思うにうつくしいひとでした。窓辺にフリージアを生けたのは昨日の私ですが、彼女を呼んだのは先輩なのです。私はただ、ピアノを弾けるひとを探していて、いつものように誰かいないかと尋ねたら、それならいるよ、今度こそあのピアノを、鳴らすに足るひとであろうよ。と答えてくれたのが彼だったのです。どんなひとですか。彼女はピアノさ。得てして芸術家というものは凡人には理解できない物言いをするもので、先輩もその例外ではありませんでした。ところで、来月の展示会、チケットやるから来ないか。暇だから、行かせてもらいます。絵の方は順調ですか。ぼちぼち、売れてはいるが。楽しみにしています。去り際に手帳の隅に電話番号を書き付けて、私に渡しました。彼女に直接つながるから、掛けてみろ。高いのですか、わたしにはこのような依頼の相場がわからなくて。お前なら、そんなに高くすることもあるまい。あのピアノを弾いてもらいたいんだろう。そうだけれども。ならば心配するな、あれは、いいものだ。先輩はさみしそうに笑った。かつて彼は、ピアノ弾きであったから。先輩の立ち去った後、早足で電話に向かい、紙の上にある電話番号を正確に押していきます。最後の数字の五を押して、三コールで回線がつながります。もしもし、どちら様ですか。私は、あなたにピアノを弾いてもらいたいのです。わかりました。それでは、いつ、どこへ向かえばいいのか教えてください。住所と電話番号、日時を伝えたら、それでは承りました、とだけ返され、電話は切れました。鈴のような、とも違う、蝶のような、でもない、自然界にあるものの声ではありませんでしたが、うつくしいものであったのです。きっと、きれいな指を持つ、ご令嬢なのでしょう、受話器を置くのも忘れて、私はそう思いました。いけない、私はピアノを弾いてもらうことを望んでいるのであって、女性にときめきを覚えるためではないのだ。ピアノを弾けるのであれば、誰でもよい。きちんと鳴らせるのであれば。あのピアノはたいそう気難しくて、母が死んだ時から一度もまともな音を鳴らしたことがありません。
私は待っていました。ピアノを弾くに足る人物を。なぜなら、音の鳴らないピアノは、置物以上の何物でもないからです。かつて、母はピアノの部屋には誰も入れませんでした。入ったら、おばけがいるのよ。私はある時までは信じていましたが、いつしか、幽霊なんて実在しないものだと決めてかかる少年になったのです。だからこっそりと、部屋の中を覗いてみました。部屋を覗いたにもかかわらず、見えたものは音でした。それから、母の演奏している姿が聞こえました。音その一がカーテンをすり抜けようとして挫折するのを音その二がじっと眺めています。その三はひとりで床に転がっています。初夏の光が差し込む室内は、さながらパーティーです。まあ、扉を開けたのね。音その三十八がドアの隙間から出ていこうとするのに気付いた母は、私もまた見やるのです。開けてはいけないと言わなかった? でも、気になったんです。こんなにきれいなのに、どうして扉を閉めるのですか。音が外の世界に逃げてしまうからよ。逃げられなければ、音はどこへ行ってしまうのですか。どこへも行かないし、どこへも行けないわ。ただ、元いた空気に還るだけ。穏やかに戻ることができるのよ。音その二十七が円運動をやめて、大気に溶けていきます。ほら、こうやって音楽は無へと還っていくの。私は音を捕まえようとして、すべては無意味だと知るのです。もっちりとしたもの、棘のついたもの。すべすべのもの。あらゆる音は私の所有を逃れようとするのみならず、どこか別の場所――母の言に拠るならば空気――へと行ってしまうのです。放っておいても消えるのならば、なおさら扉を閉める理由がないではありませんか。わたしは、もう音を生み出してはならないはずなの、だけれども、ピアノが呼ぶから応えなくてはならないの。せめて、世界にはばれないように、こうやって隠れているのですよ。さあ、閉めなさい。私は? あなたも一緒に、ここに残りなさい。この曲には、もうあなたが含まれているの。ここにいなくてはならないの、いいね。私は部屋の内側に残り、扉を閉めました。扉の軋む音は、絨毯の上に転がって、次第に速度をゆるめていき、音その十一とぶつかって対消滅しました。
実体としての音は私の世界に未だかつて存在し得ないものでありました。ピアノの部屋にはずっと、これらの音がひしめいていたのでしょう。どうやって、音と出会いましたか。ずっと、一緒にいたのです。母はそれだけ言って、また鍵盤に向かいました。指がキーに触れて、上下運動が変換され、ピアノ線を伝わり、叩き、内部に反響して、そして。音とともに、音その百二十一が現れ出るのです。そこからはもう、数えることができません。音実体が、私と母の空間に満ち満ちています。パステルグリーンの音の中に、ひとつふたつの赤、真紅がアクセント。感嘆の声を漏らしそうになるのを必死で抑えました。なぜなら、音を壊してしまうからです。叫びたくて仕方がないくらい、それは私を呼んでいました。
曲が終わると、私は部屋を出ることを許されました。もう一度来てもよいわ。もしくは、もう二度とここには来ないで、全てを忘れなさい。私はもちろんもう一度行くことを選びました。母はにこりともせずに言い、扉を閉めました。その日の夕食の時の母は、静かに笑っていて、料理も取り分けてくれて、よく気の利いたことを言う、いつもの母であって、ピアノの部屋で見たあの厳かな音の支配者の面影はまるでなかったのでした。顔のよく似た別人どころか、同じ顔にすら見えないのです。ピアノの部屋の鍵は閉ざされています。その部屋の主以外は、開けられないことになっています。使用人に頼んでも、どうにもなりませんでした。もう一度、と約束したのに、いつ行けばよいのでしょうか。いつまで経ってもピアノの音が聴こえることも見えることもありませんでした。母が死んだのはその秋のことです。紅葉がちょうど散り始める頃でした。死ぬ一日前まで、みんなと一緒に食事をしていたのに、どうして、と父に尋ねると、連れて行かれるのがいつなのかは、誰にもわからないんだ。お前のことは、守ってやりたいのだが、と言いました。白いハンカチを持った父は、子供の前ではじめて泣きました。私が泣かなかったのは、死の意味を十分に知らなかったからです。またピアノの部屋に現れるのではないかと、どこかで思っていたからです。
そうして、ピアノの部屋から音がいなくなりました。父にせがんで開けてもらったことはありますが(そもそも、秘密の部屋などではなかったのです。母は私が入ることのみを許しませんでした)中には壊れたピアノが一台あるきりです。壊れている、というのは、触っても全く音がしないことから判断されました。私のせいではありません。父が白いキーを叩いても、黒いキーを押しても、木と木のぶつかる雑音以外はしませんでした。使用人全員に試させても同じことです。偶然を装えばどうかと、ボールを上から落としてみたり、餌を鍵盤の上に置いて猫をおびき寄せてみたりもしましたが、ピアノは有効な音を返す気配がありません。そんな時には調律師の出番です。父は、タウンページを開き、よさそうに思われる調律師を呼びました。まあ、これが鳴らないのは仕方ない、たいそう気位が高いようだから、ほら、ハンマーとハンマーの間でふんぞり返っているだろう。調律師はピアノの蓋を開け、ハンマーを指し示しました。確かに、かつて見た音のようなものがひしめき合っています。これを鳴らしていたとは、よほどのひとだったのでしょうね。ええ、妻はこのピアノしか弾いたことがないと言っていましたから。わたしにできることは何もありません、いつか弾かれるのならそれでもよいし、弾かれなくても構いません……いや、それは惜しいものだ。お代は。要りませんよ、むしろわたしが払わなくてはいけないくらいだ、こんなものを見せていただいたのだから。それでは、と、調律師は何もしないで帰ってしまいました。父さん、なら私はピアニストになる。そうか、頑張ってくれ、私には応援することしかできない、音も見えない、私には。
私はピアノの勉強を始めたのです。父が買い与えてくれたピアノは、よく音の鳴るものでした。そこで私ははじめて、音に名前のあることを知りました。陽気なA、品のあるC、調子に乗りがちのD#。すぐに姿を表しましたが、それらが母のピアノのものとは違うことはすぐに分かりました。活きがよくありません。どれだけ練習しても、友人たちの用がよほどいい音を呼びます。あるいは呼ばれます。ピアノの蓋を閉めました。諦めるには早いのですが、極められないことを知ったのです。
父は残念がりました。しかし、私に母のピアノを鳴らせぬのならば、誰か他のひとに頼めばよいのです。幸い、ピアノ教室には気の合う仲間が何人かいました。私よりもいくらか年上である先輩は、当時すでに音大に通っていました。もちろんピアノです。ピアノの教師ですら鳴らせぬものを、どうして俺ならできると。そう言ってはいましたが、目には期待がありました。何と言っても彼は、若くして世界的なコンクールの常連であり、輝かしい将来を約束されたようなものでしたから。そんな先輩と私がどうやって友人となることを可能にしたかといえば、ひとつの偶然とひとつの幸運によるのですが、詳しいことを話せば朝までかかるでしょう。ともかく、先輩がピアノの部屋にやってきたのは、春と言ってもほど寒い、三月の初めの頃でした。ほう、桜の見える、いい部屋だな。山桜なので、早く咲きます。これが、その。そうです。開けてみてください。彼は蓋を開き、赤いフェルトを外し、椅子に座りました。楽譜はいらないのですか。いらない。初めてこのピアノに向かうというのに、失礼に当たるだろう。そうですか。下がっていてくれ。彼がCに指を置き、叩きます。音が。音の発せられることはありませんでした。バイエルだろうとも、ショパンだろうとも、メンデルスゾーンであろうとも。なにひとつ。そうか。彼はため息をついて、ピアノの中を覗き込みました。笑っているな。そうなのですか。ほら、見てみろ、こいつらは、俺を笑っている。先輩は赤いフェルトを鍵盤の上に乗せ、蓋を閉めました。ありがとう、いい経験をした。お茶でもどうですか、ケーキもあります。気を遣わせて、すまないな。彼はそのまま部屋を出て行ってしまいました。
その足で先輩は音大を辞めたのだった、と私は随分後になってから知りました。正確には、彼の口から聞いたのです。ピアノの音を見て、鳴らせぬならば描いてやろうと思ったらしいのです。俺は全く後悔していないさ。あんなに上手だったのに。ピアノは楽しかった、俺はすべてを掴んだと思った――世界のすべてを、それが間違いだと教えてくれたのもまた、ピアノだったのさ。なるほど。もし、あなたの友人にあのピアノが弾けそうなひとがいたら、教えてください。それから先輩に会う度に、毎回同じ質問をすることになります。残酷な問いであることを承知していながらも言わなければならなかったのは、誰よりも私が、あのピアノの音にもう一度会いたかったからなのでした。
こうしたわけで彼女はこの部屋にいるのです。ピアノのために。このピアノを弾けばよいのですか。ええ、そのためにお呼びしました。もし鳴らなかったとしても、きちんと謝礼はお支払いします。そこを気にしているわけでは、ないのです、わたしは今、わくわくしています。はあ。私は間抜けな声を上げることしかできなかった。一応、すこしは鍵盤に触れたことのある身ではあるが、緊張したことはあってもわくわくしたことはなかったのだ。このような、素敵なピアノを前にすれば、胸も高鳴るというものです、初夏に小川に足を浸したなら、かつての雪解け水は僅かに温かくなってきていることでしょう、それを思う、ときめきに似ています、話してばかりいても、仕方ないですね。彼女は椅子を引いて、ピアノに向かった。楽譜は。要りません。久しぶりに開かれた内部は、昔と変わらぬ状態のままで。では、弾かせていただきます。そして彼女は、はじまりのCを叩きます。
Cを叩けば、それは間違いなくCでした。かすっただけのものではなくて、実体を持って、空気を震わせたのです。実体があるから、空気が震えるのです。四角いそれは、彼女の右端にちんまりと収まりました。なんてことを考えている間にも、音の全ては並び、ゆらゆらと、規則があるようでないような群となって部屋を埋め尽くしに掛かったのです。しかし息苦しくはありません。司会はやがて、E♭メジャーの緑色に染められていきます。マスカットの、皮を剥いた緑です。中心では、Fが確固たる位置でもってCを貫いています。一歩でも足を踏み出したら、その僅かな振動で台無しにしてしまうのではないかと、私は何もすることができませんでした。私は音を見て、私は色を聴きました。総体としてのベージュを覆い隠す、クリアブルー。Fと手を繋ぐことなく歩み去るB。弱いCに回帰して、その曲は終わりました。
あなたの望む、それは音楽でしたか。いいえ。彼女は表情を曇らせました。どこがいけなかったのでしょうか、わたしは他の誰もが成し得ないことをしました、このピアノを鳴らすことです――彼にもできなかったのでしょう、わたしはミューズ、うつくしきものよあれかしと、ただ音を奏でるものです、その訪れを待つあらゆる音楽のために、わたしはどこへでも馳せ参じるのです、わたしはミューズ、何があなたを間違えさせたのですか。そう、間違っていたのは私です、私が望んでいたのは、母の音楽でした、それを求める限り、あなたの来なかったのも道理でしょう。わたしは望みによって来ました、おそらくは、彼の望みで。彼に感謝しなくてはならない。繋ぎを付けてくれたのは彼、このピアノを鳴らしたのはあなた、窓辺にフリージアを飾ったのは私です。
そうして、ピアノの部屋には静寂が帰ってきました。音ばかりを求めていましたが、この空間そのものがまた、立派な音なのです。あれからピアノはなっていません。鳴らす者がいないのだから、当然です。先輩は、展覧会の知らせがある、という名目で、何度も茶を飲みにきます。私の家に来るひとはもはや少なくなったのでうれしいものです。私を訪ねてくるものならなおさらです。ある時彼はふと言いました。そういえば、彼女はどうだったか、ちゃんと、お前のピアノを鳴らしてくれたのか。ええ、とても素晴らしいものでした。私が、どのようであったかを説明しようとしたら、彼は制しました。お前が言葉で説明して、俺にわかるものではない、お前も、彼女に会ったのなら、わかるだろう。あなたも、彼女の音を見たのですか。いいや。先輩はダージリンを一口飲んで答えます。彼女の絵を聴いたんだよ、別の彼女だがな。私たち以外にはここには誰もいないので、ここはたいそう静かなものです。庭からはひばりの声、風の音、桜の花弁がはらはらと地面に落ちてゆく音。おそらく、私たちの季節は春なのでしょう。
2018-04-22
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