日本語はいい。読めばわかる。英語もまだいい。頑張って読めばわかる。ただ疲れた頭にスペイン語はきつい。伊賀栗レイトは誰もいないオフィスでモニタと向き合っていた。
窓の外はとっくに暗くなっている。遠くに電車の音が聞こえる。きっともうみな家に帰っていることだろう。
ルミナさんに今日は早く帰るって約束したのにな。まさか終業間際に重いタスクが降ってくるとは思っていなかった。もう少ししたら帰ります、とメッセージを送ることにする。
送信ボタンを押し、レイトはスペイン語の品目リストを眺めながらため息をついた。ここから必要なものを選んでリスト化しなくてはならない。せめて英訳を付けてほしかったが、急ぎなのだから仕方ない。
普段ならちょっと頑張ればわかるテキストでも、集中力がなくなった状態になると目が滑ってしまう。ええとこれはなんだっけ。品目リストに載ってるんだから間違いなくものではあるんだろうけど。調べなきゃな。
重たい頭を動かして、キーボードに検索ワードを入力しようとしていたところ、レイトの手が勝手に動いた。どうなってるんだろう? と戸惑っている間に、手にしていた書類を千切って口に運んでいることに気付く。ついに疲労で自分がおかしくなってしまったのだろうか、だなんて考えるまもなく、口がそれらを咀嚼して、飲み込んでいる。
喉にコピー用紙のひっつく感触があって気分が悪い。レイトはペットボトルの茶を飲み干した。これで少しは楽になる。
落ち着いたところで、これが自分の意志でないのなら、誰のせいなのかに思い当たった。でも、どうしてだろう。
「あのお、ゼロさん、今」
「え、だって、読めなくて困ってただろ?」
声の主――ウルトラマンゼロ、最近レイトのもとにやってきて、共に生き、共に戦っている宇宙からの来訪者だ――は悪びれなく言った。
確かにそうなんですけど、と言おうとしたら、さっき読もうとしていたリストの中身がするすると頭に入ってきた。なんだ、果物と野菜のリストだったのか。上からキュウリ、パッションフルーツ、マンゴー、スイカ、それから……日本語で読むよりダイレクトに、概念だけが入ってくるような感覚。
もしかして、これって食べたものを理解しているってことだろうか。
「これ、どうなってるんですか?」
「これ、って、食べただけだろ」
「いや食べましたけど」
レイトがそう言うと、ゼロはえ、いや、まさか、と彼にしては珍しく口ごもって、恐る恐る答えた。
「もしかして、地球人って、本食べても内容わからないのか……?」
「もしかしてもなにもわかりませんよ!」
「試験前に参考書食べたりとか……?」
「しませんよ!」
ゼロ曰く、彼らの仲間、ウルトラ族は情報の経口摂取が可能なのだとかいう。このように、本とか紙媒体でまとまっていれば、それを食べることによって理解することができるそうだ。
地球人であるレイトからするとちょっと考えにくい世界だが、今実際に経験してしまったのだから信じるしかない。
驚きはしたものの、便利な能力だった。レイトはリスト作成に戻る。これならどうにか作業が進められそうだ。
ゼロのおかげで、想定したよりも早く仕事が終わり、家へと帰る道すがら、ゼロはレイトに話しかけてきた。
「なんかちょっと腹のあたりに違和感が」
レイトとゼロはある程度身体の感覚を共有している。さっき紙を食べたのはレイトの身体だ。だからもちろん、レイトも胃の重さは感じていた。胃もたれとは違う、ちょっと嫌な感じだ。
「あのですね、ゼロさん、地球人は紙を消化できないんですよ」
「え」
「え、じゃないです」
もう、これ下手したらお腹壊しますよ、まあ水たくさん飲めば大丈夫かもしれませんけど……とレイトはこぼした。
その後結局一日くらいは胃が重かったので、紙は食べないほうがいいのだと身にしみた。そりゃあA4のコピー用紙を数枚食べたというのなら普通のことだが。ウルトラマンはよっぽど身体が丈夫と見え、ゼロはその事実にも戸惑っていたようだった。
どんなテキストでも、読まなくても内容がわかるというのなら、ゼロの能力は便利だけれども、その度に胃を痛くしていてはやっていられない。何より、ビジュアル的に不審である。地球人の社会では紙を食べないことになっている。
そして今日もレイトは外国語のレポートと戦っている。今回は日本語での要約だ。地球に襲ってくる怪獣と戦うことと同様に、彼にとってこれは戦いだ。複数の辞書を引きながらああでもない、こうでもないと試行錯誤していると、頭の片隅で、ゼロが何か考えているみたいだなということがわかった。それが何かを尋ねることはなかったけれども。
ゼロの声はいつだってどこかから聞こえる。気分もなんとなくわかる。チョコレート食べておいしいと思ってるんだな、とか、言語化されない感情がぼんやりと伝わってくることはある。
だけれども決して完全に自分の感情と混じり合うことはなかった。
自分よりははるかに遠いけれども、他人よりはけっこう近い。
ふたりの距離はそのくらいであった。
その日の帰りの電車の中で、そういえば、とレイトはゼロに話しかける。
「ゼロさん、今日、何か考え事してたんですか?」
「ああ、なんだ、地球人って、不便だなと思って」
「わざわざ辞書を引かなきゃいけないですからね」
「オレたちは基本的に他の星の宇宙人たちとも会話が通じるし、こうやってお前とも話せてる。地球の中でさえああやって翻訳が必要とはな」
ゼロはどこか得意気に言う。電車が揺れる。レイトはつり革を強く掴んだ。
「それに食べちゃえば内容がわかるんでしょう? すごいですね。地球人にもそれができたら、僕らの仕事半分くらいなくなっちゃいますよ」
「それに、手紙とか食べたら相手のその時の感情もわかるんだぜ」
「おもしろいですね」
そんなこともできるなら、ラブレターなんかには効果的なのかもしれない。ゼロのような姿のウルトラマンたちが愛をしたためた手紙を食べている光景を想像して、レイトは思わず小さく笑った。それから周りの目を気にして真顔に戻そうとする。いきなり笑いだしたら不審に思われてしまうだろう。
相手の感情が直接わかる世界。それがどんなものなのか、具体的にはわからない。
でも、なんだろうか。それもそれで何か、さみしいような気がする。うまく言葉にならないけれど。
レイトは電車のアナウンスを聞きながら思う。
あ、そうだ、次の駅で降りなきゃいけない。
家に帰ると、ルミナとマユはもう眠っていた。机の上にはポークソテーとサラダとスープ、それから一枚の紙が置いてあった。
『きょうは おさんぽにいったよ おしごとがんばってね』
マユからの手紙だった。ピンクのクレヨンで書かれた文字と、緑のクレヨンで描かれた木のようなもの。
レイトはその短い文面を三回ほど読み返した。かつては誤字と鏡文字だらけだった文面も、まだぎこちないとはいえ読みやすくなってきており、レイトはそこからもマユの成長を感じた。
そうしていると、感慨深そうに、ゼロが言う。
「ああ、そうか」
ゼロの視線がマユの手紙に行くのがわかる。
「手紙って、何回でも読み返せるんだな」
レイトは、
「そうですよ」
と答えてから、ああ、なるほど、と思う。彼らの文化では、手紙は食べてしまうものなのだ。そうすると、相手の感情がわかるかわりに、読み返すことはない。
一回性のできごとになるのだ。
「最初はぐちゃぐちゃの線だったのが、いつからか丸が描けるようになって。もう字も書けるんです。すごいですよ。子供って」
もちろん子供の成長を知る尺度は書字や絵画だけではない。だけれども、こうやってモノとして残る尺度があると、マユが将来大きくなったときに、こんなにできるようになったんだよ、と見せてやることができる。
「だから、ちょっと、うらやましいかもしれない。地球人が、情報を食べられないってことが」
確かにそうだ。僕らは情報を食べられないから、何回でも違う気持ちで、違う頭で、手紙を読むことができる。あと十年したら、この手紙を見てまた違うことを思うのだろう。
いいか、子供からこんなにたくさん手紙をもらえるなんて幸運、なかなかないんだぞ。とゼロは言う。
ゼロから、ふわふわとあたたかい気持ちが伝わってきた。彼もマユの成長をよろこんでくれているのだろうか。
「じゃあ、ゼロさんも読みますか? マユからの今までの手紙。一緒に」
全部しまってあるんですよ。ご飯食べたら、見てみましょう。レイトはポークソテーの皿をレンジに入れながら、そう言った。
せっかく地球に来たのなら、せっかく我が家に来たのなら、もっともっと、知ってほしい。僕らのことを。
これから、同じことを、違うことを、たくさん知ることができるのだ。
それは、レイトたちにとって、ひとつの小さな冒険であった。
2021-01-22
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