神曲異聞――無限階層上昇編 - 10/10

 煉獄の出口だ。ここから先は天国で、そこにベアトリーチェはいるのだろう。
「私が来られるのはここまでだ」
 ウェルギリウスは言う。天国の入り口には天使たちがいて、ふわふわと雲が瞬いている。やわらかな雲がウェルギリウスを包んでいる。次第に姿は見えなくなっていく。
 ダンテは最後の問いを立てる。
「見たいと思っているから見えないのではないか?」
 ダンテはウェルギリウスを見ようとしなかった。そうすると、雲だけが残った。頭部はまだ見える。雲とウェルギリウスは一体となって、まるで最初からそうであったかのようになった。
「なるほど、あなたが見えます」
 もしも最初からウェルギリウスがこうであったのならば、雲に包まれているこの状態こそがずっと見続けていたもので、なんなら今までの姿が偽りであったということになる。
「これまでの私は、私であったのか? それはベアトリーチェしか知らない」
 もうウェルギリウスの声も遠くなっている。音は天地を包む雲に吸収されて発散されることはない。
「追いつきたいと思っているから追いつかないのではないか?」
 外部の僕ら、ダンテ、無限をやめた僕らはそこに辿り着く。
 
 内部の僕らは辿り着く。無限をやめた自らの思考の底に。すべての僕らを使用した果ての、すべてを精査する
「じゃあ、もう、僕たちはベアトリーチェを見ている」
「じゃあ、もう、僕たちはベアトリーチェに追いついている」
 メッセージがあったときに、僕らは改変されていたのであった。最初からベアトリーチェが存在したかのように。参照項を持たない実体として。
 
「私はもう、きみたちを先導することができない。終局だ。私と彼女が同一になったら、境界線はなくなり、当然、きみと彼女も同一となる」
 
 そして光がやってきた。光の中にベアトリーチェを見る。顔はわからない。しかし、ベアトリーチェが僕らを見ているのはわかる。瞳の奥までもが真実の光に満ちている。その瞳はどちらのものだろうか。隣にいたウェルギリウスの気配がなくなる。光と僕らしかいない。光というか、それは光だけれども、僕らが内部に持っているものではない。僕らはそれを光と呼ぶ方法しか知らない。ダンテはそれをベアトリーチェと呼んだ。
 だからここに存在するのはたったみっつ、光と、ベアトリーチェと、ダンテだ。
 いや、光とダンテだ。
 いや、ベアトリーチェだ。
 
 そこにいるのはベアトリーチェだった。僕がどこから語っているかはわかってほしい。ここだ。ベアトリーチェがいる、ということすらも述べるのが難しくなってきた。
 わたしはわたしである、と、わたしは述べることはできるのだろうか。
 これはそれに非常に類似した問題だ。
 ぱちぱちと輝く天国が見える。これはベアトリーチェだ。
 そして僕らはベアトリーチェだ。見るものであったはずの僕らは見られるものとして回収されて、そしてまた、何かを見ている。
「これで正しかったんですか」
 メッセージの出処に来られたというのに、答えてはくれない。光輪は回るだけだ。メッセージをくれない。これはベアトリーチェではないので。
 
 赤と青のインクが混じってしまったら紫になる。紫のインクを赤と青にするにはいくつか方法があるけれども、まったく同じインクにはならない。ペーパークロマトグラフィーをしたところで、紫のインクの中には赤と青が含まれている(たいてい、黄色も多少含まれている)事はわかるけれども、さっきまでガラスペンを浸していたインクに戻ることはない。
 覆水は盆に返ってくれない。
「ベアトリーチェ、ベアトリーチェ、ここにいるんじゃないか?」
 僕らはすでに僕らではなかった。ダンテではなかった。追い求めて、究極に至るまでが僕らの役目。そこに辿り着いてしまった今、天に回り続ける光を見つめられるようになった今、僕らは――何だ?
「わたしはベアトリーチェ」
 ベアトリーチェの声がする。誰からだろうか。ベアトリーチェ以外からベアトリーチェの声がするわけがないので、ベアトリーチェなのだろうけれども。僕らにはその姿が見えなかった。感じることができなかった。香りすらもない。メッセージですらない。
 声はあるのに、どこにもいない。それでは旅に出る前と同じではないのか。
「ウェルギリウス、あなたは偽証していたのか」
 ウェルギリウスすらもいない。とっくに天国の一部となっていた。
 
 彼女そのものである限り、僕らは彼女を見ることができない。A meets A,A≠Aは成立しない。もしもAが同じ対象を指示しているのであれば。そして違う対象を指示しているAがあるのならば、それはもうAとしての役目を果たせない。
 
 僕らはまだかろうじて僕らで、ベアトリーチェの部分集合ではないから、僕は語れる。
「なあ僕ら、右手と右手は繋げないってことでは」
「多分ここにベアトリーチェはいたんだろうな」
「ベアトリーチェがいたところでは、ベアトリーチェと同じ景色は見られるかもしれないけれども、ベアトリーチェには会えない」
 
 ここがその場所だ。
 会うならばここのはずだった。
 もう一度会いに行くために、引き返さなくてはならない。ベアトリーチェに背を向けて。背中に目はないから、もう見ることはない。正対したらまた瞳を焼かれる。歩き続けなくてはならない。また無限の権能を身につけて、最後まで数えなくてはならない。
 たとえ定義上無理だとしてもだ。
 彼女は会いに来てほしいとと言った。その願いを、祈りを、聞き届けるためにはそれが必要だった。定義上無理の果ての果ての果て、偶然に似た必然のように。
 だってほら、チャーリーとブラウンも出会えただろう。それからどうなったかは拡散しているが、じゃあ僕らだってそれでいい。
 
「ようこそ、ウェルギリウス、僕らにはまだ先導が必要だ。ベアトリーチェを探すために。もう一度出会うために。今度はすべてを焼き尽くす真実ではなくて、彼女に」
 
 だからこのおはなしはこうやって終わるべきだ。この先にはなにもない。出会ったらどうするかなんて今の僕たちは知らないからだ。気絶するのかもしれないし逃げてしまうのかもしれない。もしくは愛に書き込まれた意味を実行するのかもしれない。ともかく、僕らは無限を巡る冒険の果てに必ず出会えるはずなのだ。他者として、幕の向こうの存在として、何らかのフィルターのかかった存在として。そのフィルターのことさえも愛してやろうと思う。そいつがなくては分断はなされなくて、分断がなくては僕らはどこに進むのかもわからないから。
 
「きみのことが好きだ、ベアトリーチェ」
「あなたが誰かは、ずっと前から知っています」

2019-06-25

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