翼を背に持ち尚人間の形をしたものを天使と呼ぶならば、彼はまさしくそれであった。ABCの友の首領、アンジョルラスが革命の天使と呼ばれるには二つの理由がある。ひとつはその言葉に、力ある演説に、瞳の輝きにかつてのサン=ジュストの残照を感じたこと。そしてもうひとつは白鳥の如き翼であった。通常は外套によって覆われていたが、天候の良い日などにそれを脱ぐことがあった。民衆はその背に白く眩い翼を見た。存在しない光輪さえ見た。時に彼は両手を広げたよりもより広い翼を大気に展開し、生きとし生けるものすべてを大地に縛り付ける力を無視して宙を舞うのであった。
太陽を従え、人間の手のおよそ届かない場所まで飛翔し以て政府の不実を糾弾する姿は、その内実がエゼキエル書の天使であることを知るものにさえ、ラファエロの天使を思い出させるような美である。
コンブフェールは観衆に向けてこう言った。見よ、あれがヘリオスの戦車だ。その下に僕たちは団結すべきだ。プルーヴェールはアンジョルラスに一編の詩を送り、それはコラントが破壊されるまで部屋の片隅に刻まれていた。バオレルは作りものではないかと疑い引っ張ってみたが取れなかった。グランテールは翼持つ者を眺めながらアブサンを煽るのを日課としていた。彼の精神は空高いものを見上げるのを好んだ。
そんな折、アンジョルラスがグランテールの住居を訪れたのは五月の頭のことであった。ABCの友の会合が終わってから暫くはミュザンに居残ってカルタ遊びに興じていたグランテールだが、仲間たちがあれやこれやと理由をつけて帰ってしまったので、仕方なく程近い家に帰ったのである。馴染みの球撞場は休業日だった。無論家にも酒はあるので、適当な本を読みながら飲んでいた。手の届く場所にあったから読んでいただけのフーリエの思想を読み流していた時、木の扉を叩く音がした。
「きみが僕の家の門をくぐるだなんて珍しいじゃないか。初めてと言ってもいい。まあ見ての通りの安下宿で、門など無いんだがな。僕の忘れ物でもミュザンにあったのか、いやきみがそんな他人のことに気を配るなんて有り得ない。きみが見ているのは未来でしか有り得ない。現在の裏切りではなく遠方の栄光を見霽かし、自身は既にそこに居るのだろう。それでも、僕に話があるだなんて言うなら、きちんと聞いてやるというものさ」
アンジョルラスは普段通り、グランテールの返答などろくに聞いてはいなかった。酒瓶を持ったまま自分の椅子にいるグランテールを無視して、アンジョルラスは雑然とした部屋の中で辛うじて空いている寝台に座った。
「グランテール、きみに頼み事をするために来た」
僅かに開いた扉から差し込む光が、丁度アンジョルラスの面を照らしていた。ヘスペリデスの黄金の林檎が霞む程の光輝でもってグランテールの部屋の明度を上げたかのように思われた。
「そんなことのためにわざわざここに来たのか、先程ミュザンにいた頃に話せばよかったものを。それこそ何だってしようじゃないか。僕だって多少の素敵なことを身に着けているのさ」
護衛ならいつでも請け負うだろうし、演説だってきみに負けないくらいは出来るつもりだ。グランテールは自信満々にそう続けた。アンジョルラスはグランテールの方を見た。こちらへ向けられることの程少ない、硬質な天青石 の光を湛えた双眸が向けられて、グランテールは慄然とした。
「きみが何かを出来るというのか」
「勿論」
考えなしに与えた承諾を、グランテールは後に後悔することになる。
「ならば、もう一度、きみを信じる機会をくれてやろう」
僕の翼を切ってくれ、背中には手が届かないから。
グランテールは酒瓶を置く。そしてもう一度、眼前の首領の言を想起する。彼は一体何を言ったのか。グランテールの隠された篤実さは、アンジョルラスの言を認めたくはなかった。
「コンブフェールにでも頼み給え。彼は医学生だろう、鳥の羽くらい切ったことのあるはずだ。きみの翼だって、そう異なるものでもあるまい」
「断られたのさ、それは僕には荷の重いことだ、だなんて言って。他の者もすべてそうだ、何かと苦言を呈してくるのだ。そうでなければきみになど頼まない」
「その時に気付くべきなのではないか、イカロスの翼を放棄することはすなわち死を意味するだろう? もっとも、イカロスはどちらにせよ落ちるものだがね。その辺の学生だって労働者だって偶には正しいことを言うものだ。きみは翼であって、翼はきみである、それで何の問題がある。雨の日には傘代わりに使えるし大層便利だろう。人混みを避けて飛んだっていい。何よりきみの威容を示すのに、それは有用なのではないか」
「それらは大した問題では無いのだ。重要なのは、この翼は今や不要であるということだ」
「そんなの僕は、お断りだ」
グランテールはなんとかしてこの場から逃れたかった。友人たちの気持ちを心底理解した。無抵抗の人間の肉体に傷をつけることは躊躇されうることだ。ましてや相手はアンジョルラスで、そんなことが出来るというのか、彼の望みとはいえ!
その逡巡はアンジョルラスに全く影響を及ぼさなかった。彼の思考はアテナの明晰さであった。
「翼は天空を志向する。しかし、僕はこの地上に残らなくてはならないのだ。時は近い、その瞬間に民衆の傍にいられない翼なら、排除されるべきではないか。革命のためにこの翼を切るべきなのだ、威厳を僕は望まない。共にあることを望み、プロメテウスの炎を民衆に示すために来た」
アンジョルラスは銀の短刀を鞄から取り出し、グランテールに差し出した。革製の鞘の付いた簡素な作りのものである。
「今、僕でなくてはない理由なんてない」
グランテールが受け取ろうとしないので、アンジョルラスは短刀を床に放り投げた。乾いた音を立てて落ちたそれは、グランテールの足元で止まる。
「僕達は今、やらねばならない。それにきみは言っただろう、自分にだって何かが出来るのだと」
だったら証明してみろ。
グランテールは短刀を拾い上げた。どうやらそれしか、道は無いようだった。
グランテールがアンジョルラスの翼に触れたことなどなかった。触れようと思ったこともなかった。レダの見上げた白鳥は縦令高貴であろうと人の触れるべきものではなかった、触れることは即ち永代の破滅を意味する。
その翼が目の前にあった。上衣を脱ぎ捨てたアンジョルラスは床に座っている。グランテールは思わず手を伸ばした。
ペルシア産の最も上等な絨毯でさえ敵わないやわらかな、しかし羽毛の下には確実に骨のあることを予感させる、それは温かな翼であった。翼と人肌の境は不明瞭で、何故ならアンジョルラスの肌はそもそもが陶磁 の如く硬質な白を帯びていたからである。
「撫でていないでさっさとしろ」
グランテールは鞘から鈍く光る刃を取り出した、その切っ先は紙よりも薄く、空気でさえも切る事が出来るように感ぜられた。
右の翼の付け根を掴む。
アブラハムが子イサクを捧げようとしたときには止められたのに、これは革命への供物だ。祭壇へ自ら上る子羊が、刃を差し出して祭司に迫るのだ。あらゆる高潔のうちに神聖が生じるように、水晶の川の水は人間には清すぎるように、アンジョルラスは望んだ。合目的性の刃によって人間となることを、そして幻の中に立つことを堂々たるまでに宣言した、それは冷酷たる温情であった。冷酷と温情、その二つの間に矛盾を感じる向きもあるだろう。ところが、他の存在に対する救済者というのは上位に立たざるを得ない、ゼウスは姿を変える事無しに地上に降りることは不可能であるのだ。
付け根に刃を宛てがうと、そこは焼き菓子を切る時と同じような柔らかさであった。血が一滴も流れ出なかったので、グランテールはこれは人間ではないのかもしれないと錯覚した。だが、グランテールは見てしまった、今まさに天使の座を退こうとする彼の目に涙のあることを。
だからそのまま一気に振り下ろした。果たして哀れみであったのか、それとも別の高揚か。翼を支えていた左手が急に重くなり、グランテールは己が任務を達成したことを知った。
切り口には赤色が覗いていたが、血液が勢い良く吹き出すことはなかった。グランテールはそれに安堵した、それは自ら撒いた泥の中に一粒の金紅石 を発見するが如き徒労であった。
もう片方の翼を同じように切断したことをグランテールはよく覚えていない。同じように重くて、同じように落ちた、それらのことを忘れていたいと願ったからだ。ただ全てを忘れるには、骨を断つ感触は現実味がありすぎた。
アンジョルラスは服を着て、そのまま帰っていった。背中に付着した血液を拭きとっただけで、痕跡は跡形もなく消えた。礼を言う、とだけ言って、アンジョルラスはグランテールの居宅を後にする。翼のあった背中の膨らみだけが無くなり、それ以外は何もなかったかのように。
一人残された、残されてしまった。いつの間にか日は暮れていた、太陽は何処へ行ったのやら。指を舐めたら鉄錆と同じ味がして、グランテールは最初から彼が人間だったらよかったのに、と思った。今日はもう酒を飲みたくもなかった。
アンジョルラスの身体にあった時には朽ちることなどないだろうと考えられた純白の翼は、動物の死骸と同じようにひっそりと燃やされた。コンブフェールは煙を見送って言った。すなわちこれが天使の飛翔である。アンジョルラスは切った後の羽には見向きもしなかった。ただ背中が軽くなったと感じただけであった。彼の卓越性が損なわれることはなく、周りの者にはかつてアンジョルラスが翼を持っていたことを朧気な感覚としてしか持たないものすらいた。
グランテールは燃やされる前に右側の翼から一枚だけ羽を抜き取った。ささやかな反抗として、そして記憶の縁として。それは彼の机の抽斗、上から二段目にある。しかしグランテールはただの一度でも引き出しを開けることをしなかった。一八三二年六月を迎えた時でさえ、その白さの褪せることはなかった。
2022-05-30
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