あけましておめでとうございます。いつの間にか2026年になっていました。そしてもう夜になっています。わたしは一日中なんか……てんやわんやしていました。昨日2025年まとめ記事を書いた時は落ち着いていたのに……
では何が起こったのか時系列順に説明しましょう。
タローマンが紅白に出るのではないか、という説がまことしやかにささやかれていた。映画はかなりのロングランだし、なんかタローマンって縁起物っぽい感じがする。サカナクションも紅白に出るし……ということで「ないことはないかな」という感じがしていた。でもタイムテーブルにないものって出るか?紅白というビッグコンテンツで?怪獣も新宝島もタイアップ先あるし……とわたしはない寄りで考えていた。タローマンは家で見てるって監督もポストしてるし……
でも普通にサカナクションは見たいので、それまでにお風呂に入っておこうとかそういうことをしていた。年末短歌のタグをやりながらぼんやりと紅白を見ていた。星野源さんのパフォーマンスがすごかった。任天堂の「すべて」じゃん……
とか思っていたらサカナクションの出番が来る。一曲目は怪獣。演出がめちゃくちゃよかった。完全にMVの続きとなっており、「存在するはずのない邂逅」がそこにあった。MVの「主人公」は宛先に届いたのかを知らないけどきっと届いたと信じていたであろう、その気持ちの先があった。けっこう短縮されてたけどメドレーだもんな……と思っていたら新宝島の明るいセットになりーー
山口一郎さんがタローマンのうちわを持っている。
正直初見時はそこから先の記憶があまりない。山口一郎さんが笑顔でよかったな……と思っていたら終わっていた。司会のみなさんも一切タローマンには触れない。え?????
いやその……なんでこんなに動揺しているかってわたしが映画タローマンでいちばん好きなところが「タローマンとフィクション山口一郎の間に横たわる無のかたち」なので……そして現実の山口一郎さんが祝祭的パワーでタローマンを「現実」にしてきた、その事実に打ちのめされていたら一時間くらい経っており、手足が冷たくなり、動悸がすごく、なんなら熱が出ていた。なんで?
もうちょっと噛み砕いて説明すると、
- タローマン本編の「タローマンと私」パートにはモキュメンタリー的性質があり、それは語り手山口一郎が現実に存在する山口一郎と同一であることを要請する(それが嘘だとわかっていても、そうだということにするという「お束」が作り手と受け手の間に存在する)
- 映画タローマンラストで語っている山口一郎はフィクション存在であることが、語っている内容やアンテナによって示される
- なぜこれが可能になったのかというと、モキュメンタリーでなくても、タローマンは「実在」するから
- 紅白の舞台でタローマンの顔だけが示される(なんか棒のところも腕の模様になってましたね……)
- 新宝島は「君」を描き、「君」を歌い、「君」を連れて行く歌である
- この「君」ってタローマンじゃん(少なくとも今この場においては)
- タローマンが「いた」ってこと!?
なんというか、身体があるよりアイコンだけのほうが逆説的に存在強度が高いんですよ。この場においては。「それ」が「ある」ことだけが示されて、あとはすべて曲が語ってくれる。語ってくれたような気がしてしまう。実際にはなんかいろいろ事情があったのだろうしその全貌はまだ明かされていないのですが(何かあったっぽいことだけが山口一郎さんのYoutube配信などでわかる 追記:1月1日雑談配信の最初の方でお話されている)そういうのはいったん置いて、タローマンが、「現実」になったんですよ。
それで現実に打ちのめされてばかりもいられないなと思ってなんか書いたりもした。急いで書いたし気が動転してたから荒い部分もたくさんあるんだけどあのときにしか書けなかったからこれでいいと思っている。サイトに再録するならちょっと直すけど……当然ながら「ぜんぶ嘘」だし、それをわかってくれるひとに向けて書いてる。
わたしはタローマンの「現実」と「フィクション」のあわいの部分を愛しており(他の部分も好きだけどいちばん関心があるのがここ)、それを実感したイベントだった。山口一郎がタローマンを「現実」にして、タローマンが山口一郎を「フィクション」にして、そこできれいに片付いたかと思いきや山口一郎がタローマンをまた別の「現実」にした。映画のラストを美しいものだと思っているし、フィクションとしてはあれで終わりでいいと思うんだけど、なんか、ボーナスステージが急に来た。なんか終わった風に書いてるけど別にまだ落ち着いていません。落ち着くためにこれを書いている節がある。
そうですね、今年は気の利いたすてきな嘘つきを目指していきましょう。おそらくわたしの向いている方向はそちらなので。
※コメントは最大500文字、5回まで送信できます