神様の椅子

この椅子はぼくのために設えられた椅子ではない、と、メビウスは思った。当然のことだ。TVAの職員はみな同じ椅子に座っている――会議用の椅子も、食堂用の椅子も、尋問用の椅子もあるけれども、普段、仕事をしているときは、同じ椅子だ。ウロボロスが設計したとかいうその椅子は、何時間座っていても不快ではない。快適だというわけではないが。ずっと使っていて、ぎこぎこ音がするようになったら、備品係に言うと交換してくれる。ただの椅子だ。
なぜメビウスが唐突に、TVAの備品に過ぎないただの椅子について思索を巡らせる羽目になったのかというと、紙ファイルを届けてくれた誰かが――知っている顔ではあるが、名前を知っているほどではない誰かが――彼のデスクを訪れたことによって、二度と彼のデスクを訪れることのない誰かを、想起させたからだ。
メビウスはマグカップでコーヒーをひとくち飲む。キーライムパイによく合うであろうそれは、喉にかすかな苦みをもたらす。

かつて玉座を求めた神がいた。
その神は彼のともだちだった。
今となっては壁画になったが、
壁画になる前の思い出がある。

そう、それは、時空がこんがらがって、元に戻る――元に戻ったわけではなくて、また別の秩序がもたらされただけなのだが、それはいいとして――前のはなし、いくつもあったランチタイムのひとつのなかで、メビウスは、ロキに、どんな座り心地なんだ、と聞いたことがある。
「何のことだ」
大豆ミートのハンバーグを優雅に食べながら、ロキは冷ややかに答えた。
「玉座だよ」
きみが求めているものだろう、とキャベツのビネガー和えをフォークで刺しながらメビウスが言うと、
「嫌味か?」
「だって、ほら、王様が座る椅子なんだから、きっとふかふかしているんだろうなって、思うじゃないか」
メビウスは、当然ながら、玉座に興味などなかった。その立場にも。だから、特に考えたことがなかったのだが――眼の前のひとが気にかけているというのなら、考慮の余地はあり、ちょっとだけ考えて、言ってみただけだった。世間話の一環として。
世間話は、ひとと仲良くなるのに効果的な手段だ。その相手が「ヒト」でなかったとしても。
ロキはナイフを置く。
「玉座は冷たく、誰もを拒絶し、ただひとりだけを迎え入れる。その背もたれが金でできていようとも、鉄でできていようとも、同様に」
「鉄でできてる玉座もあるのかい?」
メビウスの言葉を無視して、ロキは続ける。
「それは、王である以前に、神が座る椅子だ」
なるほどなあと頷くメビウス、ランチタイムの効率化が進む中、これ以上話はしていられそうになかったのだが、ひとつだけ、と付け加える。
「そんな言い草なら、どうしてほしいんだ、それが」
すばらしいものがほしい、というのならわかる。メビウスにはわからないが、そのような価値基準で動いているひとがいるのは、わかる。
だが、ロキが語った玉座は「すばらしいもの」ではなかった。誰もが求めるようなものではなかった。
「だって、冷たい椅子になんか、誰が座りたいっていうんだ? ヒーターくらい、つければいいんじゃないか?」
「比喩だ」
「わかってる」
「それは、かつての、どこかの私が欲したものだ。この私じゃない」
そのときの、ロキの薄緑色の瞳が、なぜか印象に残っている。
気がつくと、食堂にはふたりだけが取り残されており、さすがにまずいな、とメビウスはキャベツに食らいつく。

これはそう、どのタイムラインにももはや存在しないできごとで、しかしメビウスはそれを覚えている。友人の、記憶を。どこかに行ってしまって、TVAでも捕捉できない場所にいる、ひとのことを。キーライムパイと同じ色の瞳を持った、ひとのことを。

ウロボロス――O.B.に、ロキがどこに行ってしまったのかを尋ねたことがある。しかし彼にもわからないのだという。壊れた機織り機の向こう側、時空の裂け目を超えてあちら側へ、歩いていくのまではメビウスも見た、それ以上のことは、なにも。わかったことといえば、今や時間軸は樹のようなかたちをとっていることだけで――それがロキのおかげであるということだけで、その当の本人が、ひょっこりまた廊下とかに現れて、メビウスをからかってくることはもうないことは、わかっている。一緒に時空を飛び回って、時系列を守る必要が、ないことも。

たまに、「本来の自分」を見に行く。「本来の自分」はこどもたちと楽しく暮らしており、ジェットスキーを売っており、いくつかの樹が立っている庭があり、たぶん、幸福だ。その幸福はロキと、それから、自分たちの仕事の成果として、存在することをメビウスはよく理解している。これがほんとうの人生なのか、と思う。
でも。
メビウスはTVAに戻ってきた。
あれがほんとうの人生だとして、ぼくの人生は、メビウスとしての人生は、たとえわずかばかりでも、ロキとともにあった。
ロキの守ったこの世界の、秩序を守る一員として在ることには、きっと、価値がある。枝切り鋏を持って、庭を木々を剪定していくのと、同じくらいの価値が。

× × ×

時間の向こう、空間の果て、常人には観測できないその場所に、一本の大きな樹が立っていて、そのなかではひとりの神が――彼のともだちが、望んだ椅子に、座って、微笑んでいる。

2024-03-05

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2025年11月21日