っている。あれがすべてではないのだろうけれども。たしかに、いい父親とは言えなかっただろうし、いい夫でも、なかったのかもしれないけれど、ほんの少ししか知らないぼくに、それをどうこう言う権利はない。
ジョンは、まるで目の前にあるテキストを読み上げるかのように、
「ちゃんと話し合って決めたし、彼女とこどもの幸福は祈ってる」
そのためにおれにできることはするつもりだ、なんだってする、養育費をちゃんと払う以外に、なにができるのかわからないけれども。まあ、おれは、今は、ニューアベンジャーズなわけだし、父親が活躍するっていうもの、こどもにとっては悪いことじゃないだろう。
訥々と、あくまでも冷静に、語るジョンに、
「そっか……」
ぼくにはかける言葉が見つからなかった。自らの過去を悔いて、落ち込んでいるひとに、ぼくに何が言えるのだろうか?
きみなら新しいパートナーが見つかるよ、とか、そういう方向じゃないことはわかってる。そもそも、今のジョンがパートナーを探しているのかすらわからない。気にしないで、って言えることでもない。気にはなるだろう。元気出して、みたいなことを言いたいけれども、それってぼくに言う資格があるんだろうか。
いや、資格がなくたって言うべきなのだ。
ぼくは今、ここにいるのだから。
ここにいる人間が、やるべきなんだ。
かつてジョンが、傷つくのを顧みず、ぼくに手を伸ばそうとしたように。
「えっと、うん、いつか、どうにかなるよ」
即座に睨まれる。空のように青く透徹した瞳がこちらに向けられて、また逸らされる。
間違えたかな、ぼく、そうだよね、こんなこと言いたかったわけじゃなかった、うまく言葉が出ない、言葉が脳の中でぐるぐるしててどれを口にするべきなのかわからない。
ぼくはコーヒーに目を落とす。水面がなにかを答えてくれることはない。答えは自分で出さなければならない。いつだってそうだ、そのはずだったのに逃げていた。
ひとつ息を吸う。
そして言う。
「そうじゃなくって、ぼくは、ジョンなら大丈夫だって思う」
「……信じられるか、そんな根拠のないこと」
「これからのことは、何もわからないけど、それはぼくだってそうだけど、でも」
ぼくはジョンの目をはっきり見て言う。できるだけ、伝わってほしいと、思って言う。
「ぼくは、ジョンが正しい選択をしていくって、信じてる」
正しい手順で回せば、ルービックキューブは揃う。
ジョンは、正しい手順を知っている。
ならば、人生だって、そうなって、いいはずだ。
ぼくの人生に関してはそうだなんて思えないのに、なぜだか、他人については、そう思える。
「――そうか」
ジョンが怒ってるのか、悲しんでるのか、ぼくにはわからなかった。ぼくの言葉を受け入れてくれたのか、はねのけたのか、わからなかった。
だけど、ジョンはこう続けた。
「まあ、お前の言うとおり、だったらいいな」
ジョンはチョコレートクッキーに手を伸ばした。一口かじって、これ甘すぎないか、ほぼチョコレートの塊じゃねえかと笑った。
「カフェラテ飲みなよ」
甘すぎるクッキーには、苦い飲み物を合わせればいいと、相場が決まっている。
「おい、ボブ、これシロップ入れただろ」
「え、だって、落ち込んでそうだったし」
ジョンの分にはキャラメルシロップを二プッシュ入れていた。もしかして入れすぎたかな。というかクッキーがあることをそのときは完全に忘れていた。
これじゃあ甘すぎて飲めないな、とか言いつつ、ジョンはキャラメルシロップの入ったカフェラテを口にして、
「まあ、でも、悪くない」
と言う。
ジョンの言うとおり、この一件はニューアベンジャーズのメンバーにはすぐにバレた。というか、ジョンのほうから、各メンバーに伝えたそうだ。各々反応は違ったけれども、少なくとも、ぼくらがチームであることには変わりなかった。どんな人生の選択をしたとしても、どんな出来事があったとしても、ぼくたちはチームであるのだと。
そう決めたから。
そして、ニューアベンジャーズがハイスクールの教科書の表紙になっても、テロ組織を壊滅させても、政府主導のグリーティングに参加させられても、国外で任務があっても、ぼくらはなにひとつ変わらなかった。
たまにウォッチタワーで顔を合わせ、時間があるときには泊まっていったりして、まあ、ぼくの家は今のところここしかないわけだけれども、他の人たちには家があって、ああ、最近ジョンはだいたいウォッチタワーに入り浸っているわけなんだけれども。
だから必然的に顔を合わせる機会が増えることになる。
ラウンジの窓際がぼくの指定席みたいになっていて、ぼくが『春にして君を離れ』の最終章を読んでいると、片手にルービックキューブを持ったジョンが話しかけてきた。
「結局ルービックキューブ使ってるんじゃん」
「せっかくあるなら使うだろ」
とか言いつつ、かちゃかちゃと器用に揃えてみせてくる。この前よりタイムが上がってるんじゃないだろうか。秒数は測ってないけど。こんどニューアベンジャーズルービックキューブ大会でもやったらおもしろいかもしれないな。スーパーソルジャーが何人もいる時点でチートかもしれないな。
とか思っていると、ジョンが、
「いや、本題はそれじゃなくて」
「何?」
「映画でも見ないか?」
「え、またアクション映画?」
「いや、最近サブスク解禁されたファンタジー系ラブストーリー」
その後ジョンが言った映画の、タイトルは聞いたことがあった。たしかポスタービジュアルがけっこうよかったような記憶がある。この前もジョンはアクション映画を見ていたから、てっきりそういうジャンルかと思っていた。それにしてもラブストーリーか。正直、ジョンから一番遠いんじゃないかって気がする。
ぼくは言う。
「嫌いじゃないけど。そういう、わかりやすく恋に落ちて、わかりやすくハッピーエンドになるやつ」
そう、ぼくはそういう『わかりやすい』映画のことは嫌いじゃない。ストーリーが明快で、キャラクターの行動原理がしっかりしていて、ハッピーエンドになるやつ。アート系のもいいけど、見ていて疲れることがある。今はそんな気分じゃない。
「え、でも、なんでジョンはこれを見たいの?」
「お前と同じだよ」
「え?」
「複雑な現実に疲れたとき、こういう映画、効くだろ」
「ジョンも疲れたりするんだ」
言っとけ、と呟いて、ジョンはテレビがあるほうに向かう。ぼくもジョンについていく。
ラウンジのテレビの電源をつける。配信サービスの画面からその映画を選択する。制作会社のロゴが順番に出てくるシークエンスのことを、わりと嫌いになれない。
ジョンは手にしていたルービックキューブをぼくらの座っているソファに置く。まるで現実ではありえないような、ファンタジー世界の風景が広がりはじめ、ぼくたちはその映像に引き込まれていく。性格のいい主人公と、癖のある相手役。何も知らない恋のライバル。ままある構成だが、画面の巧みさで気にならない。
飽きたらジョンのルービックキューブで遊んでやろうかなと思っていたが、そんな隙は、なかった。
※コメントは最大500文字、5回まで送信できます