路地裏の無幻魔人

太陽は中天をとうに過ぎ、サン・ドニ通りの建物たちは石畳に長い影を落としていた。影のうちにひとりの洒落者がいる。彼は襟に飾りのついた白いシャツ、黒のロングコートを身に纏い、胸ポケットには青いバラ――この地球には存在し得ない青――を挿していた。彼の名をジャグラスジャグラーという。
ジャグラーはある人物を追って地球にやってきていたのであった。フランス・ボルドーまでは追えたもの、パリのあたりで気配が消えてしまったので、手当たりしだいに探しているといったところだ。
とはいったものの、パリについては何も知らない。それどころかフランスについてさえも。2,3日過ごしてみてわかったのは、現地の文明レベルはそれほど高くないが、異なる星系の技術によって歪な発展をしているようだということくらいだ。非ヒューマンタイプの宇宙人に対する妙な敵対意識。それは汎銀河的に生じる傾向なので特に気にすることではないかもしれないが。
さて、どうしたものだろうか、ジャグラーは懐中時計型のデバイスを取り出して時間と座標を確認しようとしたら、四人組の男たちが路地の向こうからやってきて言った。
「おっと、そこの綺麗な兄ちゃんよ、その時計をくれないか?」
ジャグラーは懐中時計をポケットに戻した。
それから虚空から剣を取り出し――その刀を蛇心剣と呼ぶ、彼の愛刀だ――話しかけてきた男を斬って捨てた。無論返り血を浴びるようなへまはしない。
「で、何が欲しいかって?」
それを見た仲間たちは逃げていく。丁度いい、この噂を聞きつけて奴がやってきてくれれば――
そう思っていたところに、黒い制服に身を包んだ二人組が現れる。
「パリ警察だ、話を聞かせてもらおうか」
面倒なことになったかもしれない。死体を隠す暇もなかった。まあこいつらも始末すれば問題はないが、と考えていたところに、陽気な声がする。
「ああおまわりさん、彼は僕の友達でね、今大変だったんだよ」
ジャグラーの友人を名乗るその青年とは、もちろん面識などはない。
「は?お前」
「とりあえず今は黙っておいたほうが得策だよ、剣しまって」
ジャグラーは言われたとおり蛇心剣を次元の隙間に戻す。今のところ、この青年は敵ではなさそうだ。
「彼は暴漢に襲われそうになった僕を助けてくれたんだ。僕はソルボンヌの学生だし、彼もそう」
そうだよな、と青年がジャグラーの方を見て言うのでひとまず頷いておく。
……最近パリも治安が悪いから気をつけるように」
警察が去った後、さて、と彼は言う。
「異星の方、たいそう腕が立つようだけれども、僕らの仲間にならないか?」

青年はクールフェーラックと名乗った。なんでもこの星における宇宙人の権利拡大運動を行う団体――ABC友の会の一員で、今は仲間を集めているところらしい。彼自身も銀河系の辺境の星からやってきており、ジャグラーを見かけてとっさに庇ったのだということだった。
「君もこの星の警察に捕まったら困るだろう。奴らはやけに宇宙人に厳しい。宇宙人だとわかれば即刻ギロチン行きになる可能性すらある」
「まだ魔女狩りでもやってんのか」
へえ、詳しいね、と言われたのでまあそれなりにはな、と答える。
この地球ではないが、関わっていたことはある。
どちらかといえば、人心を惑わす悪魔の方として。
「とっくにそんな時代終わったはずなんだけどね、そうじゃないから僕らABC友の会がいるわけだ」
とりあえずちょっと集会に来てみないか?とクールフェーラックは言う。

サン・ドニ街からほど近いところに一軒の酒場がある。門には小さな葡萄の絵が描かれており、その下にはコラントと書いてある。夕刻にもなればすでに相当の賑わいだ。
広間には丸テーブルを囲んで数人の青年たちがワインを片手に食事をしながら政治談義に花を咲かせたり、大学教授の悪口を言ったりしていた。
「それでこちらが新たなる同志」
――ジャグラーと呼んでくれ」
クールフェーラックはそう説明するが、当然ジャグラーはこの若者たちの仲間に入ったつもりはなかった。ただ、クールフェーラックの口ぶりからするに、彼らがこの地球での宇宙人事情に詳しいのではないかと思っただけだった。
「今日は首領アンジョルラスとコンブフェールはサン・テュースターシュ会堂に演説に行ってる」
「だから今は楽しく飲んでるってわけだ」
「いつもはこうじゃない、って言うわけじゃないが、もうちょっと真面目なメンバーもいるもんさ」
クールフェーラックに割り込んでジャグラーに声をかける青年がいた。
「新入りか!赤か、白か?」
「何だ?」
「ワインの色だよ」
そう陽気にジャグラーに話しかける、彼のほんとうの名を知るものはいない。ただ署名に記す大文字のRから、仲間たちからグランテール〈grand R〉と呼ばれていた。
「きみは飲まないのか、パリにおいてワインを口にしないのは一日の朝の部分だけに住まうのと等しい」
「もう夕方だぞ」
「見た目によらず真面目な御仁だな」
「まあ一杯くらいは飲んでもいいが」
ジャグラーが答えるとグランテールは女中に声を掛けて空のグラスを持ってこさせた。そしてもう半分くらいしか入っていない瓶からワインを注ぐ。赤だ。
ここの文化では乾杯はどうするのだろうか、と思っていたところ、グランテールがよくわからないことを話しはじめた。
こういう文化なのだろうか。
「太陽の話をしようじゃないか。彼は常に動いている。それでいて夜を恥じらって姿を消してしまう。僕は太陽をずっと見つめられていたらいいと願うよ、おお、イカロスにすらなれない哀れな若者を悲しんでくれ!彼はいつかダフネのようにすっかりとおし黙ってしまうのではないだろうか。ああ、彼女を追い詰めたのは他でもないアポロンだったな。太陽と太陽の間で交わされる永遠の循環、そのうちに居られたらよいのではないかとすら思える」
「太陽なんか見てたら目が潰れるぜ?」
「それこそ本望というものだろう、潰れるほどの光を与えてくれたということなのだから。もっとも彼、アポロンの申し子、熾天使の炎はそんなことをしてはくれないがね。常に大理石の拒絶でもってそこに立っているのだ。ヘスペリデスの林檎もかくやの食えなさだよ。」
「あ?大理石?」
「ここの大文字Rくんは我らが首領を信仰しているのだよ。彼の肌は大理石でできているんだ。そういった生まれのものもいるだろう」
グランテールの隣にいたレーグルがジャグラーにそっと教えてくれた。
おそらくこうやって長話をするのはこの星の文化ではなくてグランテールの性質なのだろう。
「それなら月の話にするか?地球の衛星にして太陽の真の影たる月のことを。自ら輝くことはないがただ太陽の面を見ることのみは許される。それともアルテミスの方が好みか?おお、純潔の女神を汚そうとするものに禍あれ!」
「こいつっていつもこんな感じなのか?」
ジャグラーはレーグルに尋ねる。レーグルは困惑しながらも答えた。
「うーん、まあ、そうだねえ。ぼくたちは結構楽しんでるからいいんだけど」
「そんなことより石畳投げよう、な?」
「お前は黙ってろ」
バオレルはクールフェーラックに辛辣な一瞥を受ける。
なんかこいつらといると調子が狂う。こんなはずではなかった。さっさと情報を聞き出して帰るはずだった。
これはジャグラーにとって存在しない青春の幻影であった。かつては戦士として生きてきて、現在は各地に戦乱と狂騒を巻き起こす彼の人生に、このような風景はなかった。
友と酒を酌み交わし、時に言い争い、そして正義のために戦うのだと団結すること。
もしかしたら。
もしかしたらそうなれた相手がいたのかもしれないし、そうなれる可能性もあったのかもしれないが、今となってはそれらはすべて過去のことだ。

さて自らのすべきことなんてとっくになくなってしまったし、やりたいことなんかわからなくなっていたけれども、どうしてここに来たのかは思い出された。
ワイン一杯分の酔いは醒めた。

そうしてジャグラーは本来ここに来た理由を彼らに述べるのであった。
ある男を探している、と言うと、ジョリーはそんな感じのことどこかでも聞いたな、と答える。
「身長は高めで星の瞳を持つ男、多分よく飲み食いするんじゃないか?どことなく浮いているかもしれないな」
「ああ、知ってるぞ、あの食いっぷりのいい快男児だろ?」
バオレルは笑いながら答える。
「確かガイとかいう奴だ」
そういえば、とジョリーは言う。
「よく飲んでもいたな!」
グラスを空にしてからグランテールは言った。
案の定、あれは美味い食事のあるところに寄り付くものだ。名前まで覚えられているとは相当印象に残ったのだろう。
「それで、どこに行くとか言ってたか」
「さあ、それはどうだろうな、銀河の渡り鳥だのなんだの言っていたからな。なにか探しものをしているみたいだったけれども」
クールフェーラックの言葉にジャグラーはそうか、と答える。探しものをしているのはこちらも同じだ。そのうちどこかで出逢うことになるだろう。

きっと彼らにもう会うことはないだろうが、また会おう、と言うのがこの時間に対しての礼儀なのだろうとは、彼にもわかっていた。
ジャグラーはAu revoirと告げてコラントを去る。
それは1832年5月、ラマルク将軍の葬儀――六月蜂起まで一ヶ月の出来事であった。

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