透き通った緑色の巨大ないきものがそこにいた。ちょうどひとり用のベッドを立てたくらいの大きさだろうか、奥行きはもう少しだけあって、角はぶつかっても痛くはないくらい丸まっている。天井にぶつからない程度の背の高さをもったそれは、透明度の高さ故に向こう側の本棚もテレビもよく見える。緑がかっているだけで。わたしには当然そのようなものを飼っている記憶はないし、招き入れた覚えもない。手近にあったメガネケースを投げる。透き通った緑色の巨大ないきものの表面は、弾性でもって攻撃を跳ね返した。触ってみると、毛などは生えておらずつるつるとしていて、つくりたてのゴムボールを思わせる適度な抵抗感によってするするとはしていなかった。
わたしはそれを殴ってみることにした。かつて子供であった時に夢見た、二十五メートルプールいっぱいに作ったゼリーに飛び込んだとしたら、きっとこんな感触であっただろう。だけれども、それは切断されることはなかった。ただ弾力のみを返した。わたしの部屋にはベッドがないので、ベッドにできれば快適であろうと、それは何らかの意志を伝えてきた。音ではなく。文字ではなく。ただ意味のみを。妄想ではなく、確かにこの透き通った緑色の巨大ないきものからの。
――人生を代わりに生きてあげよう
透き通った緑色の巨大ないきものはそれ以外のことは何も伝えてこない。もう一度殴ると、同じことを伝える。
「とりあえず出て行ってもらえないかな」
「そもそも、これはなんなの」
「エイリアンかなにかなの」
「その質問の意味はなに」
「なにか代償とか必要なの」
話してもだめなら文字にしてそれに見せたり、ジェスチャーを使ってみたりもしたけれど、同じメッセージしか伝えてこないし、たまに黙る。体当たりをしてみる。透き通った緑色の巨大ないきものは程よい弾力を返してくる。でもそれだけだ。これはあまり、部屋の中にずっと置いておいても邪魔にならないと言えるようなサイズではない。
「どいてくれないかな」
透き通った緑色の巨大ないきものはなにもしない。どこにも動かない。自主的に震えることもしない。外から力を与えない限り。
蛍光灯の光が入って向こうの様子を緑色にするけれど、大きすぎるオブジェ以上のなにものでもない。
布団を敷くスペースもそれのせいでなくなってしまったから、タオルケットを被って眠る。そういったものは、だいたい一晩寝たらなくなっていると相場が決まっているし、明日にもまた仕事がある。
アラームで目を覚ます。つまりは朝で、わたしは仕事に行かなくてはならなくて、透き通った緑色の巨大ないきものはそこにいた。幸運にも、場所は移動していて、不幸にも、それは廊下を塞いでいた。わたしはそれがそれなりの柔らかさを持っていたことを思い出し、壁とその隙間から出られはしないかと考えたのだが、本来の透き通った緑色の巨大ないきものよりもずっとわたしの部屋の廊下は狭く、そこに挟まっている時点で相当な圧力がかかっていて、よってわたしくらいの体積がそこに加わることはできないのであった。上に少しだけ隙間はあるが、もちろんそこまで登れないし、登れたとしても通れるサイズではない。
――人生を代わりに生きてあげよう
「わかった、そうするから、出て行って」
そう言うと、わたしは緑色の大きな身体を器用に折り曲げて廊下から外れ、腕なんてあるように見えないのに鍵を外して、外へ出て行った。それは家に取り残されて、わたしが出て行くのを見ていた。
わたしは朝になると外へ出ていき、夕方から夜にかけて戻ってくる。わたしが部屋の鍵を持っているかどうかをそれは知らないが、鍵をかけておいてもおかなくても、それが家にいようといまいとも、家に戻ってくる。そのあいだそれは、何をするわけでもなく、何をできるわけでもなかった。なぜなら、かつて透き通った緑色の巨大ないきものであったわたしは、わたしだからだ。
それはわたしが昼間どこに行っているのかが気になって追跡したことがある。わたしはその大きな身体を折り曲げて玄関を出て、地面の上を滑るように移動する。他の人が通ったら避けるし、会釈もする。つまり身体の上のほうを折り曲げて、そちらを向く。エレベーターのボタンを操作して、一階に到着して、三段程度の階段を飛び降りて、マンションから出る。誰が通りかかっても、透き通った緑色の巨大ないきものが透き通った緑色の巨大ないきものであることにまるで気付いていないかのように、特別目を向けることはない。それは言う。「透き通った緑色の巨大ないきものがここにいますよ」でも人々は気付かない。それは人間ではなく、それはわたしではないからだ。わたしは自動改札を思いっきり細くなってどうにか通過し、朝の電車内で人々の緩衝材として柔軟性を発揮し、体積が邪魔にならないように薄く薄く伸びて、それはわたしのそばで押し潰されそうになっていた。
わたしはそれがかつて行かなくてはならなかった仕事場の存在する駅で降車する。人々の歩く速度の平均と同じスピードで進み、人々にぶつかることはなく、わたしは出社して、人々はわたしに挨拶をする。つまり身体の上の方を折り曲げて、そちらを向き、声をかける。ごく普通のオフィスといってもさしつかえないデスクのたくさん並んだ部屋に存在する透き通った緑色の巨大ないきものに対して人々は何の疑いも持っていないようだった。新しいオブジェではなく、わたしはわたしだった。わたしは椅子に座っていて、それはおはようございますと言っているように周囲には受け取られて、それはわたしではないのだと、あの透き通った緑色の巨大ないきものがかつてわたしだったそれと交わした文言について正確に理解したのであった。
幸運にもわたしはいくらか金を持っていて、不幸にもそれはわたしではなかった。
わたしではないから何も買えなくて、わたしはわたしの金で何かを買って、それにできることはそれ以外のことであった。映画館に潜りこむとか、いつか払うと言い訳しながら服屋に行くことであったりとか。それはたまに透き通った緑色の巨大ないきものの類縁のようなものを発見する。映画館に紛れ込んだ赤い球体の群れもきっと、同じような運命を辿ったなにものかであろう。夕焼けに浮かぶ不定形の橙色も、いつかは通勤していたなにかだろう。
どれだけ映画館に行けても永遠のバカンスが始まるわけでなく、それはわたしではなくて、食事を摂るのはわたしだ。わたしが食事をしているのを眺めていたことがある、わたしは食事の置かれたテーブルに覆いかぶさり、表面に吸着する。見る間に内部に取り込まれていき、だが透明な内部にそれらが浮遊している時間は短く、すぐにどこかへ溶けていってしまうのであった。わたしがなんらかの老廃物を排出しているようには思われないので、体積が増えていかないのかと疑問に感じ、メジャーでわたしの周囲を測っていたことがある。食前食後と、何日間か。少なくとも、市販のメジャーの計測できる範囲において数値の変動することはなかった。
わたしは行って帰ってくることを繰り返している。行って帰ってくるとわたしは多少くたびれており、水分量を失っており、回復するために風呂に入る。わたしが風呂にはいると湯船の水が減る。そもそもどうやってあの体積があの小さな湯船に入るかは定かではないのだが、わたしのプライベートを覗くことははばかられるのではないかという今となっては何の役にも立たない良心が行動を阻んだ。ただ面倒であったのかもしれない。それはやることなすことすべてがなんのリターンももたらさないことと、透き通った緑色の巨大ないきものはなにもかもを跳ね返すことと、そのあたりの壁にぶつかっていたからだ。極めて物理的に。つまりわたしが家から出ないと、家から出られない。わたしは器用だから、家の扉をすいすいと抜けられるけれども、それはそこまで器用ではないので、わたしがもしも扉の前に立っていると、家から出られないのである。
ばしゃん、と大きな音がして、視界が緑色に染まって、トランポリンが正面衝突してきたみたいに吹き飛ばされて、アスファルトは痛くて、でも流れてくるのは血液ではなく緑色の液体で、それが透き通った緑色の巨大ないきものの中身であることは、そのあとにわかった。曜日を数えるのをとうにやめた後のこと。それは道を歩いていて、大きな音がして、気が付いたらそのような状況が発生しており、トラックから降りてきた運転手は透き通った緑色の巨大ないきものだったものに駆け寄って、大丈夫ですか、と聞いている。透き通った緑色の巨大ないきものだったものは答えない。運転手はよかったですと言う。運転手は救急車を呼ぼうとする。わたしは地面の上をゆっくりと這い、塊となり、塊がいくつか集まってゆるやかな立体を描き、やがて透き通った緑色の巨大ないきものとなる。立ち上がったわたしを見て、ほんとうに元気そうですね、と運転手は驚く。それは無傷の身体をぼんやりと眺める。
わたしは電信柱の周りに飛び散っている。それが電信柱に全速力でぶつかりに行ったからだ。
わたしは電車を止めている。それが通勤ラッシュの電車の前に飛び出したからだ。
わたしは上部四分の一のところで切断されている。それが縄を首に巻いて椅子を蹴ったからだ。
そんなわたしはその度に凝集して、直方体を形成し、表皮を再生して、透き通った緑色の巨大ないきものとなり、歩き出す。何度でも。そうなるとそれには打つ手がない。わたしは先回りが上手で、しかしそうするとわたしは普通の生活を送れなくって、近所づきあいがぎくしゃくしてきたという。なんといってもおはなししている途中にいきなりいなくなるのだ。話し相手としてはあまり好ましくない。わたしはきっとヒーローに向いているのではないだろうか、とそれは考える。なによりもはやくひとを傷から守るのであるから。でも向いていないんじゃないかな、とも思う。わたしはそれしか守れないし、無口すぎる。
それは家に帰ってくるわたしを待ち構える。ナイフを構える。刺すと弾力がある。鋭い刃は跳ね返されるだけ。殴っても楽しそうに揺れるだけ。透き通った緑色の巨大ないきものとは和解できそうになくって、あれきりなにも喋ってはくれなくて、明日も今日も家を出ては帰ってくるので、それは待つしかない。ベランダから飛び降りたとしてもわたしのほうがずっと速い。
2015-10-04
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