アンカー
海はあまり好きじゃない。好きなこともある。海風に当たると気分がいいと思うこともある。でも好きじゃないってことにしておいたほうが安全だ。勢いがあるときにうっかり海に飛び込んでいって足がつかないところまで到達したら帰れなくなる。だから海は好きじゃないということにしている。
そのせいか、ぼくは眠れない夜に海を思い出す。入ったこともない海を。なら思い出すというのは不適切なのかもしれない。眺めたことしかない海のなかに入って、沈んで、浮かばなくなって、そのまま沈んでいくような錯覚を覚える。それが錯覚だってことはわかっている、わかっているのにリアルだ、その底に何がいるのかはなんとなくわかっていて、沈みきったらある意味では楽になれるとも知っているのに、ぼくはぼくである以上もがきたくなってしまう。イメージのなかであっても、もがけばもがくほど水というものは肺にからまりつくものだ。酸素を求めれば求めるほど、水面は遠くなってしまう。
ウォッチタワーの設備はどこだって快適だ。ベッドもふかふかだし、ブランケットの肌触りもなめらかだ。なのに、こんなふうに、眠れないってことはたまにあって、今のぼくは完全に海の底まで沈み切る前にどうするべきなのかを知っている。起き上がるためにも元気がいる。かろうじて身体が起こせるうちに、ぼくは大きく伸びをする。
各自の部屋に続く廊下は静まり返っている、当然だ、もう日付が変わってから二時間は経っているだろう。それでもまだ誰かが起きてるんじゃないかって期待して、起きてなくってもまあ起こしてもいいかなって思いながら、ぼくはひとつの扉をノックする。しばらくすると、眠たげな男が出てきて、
「――またかよ」
とか言うので、
「おはよう」
と返してやる。
今はタンクトップ一枚の、よく鍛えられた身体を持つ、この男をジョン・ウォーカーと言い、最近――ってほど最近じゃないかもしれないけど、出会って、仲間というか、同僚というか、なんだろう、とりあえず広義では一緒に住んでいる、そういう感じになった。それとこの状況が結びつかない? それはそうだ。こんな真夜中に他人の部屋に行っていいわけがない。
まあ、でも、許されたくって、なぜならぼくは他人といると眠れることがあって、ぼくは何をしたいってわけじゃなくって他人がいればそれでいいんだけど、ついでにかつてはさまざまなトラブルを起こしたことがあるわけだけど、それは今は置いておいて、どうしてジョンなのか、その話をしたほうがいい。
簡単に言えば、消去法だ。
他意はないとはいえ、女性陣の部屋に行くのはためらわれるし、バッキーとアレクセイは仕事で外していることが多い。そうなると彼しか選択肢がなかったのだ。最初はどうしておれなんだよと言っていたが、何回か死にそうな顔で押しかけたらベッドから落ちるなよと言いつつ端に置いてくれた。彼でよく眠れるようになるのか不安な側面もあったが、その日はぐっすり眠れたし、その後もそうだった。
ジョンは、まあ立ってないで入れよと言ってくれる。それからぼくの方も見ないで自分のベッドに飛び込んだ。端は、というか、半分は空けておいてくれるので、言動が一致していないなあと思う。ぼくはジョンの部屋に入って、いつもながらトレーニングルームみたいだなと思いつつも、お言葉に甘えてベッドの端に転がり込む。
ウォッチタワーのベッドはひとりぶんだけど、普通のサイズよりはわりと大きい。大柄なひとが多かったんだろうか。だからこうやってふたりで入れるわけなんだけど――たくさん寝返りを打ったら落ちてしまいそうな気もする。起きたときに床に転がっていたことは一度もない。
ジョンは壁のほうを向いていて、ぼくのほうを見てくれることは基本的にない。いつもそうだ。こういうひとだっていうのはわかっている。ぼくも別にジョンの顔が好きだっていうわけじゃない。だからそれでもいいんだけど、ぽつりと、彼は言う。
「なんかあったのか」
「特になにも」
「……そういうものだよな」
彼になにがわかるのか、ぼくは知らない。このチームに集まったひとたちは、『ぼく』を知っている。ぼくも、彼ら彼女らのことを知っている。でもそれは、砂漠の中の一粒の砂みたいなもので、それは彼ら彼女らのすべてではない。ぼくのすべてなんか、ないように。
ぼくはブランケットをぎゅっと引き寄せる。そうするとあちら側から引き戻されるので、それをおもしろいとおもってついやってしまう。それでも彼は、ぼくからブランケットをすべて奪うことはないのであった。
「――やさしいなあ」
「は?」
「おやすみ」
そうしてぼくは目を閉じる。たぶんジョンもそうしていると思う。ここでぼくが海を思い出すことはないだろう。彼の存在がアンカーとなって、ぼくを底まで沈ませない。
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