この手紙をお前が読むことを願っている。
『短期間で高収入のバイトなんて、怪しいやつに決まってる。
二ヶ月で百万円! 高収入のバイトです。二ヶ月間住み込みとなります。諸経費完全支給。勉強するのが苦にならない人募集!詳しくはこちらまで。
大学二年生の夏、ネットサーフィンをしつつ大学がオフィシャルに作った学生向けの求人サイトを見ていたらそんな広告に行き当たったのであった。住所も会社名も書いていないし、メールアドレスしか情報はない。明らかに怪しい。リゾートバイトにしては給料が高いし、勤務地すらも書いていない。風俗の勧誘が一応学内の審査を通ったサイトに載ることはないだろう。思えばこの時気付くべきであった。普通のアルバイトなわけがないのだと。
どうしておれがそんなバイトに応募してしまったのかというと、よくあることだと思うが奨学金をついうっかりギャンブルに溶かしてしまったからだ。今期分の学費はギリギリ払えたが、夏休み後の生活費があるかというと怪しいところだ。夏休みすらも日払い可住み込みでないと危ない。ちょっと統計学を学んだからって競馬に手を出しただけでこのざまなので、今後はギャンブルなんかやらないと固く誓った。いやあのプログラム通りにやれば問題ないはずだったんだって。
このバイトに応募することそのものがギャンブルなのではないかという意見には頷くほかないが、どれだけ怪しかろうかやるしかなかった。それから勉強するのが苦にならない人という条件のことも見逃していた。まあ、面接に行ってみて、もし明らかに反社会的だったら、逃げ出してくればいいのだとたかをくくってもいた。
メールアドレスに氏名、電話番号、志望動機を書いてメールを送ったら、住所と面接日程の案内がすぐに返信されてきた。その時間わずか一時間。自動応答ではなさそうだった。だって自動で志望動機のダメ出しなんかできるのか? できるんならバイトを募集するよりももっと有意義な方法でその技術を使ってもらいたい。
ちなみに志望動機の欄には今後の生活費のためと書いた。嘘ではない。
面接日程はちょうど大学の夏季休暇の始まる日だったので、そのまま了承。
真夏というには早すぎるが、春というには暑すぎる日。示された住所に向かうと城があった。確かに面接場所の住所がおかしいとは思っていたのだ。いわゆる大企業の集まる都心部ではないし、どちらかというと高級住宅地だったし、ビルではなくて普通の建物のようだった。そうしたら、普通の建物どころか城が出てきたのである。三階建ての一軒家なんてあるんだな。大きな鉄の門と真っ白な壁。おおよそ人間が住むにはふさわしくなく、どこかの国の大使館の建物ではないかと思った。
表札はない。合ってるのだろうか。
インターホンを押し、名を告げる。鉄の門が自動的に開いた。本当にここなのか?
廊下が涼しいのに驚いた。空調って部屋だけにあるのではないのか。二階にある『マリア・テレジアの間』をノックする。どうぞ、と声をかけられて、中に入ってみると、見るからにちゃんとしたスーツを着た男性が座っていた。自分の着ているスーツを見る。高校卒業時に祖父が買ってくれたスーツ。もらったときには随分立派に思えたそれがくすんで見える。年はおれよりも多少上――二〇代半ばから後半だろうか。予想していたよりも若い。勝手な先入観だったけれども、こういう謎の組織の勧誘というのはもっと見るからに怪しくてよれよれの服を着たおじさんがするものだと思っていた。
「君が高東久遠くんだね。面接に来てくれたのは君が初めてだ。条件は悪くないはずなんだけど、どうしてか応募がないんだよ」
「よろしくお願いします」
あんな怪しい広告で人が集まると思っている方がおかしいのでは? と思いつつもおれは笑顔で答える。
「僕は――そうだね、彼方と呼んでくれ」
「はい」
名字なのか名前なのかわからないが、とりあえず承諾の意を示す。面接官には逆らわないこと。そのくらいは処世術として知っている。
「ところで」
君にはひとつの言語を習得してほしいんだ、と彼方は語る。
言語を習得する。なるほど。マグロ漁船に乗せられそうにはないことがわかった。
言語習得? なんだそれ? 意味はわかるけれども、これはバイトの面接では?
「どういうことですか?」
「君の動揺も無理はない。まだこの世界に存在していない言語だ。存在はしているんだけれども、存在証明はできていない。何、テストで満点を取れっていう話じゃない。僕と話せるようになればそれだけでいいんだ。日常会話くらいで」
彼方はおれの発言を無視して応えた。
この世界に存在していないのに彼と会話をするために覚えろという。じゃあその言語を操る人間はこの世界の人間ではないのだろうか。異世界人なのか?
「言語の名前だけは教えておこう。イグジスタンシアと言うんだ。聞いたことはないだろう? あったらその方が驚きだし、これから君にたっぷり尋問を行うことになる。イグジスタンシアという仮称は英語のExistから取ったものだ。まあ、これにはこれ自身で呼ばれる名前があると、僕は予測している。イグジスタンシアによるイグジスタンシアの表現。英語を英語ではEnglishと呼ぶように。だけれども、まだそれは発見されていない。名前のないものを呼ぶのは難しいから、とりあえずイグジスタンシアと」
「はあ」
謎の単語が乱舞している。だから勉強するのが苦にならない人を募集していたのだろうか。大学受験は若干頑張ったけれども、もし大学での学びに全力を傾けていたらそもそもおれはここにいないはずだ。
彼方はまたも続ける。
「まず住み込みをしてくれる代金として百万円。二ヶ月後に、君がイグジスタンシアのネイティブレベルに達していたら、報酬としてさらに百万円。二ヶ月の生活費も住居費もこちらが持つし、何を食べてくれても何を要求してくれても構わない。今この家にプールはないけど、プールが欲しいって言われたら作るさ。インターネット環境は一部制限させてもらうが、最低限の守秘義務さえ守ってくれれば外と連絡したっていいし帰ってきてくれるなら出掛けてもいい。二ヶ月も誰とも連絡がつかなかったら事件性を疑われるからね。もちろん電話をしたっていい。そのくらい自由にしてくれていいんだ。悪くない条件だと思うけれど、どうだろうか」
ああもちろん各種税金控除後の金額だと彼方は付け加える。
二月百万円かと思っていたら、月百万円のバイトになっていた。
おれは生活費のためにその仕事を受けた。決して遊ぶ金欲しさではない。
彼方の家に行く前に三日間の猶予をもらった。服も相手側が用意してもらえるとかいうが、着慣れた洋服は持っておきたいし、ずっと家を空けるんだからある程度掃除をしておかなければならない。二百万円もらって帰って部屋に虫がたくさんいるような状態は避けたいところだ。
七月下旬、朝一〇時、おれはまたあの城みたいな家の前にいた。
インターホンを押し、家の中に入る。玄関まで一〇〇メートルくらいありそうな気がしている。重い扉を開けて入ると、またも完璧に管理された空調の廊下が待っている。今回は『マリー・アントワネットの部屋』を指定されていた。ノックする。
「どうぞ、まずは契約書を」
甲とか乙とか書いてある書類が渡される。細かい文字でいろいろなことが印刷されているが、適当に流し読みをしてサインをする。ちゃんとした契約書に触れるのははじめてだった。少なくともこれで、このアルバイト自体がジョークだということはなくなった。
契約書を彼方に返して、おれは言う。
「はあ、それでおれは何をすればいいんですかね?」
「言語習得だって言っただろう」
そう言って彼方は壁を指差す。本棚がある。大学の図書館みたいな本棚にはさまざまな本が並んでいる。背表紙に日本語でも英語でもない言語が書かれているものもある。
「これを全部読むんですか?」
「冗談だ」
もしそんな業務だったら山小屋で働き詰めするよりも最悪だ。帰らせてもらうところだった。
「あれは僕の集めた言語関連の資料で――まあ大多数は地下の書庫にあるんだけど――今回のレクチャーの補助になるかもしれないと思って持ってきたんだ。自由に読んでくれて構わないよ」
「そんなに文法とかよくわからないんですよね」
「大学には入っているんだよね?」
「英語は苦手だったんですよね、ついでに国語の文法のところも。あれって表を覚えるだけでどうすればいいのかわからないじゃないですか」
「……名詞と動詞ってわかる?」
「名前を聞いたことはありますね」
彼方は少し呆れた顔をした。センター試験ではどうにかある程度の点数を取れたのだから許してほしい。
最初はこの屋敷での過ごし方について教えてもらった。どの部屋に入ってもいいし、事前に通知しておけば外出も問題ない。食事はもちろん三食付いている。その時点で元が取れるような豪邸であった。
そういった話をしていたときに、彼方が実はね、と切り出した。
「今、僕は日本語で話していないんだけど、気付いているかな? 」
「は?」
「口をよく見ていてほしい」
「いやその、普通に話しているみたいにしか見えないんだけど」
吹き替えの映画みたいに、口と声がずれているということなんかなかった。普通だ。なまりもない。
ように感じる。
「僕がイグジスタンシアで話していることは証明できない。イグジスタンシアを使って話した言葉はすべて相手のネイティブランゲージとして受け取られるから。ついでに僕以外にイグジスタンシアで話している人もいないみたいだ。どこかにいればいいんだけれど。いろいろな国の人間相手に実験してみたけど――もっとも、Skypeでだけど――とりあえず三〇ヶ国語くらいは対応しているみたいだ。ピダハンあたりに話してみたら通じないっていうのもおもしろいいけど、現実的ではないかな。要するに、こうやって日本語ネイティブのきみと話が通じているというのがイグジスタンシアの存在証明の一つだ」
「じゃあ何で日本語で話しているように見えるんですか? 発音が違ったら口の形も違うのでは?」
「そのとおり、いい指摘だ。そしてそれが僕が君を雇った理由でもある」
イグジスタンシアには現実改変能力があるんだ、と彼方は言う。
それももちろん、おれには日本語で聞こえた。
彼方が言うにはこうだ。
彼方はずっと日本語で他人とコミュニケーションを取っていると思っていた。少年期辺りまでは、まったく違和感はなかった。だが次第に、周囲とのずれがあるように思い始める。まるで重要なコンテキストを自分だけが持っていないかのような会話の齟齬、大切にしようとしたものがするすると自分から逃げていくコミュニケーションの差異。
最初に周囲と自分が疑ったのはある種の知的障害・発達障害だった。だがどのような検査をしても、彼方に異常が見つかることはなかった。幸いなことに、彼方の知的能力は高かったので、学業の面などで問題はなかった。そもそも彼方は学校に通っていなかったため、コミュニケーションのずれがいじめにつながることなどもなかった。
(学校に通っていなかったのはなぜか、後日彼方に尋ねたことがある。普通の学校に通うには少々危険な境遇であったようだ。誘拐などのおそれがあるという。おれはそれだけじゃなくて、彼の出生にも関わるのではないかと思ったが、それは穿ち過ぎであろうか。ともかく、サイトウなどの家庭教師を用いて十分以上の教育は受けていた)
ある日彼方は気付いたのであった。自らの持つ真の問題に。そしてそれからこの屋敷を与えられ、そこから外にほぼ出ないで生活をしている。
それは鏡を見ているときに発生した。歯磨きをしていたら、歯磨き粉がなくなっていたので、サイトウに頼もうとしたのだった。
「サイトウ、歯磨き粉を」
そうするとサイトウが現れて新しい歯磨き粉を持ってきてくれる。それは他愛もない発話だった。しかし彼方にはわかってしまった。鏡に映る自分の姿を、正確にはその唇の形を。その動きは明らかに日本語における『サイトウ、歯磨き粉を』とは異なっていた。
「今何が?」
それも違う。違うのがわかる。
彼方は急いで歯磨きを終え、鏡の前で発声してみた。「あ」と言っているのに、どう見ても違う口の形、じゃあ自分が話しているのは、話している音は、何だ?
「唇の形っていうのは意外と重要なんだよ。マスクをしている人の発話が聞こえづらいのは、マスクに遮られているだけじゃなくって、口が見えないからだ。人間は聞こえた音と見える唇の形を組み合わせて発話を理解している。意図的に音と唇をずらした映像を見せるとどっちを優先するべきかわからなくなってしまうという実験もあるんだ」
彼方はウェブページで動画を見せてくれた。Mを発音しているが口の形はNだというものだった。確かにちょっと分かりづらい。正解を言われればわかるけれども、最初からこれがMなのかNなのかと聞かれたらかなり悩むこととなるだろう。
「もちろん僕にだけおかしな脳の働きがあって、口の形が異なって見える、そんなこともあるのかもしれない。だから僕は自分が喋っているのを人に見せて、そのときどう口が動いているのかを描写してもらった」
大方の予想通り、それは僕の見ている現実とは異なり『日本語』のものだったんだ、と彼方は語る。口の形だけでどう発音しているかを完全に推定することはできないけれども、手がかりにはなる。そこから自分が何を喋っているのかを考察することはできる。
「そういうわけで、僕はイグジスタンシアを発見して、研究している。普通に暮らせればよかったんだが、いかんせん気になってしまったことは仕方がない。データを送っても信じてくれない言語学者が多かったのは困ったな。だって僕がどう喋っていても日本語、じゃなかったらその人の母国語に聞こえるんだから。ただの冗談にしか見えないだろうし、きっと君だってそう思ってるだろうね」
「まあ、そうですね」
今のところ、彼の言葉を信じられる要素は何もなかった。だって聞こえるものはすべて日本語だからだ。カタカナ語も、英語の発音というよりは日頃聞いている『カタカナ語』として聞こえる。まったく違和感がない。
「この二ヶ月で、できたら君には信じてほしい。信じなくてもいい。とにかくこの現象が起こっていることを、わかってほしいんだ」
彼方の声は祈りに似ていた。ような気がするのは今だからなのかもしれない。
そのときのおれは途方もない話すぎてどう反応するべきかわからなかった。まるでそれが存在しないかのように装う言語? 今この瞬間もおれはイグジスタンシアを聞いて、日本語として理解している?
仕方ない、金のためだ。終わったら百万円もらえる。
それと同時に、少しわくわくもしていた。途方もない話であるがゆえに。
二日目には言語の歴史のレクチャーがあった。あまりにも文法を知らないおれへの配慮だったのかもしれない。
「古今和歌集仮名序くらいは高校生あたりでやらなかったかい? 」
「古典……活用が多くて……」
「活用を全部覚えなきゃ話にならないけど、スタートラインにすら立てない者は多い。それはさておき、この仮名序というのは、かつての日本語に今まさに作り上げようとしているイグジスタンシアのような機能があったことを示しているんだ」
それから彼方はこう諳んじた。
やまとうたは、人のこゝろをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける……ちからをもいれずしてあめつちをうごかし、めに見えぬおにかみをもあはれとおもはせ……
「やまとうたというのは和歌のこと。和歌にはそれ自体、天地を動かす力があって、鬼神の心にすらも感銘を与えるものだとされている。これをそのまま素直に受け取れば、かつての和歌は、自然に対してある程度の働きかけができたってことだ」
「それって比喩表現じゃないんですか」
もし比喩表現がすべて現実を反映しているのだとしたら、ことわざあたりで大変なことになる。鴨が葱を背負って来ることはおそらくない。いや覆水盆に返らずとかは現実か。それは物理法則に従っているだけだ。物理法則に反することも実現可能なのだろうか。
「普通はそう考える。僕だってそう思っていた。だけれども、日本だけではなくて、世界中に同じような話がある。言葉によって世界が動いてしまったよう例が。バベルの塔は、お互いに違う言語を話していたのにお互いに通じてしまっていただけなのが露呈したのかもしれない。ドンキホーテは自らの言葉に呑まれた者のはなしなのかもしれない。神曲は改変に失敗した――だがしかし偉大な――詩篇なのかもしれない。古い言語では、あるいは昔はある程度現実の操作ができたと考えたっておかしくない」
詩や神話、古典文学には現実を変える力があるのだと、彼方は信じているらしい。現在の小説にももちろんそんなものはたくさんあるが、多すぎてお互いに打ち消し合っているが、かつて存在した『何か』が損傷しているのだと考察している。
あるいはイグジスタンシアにあるような成分を昔の言語は持っていたのだと。
「もちろん、イグジスタンシアみたいに常に成功したってわけじゃないだろうね。僕と誰かの会話が成立していることを客観的に証明する手段がないから君を雇ったという面があるから、イグジスタンシアの成功も一〇〇%とは言えないけれど」
「イグジスタンシアを習得すると他の言語も全部わかるようになるんですか」
「いや、そう簡単にはいかない。イグジスタンシアはすべての言語話者に自身の言語として聞こえさせることができるが、僕がスワヒリ語を初見で理解することはできない。きちんと勉強しないと」
おかげで僕は子供の頃は誰が何を喋っていたのかまったくわからなかったんだよ、と彼方は言う。
「逆に僕が言っていることはみんなにわかっていたらしい。相手がわかっているかどうか知る術はなかったけどね」
二日目のレクチャーはそういった話で終わった。自由時間は自室で何をしていてもいいが、宿題はやっていてほしいと言われた。今日の宿題は日本語学習者向けの日本語の文法書だった。『は』と『が』の使い分けなんて今まで考えたこともなかったが、学習者にとっては大変な問題らしい。
おれに貸し与えられたのは『紫式部の間』、例によっておれのワンルームの十倍くらいの広さがあり、キングサイズのふかふかのベッドがあり、小学生以来に見る学習机――ただしやたらかっこいいデザインのもの――が置いてある。イケアに売ってる家具をもっと高級にしたみたいな。それから二十二時消灯、七時起床だそうだ。言語を習得できるかはともかく、生活習慣は改善されるかもしれない。
おれはもしかしたらとんでもない場所に来てしまったのではないだろうか? 自室には外側から掛けられる鍵があるわけでもないし、閉じ込められてはいないから、ここから逃げられないこともない。実際、逃げたって構わないらしい。でも、ここで立ち去ったら一〇〇万円を手に入れることはできない。
宿題にと言われたテキストを読み始める。主語とか述語とか書いてある。文を分解すると要素になって、その要素も分解できて……どうなるんだろう。何に役に立つんだろう。内容は明日聞こうと思った。
生活面では問題は特になかった。困ったことがあったらサイトウに、と彼方は言った。執事というか、使用人というのかわからないが、おれが『サイトウ』を呼ぶと、どこからともなく現れて、誰かが何かをしてくれた。
「服洗濯しておいて」
「承知しました」
そうすると次の日にはあたたかな柔軟剤の匂いがした服がきちんと畳んで置いてある。そんなのは実家以来だ。
サイトウは彼方との食事の際も、食事のサーブを行っていた。キッチンは見当たらなかったけれども、どこかにサイトウたちのキッチンがあってそこで料理を作っているのだろう。
サイトウの声や顔は毎回異なった。ような気がしている。だいたい黒っぽい服を着ていたような記憶がある。細かいところはわからない。なにせどこからともなく現れてどこかに消えていくのだから。忍者に近いのではないだろうか。
サイトウ、今も見ているんだろ?
脱線はやめだ。それからおれは結構頑張って勉強したと思う。
「まずは僕が日本語を話していない、ということを理解してほしい。そのためには言語の音を理解するのが必要だ」
サブテキストとして渡された、彼方手製のイグジスタンシアの教本はわかりやすかった。いわゆる文法事項の解説に実際のコミュニケーションの場面がうまく結び付けられている。これもあの文法書たちから学んだ知恵なのだろうか。本人のコミュニケーションを行うシチュエーションはわからないが、それっぽい場面が設定されていた。『学園祭でテントを張る時』『親に電話を掛ける時』など。
今なら古文もわかるんじゃないだろうか。多分イグジスタンシアよりは簡単だから。
まず文字がおかしい。
発音記号に似ているけどいくらか文字の種類が多いもの(国際音声記号とかいうらしい)と日本語が並列されている。発音記号っぽいものはアルファベットに似ているがとにかく数が多い。これで世界のあらゆる言語音を表記できるらしく、まずはその発音を叩き込まれた。
「この発音は?」
「無声両唇破裂音だね。日本語のパ行に当たる」
舌の先を丸める、唇を横に引っ張る、舌の奥の方を喉に近づける、どれも日頃意識して行わない動作だ。こういったものを組み合わせるとさまざまな音が発生することはわかった。
彼方が見本を見せてくれたりしたし、動画メニューで復習することもできるが、いまいち要領がつかめなかった。動画は彼方が作っているのではなくて、無料配信サイトに普通に置いてあるものだ。こんなことをする物好きが、彼以外にもいるだなんて。なんだそのはじき音とかいうのは。日頃使っているらしいんだけど、それだけ取り出されたってわからない。
「本当は英語とかでもこうやって覚えておくといいんだけどね」
「そんなことやったら大半の学生は心が折れますよ」
元に今おれの心は折れかけている。逆に受験勉強って簡単だったんじゃないかなと思える。
「日本語だって意識しないうちにいろいろな発音をしているのにね」
「赤ちゃんはこんなんわからないでしょう」
「わかっていたら天才か何かだ」
ロシア語とかペルシャ語をやっていればこの困難には先に出会っていたかもしれない。あいにくおれは経済学専攻で、第二外国語は必修ではなかった上に、英語すらもろくにできないありさまだったのでそんなことは起こらなかっただろうが。
「日本語の書き言葉を学ぼうとしている人よりはましだろう」
確かにそうかも知れないけど。あと中国語よりもましかもしれないけど。アルファベットを小学生の頃に覚えさせられて多少なりとも英語をやっていたのはかなり有利な事態であったとわかった。
「どうしてこんなに言語に詳しいんですか……?」
「僕は知っていることしか知らないよ。だから、新しいことを知りたくって、このプロジェクトを始めたんだ」
知っていることしか知らないなんておれだってそうだ。知っていることの範囲が狭いだけだ。おれは広大な荒野の真ん中にいるような気分になった。自分が世界だと思っていたものはほんの半径数メートルで、外には果てのない広がりがある。小さな家に住んでいられた頃はよかったが、扉を開けたらもう荒野のことを思い出さずにはいられない。彼方はその向こうにいるような気がしてならなかった。
食事を摂るのは『楊貴妃の間』だ。はじめてここに案内されたときは、意外とこじんまりしていたという印象を持った。この家の規模なら、ものすごい大宴会場があってもおかしくはないからだ。それでもおれの家よりは十分に広い部屋だ。中央には白い布がかけられた机がある。皿も置いてある。皿の横にはナイフとフォークが並んでいて、どんなフルコースが来るんだよという勢いである。ドレスコードが必要なのではないだろうか。おれは普通のTシャツを着ている。彼方は襟のついたシャツにデニムを履いている。人によっては嫌味になるようなコーディネートかもしれないが、彼方にはしっくりきていた。
メニューは和食、洋食、中華、なんでもあった。前日までに頼めば希望した料理を出してもらうこともできる。どうしてもジャンクフードが食べたくなって『レタスにポテトチップスを混ぜたサラダ』をオーダーしたら、ちゃんと出てきた。実家ではよくやっていた組み合わせなのだが、彼方には目新しかったようで、わくわくしながら食べていた。
「なるほどね……」
感想はあまり芳しくなかったが。
食事をするときに話すのもだいたい言語の話だった。彼にはこれ以外の話題がないのだろうか。でも言語の話題だけでもこれだけあるのだとも思い知らされた。
「君が英語を習得するのに苦労したように、英語母語話者も日本語を学ぶのには結構骨が折れるらしいんだよ。イタリア語とフランス語はどことなく似ていると思うだろう? それはどちらもラテン語から派生したからだ。英語の成り立ちはちょっと複雑だけど、英語とイタリア語よりは英語と日本語のほうがはるかに『遠い』、だからお互いに学びにくいんだ」
だったら英語を小学校から必修にするのはやめてほしい。いや、学びにくいからこそ小学生からやらされたのか? どちらにせよ歩み寄ってほしいところだった。日本語に。
「じゃあイグジスタンシアはどの言語に近いんですか? その近い言語を話す人に学んでもらえばよかったのでは?」
「イグジスタンシアはどの言語からも距離を取っている、少なくとも現時点での分析ではそうだ」
「じゃあ日本語がわかるようになるまで大変だったんじゃないですか」
「まあ、そうかもしれないね」
彼方は珍しくその話題への言及を避けた。言語の話だったらなんでも楽しそうに話してくれるのに、日本語を習得した話はしてくれなかった。
一週間もするとこの生活にも慣れてきた。午前中にレクチャー、昼ごはんを食べて自習時間、夕方に短いレクチャー、そして夜。家事は一切しなくていいなんて最高だ。
それに、このよくわからない言語――イグジスタンシアの勉強が楽しくなってきたのもある。日々知識を付けていくと、彼方の言葉にノイズが入っているのがわかるようになった。
「よし、その調子だ。そのうち何を話しているかわからなくなるかもしれないけど、それが第一歩なんだ」
これまで誰もそのステップにすら立ってくれなかったのだと彼方は言う。
それなら以前にも同じような実験が行われたということなのだろうか? 彼方のことだから金にものを言わせてやっている可能性はある。おれが成功するかなんてわからないのだ。
そう言うのも水を差すようで言葉にはできなかった。
なぜなら彼方が嬉しそうにしていたからだ。いつもクールだった彼が。ぱちぱちと日が差すようにように笑っていた。
庭でフライングディスクでもやってみないか? 二週間位経ったところで彼方が言った。
「もちろん嫌いだったらいいんだけど」
「フライングディスクってなんですか」
「ええと、フリスビー、かなあ」
フリスビーと言われればわかる。中学生くらいの頃に一度やったことがある。しかしおとなになるにつれてフリスビーをする機械は減った。今でもやってるのは犬を飼っている人くらいではなかろうか。
「部屋に閉じ込めておくのもよくないし、たまには庭に出てみてはどうだろうか」
「庭なんてあったんですか」
「『クイーン・エリザベスの間』のドアから中庭に出られるよ。君の部屋の窓からも見えたんじゃないかな」
そういえば窓の外には森とよく整えられた芝生があるなと思っていた。あれは外じゃなくて中庭だったのか。
中庭に出ると芝生があった。ゆうに五〇メートル四方はあるだろう。彼方は赤いフリスビーを持って出てきた。今日はスポーツウェアを着ていた。知っているブランドだ。おれの分も用意してくれていたので着替えてきていた。さらさらとした着用感で、持って帰りたいとすら思ってしまった。
「じゃあ飛ばすよ」
彼方がフリスビーを投げる。おれは走って取りに行く。取りに行こうとしたら想定よりもあちら側に落ちてしまったから走って行く。
「不器用すぎじゃないですか?」
あんなふうにはならないとおれもフリスビーを投げる。弓なりな軌道を描いてうまいこと彼方の目の前に飛んでいく。はずだった。またもや上空で急に止まったようになってこちら側に軌道を修正し落ちていく。
「どっちもどっちじゃないか」
三往復目でお互いに多少慣れてきたのか、狙ったところに投げられるようになってきた。だけれども五メートルくらいの誤差は許容してやってほしい。
おれはちょっと走っただけで息切れしてしまった。フリスビーは思っていたよりも走らされるものだった。彼方はそれほど疲れていないようだった。こちらの方が年齢の分体力があるはずだと思っていたのだが。
最近の運動不足がたたったのかもしれない。どこかの部屋にトレーニング設備があったような気がするので、それを使うのもよいのかもしれない。そもそもここに来る前からそんなに運動はしていない。
「それにしてもどうしていきなりフリスビーなんて」
「ええと、仲良くなろうかなと思って。どうせ君とはこれから一ヶ月以上過ごすんだから」
仲良くなろうと思って初手がフリスビーという人に会うのは初めてだ。大学生にもなるとだいたいサークルやゼミでの出会いしかないし、仲良くなる方法は飲み会くらいしかなかった。学校に通っていなかったとかいうしそういった常識はないのだろうか。でもこの状況で飲み会に行くわけにも行かないし、フリスビーというのは妥当な選択なのかもしれない。
「その、君、とか謎の丁寧語とかとかやめてくれませんか」
「じゃあどう呼べと言うんだい」
「普通に呼び捨てで」
「なるほど。僕は、友達との話し方を知らないんだ。不自然だったら言ってほしい」
なるほど、世間知らずってそういうことか、と思ったが、それ以前の問題があった。
「おれら友達だったの!?」
てっきり雇用主と労働者だと。いや、おれはここで労働をしているというかただ勉強しているだけだし、それでお金はもらえるし、ここの家でのんびり暮らしているし……でも友人なのだろうか。
「どうなんだろう、友達ってことにしてくれないか?」
友人だったらいいと思ってしまった。手に持っていたフリスビーを投げる。彼方がキャッチする。うん、友人みたいだ。
その後彼方の口調が変わることはなかった。この喋り方しか知らないんだとかいう。小さな頃からあんな感じだったのだろうか。容易に想像がつくのが怖いところだ。
彼方はたまにおやつを出してくれることもあった。その日はアップルパイを持ってきていた。アップルパイといえばパン屋で潰れているものくらいの印象しかなかったおれは、そのさくさく感とりんごの自然な酸味に驚かされた。
そしてこんなにおいしいものを食べていたところで、彼方が話すのは言語のことばかりなのだ。
「サピアウォーフの仮説については知っているかい?」
「名前はどこかの本で見た気がしますね」
「そうだろうとは思っていたよ。これは使用する言語によって世界の見方が異なるという仮説だ。雪が多い地域の言語には雪を表す語彙がそうではない地域よりも多くあるとか、色を表す語彙の差から虹の色の数の差が出てくるとか。男性名詞、女性名詞がある言語ではそうでない言語よりも抽象物に性別を与える傾向があるだとか。これにも否定的な実験結果はあるし、あくまでも仮説なんだけれども、あったほうがいいと思わないか?」
「どうしてですか?」
「面白いからさ」
相変わらず彼方の言っていることはよくわからない。言語なんかに規定される世界は面白いのだろうか。言語を習得する以前の子供にも世界認識はあるだろうし……おれは覚えていないけど……じゃあこれが間違っているってことは言えないんじゃないか……といった思考のループに入ろうとしたところで彼方は言う。
「もちろん、イグジスタンシアの存在証明成功がこの仮説を全面的にサポートするわけじゃない。第二言語以降の話とは関係がないしね。でももし、君がこの言語をきっちり習得してくれたなら、ぼんやりとでも何かが変わるんじゃないか、そしてそれは僕らが共有できるものなんじゃないかとか、思ってしまうんだ」
世界を共有するということ。
ここには机がある。木製で、つやつやで、きちんと手入れがされていそうな机だ。少なくとも、教室机や、大理石の机や、プラスチックの机とは違う。この机がそう見えるのは、おれが日本語を話すからなのだろうか。彼方にはどう見えているのだろうか。説明してもらったところで彼が話すのは日本語にしか聞こえないのだろうから、わからない。
外に行っていいとは聞いていたが、この家が快適なのと、いろいろと忙しいので、外出することはめったになかった。でもたまにあるのだ、こう、健康に配慮された最善の食事だけをしていては得られないものが。
彼方に外出許可をとったらきょとんとされた。許可なんかなくてもいいのにと言った。最初に言われたとおりにしただけなのだけれども。
コンビニに行って帰ってくるだけだけれども、久々の日本社会に新鮮な気持ちになった。そうだコンビニには惣菜パンが売っていたり、清涼飲料水が置いてあったりする。めっきりフランスパンとフレッシュジュースの生活になっていたから忘れかけていた。
戻ってくると、彼方が出迎えてくれた。そして彼は音を口にした。
言葉ではなくて。
「なんか今の……何だ? 音がしたのはわかる。でも言葉じゃないし」
炭酸が弾けるのと小太鼓を叩いたのお混ぜ合わせたような音がしていた。
「ああ、そうか、ようやくイグジスタンシアが自分の偽装を解いてくれたんだな」
今聞いたのがその音、僕たちが追い求めていた『それ』なんだよ。
「意味は?」
彼方は日本語で説明してくれた。日本語として聞こえるようなイグジスタンシアではなくて、日本語で。
そしておれは理解した。
そうだ、帰ってきたらただいまって言ってくれよ。簡単な単語だし、発音も日本語からかけ離れたものじゃない。
「夢だったんだよねこういうの」
そこまで言うことだろうか、とは思ったが、彼はもう一度おかえりと言った。
そういうわけで、おれの初めて覚えたイグジスタンシアは「おかえり」だということになった。
次が「ただいま」。
「そうだね、割と発音はよくなってきている気がするよ。えっとこの部分でもうちょっと顎を引いて、そう、息を多めに通して音をはっきりと出そう」
おれはいくらかイグジスタンシアの発音ができるようになっていた。自分が何を話しているか、自分ではよくわからないが、少なくとも日本語を話していないということはわかる。
文法規則も少しは覚えた。今なら主語と述語どころか形容詞のこともわかる。
彼方自作の単語を覚えるための歌のようなものを口ずさみながら歩いていたら、こんなことを言われたこともある。
「マイ・フェア・レディみたいだ」
「なんですかそれ」
「the rain in Spain stays mainly in the plain……じゃあキングスマンは?」
「名前なら聞いたことある」
「『アナスタシアの間』にはホームシアターがあるから、見るといい」
また新しい部屋が出てきた。ちなみにそんなことを言いつつ彼方は今夜の宿題をどっさり出した。当然ながら映画を見る余裕なんてない。
彼方はおれをやけに自由にさせたがった。まるでここから帰ってほしいとでも言うように。帰ってほしい、は強すぎるかもしれない。
彼はずっと『帰ってもいい』『自由にしていい』と言う。おれは金がほしいからここにいる。だから帰らない。そういうことになっていた。
残念ながら、食事を共にしたり、毎日レクチャーをしたり、たまに中庭で遊ぶ相手のことを、ただの雇用主とは思えなくなってしまっていた。
「おかえりって言うのは悪いものじゃないね。文法書の中だけにあるシチュエーションじゃなかったんだ。この屋敷には誰も帰ってこないからね、もうずっと前から。サイトウは出入りするけど、そう言うようなことなんてない」
スーパーマーケットの帰りに彼方はそう言った。そういえば彼方自身が外に出ることはなかった。おれは自由に外に行って帰ってこられるのに。
スピーキングの後はリーディングとライティングが待っていた。スピーキングがうまくできれば今回のバイトでは上等だという予定だったが、予想外にできるのでやらせてみたくなったのだという。もちろんイグジスタンシアの文字も自らを他の言語に偽装する仕組みを持っているので、最初は日本語にしか見えなかった。
「ここまでできるとは思ってなかったよ。でもせっかくならライティングもやってみようじゃないか。文字は言語の必須条件ではないけれども、あったほうが便利だから自分で作ったんだ」
記号だけ取り出して見れば、どうにかそれが文字であると理解できた。それにしもこの程度で済んでよかった。小学校六年分の漢字でさえも、これから全部覚えろとでも言われたら匙を投げるはずだ。イグジスベットの量はアルファベットと同じくらいだった。フォルムは直線的だが、たまにカーブがあって優美な雰囲気を醸し出している。彼方の印象に似ていると思った。
「実はこっちのほうが現実改変能力が強くてね。読めるんなら見えるだろう?」
いくつかの文字が書きつけられたテキストを読んだ。『かつてその世界には青空がありました。行方知らずの旅人が帰ってくるのをずっと待っています。さようならを言う前に行ってしまったのですから』脈絡のない文章だなと思ったその瞬間、空から花弁が降ってきた。白とピンクの混じった花吹雪。春先の森の香り。ここは部屋の中のはずではなかったか?
「発話は時間とともに流れていってしまうけれども、文字で残されたものは違う。だから、こうすれば現実をハッキングできると思っていたんだけど、これでようやく実証された」
言葉が天地を動かすというのはこういうことだったのか。足元には花々が落ちている。
「僕ひとりじゃあよくできたマジックと言われたかもしれない。でも、できた。やったよ」
彼方にも同じものが見えているみたいだ。おれはようやく彼方と同じ視界を得られたのだと思ってうれしくなった。
「魔法みたいだ」
「ああ、そうだね、僕らは魔法使いになれるんだ」
あれを見てからこちら、自分でもライティングができたらと思った。しかしなかなか難しい。文法も一通り覚えたつもりだったけれども、いざ文章を核となると語の活用とかスペリングとかに疑問がどんどん出てきてしまった。接続詞のない文は不自然だし……日本語のレポートに四苦八苦しているくらいじゃ他言語でまとまった文章を、しかも『魔法の呪文』なんて書けるわけがないのであった。彼方の参考書の中には、イグジスタンシアによる現実改変のパターンについての記述もあったが、形式と意味がかけ離れていたり、点の打ち方ひとつ、単語の選び方ひとつで効果が変わってしまうとか、これまでろくに立会人がいなかったから客観性に欠けるとかですぐに応用できるわけではなかった。
彼方がやったにしても、水を出そうとしたら火が出るなんてことはざらで、意味と現象をきっちりと結びつけるのは難しかったそうだ。それに日本語っぽく見えてしまったりちゃんと文字に見えたりもして、幻覚なのか現実なのかわかりにくい。
そうやって文字も少しずつ覚えていくうちに、学習七週間目でようやく気付いた。今までもらっていたテキストも日本語ではなかったと。
彼方が手に入れたかったのは本当に『会話ができる相手』なのだろうか。
サピアウォーフの仮説が正しいほうが『楽しい』のだという。だけれども、イグジスタンシアの話者は彼方しかいない。
「最後のインディアン、イシのはなしを聞いたことはあるかい?」
彼方はそんなはなしをしたことがあった。
「イシはある一族の最後のひとりで、発見された頃には彼を残してみなこの世を去ってしまっていたんだ。イシとは彼らの言葉で人間という意味だったそうだ。だから彼の本名を、それとわかる形で理解しているひとは誰もいなかった」
彼方は最後のひとりではなく、最初のひとりであった。
もしも言語が世界の見方を規定するならば、彼方の世界を共有する人間はひとりもいないのではないだろうか?
その状況を変えるためにおれが雇われたのではないだろうか。
おれは彼方の見るものを見ることができた。あの瞬間、彼方が孤独ではなくなったのだとしたら。だったらじゃあどうしてこんなことになったのだろうか。
そんなことを考えている間に二ヶ月は経過してしまった。おれは彼方と会話できるようになっていた。
多少拙いところはあれど、彼の言っていることを理解して、一定の返答ができるようになっていた。この世ならざる言語によって。
「駅までの順路を教えてください」
「二つ目の角を右に曲がってすぐのところにあります」
「ありがとうございます」
まだ『奇跡』は起こせなかったけれども、それは契約の要件に入っていなかったからと、彼方は報酬の二〇〇万円をおれの口座に振り込んでくれた。
「じゃあこれでお別れだね。僕としても、この二ヶ月は有意義なものとなったよ」
「ありがとうございました」
おれとしても、こんなに真面目にひとつのことに取り組んだのは久しぶりだった。大学の講義もこのくらいきちんと受けていればよかったのかもしれない。このバイトの報酬のおかげで、来季は他のバイトをしなくてもやっていけそうだし。
「それじゃあ、さようなら」
多分きちんとしたイグジスタンシアで言えたと思う。こんな言葉を使う機会ももうないだろう。
おれは彼方の屋敷を出た。振りかえると、やっぱり城みたいだった。今までこんなところに住んでいたのか。でもこんな生活も今日でおしまいだ。ワンルームに帰って、普通の人生に戻るのだ。
それで終わればよかったのだった。
秋学期がはじまり、ちゃんと勉学に取り組もうとしては挫折していた頃、一通の手紙が届いた。シャンパンゴールドの封筒に差出人の名前はなく、最初は結婚式の招待状か何かだと思った。誘われるあてがないということに、開封する前には気付いていたのだが。
文字を見た瞬間に彼方のものだとわかった。日本語と『そうではないもの』が二重写しに見える感覚。イグジスタンシア、読み始めてしまったし、読み終えたときに何が起きるかもわかっていなかったのに。
その中にはイグジスタンシアの本当の名前がわかったと書かれていた。それ自体がおのずから語る名前。世界の全てと会話するための、人間を超えて宇宙と対話するための言葉。そのハンドルを手に入れたのだと。『簡単なことだったんだ、会話をすればよかった。君がいてくれたからここにようやくたどり着けたんだ』多分完全に近い『魔法』の使い方がわかったのだということ、あの二ヶ月のおかげで研究が進展したこと。『長いお別れになるけれども、この手紙を送るのは君しかいなかったんだ』それから、末尾に示されたサインによって、彼方の本名がはじめてわかった。表札にも書いていなかった名字を検索すると世界有数の財閥に同じ名前が見つかった。彼方がものすごい金持ちだった理由はわかったような気がしたけれども、そんなことはどうだってよかった。
イグジスタンシアはそれ自体で世界を改変する力を持つ。おれはその手紙が何をしたのかがわかった。何が書いてあるかではなくて、どんな魔法を使ったのかが。
読み終えておれは彼方の屋敷へと急いだ。表札に文字はなく、城はそのままに存在した。正門の鍵は開いていた。家のドアの前に立ったら、サイトウが開けてくれた。『マリー・アントワネットの部屋』に入る。テーブルの上には札束ともうひとつの手紙があった。
『気付いたのか。すまないね、これはおまけだ』
甲とか乙とか書いてある書類には、この屋敷の所有権をおれに譲渡するという文面があった。封筒の中には札束も入っていた。一センチ以上の厚さがあるだろうか。数えることすらしたくなかった。屋敷の所有権をもらったけれども、こんな大きな家で一人で暮らすのはさみしい。家族を呼べばいいのかもしれなかったけれども、この状況をどう説明すればよいのだろうか。おれには金が必要だったし、今も必要だ。この屋敷がもらえたって、金が自由になったって、彼方はきっと帰ってこないし、おかえりと言うこともない。
そう、彼はおれに手紙を送って、おれに手紙を読ませることによって、この世界からの完全な消失を成し遂げたのであった。
イグジスタンシアの文章は読み終えるまで効果を発揮しない。自分を消去するためには、他者が必要となる。もし自分で読んで、自分で消えたと思っていても、他人からどう見えるかはわからないからだ。なるほど彼はそのためにおれを雇ったのであった。完全なる失踪のために。
時間と労力を払ってでもそうしたかった彼方の気持ちはまったくわからなかった。権力者のしがらみから自由に消えることが許されていなかったのかもしれないとか、ずっと豪邸に閉じ込められていたのかもしれないとか、いろいろな想像はできるけれども、何一つわからなかった。
書庫からはご丁寧に大抵の文法書まで消えていた。これはもしかしたら燃やしただけなのかもしれないけれども。
「お前バカだよ。誰かと話したいからって文法作る奴がどこにいるんだよ」
どこにいるんだよ。ここにいてくれよ、自分で作った魔法で自分だけ消えるなんてあんまりだ。あのインディアンのように、ひとつきりの言葉を抱えてこれからどうやってこの感情を話せばいいんだ。もし文法書があったって彼方と同じように誰かにイグジスタンシアを教えることはできないだろう。動詞も名詞もついこの間までわからなかった自分に、言語を教えるなんてできやしない。日本語だって無理なのに、ましてや魔法だなんて。
おれはいくつか残された本を持って家に帰った。サイトウは見送ってくれた。いってらっしゃいとは言わない。ここは彼らの家ではないのだろうから。
百万円は学費に消えた。
それから言葉に詰まることが増えた。
自分が何を話しているのかわからなくなった。おそらく日本語のはずだ。でもこの状況は、この感情は、この論理は、この風景は、どう表していいのかわからなくなってしまった。日本語だ。日本語で考えているはずだ。
だけれども思い出すのは発音練習、文法用語と格闘しながら習得した基礎文法、コミュニケーションを成立させるためのボディランゲージ、文字。
「次の授業って三階だっけ」
「多分そうだったと思うんだけど、えっと」
ああ、イグジスタンシアではどう言うんだっけ、口をついたのは日本語なのかそうでないのか曖昧な言葉。
マイ・フェア・レディもキングスマンも見たよ。なるほど言葉を与えること、武器を与えることは人を決定的に強くする。何者かを育てる物語。おれは多少は成長できたのだろうか。
そんなことを考えながら、あのレクチャーで言われたことを思い出しながら自分なりに文章を組み立ててみた。片翼の欠けた鳥がぱたぱた飛んでいる。一応蝶を呼んだつもりだったんだけど。
だからこの手紙もうまくいっているのかはわからない。誰がこれを読んでくれるのかもわからない。彼方のイグジスタンシアを改良して、他言語に偽装された状態でも『魔法』が使えるように調整したはずだ。親で実験したら部分的には成功して、秋学期の成績が多少よくなったと思わせることができた。
ただいまって言ってくれ、おかえりって言うからさ。そう言ったのはどっちだったよ、お前のほうだろうが、だなんて考えるばかりで、この手紙は終わることとなる。お前の言葉を使えるようになったと思っていたけど、手紙の書き方なんか教わらなかったな。時候の挨拶とか必要だったのかな。どうだっていいだろうか。なぜなら。この言語はおれとお前だけに使われている言語で、おれとお前はこの家に住んでいて、手紙を出す必要なんかなかったからだ。
この手紙を彼方が読むことを願っている。』
「ただいま」
「おかえり」
2016-1-10
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