一
あなたへ
わたしはあなたがどう呼ばれていたのかを知っていますが、わたしといるときのあなたは、そう呼ばれていなかったので、というか、わたしはそう呼んでいなかったので、この手紙の最初には、あなた、と記すほかなかったのです。
あなたは〈統一するもの〉と呼ばれていたのだということを、知識としては保有しています。
わたしにとっては、縁のない名前だったのですけれども。
今、わたしは部屋の中にいます。あなたの与えてくれたものとは、だいぶ違う部屋ですね。それは地下室で、窓はありません。地下室に窓があっても意味がないからです。それから机と椅子があって、わたしは椅子に座っています。小さな本棚がありますが、その本棚にはまだ何もありません。わたしはあなたに伝えたいことがあるからこれを書いているようですが、何を伝えたいのかはまだ判然としません。
そういえば、あなたに手紙を書けと言ったのはアレンで、あなたはアレンのことを知らないことでしょう。いきなり知らない人の話をされてしまっても困りますよね。だから、まずはアレンについて書こうと思います。
アレンはあなたを倒したひとです。少なくとも、アレンはそう言っています。アレンの言葉を疑う理由は今のところないし、あなたがかつて言っていたこととも合致するので、そうなのだろうと思っています。
アレンは世界を救った英雄です。少なくとも、わたしたちの間ではそういうことになっています。アレンはあなたを倒して英雄になりました。それから? それから誰かに表彰されることもなく、この街の片隅に住んでいます。今までもずっと。わたしが目を覚ますまで、家に置いてくれたのもアレンです。
英雄というのは誰かからそう呼ばれるからそう、なのかもしれませんが、アレンは誰にもそのようには認識されてはいません。あなたが誰にも認識されていなかったからです。今は多少、あなたの存在を感づいているものもいるようですが、すべては手遅れです。
すでに存在しないものを知覚したところで、何の意味があるのでしょう。
わたしはアレンの家の地下室に眠らされていました。というか、ただ眠っていました。眠っている間のことは覚えていないのですが、悪い夢を見た記憶もありません。あなたの家にいるときも、わたしは夢を見ることはなかったから、わたしから夢を見る機能は削除されているのでしょう。
地下室は広々としていて、いつわたしが起きてきてもいいように、きれいに掃除されていました。わたしのベッドは、白く清潔でした。天井の電気は消されていましたが、サイドテーブルにランプがありました。目を覚ますとすぐに、サイドテーブルに書き置きがあるのを見つけました。上の部屋に上がってこいと書かれているその、文字が読めることにわたしは驚きました。わたしに文字を読む機能があるとは知らなかったのです。あなたとはいつも、言葉を交わし合っていましたね。その際、音声のみがチャンネルで、文字は使われていませんでした。文字があるのは学習により知っていたから、あなたに文字を書いてあげればよかったと思うのは、もう遅い、遅すぎることです。
階段を登って上の部屋に行くと、アレン――もっとも、そのときわたしはその名前を知らなかったので、単に、知らないヒト、であったのですが――は本を読んでいました。アレンはわたしと同じくらいの背丈をしています。年の頃は三十くらいに見えますが、あなたを倒してから彼の身体は時を数えるのをやめてしまったのだそうです。それだけ取り出すと、まるであなたと似た存在のようですが、あなたの身体が確かに存在したことを、わたしはおぼろげな記憶の中でしか保持していません。記憶力には自信があるつもりだったのですが。
ともかく、わたしははじめて、本の実物を見ました。あなたから共有される記憶の中にはあったのですが、物質としての本ははじめて見ました。本というのは、紙を綴じて、表紙がつけられており、どこからでも読むことができますが、通例、最初から読むことが予想されているものです。あなたには、説明するまでもないことかもしれないですね。後で聞いたところによると、それは庭の花に関する本だったようです。たしかに、表紙には花の写真がありました。アレンは大きな庭を持っていて――その話はもう少し後ですることにしましょう。
わたしに気付くと、アレンは本を閉じて、
「ああ、おはよう」
と、まるでわたしを知っているかのように言いました。それから、ようやくか、と笑いました。
「思ってたより遅かったけど、起きてきたから、いいや」
わたしはとっさに声を出すことができませんでした。あれほどあなたと言葉を交わしていたのにも関わらず、眠りが長すぎたせいなのか、声帯はその機能を制限されていました。わたしが口をぱくぱくさせていると、アレンは、冷蔵庫からお茶を持ってきてくれました。
「これでも飲みなよ」
それは麦茶でした。麦茶は、あなたの家でも飲んだことがあります。食事は、あの家における数少ない娯楽でした。あなたの家で飲んだものよりは味が劣るものの、冷たい麦茶は、わたしの機能を回復させるに足る効果を持っていました。それを飲み終わるころ、わたしは声を発することができるようになったので、
「あなたは誰ですか」
と問いました。
「え、覚えてないの」
アレンはきょとんとしています。
「世界を救ったヒーローで」
それから、静かに立ち上がって、
「お前たちの敵だったものだよ」
わたしはその時、これがあなたの言っていた『敵』なのだとわかりました。いつかやってくるのだと言われていたもの。そしてそれはもうとっくに訪れており、わたしの知らない間に勝敗は決まっており、わたしは今『敵』の家にいます。
憎しみはありませんでした。悲しみもありませんでした。ただ、あるべきものがそうなったのだという、諦念のみがありました。これを諦念と呼ぶのが適切なのかは定かではありませんが、わたしにはそれを諦念と記すことしかできません。だって、自分ではどうしようもないことなのですから。わたしはただ観測するものでしかなく、あなたはいずれ消えるべきだったのです。
アレンの部屋は整然としていて、ものは少なく、目立つものといえば整頓された本棚くらいで、わたしが常にいた、あなたの家の部屋にも似ていたのですが、アレンの部屋には写真が飾ってあって、それは複数のヒトが写った写真で、それはあなたの家にはなかったものでした。
「これは」
とわたしは指差し、
「ああ、これ? お手伝いさせてもらった家との記念写真だよ」
おれはこの街で色々な人の手伝いをしているんだ、と、アレンは言いました。あなたの敵だったものが、現在何をしているのだろうと思いましたが、その後、外に出てみてわかりました。
世界は何も、変わっていません。少なくとも、わたしが得ていた情報と、相違はありません。
花があります。道があります。家があります。ヒトがいます。動物もいます。
あなたが倒されてから、もう何十年も経ったそうです。ラムダたちはすでにスクラップとなり、あなたの意思はこの世界から消え、みなが自由に生きています。ほんとうの自由があるんだよと、後にアレンは語りました。
ほんとうの自由とはなんなのでしょうか。
あなたが倒されたときは一瞬でしたか。痛みはありませんでしたか。わたしはその時眠らされていたので何も知覚してなどいません。わたしを眠らせたのはあなたでした。おやすみ、というのがそのコードで、わたしはあなたにそのコードを入力されたら眠るようになっています。目覚めるのもあなたのコードが必要なはずなのに、あなたのいない世界にわたしはいます。目覚めたときにあなたの声はありませんでした。もっと前にそれを知覚するべきだったと思っています。
どうしてだかこの手紙はぐるぐる回っていきますね。それはきっと、この手紙が届くことがないからでしょう。届かない手紙を書き続けるのは喜ばしいことではありませんが、アレンはわたしに手紙を書くように言いました。あなたに。であれば、正しいことなのでしょう。正しいことをしたヒトは、正しいことを言うに違いありません。
こうやってあなたに手紙を書くのは正しいことです。
正しいことをしているのに苦しいのは、なにかが間違っている気がしてなりません。
アレンは、行くところはないだろうし、どこかに行くまではさっきの部屋を使うといいよ、と言いました。その部屋は、わたしがかつていたものとはまったく異なりますが、ひとが暮らすには十分な機能を持っていました。わたしはその部屋で暮らすことにしました。
その部屋の机で、わたしは手紙を書いています。
あなたは〈統一するもの〉と呼ばれていました。意思あるものはあなたを知覚しなかったので、呼んでいたのはもっともラムダですが。あなたのまごころと愛のもとに、世界はひとつでした。その世界のことは、ラムダ伝にしか知らないのですが、そう、ラムダももう、この世界にはいないんですね。
あなたは〈統一するもの〉と呼ばれていました。
そう呼ばれていたあなたのことを、わたしは知りません。
わたしが知っているのは、あの部屋に来てくれたあなたのことだけです。
あなたは最後にこう言いました。
「きみだけは僕のものだから、僕が連れて行く」
わたしはその言葉の意味が、わからずにいます。
なぜなら、あなたが言ったことは、いつもほんとうだったのにも関わらず、わたしはここに残されているからです。
アレンは、あなたに言いたいことがあるなら手紙を書けと言いました。
わたしは今、ようやく、あなたに言いたいことが見つかりました。
どうしてわたしを置いていったのですか。
最後に、わたしの今の名前を署名することになります。
わたし、とだけ書いてもあなたには通じるでしょうし、実際、あの部屋の中ではそうだったのですが(もっとも、あなたに手紙を書く機会などなかったのです、あなたはいつもわたしのそばにいたから、遠い場所に手紙を送る必要などなかったのです)しかし、今のわたしには名前があります。それに、手紙の最後にわたし、と書くのは、なんだかおかしいですからね。ここは他人から呼ばれる名前を書くべき場所です。わたしは、自分をどう名指すべきなのか、何の足がかりのない状況では、わかりませんでした。だから、アレンに、わたしはどのような名前であるべきなのかを尋ねたのですが、正しいはずのアレンは、それは自分で決めることだよ、としか答えてくれませんでした。
手紙というのは挨拶で終えるべきなのだと、知ってはいますが、それを実行するのははじめてです。
だから、わたしは、最後に、挨拶とともに、こう書きます。
まっしろな机の前で
シロ
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