さいはてナイトトレイン - 1/4

Brightest Shadow

「チケットはこれ」
手渡された切符は、表も裏もなめらかな黒色をしている。
光を吸い込むだけで何も教えてくれないその黒が、自分の持ちうるすべての財産と引き換える価値があったかを、クリーデンスは知らない。
発車駅くらい書いてくれたっていいだろうに、キングス・クロスとさえ表記されていない。知りうる限り大きな駅。行けうる限り大きな駅。キングス・クロス。一番近くて、大きい駅だった。そこからなら、きっとどこかに行けるのだ。
とりあえず遠くに行きたかった。できればこの国の外へ。遠すぎるとことばが通じないかもしれないから、行ける限りの遠くへ。本でしか読んだことのない土地へ。
「ここじゃなければいいんだ、とにかく、遠いところへ。この金額で買える、遠い場所へ。乗り換えはないほうがよくて、でもヨーロッパからは出たくはなくて、この服装で行けて、帰ってこられなくてもいいから、行けるところ」
クリーデンスは駅員にそう語った。駅員は表情ひとつ変えずにその話を聞いた。そしてチケットカウンターへ行くように促した。
チケットカウンターではなるほど遠くまで、と言われた。

その結果として得られたのがこれだ。
『遠くまで』行ける切符をクリーデンスは握っている。

クリーデンスにとって、列車に乗るのは初めてではなかった。
『母さん』に連れられて、ロンドンの外へ行くために。珍しい食料を買い出しに行くこともあった。印刷会社に注文しに行くこともあった。『正しいこと』を伝えていた。『正しいこと』がまったく正しくないことは知っていたけれども、知っていることは隠さなくてはならなかった。というよりも知っていることにするとここでは生きていきにくいから、知らないこととしていた。それ以外のことはあまり知らなかった。自然、科学、文学、そういったものたち。
ただ、たいていのものはロンドンにあった。物質的な意味であれば。ロンドンの中でさえも『教化』できていないのだからだから、わざわざ線路の向こう側まで行く機会がなかったのだ。その時に乗った列車をよく覚えている。蒸気機関の音、騒がしいコンポーネントの外、自分がなにかに興味を示したときの冷たい視線。『家』に帰った後に何が起こったかは、思い出さなくてもわかる。クリーデンスはてのひらを見つめる。今は傷のないその手が、どうやって庇護されていたのかも知っている。

しかし、今は自分の意思で、自分のために、列車に乗るのだ。
自分が何者なのかを知るために、どこかに行かなくてはならない。もうロンドンにはいられないし、追われるのも嫌だ。そうなったら、どこかに行くしかなかった。水に小石が落ちたように、波紋は決して消えないように、クリーデンスは思う。
どこなのかはわからない。とにかく遠くへ。自分のかつていた場所へ。自分のいるべき場所へ。
切符には乗車時刻は示されていない。時刻表を見ても頼りにはならない。先程の駅員にもう一度尋ねてみようかと思ったが、駅は大きすぎて、さっきの窓口がどこにあるのか、どんな窓口だったのかさえ思い出せなくなった。
クリーデンスはホームで待つ。軽いかばんを置いて、ベンチに座る。ベンチは鉄でできているようで、体温を容赦なく奪っていく。
キングス・クロス駅は人でごった返している。大きな荷物を持った旅行客がいると思えば、ビジネスバッグに最低限の書類を詰め込んで急ぐ背広姿の男もいる。カートに荷物と子供を乗せた大家族もいる。こんなにたくさんの人を見るのははじめてだった。人自体は見ているけれども、その大抵が家のない子供たちだった。
彼のいる九番ホームには、たくさんの列車がやってきて、人を吐き出して、人を乗せる。
その中に、クリーデンスの乗るべき列車はないようだった。
そういえば、もっと荷物を持ってきたほうがよかったんじゃないだろうか。着る服だってあの家が潰れたときにおおかたなくなってしまったけれども。でもこのコートはある。いくつかのシャツもある。小銭ならまだある。旅先で買えばいいのだ。案外心は軽かった。家がなくなったというのに。なにもないからかもしれなかった。糸の切れた凧は空に飛んでいくしかないし、落ちればそれまでだ。

あるときホームの人の流れが止まる。黄金の縁取りに輝く列車に人々は乗っていく。車体は揺れながら人を乗せていき、景気のいい汽笛の音とともに発車する。クリーデンスは辺りを見回す。九番ホームから、一番ホームまでを視界に入れることができる。今どこにも列車は止まっていない。こんなに広かったのか。人が多すぎて気付かなかったけれども。
そしてクリーデンスはひとりになった。列車を待つ人もいない。駅員もいなくなってしまったようだった。壁に貼ってある時刻表によれば、この時間に列車は来ない。だから、これで正しいはずなのだ。

ぼんやりとしていた彼の意識を引き戻したのは、鋭い警笛の音であった。先程の汽車とは明らかに違う。列車が近付いてきたのだろうか。ホームから少し身を乗り出して、右を見ても、左を見ても、列車の来る気配はない。
気のせいだったのだろうか。
クリーデンスはベンチに戻る。せっかく切符を買ったというのに、乗るべき列車がないのなら、意味がない。
座って、顔を上げて、そうすると。
そこに列車がある。今までの汽車よりも気品を持ち、壮麗な装飾を持ち、何より真っ黒であった。
その列車は暗い闇をまとっている。
車体が黒であるだけではなく、どことなく冷たい空気を漂わせたそれは、クリーデンスの知る列車とは多少離れていた。蝶に似ている、と思う。夏にしか現れない黒い蝶。ひらひらと飛んでいき、いつか落ちる姿を人間には見せない、貴婦人のようにも見えるそれらだ。貨物なんかは似合わない。ひとを乗せなくたって構わない。それがそれ自体で完結しており、他者を求めないようなそれは列車だった。
これは、遠くまで行けるものなのか。チケットの黒との近似も見られる。冷たい黒だ。そう思って手の中にある切符を見ると、今まで印字されていなかった箇所に、シルバーのインクでShadow Lineの文字が現れた。

眼の前の列車の行き先表示には、切符と同じシャドーラインの表記。駅員は見えない。一番安い切符だから、客室乗務員が迎えに降りてくることはないのかもしれない。少なくとも、行き先は同じだ。降ろされはしないだろう。これが乗るべき列車だ。これじゃなかったらどうすればいいんだ。時刻表にない列車。誰もいないホーム。
誰かが乗るのを待っている列車。

かばんを持って立ち上がる。近付くと、自動で扉が開いた。最近はそういうものもあるのか。足元はふかふかとしている。絨毯なのだろうか。踏み心地は悪くない。
そういえば、切符を売ってくれた駅員の表情は、どんなものだっただろうか。
記憶の暗がりに、それはあるようだった。

そう思う間もなく、扉は自動的に閉じる。がしゃんとした音がして、扉は施錠される。一瞬真っ暗になったが、すぐに明かりがつく。
汽笛の音がする。列車はゆっくりと動き出す。

切符には列車名のみが記されていた。それ以外のことは特に書いていない。日程や、時間も。指定席でもなさそうだ。
見たところ、列車の中にはだれもいないようだった。もしも人が来たら、譲ればいいのだし、と、クリーデンスは近くのコンポーネントの中に入る。四人掛けを想定されているだろうその座席は、一人で専有するには広い。カバンを置いてなお、ゆったりとしたスペースがある。
コンポーネントは黒と紫を基調としたレースで装飾されている。カーテンも、テーブルクロスも細かなレース編みだ。雑に触れたら破けてしまいそうだ。テーブルには闇の溶けたような青みがかった黒い薔薇が生けられている。隣には、冷たい色のランプが置いてある。ランプには火が灯っている。見つめても、眩しさはない。むしろ暗い冷たさがある。手を近付けても熱くはない。こんなランプは見たことがなかった。暗いのに、確かに明るいのだ。
見るからにふわふわとした座席に腰掛けると、ベンチとはかけ離れた快適さがあった。こんなにやわらかなソファには座ったことがない。手すりも深い色の木材でできており、すべすべとしている。床までもが毛足の長い黒の絨毯で、木の床とは大違いだ。
コンポーネントに驚いていると、列車は静かに揺れながら、どこかへと動き出す。右なのか左なのか、いや、北なのか南なのか。シャドーラインというものがどこにあるかは当然知らないが、そういった名前の土地もどこかにあるのだろうと、クリーデンスはぼんやりと考えていた。
普通の列車であれば、切符を改めに来る車掌などがいてもよいところだ。何分か経過しても、車掌が現れることはなかった。他の客もいないようだ。車内販売もない。無人の列車なのだろうか。

なんせこれは遠くへ行くであろう列車なのだ。ロンドンの景色とはもう別れなくてはならない。ロンドンには悲しい思い出のほうが多い。だけれども、なにもないわけではないのだ。たとえば街の路地から見上げた小さな月、全部食べてもよいと言われたときの朝食、新しくなった布団で眠る最初の日。
思い出されたのは不思議と明るい方の記憶ばかりだった。それ以外のこともたくさんあるけれども、底に沈んで昇ってはこない。

カーテンは閉じられている。
深い紫色に染められた、厚手のカーテン。二重になっており、レースの部分は白だ。触っただけで、これが上等なものだとわかる。クリーデンスはカーテンに手をかける。
ガラス戸は開けられなかったが、その先の光景に、そんなことはどうだってよくなってしまった。
窓の外に広がっていたのは、一面の闇、それからぽつぽつと灯る光だった。一直線の光をたどっていくと、それが道だということがわかる。大通りだ。ガス灯の明かりだ。高い建物もある。窓が光っている。そう、これは。ロンドンの夜景。クリーデンスがその結論にたどり着くまでに、それほど時間はかからなかった。
少し上を見上げると、星々も輝いていた。クリーデンスにとって、これまで夜空は家の中にいないという不安を煽るものだった。しかしこれは違う。あたたかな車内、ふかふかのソファ、ガラスの向こうの星空。安心できる場所から見る星は、これほどまでに美しかったのか。
どうして夜が見えるのか? それ以前に、この列車は、飛んでいるのか。
そうだとしか考えられなかった。雲の上からでなければ、こんな景色が見られようがない。列車は揺れている。その揺れはレールとの摩擦から発生するものではない。空気と車体がぶつかっていることによるものなのだ。

もしかして、これは。
魔法界に連れて行ってくれる列車なのかもしれない。空飛ぶ列車というのは、人間の世界にあるわけがない。ファンタジーの物語の中にしかなく、ときに弾圧されるものだ。
クリーデンスは胸を高鳴らせる。魔法界には失望もあった。連れて行ってくれるはずの人はあのような冷たく残忍なものであったし、魔法界すらも希望にあふれる場所ではなくなってしまった。夢に見たもの、自分がそこに行けば、今のような生活ではなくなって、幸せに、暖かい場所で、暮らせるのだという希望。そんなものがあるだなんて、今は思えなかった。しかし、そこに行けば、なにかが変わるのではないか。今よりはましだ。ロンドンにいるよりはましだ。こいやって灰色の怪物でいなくたっていいんじゃないか、魔法が使えて、自分のほんとうの居場所を見つけて、そして。
そして、素敵な家族がいて、たのしく、豊かに、暮らせるのではないか。

「あら、お客さまかしら?」
クリーデンスの思考を寸断したのは、みずみずしい白い花のような声。
彼に声をかけてきたのは、まばゆく白いレースに縁取られた、紫色の生き物だった。人間よりもだいぶ大きな顔に、つぶらな瞳。ヒトではないことはすぐにわかった。あまりにも大きい。クリーデンスと同じくらいの身長があるが、横幅は四倍くらいある。
「ぼくは……」
「ええ、お客様ね!」
鈴の鳴るように、というのは彼女の声を形容するためにあるのだろう。人間の基準からすると異形ともとれる外見をしていたが、声はそれとは対照的に美しかった。女性の声に似ていたから、クリーデンスはその生き物を彼女と呼ぶことにした。彼女はとても楽しそうにしている。
恐ろしくはなかった。人間の姿をしたもののほうがよほど恐ろしかった。魔法を使えても、使えなくても、人間は彼を傷つけるものであった。人間は彼を排斥し、人間は彼を利用した。人間は支配しようとしたり、道具として使ったりしてくる。
それから。
自分よりも醜悪なものがあるとは、クリーデンスには思えなかった。

紫色の生き物は、コンポーネントの中に入ってきた。彼女は、クリーデンスの向かい側に座る。
「この列車に乗ってくる人なんて、久しぶりで、どうしていいのか」
「あの、これは、どこに行くんですか」
「そう、名乗るのを忘れていたわ。わたしはグリッタ」
見た目よりもずいぶんときらめきのある名前をしていた。しかし、細やかなレースを身にまとい、輝く声を持つ彼女には、似合っている名前だった。
クリーデンスにとって、名前を名乗るのはあまり気の進むことではなかった。ほんとうの名前は、最初から奪われていた。だから、この名前でいるしかなかった。
「ぼくは、クリーデンス」
「クリーデンス! 素敵な名前ね!」
グリッタの表情はよくわからなかったが、声の調子から、ほんとうに喜んでいるのだろうとわかった。こんなに無邪気で、たのしそうなものは、クリーデンスの記憶にはないものだった。

「どこからいらしたの?」
「これまでは何をなさっていたの?」
グリッタはクリーデンスを質問攻めにした。クリーデンスにとっては、すべてあいまいなものであった。それでも、グリッタは落胆することはなかった。
「どうやってここへ?」
「それはぼくにもわからない」
「そうね、シャドーラインに乗るものの多くは、なぜ自分がここにいるのかを知らないわ」
はなしが一段落したところで、彼女はそういえば、と切り出した。
「少し寒くはないかしら」
グリッタは手の中から黒いもやのようなものを生み出して大気中に展開した。ちかちかとまたたくもやは中空にとどまり、彼女の手のひらの中で布地に変わった。
「こちらを」
クリーデンスはブランケットのように肩からその布を掛けた。つやつやとしていて、手触りがよい。軽いが保温性があった。ソファの素材に似ている。人間の世界ではこんな布に触れたことはなかった。

「もしかして、魔法使い……?」
こんなことができるのは、魔法使いでしかありえなかった。科学の力では到底追いつけない速度の物質の作成だ。ここにいるグリッタが魔法使いならば、これは魔法界行きの列車なのかもしれない。
「魔法ではなくて、これは闇よ。闇は、わたしたちと共にあるもの」
「きみは魔法使いではないということ……」
その答えはクリーデンスを落胆させた。
「そうね、わたしたちは魔法使いじゃないし、人間でもないわ」
グリッタは少し考えてから言う。
「わたしたちは闇から生まれたの」
「それじゃあ、ぼくと一緒だ」
自分がどこから来たのかわからない。怪物が、自分の中にいることはわかっている。あれが闇でないのならば、何が闇に値するのだろうか。
「あら、そうなの? わたしには、そうは見えないけれども」
クリーデンスはブランケットを握りしめる。やわらかな記事は彼の戸惑いも受け止められてしまう。こんなものを生み出せるのだから、彼女が魔法使いでなかったとしても、彼女が好ましいものなのだろう。たとえ闇から生まれたものなのだとしても。

「この列車は、どこに行くのだろう」
切符を見る。終着駅は書いていない。どこか遠いところに行くための切符は、明確な目的地を持たないのだろう。
「わたしたちは闇の中を走るわ。駅に向かって」
「終着点は」
「どうなんでしょう、考えたこともなかったわ……」
そうだ、でも、もしかしたら、わかるかもしれない。グリッタは言う。
「ちょっとこちらにいらしていただけないかしら」
コンポーネントを出るグリッタに、クリーデンスはついていく。揺れは少ないので、歩くのは簡単だった。隣の車両に移る。そこも先程までの車両と同じように、コンポーネントで区切られている。
次の車両に移ろうとすると、ひとつの扉があった。
「失礼いたします」
グリッタは言う。両手で扉を押し開ける。そこには闇があった。今までの車両も暗かったけれども、それとは違う。純然たる闇だ。光を吸い込んで、どこにも与えないような黒。
なにもない、というのが一番近い。
なにもない、というにはなにかがあるのだが。
「これは」
「あら、まだこんな形で」
グリッタが闇に向かってゼット様、皇帝陛下、と呼びかけると、ふわふわと渦巻いていた闇が人の形に凝る。白を基調とした衣装に、紫色の布地をアクセントとしている。全体的な配色としてはグリッタに似ているが、大人の男の姿だ。人間の。
「どうして起こした」
眠たげにその男は言う。
「お客様よ」
「シャドーラインからか」
「いえ」
「じゃあレインボーラインか」
「いえ」
「人間の世界か」
グリッタは答えない。
その男はクリーデンスを見る。
冷たくもあたたかくもない瞳だ。温度の代わりに、諦念があるような。光も影も反射しない瞳だ。
見た目からしてみれば、グリッタに比べると、かなり、『人間』に似ているように思われた。もしも、このままロンドンにいたって、普通の人に見えるだろう。だけれども、彼と並べば、グリッタは可憐とすら思えるほどに、ある種の威風を備えていた。
ひとが現れたと同時に、その車両は王座を備えた華麗な広間と変化した。鈍く銀色に光る王座の横には、大きな鏡が置かれている。手招きされて、クリーデンスはそちらに向かう。

「紛れ込んだ子供にしては大きいな。まあいい」
おれはゼット、闇の皇帝をやってる。
その男は短く告げた。
「闇から出なければ、闇の皇帝であることすらもわからないが。区切りがなければただの闇だ。つまり、今んとこは、寝てたってわけだ」
ゼットと名乗るその男は、皇帝であると言われたら納得できる威容を持っていた。見かけの年はクリーデンスよりも少し上くらいだが、何百年も生きていると言われたら信用できてしまうような。
クリーデンスはチラシを配るとやってくる偉そうな男を思い出す。彼は常にクリーデンスたちを小馬鹿にしているのだが、配給のスープだけは持って帰るのだ。蔑みながらも利用する、よくいるパターンの男だった。彼はゼットと同じくらいの年に見えた。だけれども、ゼットのほうがよほど堂々としていて、まともな人間に思われる。
「彼はクリーデンスよ」
グリッタがクリーデンスをゼットに紹介する。クリーデンスは小さく礼をする。
悪い人には見えなかった。そもそも、クリーデンスの周りにいた人たちは、『母さん』と『利用してくる人』か、子供たちのような『傍観者』しかいなかったから、そのカテゴリのどれにも入らないのは自然ではあったのだけれども。
少なくとも、このゼットというものが、いきなり殴りかかってくることはなさそうだ。
そのくらいで十分だ。
「お前がここにいたいなら、いてもいい。降りたいなら、どっか適当な駅で降ろしてやる」
まあ、降りたところで、お前に帰る駅があるとは思えないな。ゼットは言う。
「パリに行きたい」
つい口にしたのがその街の名前だった。どこか遠く、きらびやかな場所、それに当てはまればどこでもよかった。パリはさまざまな物語の主役になる年だ。ロンドンなんかよりもきっといいはずだ。
魔法界に駅があるのかも知らなかった。パリがそうなのかもしれなかった。
「パリ? そこに駅はあるのか?」
「さあ」
この列車が停まる駅には、ないのかもしれなかった。
「おれはキラキラを知ってる。それがおれじゃねえことも知ってる。それから、闇の中から光に向かったやつも知ってる」
ゼットは奥に置かれた玉座を見ながら言う。
「外に明かりが見えたろ? あれは、これまでなかったんだ。ずっと、ずっと深い闇の中を走っていた。だがな、光るようになったんだよ。あれが、街の灯が、たくさんのキラキラが。おれたちはここにいる。真昼に炎は見えないように。ろうそくの炎が太陽のもとでは儚すぎるように。太陽が明るすぎるんだ。炎を光らせるには。要するに闇が必要だ。だから、明かりが見えるように、おれたちはここにいる」
ゼットの言っていることはよくわからなかった。それにしては情念がこもっており、おそらく、真実なのだろうとは思われた。安心はできないけれど、信用はできるのかもしれない。もちろん、いつ裏切られるかは、わからないが。
「光を見ていたいなら、ここにいればいい」
「ここ以外の場所は?」
「ここにないのは、キラキラだけだ」
そう言ったゼットの肩の羽飾りは、ランプの光を受けてちらちらと光る。

「ちょっと上を見てみろ」
ゼットが言うと、列車の天井が透明になった。外の景色が見える。
「虹色の光の線があるだろ、あれがレインボーラインだ。あれが輝いてるのも、おれたちのおかげだ」
空の彼方を指し示す。そこには闇があった。
窓も開けられていたが、冷たい風が吹いてくるだけで、虹なんてどこにもない。
もし虹色のものがあったら、こんな闇の中では目立つはずだ。しかし、クリーデンスにはかすかな星しか見えなかった。それすらもあるのかないのかわからないくらいだった。
「虹なんてものは、どこにも見えないけれど」
「なるほどなあ」
ゼットはしばし黙り込む。列車の天井が不透明に戻る。
「お前に今のところキラキラはないんだろうな。でもいつか光るんじゃねえか、そんな気もする。だから好きにしろ。ここにいるのもいないもの、駅で降りるか降りないかも、お前次第だ」
ゼットはにやりと笑う。グリッタが、紅茶でも用意しましょうか、と言う。あたたかい飲み物がほしい気がする。ここは寒い。窓を開けているからだ。グリッタが窓を閉めてくれる。どちらにしても、ロンドンよりは、あたたかい。

「好きにしろと言われても、ぼくはもう、どこに行くのか知らないんだ」
クリーデンスはつぶやく。

閉じられた窓の外には明かりがある。街の明かりだ。どこの街かはもうわからない。あまりにも遠くに来てしまった。クリーデンスを拒絶したそれらは、きらきらと輝いており、いつか自分がそこに交じることがあるだなんて、考えようのないくらいの光量でもって、そこにある。

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