Goodbye, my dear.

豆の挽き方を変えるだけで、こんなにも香りが変化するのか。ミルクにも合いそうな深みのある香ばしさがわたしの鼻腔を刺激する。今朝のコーヒーは近所のコーヒーショップに頼んで深煎りにしてもらったものだ。コーヒーのことはカフェイン供給装置だとしか思っていなかったが、時間ができて、店に行く余裕ができると、コーヒー豆にもさまざまな種類があり、焙煎方法があり、ドリップの方法があるのだとわかった。店員と会話することによって、情報を得られることもわかった。挨拶と当たり障りのない世間話以外のことができるのだと知った。
感情を受け入れられるようになってから物事の見方が変わっている、ということを、わたし――ハリー・ウェルズは楽しんでいる。
ほら、このコーヒーみたいに。
カフェインの溶けたお湯以外の意味合いを持つコーヒーは豊かだ。
何かを見て美しいと思うこと、おいしい食事には価値があること、それを楽しいと思っていいのだということ、今までは随分と窮屈な世界に生きてきたものだ。
同じように、これからの記憶も豊かになるのだろうと、そのときは無邪気に思っていた。

ぼんやりと壁面のパネルに流れるニュースを見る。このところメタヒューマン絡みの犯罪はなさそうだ。
この世界のスピードスターもあの世界と同じようによくはたらいているのだ。おかげでメタヒューマン対策システムも比較的起動しなくなった。世界の危機がそう頻繁に発生しないのはありがたい。
今のわたしがラボのためにできることは数少ない。会社に提供していた多くの科学的知見はアース1で失われた。経緯を説明してもこちらでは信用してもらえないだろうから、頭を打ってしまったということにしている。それでも信じない者には教科書レベルの説明すらできない現状を見せれば納得した。彼ら彼女らはわたしの能力を信用してこのラボにいてくれたのだから、離れていくのも仕方はない。できるだけよい推薦状を書いて、退職金を払った。引退しても全く問題がない程度の資産があったのは幸いであった。今できることは少ないメンバーに引き継ぎをしながら昔の映画を見たりコーヒーを飲むことくらいだ。
あとは日記を書き始めていた。いつか何もかも忘れてしまうかもしれないから。かつてあったことと、これから起こることを。過去と現在がまぜこぜになった奇妙な日記だが、わたしはそれを嫌ってはいなかった。
コーヒーの香りはあのラボにつながる。この世界ではなくて、無限に存在する宇宙のうちのひとつ、アース1、スターラボ、ワークショップ。
わたしはペンを取る。ノートを開く。

最初に思い出したのはこれだ、ラボでの朝のコーヒー、その間に交わされたある会話。
「あ、そうだ、ハリー、映画行こうよ」
「座頭市のリバイバルでもやってるのか」
「残念、今リドリー・スコットがエイリアンのプリクエルやっててさ、それ」
バリーはあんまりびっくり系ホラー見ないしさ、とラモンは言う。
「アース2には……なかった記憶があるな」
わたしの世界ではエイリアンシリーズは完結して、エイリアンVSプレデターだったりエイリアンVSゴジラなど多彩なクロスオーバーが展開されていた。
前日譚があるのであれば、気になるかもしれない。
「だろ?今度の休みはどう」
思えば仕事仲間と映画を見に行くのははじめてだった。アース2のラボでは日常会話なんかしようと思ったことがなかったからだ。

待ち合わせ場所に現れたラモンは普段通りの珍妙なシャツを着ていた。ポップな絵柄で描かれたエイリアンとプレデターが握手をしている。
「そんなTシャツどこに売ってるんだ」
「eBay」
休日ではあるものの、セントラルシティの映画館はそこまで混雑はしていない。自動券売機でチケットを買うときも、数人しか並んでいなかった。
わたしとラモンはドリンクとポップコーンを売店で買って、劇場に入る。

エイリアン:コヴェナントは、エイリアンの起源を調和の取れた画面で展開する映画だった。それにしても、なぜこの監督は同じ顔のキャラクターを出してひとつの笛を一緒に吹かせたりしたのだろうか。もしかしたらマルチバースを認識しているのではないか。
「よかったな、これ続編ある終わり方だよね?」
映画館を出たラモンは開口一番そう言った。確かに、エンディングにはエイリアンたちの繁栄とアンドロイドの没落が描かれる続編が予想されるものであった。
「わたしならもっとうまくやれた」
「それって人間側としての感想?それともハリーがアンドロイドになったらもっと簡単に人間を滅ぼせるってこと?」
「どっちもだ」
「どっちもか」
「まったく、あの映画の人間たちは愛情や過去の記憶に振り回されて愚かじゃないか」
人間はあまりにも感情的で、感傷に流されて不利な方を選び、死んでしまう。ここまで物騒ではなくても、現実世界の人間だってそうだ。
「それがエイリアンシリーズじゃないの、人間が賢すぎたら3分で終わっちゃうし、いつでもどこでも恋に振り回されるなんてまさに人間」
ラモンとわたしの間には深刻な人間観の差異があることが判明した。
わたしにとっての人間は理性的な存在だ。あのアンドロイドのほうがよほど人間だったのではないだろうか。
「それからフラッシュにフェイスハガーが取り付いたら対処できないということもわかったな」
「この世界にエイリアンがいないことを祈っておくよ」
その後にフラッシュとエロンゲイテッドマンのフェイスマスクをちょっと改造して、強酸性対応かついざというときにはフルフェイスにできるようにできる機能をつけた。
使われていないことを祈っている。
「また、チームのみんなで映画見に行こうな」
ラモンはそう言った、わたしはそうだな、と曖昧な答えを返した。なんとなく引っかかるところがあるが、どうしてなのかは、知らない。

結局その後『みんなで映画に行く』ことはなかった。そんなことをしている場合ではなくなってしまったからだ。世界の終わりに対応しなければならなくなったからだ。もちろんそれは解決した。彼らはまだ平和だろうか。元気にしているだろうか。もっともこちらから連絡する理由なんてもうなくなってしまったから、何も知らないけれども。
彼らならきっとやっていけると信じている。
『ハリソン・ウェルズ』が必要なら、またどこかの世界から呼ぶのだろうし。
それはわたしではない。

ノックの音。ジェシーがやってきて今日の研究結果を報告してくれる。今のわたしには半分も理解できないが、きっとすばらしい発見をしているのだろう。わたしが彼女に素粒子物理学を教えられなくなったのが残念だが、ジェシーなら自分でどこまでも進めるはずだ。
「じゃあね、パパ、街のパトロールしなきゃだから」
彼女は彼女のチームを持っていて、街を守るスピードスターとして活躍してもいる。
わたしはモニタに視線を戻す。メッセージ通知は来ていない。来客も今日はなさそうだ。
コーヒーはまだかすかに温度を残している。

ペンが止まっていることに気付く。そう、映画の話は書いたから、じゃあ、どうしようか、と思っていると、やわらかい記憶が一瞬にして到来した。
コーヒーがわたしをここに連れてきてしまった。そのときにはなんともなかった感情の一、頭の中にあっても口にしてはならないと思っていたこと、その箍がゆるんでしまったときのこと。
彼らのアースを去るときのことだ。

“I love you,too.”

わたしが彼に最後に掛けたことばはそれだった。
それは家族に対する親愛のはずだった。彼ではなくて彼ら彼女ら。チームフラッシュというみなへの餞別。それからハグをした。これまでここにいさせてもらってありがとう、という、以前のわたしなら思いもしなかった感情。もうひとつの家族がアース1にいるのだという安心感。
ほんとうにそれだけならばよかった。

彼はわたしをチームフラッシュの家族にしてくれた。そしてわたしに世界を救わせてくれた。
あの状況でシンキングキャップを使えば取り返しがつかなくなることくらい、そのときのわたしにもわかっていた。結果論として戻っては来られたが、シンカーの与えようとした無知の光の中に永遠に閉じ込められる覚悟もしていた。だけど、だからこそ、わたしには彼しか頼れなかった。
彼ならばきっとやってくれるだろうと信じていた。
今思えばそれは、彼に対する甘えだったのかもしれない。ひどいことをさせてしまったのかもしれない。それでも彼はわたしの意を汲んでくれた。
コワーカーを信頼できなかったアース2とは違う。彼は信頼に足る人物だった。彼が賢いからではなくて、彼がやさしいから。
忘却の海、やさしい光の川、それらに浸る前の最後の記憶。原初に戻る前にあったあのやさしいてのひらのことを、わたしは覚えている。頭を撫でさせることなんて、他の人間になど許さなかったであろう。彼の手のひらのあたたかさを覚えている。
そのときに去来したのが、もしかしたら、とは思うが、進みたくはないそれは推論。

一つの変数を入れればこれまでのすべてが解決するような穴を見つけてしまった。難しい知識なんていらない。初等幾何学のようなそれ。
さて、困難に対してかつてのわたしはどうやって対応した?
前提を確認し、論理を展開し、結論を導出する。
ノートに線を書く。ひとつの名前を置く。その隣にわたしの名前を。
それから変数を。
変数の名は感情という。

普通のスピードでの簡単な推論ならできてしまうのだが、以前なら一瞬でここまで辿り着けただろう。
見たくはなかった真実に。
どうして今まで感情なんかないふりをしてきたのか、そんなのは当然じゃないか。あったらまともに息ができない。彼のひらめきを見た、彼のやさしさを見た、彼と話していればなんだってたのしかった。彼はわたしを赦してくれて――彼はわたしを助けてくれた。
気が付かなければよかったんだ。
だが気付いてしまった。理解してしまった。理解したことは忘れられない。かつてよりは記憶力が下がったとはいえ、平均よりはずっとものを覚えている。
子供の頃に見たスタートレックのドラマのように、忘れられないのだ。
わたしたちは家族だった。わたしは新たな家族を得たのだった。彼のおかげで。
なのに、それ以上を望んでしまった。

わたしは、彼に、恋をしていた。

彼の大切なたったひとりになりたかったのだった。
わたしはペンを止める。
みんなで映画に行くのではなくて、彼と行きたかったのだ。
アース1での研究が楽しかったのは、彼が一緒にいたからだ。
だが彼が選ぶのはわたしではない。シスコ・ラモンはそういう人間だ。他人を幸福にする才能があり、誰からも愛される人間だ。世界を救うだけの才覚を持つ人間だ。
つまり、彼はわたしがいなくともしあわせになれる。
簡単な結論だ。どうして今まで考えなかったのだろうか?
考えてしまったら、きっとそこにはいられなかったからだろう。

コーヒーはすでに冷めていたが、温め直そうとは思わなかった。ひとくち含む、ああ、同じ香りがする。

2020-06-06

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