スコット・サマーズの居室は彼の精神と同じように整頓されている、と、エリックは常々思っていた。新エグゼビア学園はエリックが設計したものなので、きれいに使ってくれるのは喜ばしいことだ。彼の部屋は他の教師たちと同じように黒を基調とした落ち着いた雰囲気のもので、備え付けの机と椅子、最低限の収納器具以外に付け足されたものはなかった。エマなんかはクローゼットを増設したりしているし、マジックもエマにクローゼットの作り方を聞いたとかいう。エリック自身もヘルメットだったりなんだりを置くための棚を足している。だけれども、スコットはプリセットのままで十分暮らせているようだ。
スコットの部屋は、引き出しが開いていることもなく、床にものが散らばっていることもない。エリックが彼の部屋を訪れることは少なかったが、それは好ましいことだった。雑然とした部屋にいると落ち着かない。
時間としてはまだ朝のはずだけれども、窓の外には雪が降っていて、太陽がどのあたりにあるのかはわからない。今日の授業について話し合うために、スコットの部屋のドアを叩いたエリックが机の上に見つけたのは、金属製の赤い車だった。手のひらよりは大きなサイズのそれは、ボールペンやノート、それから教科書の並べられている机にはいささかそぐわないように思えた。
「コーヒーでも?」
「いや、すぐに終わる」
スコットが気を回してくれたのは嬉しかったが、実際本題に関しては十分もあれば充分であったからそれでよかった。互いの授業での生徒たちの様子はどうか、能力はきちんと制御されているか、戦いに際して問題はないか。交わされた会話の間、エリックは机の上のおもちゃの車がずっと気になっていた。無駄のない彼の部屋には、なさそうなものだったから。
去り際に、エリックはこれはなんだろうか、とスコットに尋ねる。スコットはああ、こんなもののことを、と言いながらも教えてくれた。
「チャールズにもらったんだ、まだ小さい頃の、はなしだけど」
彼がチャールズの元にやってきて最初のクリスマスに、おもちゃの車をプレゼントとしてもらったのだという。ジーンには植物図鑑、ボビーにはポップコーンマシーン、ハンクには書見台、ウォーレンにはシャツ、そしてスコットにはこの車。
包み紙を外してその当時は最新鋭の、今ではちょっとレトロな車のパッケージが出てきたときの気持ちを今でも覚えているという。まるで世界の王様になれたみたいな気持ちだったと。あのころの自分にとっては大きかったけれども、今となっては文鎮みたいだとか。
塗装は一部剥がれ、地の金属色が見えている。子供の頃の彼にたくさん遊ばれてきたのだろう、ボンネットの部分はちょっと凹んでいる。
「それからずっと、持ってるんだ」
机の上に出しておいたのは、まあ、たまたまなんだけど、掃除してる途中だったから、と、彼は言った。たいしたものじゃないから、あなたが興味を持つなんて思わなかったな、スコットは苦笑いしながらその車をエリックに手渡した。
プルバックして走るタイプのおもちゃだろう、と、思って、机の上で引いてみるが、動かない。試しに振ると、かちゃかちゃと音がした。能力を使わなくてもわかるくらい明らかな破損。
「歯車が噛み合ってないようだが」
「ああ、それなら」
スコットはエリックに手を差し出す。エリックは車をスコットに返す。
こうすれば、とスコットは車を机の上で押した。きちきちと言いながらタイヤが回転した。
「まだ動く」
だからこれでいい、と彼は言う。
スコットの言う通り、何も問題はないだろう。子供の頃にもらったものなら愛着もあろうし、すぐに捨てるわけにもいかない。別に直さなくたっていい。ひとには不合理な行動をする権利がある。でも、なぜだか心に引っかかって、それをどうすることもできなくて。
「それを私に言って、どうしてほしいの?」
エリックが今朝のことをエマに話したら返ってきた反応はそれだった。こういったことは彼の恋人に話しておけばいいだろうと相談してみたのだったが、思いのほか冷静な反応にエリックは困惑した。
昼過ぎのカフェテリア、エマはカフェオレ、砂糖を入れて、エリックはブラックコーヒー、どちらもホット。生徒たちはきっと休み時間を過ごしているところだろう。ちらほらとカフェテリアにいるものも見える。教師は彼ら以外に今のところいない。マジックは買い出しと聞いているが。スコットはトレーニングルームにでもいるのだろうか。
まったくわからないわ、と、エマは天青石の瞳を細めた。
「小さな車が壊れているから、あなたにとって、どうだっていうの。おもちゃを後生大事にとっていることの何に問題があるの」
「壊れているものは、直したほうがいいだろう」
「じゃあ本人にそう言いなさいよ。私じゃなくて」
エマはカフェオレに口をつける。ここのカフェテラスのコーヒーメーカーも、エリックが作ったものだ。
「わたしにそれを言う資格があるとは」
資格? 何? いいご身分ね。とエマは腕を組む、まるで彼女に尋問されているかのような気分だとエリックは思う。
「もちろん、私はスコットのことを気にかけているわ。でも、彼の保護者になったつもりはないの」
「そうだな、彼はとっくに大人だ、ただ、」
ただ、の後、どう言えばいいのかわからなくて、言葉に詰まる。でも、子供の頃から知っていて、大切なひとの息子のようなもので、大人になったとしても、なんとなく。
なんとなく、なんだろうか。
「なるほど、大人なのにろくに会話もできないと」
「わたしたちはよいコミュニケーションを取っていると思うが」
現に今日だって朝には話に行ったし、生徒たちの教育方針などについてのコミュニケーションを交わすことは多い。
「戦略的な? 戦術的かもしれないわね」
「それ以外にないだろう」
「おもちゃって戦術?」
エマは大袈裟に眉を顰めてみせる。
たしかに、少なくとも戦術ではない。戦略のことでもない。もちろん大義にも正義にも関係はなく、これは――彼の、生活に関わることだ。エリックはスコットの生活に踏み込むつもりはなかった、ないはずだった。だけど。
「ねえ、私は貴方のことをいい仲間だと思っているけど」
貴方はスコットのことをどう思っているのかしら。そういうこと、考えたことある?
エマはマホガニーのテーブルにマグカップを置いた。かたん、と音がする。
「というよりも、貴方はスコットの何になりたいの?」
コーヒーは冷めないうちに飲むことね、と、エマは去っていった。エリックの手の中にあるマグカップは冷たくなっていた。温度が下がったところで、この豆はまずくなることはなかろうと、エリックは口にするが、やはり、風味は落ちるというもので。苦さが口の中に残って、なかなか、消えない。
休み時間はすぐに終わり、午後の授業が始まる。今日エリックは午後一番のクラスを担当していた。部屋から教科書を持ってきて、大きなクリアボードのあるクラスルームに向かう。
生徒は少ないといえ、このような状況では、教師も足りていないから、ひとりが複数の科目を受け持つことになっている。エリックは、能力制御のクラスの他に、数学のクラスも持っていた。建築にも造詣の深いエリックにとっては、ハイスクール程度の数学はたやすいことだった。
今日の範囲は幾何学であった。彼ら彼女らはミュータントである以前に学生である、というのが、一応はチャールズ・エグゼビアの名前を冠する学園の方針だ。だから生徒たちが『普通の』学園生活を送れていたら学べていたであろうことも当然学べるようにカリキュラムを組んであった。もちろん、やむを得ず、戦いに駆り出さなくてはならないことも、あるけれども。
部屋に入ったらみな既に揃っていた。「レーンシャー先生の授業は厳しい」と評判らしいが、自分なんかよりずっとスコットの集団戦術概論の方が大変な授業だと思っている。
最初に宿題を確認する。
ファビオは半分しか解けていなかったが、食らいついたガッツは認めてやろう。ベンジャミンは最後の最後で計算を間違えていた。デヴィッドとエヴァは完答。
それから宿題の解説をする。クリアボードに白いペンでさらさらと図形を書き、補助線を引き、解答を示す。
本日の課題を出し、グループワークが終わったあと、エヴァが手を挙げた。
「先生、先程の問題には別解があると思うんですが」
それなら書いてみろ、とエリックは彼女にペンを手渡した。エヴァはクリアボードに重なった三角形と円を書き、先程エリックがやってみせたのとは違う補助線を引き、いくつかの角が等しいことを示した。そして、三角形が相似であることを示し、エリックと同じ解答を出してみせた。なんなら、エリックよりも手数が少なく、スマートであった。
「素晴らしい解法だ」
これは時空間に関わる彼女の能力によるものかもしれないが、それ以上に努力によるものだろう。優秀な生徒を教えることができることを、エリックは誇らしく感じた。エヴァはこれくらいは当然だ、という顔をしているが、口元には笑みがあった。次の幾何学のクラスも楽しみだとエリックは思う。
授業が終わり、エリックが一度居室に戻ろうとしたとき、ちょうどマジックが買い出しから戻ってきたところだった。かなり目立つ戦闘服とは異なり、今日はジャケットにパンツスタイル。空間転移能力を持つ彼女は、決して交通の便がいいとはいえないこの学園のために、世界中に行って買物をしてくれるのだ。まあ、たまには、自分はただのテレポーターじゃないってむくれていることもあるけれども、基本的には自由に外に出れないこの環境のこと、多少は楽しんでいてくれるようだ。
ひとりでは荷物を持ちきれないから、今回はカッコーズと一緒に行ってきたようだ。彼女たちは両手に山程の袋を持っていた。ちなみに資金はエマ持ちだ。だからいくら買ってもいい。ということでマジックとの同行はけっこう人気だ。
マジックはエリックを見つけると、涼しげな瞳をこちらに向けた。
「ただいま」
「おかえり」
「そうそう、今日はイギリスに行ってきたけど」
そういうわけで、スコーンがたくさんあるってこと。スコーンだって、クロテッドクリームだって、冷凍しておけば何ヶ月も保つから。袋を置きながらマジックは言う。
カッコーズは同じような顔で同じような表情をしながら、彼女の手伝いをする。エリックも荷物のいくつかを磁力で運んでやった。冷蔵庫だって手を触れられずに開けられる。それはエリックにとって普通のことだ。
冷凍庫に保存用食材を詰め込みながら、そういえば、とエリックは思う。次のコマは空いているけれども、彼はどうだっただろうかと。
エリックが私用でスコットの部屋に訪れるのはこれがはじめてのことだった。モノクロームのドアについているインターホンを押す。果たして彼は部屋にいて、チェスプロブレムを解いていたところのようだった。
「何か、問題でも?」
訝しげなスコットにエリックは言う。
「お前に紅茶を淹れてやろうか」
「なんだよ、急に」
他に何か言いようがあったかもしれないが、こうとしか表せなかった。迂遠な語法はエリックの好むところではない。
「紅茶というものは、ひとりぶんよりも、ふたりぶん淹れたほうが味が安定するものだ」
ちょうどマジックがスコーンを買っていたところだし、と、エリックは言った。それに、紅茶やコーヒーはある程度の量を一度に作ったほうがいいのは本当のことだ。
しばしの沈黙ののち、スコットはくちびるに指を当てて、
「実は、甘いものも嫌いじゃないんだ」
「ならジャムは」
「たっぷり乗せたい」
「クロテッドクリームも」
「当然」
そして二人はカフェテリアに移動した。おそらく今はマジックの実践的格闘技入門の時間だろう。彼ら以外には誰もいなかった。カフェテリアには陶器のカフェセットも常備してある。ロイヤルコペンハーゲンの赤い花柄のカップとソーサー。これはエマの趣味だ。
スコーンはベノアのもの。大きくてざっくりとしているのが特徴だ。これをレンジで温めている間に、湯を沸かす。
「茶葉はどうする」
「僕はそんなに詳しくないから、エリックが選んでくれ」
「ミルクは入れるか?」
「二杯目には」
「ならヌワラエリヤが妥当か」
教師や生徒の要望にマジックが応えていくたびに増えていく茶葉の棚から、エリックは青い缶を選んだ。ティースプーンで三杯、自分の分とスコットの分と紅茶の妖精の分と。ちょうど沸騰したところだったので、ポッドに湯を注ぎ、砂時計で三分測る。
ジャムはいろいろ買い込んであって、ストロベリーとローズヒップとブルーベリーがあった。せっかくなので全て使うことにする。
皿に温めたスコーンを二つずつ、それからクロテッドクリームと三種類のジャム。まるでいっぱしのカフェみたいだ。それも豪勢なほう。
砂時計が落ち切る。エリックは二つのカップに紅茶を注いで、ポッドに格子柄のティーコゼーをかけた。エリックはカップに口をつけた。なめらかな口当たりで、やわらかな香りが広がる。わずかに渋みが残るがこれをスコーンと合わせるとちょうどいい。スコットはスコーンを割ろうとしたが、大体八対二くらいの割合で割れてしまっていた。
「そういうこともある」
「まあ、食べれば、同じだからな」
クロテッドクリームは山ほどのせて、ジャムもたっぷりつけて、一気にスコーンを頬張るのがいいのだと、いつかマジックが言っていた。エリックはその通りにした。クロテッドクリームそのものにはあまり味がないが、ジャムと合わさるとコクがあり、スコーンはそれを食べるためのよい土台となった。一口だけでも喉が渇いてしまうから、紅茶で流し込む。これがいい。
しばし紅茶とスコーンを楽しんだあと、話があるんだ、とエリックが切り出した。
「あの赤い車のことだけれども」
スコットはエリックの方には目をやらずに答えた。
「そんなことを気にしてたのか? あれはただの」
「ただの壊れたおもちゃなら、すぐに捨ててしまうだろう」
「……そうだな」
スコットはスコーンを置き、目を伏せた。
「だからきっと、大切なものなのだろうと」
「それは、チャールズからもらったものだからね」
エリックは、今度は迷うことなく、スコットに告げる。
「直せばいい、お前にはそれができるはずだ」
スコットは機械には強いと聞いている。なんせバイクだって直せる。ならあの小さなおもちゃだって直そうと思えば直せるだろう。その機会さえあれば。
もちろん、エリックにだってそうすることはできる。なんなら、手を触れなくたって、金属製品を元通りにすることができる。
しかし。
それはわたしの仕事ではない。
スコットはティーカップを持ったまま固まっていた。それから、エリックの方をきちんと見て、一言二言言葉を探しながら、スコーンを手にとって割った。今度はうまいこと割ることができたようだ。
「そんなことを言いに、僕に?」
「いや、ただ、おいしい紅茶を飲んでほしかっただけだ」
それもいいかもしれないな、と、スコットは笑った。
二煎目の紅茶には、スコットはミルクと砂糖を入れるのが好きなのだという。だいたい、濃く出るものだから、賢明な判断だ。ミルクピッチャーから温められた牛乳を注ぎ、シュガーポットにスプーンを入れて、山盛りの砂糖をすくいながら、スコットは呟く。
「あなたの言葉は、砂糖みたいだ」
「実用的な面では役に立たないということか?」
「昔見た映画に、スプーンひとさじの砂糖さえあれば何でも飲めるって歌があって、それを思い出した」
その映画ならエリックにも覚えがある。もう随分前のことで、詳細は覚えていないけれども、主演の軽やかな歌声は心に残っている。
「ぼくが目にしたくないものを、意識したくないものを、言ってくれるけど、痛くはないんだ」
「それは何よりだ」
もしかしたら痛い方が心には残るのかもしれない。でも、エリックには、どうしても、この男を傷つけようだなんて思えなかったのだ。もしそれが必要なことだとしても。
だって、こいつは、十分以上に、傷ついている。
スコットはティースプーンで紅茶をかき混ぜた後、カップを手に取った。一口飲んで、やっぱりおいしいな、と言う。
「なんだろう、もしかしたら車を直すだなんてこと、何の役にも立たないのかもしれないけど、あなたがそう言ってくれたことは、ちょっとだけうれしいな」
エリックは座っていた金属の椅子の手すりを少しだけ削って小さなドライバーを作った。プラスと、マイナス。ティータイムのあと、これをどうするかは、スコットに任されている。
2025-03-27
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