19世紀後半、パリ。
アーティストの多く集うその街に、ひとりの画家がいた。彼は国立美術学校(エコール・デ・ボザール)に学んだエリートであり、紆余曲折もありながら、自らの道を模索するものであった。
ある朝、彼はモンマルトルのアトリエを訪れる。駆け出しの彼は、師のアトリエの一部を複数人で間借りしていたのだが、その朝はまだ誰もいなかった。
戸外での制作も好まれた時期であったが、彼は外で人々や情景をスケッチするのみならず、それらを構図として油彩で小さくまとめ、後々の制作に活かそうとしていた。彼は色彩のコントラストとダイナミズムに興味を持っていたが、それが作品として結実するまでにはもうすこしかかる。
彼は昨日中断したキャンバスを前にする。川辺で様々な階層の人々が各々好きな過ごし方をする様子を描いたスケッチ群は、いずれ統合する予定なのだが、未だその段階には至っていない。整然と色が並んだ木製のパレットを手に取り、さて、と思ったところで、彼は違和感を覚える。
色の並んだパレットに、絵の具の混じったパレットに、知らないものがある。
彼は、それは色ではない、と思った。白の横に並んだその塊は、金色に似ているが、金の絵の具など売ってはいないはずだし、もしあったとしても買えはしないだろう。それは金色ですらなかった。金というのは、磨かれていなくとも独特の光沢を放つものだ。光を反射して輝くものだ。真鍮ほど安くもないし、錫のように鈍くもない。
彼には、それは自ら光を持っているように思われた。
炎のように明るいわけではない。周りを照らしているわけでもない。なのにそれは「光」であると、彼は感じた。
見間違えかと何度もまばたきをした。それはまだそこにあった。小指の先ほどくらいしかないその何かは、彼のパレットの上に鎮座している。
もしかしたら、と彼は思う。何らかの絵の具が混じってこうなったのかもしれないと。彼は色彩に関心を持っており、混色を試すことはままあった。昨日忘れてしまったけれども、その結果がこれなのではないかと。無論、自分でもそれを信じているわけではなかった。しかしこれはパレットの上にあるのだ。絵の具以外の何であるのだろうか。
彼は絵筆を手に取る。それをほんの少しだけつけて、紙の切れ端で試してみる。
それは色ではなかった。
彼の直観は正しく、それは色ではなかった。白との対比によって成立する色ではなかった。かといって白でもなかった。
ならば何か、と彼は問う。窓辺から朝の光が差し込んでおり、彼の三歩向こうの床を照らしている。茶色の床が、その部分だけ明るくなる。彼は紙を光にかざす。当然、白い紙は光を反射する。そして、その絵の具を塗った箇所は眩い。
眩いと表現するのが正当だろう。彼は試しに、今までに描いた試作に、その絵の具を重ねてみる。なるほどそれは光であった。今まで光の表現としていたものすべてが誤りであると感じられるようなそれは光であった。たとえば、周囲を暗くすればその箇所は明るく見える。そんなのは初歩の初歩だ。しかしこれは違う。窓から差し込んでくる光と等価の明るさであった。
なるほど、これは、光であった。
彼はその絵の具に夢中になった。その光はあらゆる描画法に耐え、どこに塗っても常に明るかった。そんな色がないことを理解してなお、その現象が起こっていることは否定できなかった。彼は光を描くことに成功した。
光は目減りすることがなかった。
彼は自分のミッションをそこに見た、これだ、と思った、風景を媒介として立ち現れる光の表現、それを目指していたのだと。
彼は食事も忘れてそれに没頭した。しかし体力には限界がある。彼はいつの間にか眠りに落ちていた。だからといって何の心配があろう。彼は見つけたのだ。
そう、思っていた。
彼が目を覚ましたとき、そのアトリエには紙が散らばっていた。よし、昨日の続きだ、その前に朝食を摂るべきか、と思ったところで、彼は見る。
白の隣には何もなかった。パレットの白、その隣にあったはずの何か、削られることのない光、彼が描いたはずの線もすべて、消え失せていて、まるで昨日一日が消去されてしまったかのように思われた。部屋のどこを探しても、昨日見たものはなかった。
朝日は昨日と変わらず、同じ窓辺から同じ光をもたらしている。
そう、一度見たのだ。再現できない道理はない。あらゆる絵の具の組み合わせを試した。それはついぞ光ではなかった。色彩の混合で発見できるものなら、誰かがすでに見つけているはずなのだ。
色彩の混合でないのなら。
先日読んだ、オグデン・ルードの著作を思い出す。色彩のコントラストの理論、対比の法則、そのようなもの、人間は色を認識する、単独ではなくて複数で。隣り合ったものに色の見え方は影響される。
彼の脳裏には光がある。もしそれが物質でないとしても、それを見たものの感覚に同じ光があればよいのだ。
彼の筆にもう迷いはない。何を描くべきなのかを知っているからだ。
彼の名はジョルジュ・スーラ。後に『グランド・ジャット島の日曜日の午後』を描き、新印象派を確立する画家である。
× × ×
それがいつのことだったかを推定することに意味はないだろう。タローマンは時間と空間を移動する。だからいつのことだったのかはどうだっていいのだ。
その、いつか、地球に時折訪れるタローマンが、その時代の人間の画題になっていたとき、かれは気付く。
タローマンは何かを作る。それが芸術と呼ばれることもある。
タローマンをかたどって何かが作られる。それが芸術と呼ばれることもある。
しかし、かれそのものが素材(メディウム)となることはなかった。かれは人類よりもはるかに大きかったので、自明のことではある。シュールレアリズム星人たちも、互いを素材にしようという発想はなかった。
タローマンは自らが芸術となったらどうなるのだろうかと思った。少なくとも、今まで行われたことはない。
ちょうどそのとき、かれは19世紀のフランスの上空にいた。かれは飛行船と間違われており、子供たちがそれを見上げていた。
なま身の自分に賭ける、そう、岡本太郎も言っていた。
タローマンはその時代で最もよく使われている素材(メディウム)となることにした。すなわち、絵の具である。
時間と空間を移動するタローマンにしてみても、その転換は困難なことであったが、困難であればあるほど挑みたくなる性質を持っているため、最終的には実現された。
かれはある画家のパレットの上にいた。画家は、タローマンの存在に気付くと、絵の具として自由自在に活用し、たくさんの絵を描いた。それは、タローマンの望んでいたことだが、ひとつ問題があった。
タローマンは思った。これでは空を飛べないと。
たしかに作品として新しい他者と出会うことはできるだろうし、自らが芸術となるのは、得難い経験ではあるが、どこかに飾られてそのままになるのは性に合わないと。
見られるものではなくて見るものでいたい。
縛られるものではなくて解放するものでいたい。
そういうわけでタローマンはふたたび自らの姿を取り戻し、次の時代へと旅立った。
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