わすれものどこか

 会計を済ませ、椅子から立ち上がって帰ろうとしたら、忘れ物があると呼び止められました。
「お客様、左手をお忘れです」
本当だろうかと席に戻れば、椅子の上には左手の、手首から先がちょこんと置いてありました。手はさながらアルファベットのLであるかのように、お行儀よく鎮座しています。確かに、先程歩いていたときにバランスが少しおかしいとは思ったのです。座っている時、寒いから太腿の裏に手を置いていたのがいけなかったのでしょうか。
忘れ物ですから、持って帰らなければいけません。呼び止めてくれた店員に感謝の意を述べ、わたしは左手を持って帰りました。まだ人肌のぬくもりが残っています。左手の分だけ、鞄が重くなりました。わたしは左手の重さを知らなかったことに気付きました。普段こんなものをくっつけていただなんて、面倒だなと思いました。

家庭の医学を開いてみても、左手首がすっかり離れてしまった時の対処法は書いてなかったので、とりあえず病院に行ってみることにしました。ところが何科なのか解らなかったので、聞いてみたところ、当院ではそのような案件は扱っていませんと言われてしまいました。それはそうでしょう。手首が離れてしまった時に病院に行ったというひとは寡聞にして知りません。というよりも、手首が離れてしまったひとを知りません。
仕方がないので左手は家に置いておくことにします。まだL字を保っているそれは、自分のものであることを忘れてしまえば意外と可愛いものです。できたらポーズを変えてみたいのですが、死後硬直でしょうか、動かしにくいのでやめました。死後硬直だなんて縁起が悪い、わたしはまだ生きていますから。もしかしたらまた自分にくっつくのかもしれませんし、下手に動かしてどこか折れてしまったりしたら大変です。指紋も一つ一つ見えます。もちろん、わたしに付いていた時にも指紋はあったのでしょうが、こうまじまじと観察することはありませんでした。全部渦巻形だと思っていたら違って、人差し指だけ巻きがゆるく、波状になっていました。
結局、リビングに入ったところにある棚に左手の置き場所を決めました。招き猫の横に置いたので、なんだか開運グッズのようにも見えます。重心が上手く行っているのか、倒れなさそうでよかったです。もうひとつあったらバランス的にはちょうどいいのですが、右手は利き手なので、こちらまで置物にするのはもったいないかなと思いました。でも不便であるとか便利だという理由で、手を評価するのはやめてあげたいところです。手の方にももしかしたら何らかの事情があるのかもしれませんし、その事情はわたしにはわからないのかもしれませんから。

スーパーマーケットで会った友人は、わたしがカートを片手で押しているのを見て声を掛けてきました。
「そう、左手が離れてしまってね」
「困らないの?」
「ちょっと困るけど、そんなに困らないよ」
それなら放っておけばいいんじゃないかな、とその友人は言いました。
実際のところ、生活上の変化よりも、左手を眺められる方が楽しかったので、何も間違ってはいないのです。

一週間ほど経った頃でしょうか。左腕がしおれてきました。ご飯を食べていないからだとは推測されますが、左手って一体何を食べるのでしょうかね。わたしは豚汁が好きです。左手が何が好きなのかは聞いたことがないし、聞こうにも手なので、口はありません。爪に艶がありませんし、関節に皺が寄っています。皮膚もかさかさです。
ひとまず、風呂に入れることにしました。よく考えれば、わたしは毎日シャワーを浴びていますから、昔はこの左手も、毎日シャワーを浴びていたわけです。それがウェットティッシュで拭かれるだけになったら、不満があってもおかしくないことでしょう。ボウルに湯を張って、適温になるまで冷まして、漬けました。指先から冷えるだろうから、爪を下にして。手首の切断面から水分が蒸発するのではないかと思って、おしぼりを乗せたら温泉に入っているかのようです。残念ながら今日は温泉の素を持っていないので、今度風呂に入れる機会があったら入浴剤のひとつやふたつ買っておくことにしましょう。余ったら、自分で使うのもよいですし。
風呂上がり、少しふやけた左手にハンドクリームを塗ってみました。動かない手にクリームを塗るのは新鮮な体験です。しかも自分の手ですから。爪の隙間にクリームが入ったのを、爪楊枝で取り除きました。なんだか痛そうですが、わたしにはもう神経が繋がっていないので痛くありません。他人の手が痛んでいるような、痛みはありましたが。

それから一ヶ月ほど、左手と一緒に暮らしました。きちんとお手入れもして。月に何回かは温泉の素も入れてやります。
ところがある朝、棚の上の左手がなくなっていて驚きました。腕を見ると、左手が付いているではありませんか。きちんと温かいし、動くし、感覚もあります。心なしかすべすべしているのは、きちんと手入れをしていたおかげでしょう。
ところで今度は、右手がありません。また落ちているのかと思えば、どこにもありません。部屋の隅まで見ましたが、いる気配がありません。左手ばかりかまっていたから、拗ねてしまったのかもしれません。
きみはハンドクリームを塗るばっかりで、きみには塗ってあげてはいなかったね。塗るから、戻ってきてちょうだいな。
そういうことじゃないんだよと、誰かが言ったような気がしました。

2023-07-28

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