クールフェラックにそれがはじめて届いたのは、秋口のことであった。大学の授業を終え、予習のための本を借りて家に戻ってきたところ、門番に呼び止められた。なんでも手紙が来ているという。
「手紙? まさか親ではあるまい」
来るとしたら親くらいしか当てはない。友人とは毎日顔を合わせるのだから、こうやって手紙を送るる遊がない。その他に来るとしたら大学からの除籍通告だが、幸いなことにクールフェラックの前学期の成績は特段悪いものではなかった。
門番は彼に白い封筒を手渡す。
――サン・ジャック門、ド・クールフェラック様。
灰青色のインクで書かれた宛名は、彼にとって見覚えのない筆跡であった。裏返しても、住所も名前も記されてはいない。
部屋に戻ってから封を切ると、次のような文言があった。
『身分を明かすことはできないが、マリウス・ポンメルシーの縁者である。
事情を明かすこともできないが、彼の動向を知らせてくれないだろうか。
月に一度で構わない。
部屋の扉に挟んでおけば、使いの者が回収しに来るだろう。
最後に、この手紙のことをマリウス・ポンメルシーには知らせないように』
「マリウス、マリウスか」
その文章はクールフェラックにいくつかの驚きをもたらしたが、そのひとつがマリウス・ポンメルシーの名があることだった。
マリウスはつい最近クールフェラックの隣に引っ越してきた友人である。馬車から。
手紙には、送り主がマリウスの縁者であると書かれているが、彼の身寄りのないことは聞いている。つまり、身寄りがないとはいっても、頼れるような間柄ではないというだけで、存在はするのだろう、とクールフェラックは推測した。この年頃の若者にはよくあることだった。大学の学費から何まで親に払わせている学生もいるが、そうも行かない者もいる。どちらかといえば前者に近い立ち位置であるクールフェラックは、マリウスの潔癖さに呆れながらも、同時に尊敬の念も抱いていた。
どんなに仲が悪くても、やはり親なのだ。息子の動向くらいは気になるのだろう。
クールフェラックは便箋と封筒を探す。長いこと使っていなかったので、どこに収納したのかを忘れてしまった。
文房具を入れている引き出しにも、本棚にもない。本棚を見ている途中に出し忘れた課題を見つけたが、見なかったことにする。
結局、便箋は洋服箪笥の底から発見された。
インク壺にペン先を浸し、数瞬考えた後、クールフェラックはこう書き記した。
『今日もマリウスは元気です』
嘘ではない。今日もマリウスは元気だった。翻訳だかなんだなの仕事をするのは大変そうだが、どうにか暮らしてもいる。
クールフェラックとだけ署名して、扉の隙間に挟んでおく。
果たして数日後、その手紙は消失していた。
どうも心配症の親なのだろう。ABCの他の仲間たちにも同じような連絡が来ているのではないかと訝しんで、それとなく聞いてはみたものの、このような手紙が来ていると答えたものはいなかった。
最後に尋ねることになったのはレーグルで、え、手紙? そんなもの、誰からだって送られてこないよ。恋文ならともかく。だなんて笑っていた。
「それにしても、どうしてきみがマリウスを拾ったんだい? 可愛らしい娘っ子ならともかくとして」
夕暮れのカフェ・ミュザン、正式な会合が始まる前の空き時間、ボシュエは入荷されたばかりの葡萄酒を注ぎながら言った。
「僕も、困っているものを見て、放っておけるような人間じゃないって、思いたかったからな」
「じゃあぼくの家に招いたって構わなかったじゃないか。助かるのは同じだし、お忙しいきみの手をわざわざ煩わせることもない」
「雨のたびに修理したはずの屋根が飛んで行く家なんかに、任せられるものか」
「ふむ、一理あるな」
実際、レーグルの家はなぜか天変地異に見舞われやすく、その度に親しい友人のジョリや彼らの恋人たるミュジシェッタ嬢の厄介になっていたのだ。本人は大して気にしていないようだったから、友人たちも恒例行事としてやり過ごしていた。
「それにな、なんと言えばいいかな。彼の瞳に跳躍の芽を見たのだよ」
それは火花、星から降る光、あるいは未来と呼ばれるもの。
金がなくて馬車から出られないのだと言った彼。レーグルの気まぐれと悪運のおかげで除籍されずにすんだ彼。どう考えたって行き止まりだ。それなのに、マリウスの目は希望を見据えていたのだった。そう見えたのだった。
今時の若者にはなかなかないものだ、と、自分の年齢も棚に上げて直感したのだ。
「まあ、話してみるとどちらかと言えば岩のような意思を持つものだということもわかったが。岩というよりペトロだがね、あの貞節は! まるで青春なんてものを知らないみたいだ。遊ばなくってどうするというのだろうか。僕らは学生だというのに」
クールフェラックとレーグルが盛り上がっているところに、隣のテーブルでもうすっかり出来上がったグランテールが割り込んできた。
「蝶々としては生き得ない魂があるのさ、ふらふらと花を巡って居場所を見つけられずにさまようことなんてできない魂がね。かわいそうなプシュケ! 空気としてどこまでも上に行くことしか知らないんだ。地上を見下ろすつもりもないのさ。おまけにつがいを持った蝶々なんて、二度と戻っては来ないよ」
「きみは一度酒精以外の力で地上から離れてみるんだな」
レーグルがグランテールの酒を補充しながら言って、グランテールはそんなことできるものか! と一気に煽った。
酒飲みの戯言が当たったのかそうでないのか、マリウスが恋に落ちるのを、クールフェラックは見ることになる。
「名前は?」
「初恋だろうよ、見ればわかる」
「なに、この僕にかかれば、パリの娘っ子なんて花屋に売られているバラのようなものさ。親切な忠告を聞いてみる気はないか」
何を言ったところで、マリウスは貞節を持った沈黙を守りつづけた。クールフェラックはそれに苛立ちを覚えた。
マリウスがクールフェラックの家を訪れて、『彼女』のはなしをしていたとき、クールフェラックがこう茶々を入れたことがある。
「娘っ子ひとりに入れあげたって、いいことなんてないよ。ほどほどに付き合うのがいいんだ」
「ぼくはきみとは違う」
マリウスは即座に荷物を抱えて出ていった。彼が怒るのを見るのはそれが初めてだった。
律儀なことに、手紙の催促は毎月訪れるのだった。サン・ジャック門、ド・クールフェラック宛。毎回、クールフェラックと直して送るのに、旧制度の残滓である小辞を取り除く気は、先方にはないようだった。
一度、マリウスが元気であるという旨を書いた下に、貧乏学生なので紙代も馬鹿にはならないと添えたら、次からは何フランか入ってくるようになった。クールフェラックはそれを手間賃として受取り、かつ、マリウスへの援助の元手とした。
マリウスは時に、クールフェラックに対して金が借りられないか頼むことがあったが、クールフェラックも困窮時にはマリウスから金を借りるのであるから、問題はなかった。
クールフェラックは手紙に、『マリウスは今日も元気です』以外の報告は書き記さない。
嘘ではないからだ。勉学に励もうとも、危うく単位を落としかけても、恋をしても、元気ではある。
サン・ジャック門近辺には住めなくなって、ヴェルリー街に引っ越したところで、あの手紙の主は目ざとく嗅ぎつけて報告を要求してきた。ものすごく暇なのか、金がありあまっているのか、マリウスが心配なのか。あるいはそのすべてなのか。わからなかったけれども、大した手間でもなし、小遣い稼ぎも兼ねて毎月送っていた。
引っ越してからこちら、マリウスはクールフェラックの部屋に入り浸っている。マリウスの行きたい場所の近くでもあるようだったから、クールフェラックは特段咎めることもしなかった。最初は布団を一枚分けてやればよかったけれど、あまりにも頻繁に来るので、布団を増やすことにはなった。
薄いコートで十分なくらいの、春のことだった。マリウスは連日夜も更けた頃に帰ってくるようになっていた。家主が寝ているわけにもいかないから、クールフェラックはだいたい原稿を作るか本を読むかして時間を潰していた。
その日は珍しく、十一時半くらいにはマリウスがやってきた。もう、今日は泊まらせてくれないか、ではなく、ただいま、と言う。クールフェラックもそれを理解し、おかえり、と返す。
軽く食事を取って、次の日の準備をしたら、だいたい眠ってしまうものだけれども、若者たちにはなんとなく話して夜を明かしてしまいたい日というものがあって、その日がそれであった。
「マリウス、きみは、しあわせか」
明かりを消して、布団に入ったところで、クールフェラックがぽつりとこぼすと、マリウスは明確に応えた。
「ああ」
「僕には、きみの夢の王国のことなんかわからない。ガラスの都で蝶を追いかける日々なんて、想像することすらできない。僕らには使命があるから。共和制をもたらすというね。でも、そうか」
ふらふらと娘たちと遊んで、仲間がいたから革命に参加して、学業をほどほどにこなして。もし革命がなかったら、適当に結婚したり、適当に子供を作ったりもしたのだろう。そういった普通の人生からは逃れられないし、それでも周りの皆を笑顔にする才覚だけはあるので、それでもよいと思っていた。
そのくらいで、しあわせというのは、いいと思っていた。
「きみはしあわせなのか」
「何だよ急に」
照れ隠しのように、マリウスは枕をクールフェラックに投げつける。
「いや、たまにはな、僕も一角の考えをするものだよ」
「きみはいつだって雲を地上に下ろすために考えているじゃないか。ふわふわとした理想を、地上に顕現させるために」
「うまく進んでいるとは言い難いがね」
市民を説得してはいるが、まだ足りないというのはわかっていた。労働者にも、学生にも、当事者意識が足りないのだ。どのようなすばらしい演説があったところで、燃料のないところに火を点けることはできない。
「仲間も増えてきたって聞いたけれども。この前授業で会ったバオレルが言っていたよ」
「おいあいつちゃんと授業出てるのか」
「たまにはね」
それからふたりで他愛もないはなしをした。始めて会ったときからこちら、そう真面目な話をしてきたわけではないけれども、そのほうがよほど、ひとの本質に近づくのであった。
「きみも早く寝たまえ。忙しいんだろう?」
枕を投げ返してクールフェラックは言う。そうかもね、おやすみ。どこであってもすぐに眠れるというのは、マリウスの長所であるとクールフェラックは思う。それからしばらくして彼も眠りに落ちた。
まともにマリウスと話したのはそれが最後であった。五月も末になると、何かが起こるのだろうと予感されつつあり、ABC友の会の活動にかかりきりになってしまったし、マリウスはマリウスで用事があるようだった。
一八三二年六月五日、ABC友の会は、ピストルを構えたりサーベルを振り回し、仲間を募りつつバリケードを建てる場所を探していた。クールフェラックももちろんその中にいて、待ちゆく人々に声を掛けたり、仲間の士気を高めるために叫んだりしていた。
そうしていると、彼の部屋のあるヴェルリー通りに通りかかった。
「ちょうどいい、財布と帽子を忘れてたんだ。あとで合流するから、よろしく」
彼のような洒落者にとって、革命において帽子のないことは教会のない町のように欠落をもたらすものだったし、財布は、あって、困ることはない。もうひとつ気になることもあったことだし。
「すいませんが、マリウスさんは?」
部屋に戻る途中に、ずっとクールフェラックのことを待っていたのだという奇妙な青年と出くわす。みすぼらしい身なりはしているが、疲れているような様子はなく、むしろ生気を感じさせた。
「ここにはいないよ」
「帰ってくる?」
「どうだかね」
「一緒に行っても構いませんか」
その青年の瞳に、ぱちり、と、同種の光を見た。誰かと。
恋をする人間の光だ。ここで燃え尽きてしまっても構わないという閃光だ。
それに、仲間は、ひとりでも多い方がいい。
「ちょっと待ってくれないか。何、長くはかからない」
机の上に帽子はあった。椅子の下に財布はあった。それから、洋服箪笥を開ける。便箋を取り出して、ペンを手に取る。インク瓶にペン先をつけるのもまどろっこしい。
さらさらと十数行か書き記して、封筒に入れ、署名をする。
「すまないね、行こうか」
ドアを閉める時に、手紙を隙間に挟む。もう戻ることはないだろう。何が起こるにせよ。
※コメントは最大500文字、5回まで送信できます