海辺にて

白い砂が陽光を反射して、浜辺はちらちらとまたたく。夏の盛りは過ぎたが、秋にはまだ早く、昼過ぎの太陽は熱を地上に送り続けている。砂浜には、ヒトデと、ばらばらになったサンゴと、いくらかのゴミが流れ着いている。きっと遠くからやってきたのだろう、アルファベット以外の文字で書かれたラベルのついたペットボトルが波に揉まれている。波打ち際はランダムな様相を呈し、安いクリームソーダの泡のように波の先端は砂浜に崩れてゆく。
そこに、ふたつの人影があった。
「シスコ」
「ハリー、何かあった?」
ひとりはキャプテン・アメリカがアベンジャーズのリクルートをしている柄のTシャツを着ていて、もうひとりは上下とも黒を身に纏っている。
「クラゲを探そう」
「毒があるよ」
「毒がないのはいないのかい?」
不規則な海岸線にいる彼らは、とめどのない会話を交わしながら歩く。
「ピンクのは絶対触っちゃだめ。オレンジのもだめ、透明なやつはまあ、腕以外なら触ってもいいのもある。腕が長いやつには気をつけろ。とにかく、見つけたってすぐには近付かないこと」
「きみは何でも知っているな」
かつては博士号を7つも授与されたことのある人間の発言とは思えないが、シスコはそうでもないよと返した。
「海にはわからないことがたくさんある、ラボにいたってわからないことが。それに多分生物だったらケイトリンの方が詳しいよ」
シスコはもっぱら機械や素粒子の世界に生きてきたのだった。有機生命体ならケイトリンの担当だ。クラゲが専門ではないだろうが、きっと毒のあるなしくらいはわかるだろう。
「じゃあ今度はケイトリンも連れてこよう」
「それはいい」
そういえば彼女と海に行ったことはない、とシスコは思い出す。チームフラッシュでパーティーするならセントラルシティでだし、海に面した街とはいえ、開発されているからこんな砂浜はない。コンクリートで固められた人工的な景観だ。
ケイトリンならこの赤くて表面がざらざらとしているヒトデのようなものの名前もわかるのだろうか。星型をしてた手のひらサイズのいきものは多分ヒトデだ。それはシスコにもわかる。
シスコはヒトデを取り上げて海へと放り投げた。数メートル先で水面に落下した音がする。そのうちまた波に流されて海岸にたどり着くこともあるのかもしれない。海水浴客がいたらこんなことはできないが、さいわいなことにこの海に泳いでいるひとはいないようだった。

彼らは閑散とした海岸を歩いている。
シスコとハリーにとって、それは日常に近いことだった。
遠くで海鳥の鳴く声が聞こえる。シスコが海原を見返すと、白くて大きな鳥たちが海上を旋回するように飛び回っている。魚の群れでもいるのだろうか。ときおり鳥は海面に飛び込み、また空へと飛翔する。
「あの鳥は?」
「かもめか……かもめじゃないかな」
ハリーの質問にシスコが答えた。ハリーはなるほどかもめか、あれが、とすこしはしゃいでいる様子だった。

ハリーは帰ってきた。
完全に元通りとはいかなかったけれども、ハリーは戻ってきたと自らを認識していた。最後にシンキングキャップを使ったときとは違って、日常生活は送れる、ちょっと忘れっぽくなっただけで。膨大な知識も知性も失われたが、その代わり共感を手に入れた。そういうことになっている。下り坂の途中で止まっているだけだから、またいつか、元に戻ってしまうのかもしれないけれども。
シスコはハリーがつらつらと書いていたバイナリコードを解読すれば復元できるのだと思っていたし、そうするつもりだった。
ケイトリンの見立てによると、神経系には可塑性があるけれども、一度壊れてしまったものを完璧に復元することはできないし、戻ったとしてもいつ最悪の状態になるかもしれないのだとかいう。
だからこそ今は、ハリーのやりたいようにさせようと思っていた。
「どこか行きたいところはある?」
ハリーはいつも、海だという。
ジェシーにハリーが海を好きな理由はありそうかと聞いてみたことがある。彼女も知らないそうだった。もしかしたら、ママとの思い出があるのかもしれないけど、わたしだってママのことを最近知ったばかりだから、と言う。
ハリーが海に行きたがる理由は誰にもわからなかったが、海に行くことはできるから、そうしていた。特に何をすることもない。海岸を歩いて、気が済んだら帰ってくる。岩に打ち付ける波をずっと眺めているときもある。もちろん緊急アラートがあったらラボに戻るが、セントラルシティも最近は特段目立った犯罪があるわけではなかった。

やり方は簡単だ。グーグルマップで適当な海を探して、その座標にバイブで向かう。できるだけひとはいないほうがいい。観光地にいきなり人間が出現したら、ソーシャルメディアの格好の餌食になるだろう。ヒーローの正体がばれないほうがいいということを、シスコはスパイダーマンの映画を見たおかげでよく知っていた。早々に正体を明かしたアイアンマンなんて自宅を爆破されていたじゃないか。自宅はあまり爆破されたくないものだ。ハリーももしかしたらそれらの映画を見たことを覚えているかもしれない。
とは言っても、ひとがいなさすぎてもよくはない。万が一のことが起こったときに、どう対応していいのかわからないからだ。その点この海岸は最適で、たまに釣り人がいるくらいの繁盛度合いだ。

「クラゲいる?」
「いないな」
クラゲくらいどの海岸にもいるだろう、とシスコは思っていたが、そんなことはないようだ。透明なものがあった、と駆け寄ればそれはビニール袋だったりプラスチック容器だったりする。
「この海岸にはあまりいないのかもしれない」
シスコはハリーに言ったが、ハリーは波打ち際を歩きながら砂浜を見て、クラゲを探していた。これは違う、これも違う、これは……ガラス瓶。
「昔はクラゲなんて簡単に見つかったのだろうか」
「ハリー」
「かつての私も、もしかしたら、こうやって歩くしかなかったのかもしれないが」
ハリーはシンキングキャップを使う前のことをあまり覚えていない。ただ、今のようではないことは知っている。思い出せる日と思い出せない日がある。今日はどちらかというと後者だった。
「そうだよハリー」
「きみはやさしいんだな」
シスコはきみはちゃんとした大人で、やさしくて、賢いから、とハリーが言ってくれたときのことを思い出す。そのときの彼はまだこうなってはいなかった。だけど同じことを言ってくれる。ラボにいても海にいても、ひとの本質は、きっと、
「そうだよ、前からそう」
変わらないのだと信じたい。
あんたが言ってくれたように、というのは飲み込んでおく。

しばらく進んでいくと、釣りをしているひとがいくらか見られる地帯に入った。海岸も砂浜ではなくて岩がちになってきている。岩に腰掛けた釣り人がこちらに話しかけてきた。
「きみたちは釣りはやらんのか」
「ビーチコーミングですよ」
「こんなところによく来たな」
「近いんで」
シスコはそう答える。
嘘ではない。移動時間だけなら数秒といってもかまわない。何百キロ移動しようとも、なんなら次元を移動しようとも、ドアに入って出るのと大差ない。
「余った魚を持っていくかい」
釣り人はクーラーボックスの中身を見せてくれた。なるほど大小様々な新鮮な魚たちが泳いでいる。この海は豊かなのだろう。
「クーラーボックスないんで」
「今度持ってくるといい、近いんだろう?」
ああはい、そうですねとシスコは流す。ここにもう一度来るかはわからないからだ。
まあ、ほんとうに来ることがあったら、クーラーボックスを持ってくるのもいいだろう。

釣り人からは離れて、岩場を彼らは歩いていく。やわらかい素材の靴にごつごつした感触が伝わる。ビーチサンダルじゃなくってよかったとシスコは思う。ありがとうグーグルマップ、ストリートビューのおかげでこうなることはわかっていた。
しばらく進むと、小さな砂場のような場所があった。岩の中にまた砂浜がある。黒い砂だ。サンゴが砕けたのではなくて、この岩たちが砂となったものだろう。
こっちにはもうクラゲはいなさそうだし、戻ろうか、とシスコが声をかけようとしたところで、ハリーがシスコのTシャツの裾を引っ張って言う。
「ガラスだ」
「それは安全。角が丸くなってるやつなら拾ってもいいよ」
透明なものを探しているうちに、ハリーはシーグラスを見つけたようだった。拾ったそれをシスコに見せてくれた。かすかに黄色がかった5センチくらいの大きさのそれは、陽光に照らされてきらきらと光っていた。
「これは?」
「安全」
目を離すとどこに行ってしまうのかわからない。子供のように。それはこうなる前と似ているかもしれない。子供っぽくはなかったが、彼は自分の考えに従ってふらっとどこかに行くことが多かった。その根拠がガラスになっただけのはなしだ。
青いガラスをたくさん拾っていた。ハリーの瞳の色に似ている。彼の瞳はガラスよりもよほど深みのある青だけれども。
「これはきみに」
ハリーはシスコにブラウンのガラスを手渡した。だいぶ古いもののようで、角は完全に丸くなり、表面は白っぽくなっている。シスコはありがとうと言ってポケットの中にしまった。
家にあるシーガラスボトルには、こうやってハリーが集めたガラスがもう半分くらいもたまっている。そのどれもをシスコは覚えていて、きっとそのどれもをハリーは覚えていないだろう。そのガラスたちがメモリーボトルのメモのようにはたらいて、すべての記憶が帰ってくる日が来るんじゃないかとシスコは夢想したことがある。一瞬だけ。それ以上追憶はいらない。
ハリーは相変わらず砂浜にガラスを探している。そこに彼がいるのを確認しながら、シスコもガラスの破片が転がってないか探してみている。あった、緑と赤のグラデーションをもつこれは、いったいどんなボトルが元になっているのだろうか。

ハリーが不可逆的に失われたという事実は存在する、しかし、何も失われていない、彼がそう言うから。
シスコは水の循環について考える。地球上にある水は、この海のような液体から、蒸発して気体に変わり、雲を作り、雨となってまた地上に戻ってくる。大局的に見れば、同じ場所で水が姿を変えているだけだ。
同じものの別の姿なのだろう、これは。ラボにこもって開発をしていたら幸せだったころと、海岸を走ってものを探すのが好きな現在と。

「シスコ」
そうハリーに呼ばれるたびに、シスコはむずがゆい気持ちになる。
確かに彼からシスコと呼ばれたかった。他人行儀にラモンだなんて呼ぶのではなくて。自分たちはそれだけの時間を過ごしてきただろうと思っていた。
それに、最初ならともかく、それからもずっとラモンと呼んでいたのは、最初の『ウェルズ』――実際はソーンだけれども――とチームフラッシュが過ごしてしまった過去を思い起こさせないためなのではないだろうか、と、感じていたからだ。
そんなこと気にしなくたっていいのに。もう誰もウェルズとハリーを見間違えることなどないだろうに。
「どうかした?」
ハリーの声は今までに出会ったウェルズの誰よりもやわらかかった、ハリーよりも、という矛盾した考えが浮かぶ。『ウェルズ』の優しさの中に隠された硬質な拒絶でもなく、HRの明るさを演じるための陽気さでもなく――ハリーの皮肉交じりのことばでもなく。
ハリーが不安そうな顔をしていた。捨てられた子犬みたいな、という使い古された表現がぴったりだ。
「なんでもないよ」
「ならよかった」
彼のことばに棘はひとつもない。子供が投げて遊ぶフェルトのように純粋で、裏はなく、シスコはそれを簡単に信じることができる。
「ほら、また新しいガラスを見つけた」
ハリーはそれを取り上げて陽光に透かす。シスコも横から覗き込む。クラックが光を反射して、雷光のようにガラスの中で輝いていた。

彼が記憶をなくし、知性を失っていく過程で、チームフラッシュの面々の名前もよくわからなくなることが多くなった。みなハリーが自分のことを忘れることにも慣れていった。名前がわからなくても、思い出だけはあることもあったからだ。
「きみは誰だっけ」
「シスコ」
「そうだったなシスコ、私はハリー」
会う度にはじめましてが重なっていき、彼はシスコとの記憶に貼り付けるラベルをラモンからシスコと変更するに至った。おそらくはそういうことなのだろうとシスコは思う。アレンはバリーになり、スノウはケイトリンになった。ジェシーはずっとジェシーだった。

最初からこのハリーと出会っていたら、おれたちはこうやって海岸を歩いていたのだろうか。
そんな考えがふとシスコによぎるが、ハリーが走っていってしまったので追いかけているうちに心の隅に追いやられる。

この先にあるのは高い崖でしかない。登るのには向かなそうだ。海岸はここで行き止まりのようだった。
太陽が水平線へと接近していくのが見える。ここに着いたときにはまだ中天の近くにあったのに。どれだけここにいたのだろうか、それともこの土地の冬は案外近かったのだろうか。
「太陽は海に溶けてしまうのかい」
「明日にはちゃんと日が昇るよ」
ハリーのアイスブルーの瞳に夕焼けが混じってゆく。光の反射についての式はいくらでも立てることができる。これは物理的に説明のできる現象だ。ハリーもかつては理解していただろう。式なんか立てなくても答えを手に入れられるくらいに簡単なことだっただろう。
シスコはハリーが夕焼けを眺めているのを見ていた。
彼の視線がどこにあるのかをシスコは知らない。知ることはできない。
でもきっと、それは。
「もうそろそろ帰るぞ」
「そうだな」
最初からそうだった、彼の見ている世界はシスコには見られなかった。
「クラゲはいなかったな」
「また探しに来よう」
ハリーがこの海岸を覚えているかはわからない。違う場所に行ったってきっと気付かないだろう。クラゲを探していたことも忘れてしまうだろう。
これと同じ太陽がセントラルシティでも沈んでいくはずだ。陸地が海に接するところのいくつかはこのように海岸となる。白い砂浜の海岸なんてこの世界にはいくらいでもあるし、他の世界にもいくらでもある。別アースの海岸に行くことだってできる。無限に似通った海岸のうちにこのひとつを選んだことに意味があるのかはシスコにはわからなかった。
ハリーが海を見たいというとき、それはどの海なのだろうか。
今のところどの海にもはしゃいでいたが、正解の海がどこかにあったりするんじゃないだろうか。
シスコはオレンジ色の光の中で青い『裂け目』を開いた。光輪が空中に現れて、セントラルシティと海岸をつなぐ。
さあ、家に帰ろう。

シスコはハリーに手を差し出す。ハリーはシスコの手を握る。
ふたつの人影が光の中に消え、光もそれに応じて消えた。
太陽が沈みきった海岸では日の名残りだけが空気を満たす。海から吹く湿り気を帯びた風はまだ昼のあたたかみを持っている。それらもそのうち夜に溶けてゆくのだろう。

2020-06-06

送信中です

×

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!