パノラマ/Reply - 1/2

パノラマ

死ぬつもりはなかったが死んでもよかった、とか、思えるのは生きてるからで、このマットレス固いなとか思えるのも生きてるからで、目の前の男に抱きしめられて息が苦しいのも、生きてるからだ。

結城凱は珍しく、どうしていいのかわからずにいる。とりあえず、離してほしいのだが、うまく力が入らない。
「竜、いったいどういう真似だ?」
凱が病室のベッドで目を覚ましたとき、眼の前にいたのは天堂竜だった。今の状況はなにがなんだかさっぱりわからないが、竜はよかった、とか、心配したんだぞ、とか呟くばかりで、離してくれる気配がない。視線をうろうろさせていると、その隣に香がいるのに気がつく。彼女も困惑しているようだ。
「だからなんだってんだ」
「おまえ、何も覚えてないのか?」
ここに来るまでのことで思い出せることはひとつしかない。
「……いい空だった」
目を覚ます前に凱が覚えているのはあの空、果てしなく青くて澄んだ空、それからみんなの笑顔、幸福な結婚式の光景。
それを見たことは覚えている。腹を刺された激痛の中で、薄れゆく意識の中で、最後に見たのが、空だ。小さな鳥たちの群れが飛んでいたのも記憶にある。
あれはいい空だった。
こんな、窓に切り取られた空なんかとは違う。どこまでも続くと思えた、永遠を感じた、あの空。
感慨にふける凱の言葉をよそに竜は言う。
「二週間だ」
「は?」
「二週間、おまえは、目を開けることなく、眠ってたんだ」
そのあと凱が医師から聞いた話によると、あのくらいの傷ならそのまま病院に行けば大した問題はなかっただろうけれども、放置していたから一時は死ぬ寸前であったのだとかいう。正直なところふたりの晴れ姿を見てからの記憶はおぼろげにしかない。近くの公園で倒れているところを見つかったらしいが、そこまで歩いた覚えもない。
「わたしたち、気が気じゃなくって」
香が口を手で覆う。こんな顔を見るのははじめてだ。折れそうになったことはあったとはいえ彼女は気丈な女だと思っていた。
彼らはできるだけ時間をとって様子を見にきてくれていたのだという。新婚だろうにありがたいことだ、と、他人事のように思う。
「まったく、もうおれたちは普通の人間なんだからな」
少しは気を付けろ、という竜の声は三年前――彼がリーダーを任じていたころの色に似てはいるが、すこしやわらかい。
「なあ……お前の言いたいことはわかったからよ、そろそろ手を離さねえか?」
ああ、そうだった、と、竜は凱を離してくれた。ようやく圧迫感から逃れられてせいせいした。それと同時にすこし肌寒くなった。
「最後にひとつ言っておくことがあるな」
「恨み言でもあるのか?」
「いっぺん地獄に落ちやがれ」
晴れやかな笑顔で竜は言ってのける。凱も思わず笑った。肋骨が痛い。

「へえ、それでこんな包帯ぐるぐる巻きってわけね」
凱が目を覚ましたという連絡は、かつての仲間たちのところにすぐにもたらされたようだ。次の日、香から連絡来たのよ、仕事の合間だからちょっとしかいられないけど、と言いながらも駆けつけてきてくれたのがアコだった。
「ひとをミイラみたいに言うな」
実際そこまで包帯が巻かれているわけでもない。せいぜい胴体くらいだし部屋着を着てるんだから特に見えることもない。
「まあまあお堅いこといいなさんな。比喩ってもんよ」
アコはベッドサイドでりんごの皮を剥きながら言った。テレビで見るきらびやかなステージ衣装ではないが、年頃の女の子らしくミニスカートを履いている。生意気なことを言いながら小器用にナイフを操るこの少女が、世界を救ったことがある上に、今はアイドルなんかやっているとか、にわかに信じがたいだろう。
「でもめでたい結婚式の真っ只中で死ななくてよかったじゃない。縁起でもないんだから」
「……ああ」
今日の天気はおだやかな曇りで、窓辺からは午後の柔らかな光が差し込んでいる。アコはリンゴを切り終わると半分を凱に渡した。かじる。適度な水気があって美味しい。
「何よ、すてきなリンゴだってあるのに、不服なことでもあるの? アコちゃんに話してみなさい」
不満なんかいくらでもあった、第一こうやって病院に閉じ込められているのが気に食わないし、テレビも自由に見られない。
まあ、そんなこと、言ったって詮無いことだ、と、凱はこうとだけ口にした。
「いや、病院でタバコ吸えないのに苛ついてるだけだ」
陽光が置いてあったナイフに反射して目に入った。ちくちくする。
アコはそれならこれでも食べてなさいと凱にさらにリンゴを押し付ける。
「元気になるまでタバコはおあずけ! どうせ数週間もしないうちに吸い放題なんだから」
今は体力の回復に専念しなきゃね! と、正論を言うようになった彼女も、成長したのだろう、あの頃の自由な少女を胸に秘めながらも。

だいぶ回復してきたころ、医者にはしっかり怒られた。大人になってからこんな真面目に怒られることもなかなかない。どうして救急車を呼ばなかったんだ、今回は助かったからいいものの、と、冷静に言われる方が余計に怖い。
そのときはどうしてだろうな、と、はぐらかしてしまったが、ほんとうのところはわかっている。
病室から見える青空、格子戸めいた窓枠の向こうに見えるさわやかな青色、同じ場所から眺め続けていればわかる太陽の高さの変化とそれが地上に届ける光の角度の違い、それもこれも悪いものではないけれども、あの日。
すべてを祝福する晴天、曇りひとつない蒼穹、舞い上がる花弁が彩りを添えて。
最高の親友と最高の女が人生の門出を迎えたあの日の、あの空は、命を賭けるに足る、空だった。

雷太は果物をどっさり送ってくれた。病院食のかさかさのものとは比べ物にならないくらいおいしい。オレンジの皮を剥きながら凱は窓の外を見ていた。ひかりが眩しい。目を焼くほどではない。ちかちかと痛みをもたらすそれを、結城凱は嫌っていない。オレンジはみずみずしくて喉を潤してくれる。これに浅煎りのコーヒーがあればなおよいが、ここにあるのは自販機で売っているものだけだ。

竜はたまに凱の病室に顔を出してきた。あの時みたいに抱きついてくることはさすがにない。あったら困る。仕事の様子は知らないが、数日おきに顔を出しにきた。地球が平和なのはよいことだろう。友人と呼べるような相手も少ないし、家族が来るわけもないから、気晴らしには、よかったのだが。
あるとき、竜が文庫本とハードカバーを何冊か持ってきてくれた。文庫はともかくハードカバーは重くなかったのだろうか、とか思っている凱をよそに、竜は明るく言う。
「暇かと思って。凱、本読むだろ?」
「お前にしては気がきくな」
なんでも大学の頃にかっこいいと思って買ったはいいものの読まずに積んでいたらしい。実に彼らしいエピソードだ。
『存在の耐えられない軽さ』『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』『罪と罰』『ゴリオ爺さん』とかよくもまあ内容の重い本ばかりを揃えたものだ。これらの本の重さをわかって買っていたのだろうか。本当に読む気があったのだろうか。かっこいいというのはタイトルのことだろうか。凱だってこのあたりの本がそれなりにヘビーなことくらいは知っている。読んだことのあるものばかりではないが『存在の耐えられない軽さ』は高校生のころに読んだ。それを読み返してもよかったがそんな気分ではない。おぼろげながら自意識に響くものがある。青い人間の恋愛のはなしは今ではないだろう。
じゃあ他に、と思ったところで、目を引いたのはカミュの『異邦人』だった。あらすじはなんとなく知っているが、実際に読んだことはない。たしか殺人事件の話だったと記憶している。あとフランス文学史的に重要だとか聞いたことがあるような気がする。退屈な日々にはぴったりの本だ。文庫にして一センチくらいの厚さだ。短すぎず長すぎずちょうどいいだろう。
他の本はとりあえず横に置いておいて、凱は『異邦人』を読むことにした。ほんとうにあの有名な書き出しからはじまるんだな、とか、間の抜けた感想を抱いたりした。
「きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない」
社会生活を送っている人間は通例、親族が死んだ日付くらい覚えているものだが、ものだとされているのだが、この主人公は、どうなのだろうか。ページを捲る。

おおむね回復はしてきているから痛みも少なく、ただあまり動くとよくはないということで基本的に、暇だ。二週間よくわからない理由で目を覚まさなかった人間が覚醒する事案はあまりないことのようで、検査があることもあった。その合間には時間があったので、すぐに『異邦人』を読み終えてしまった。読書の勘を取り戻すにはちょうどよかった。二周はした。
なんせ意味がわかるようで理解しがたい部分も多かったからだ。解説も読み込んだが頭で理解できても腑に落ちないところがある。
殺人事件のはなしである、という印象は間違いではなかったのだが、それ以外のこともけっこうたくさん起こった。殺人が行われたのは一瞬だったし主人公にはそれまでの生活と裁判でのひととのかかわりがあった。というより、世界と社会に馴染むことのできない主人公の自意識のはなしだった。それこそ、学生の頃に読んだらたいそう刺さっていたかもしれない。人間にはどこにも帰属意識を持てない瞬間の一つや二つあるものだ。今どうなのかは考えずにいたい。
あと妙に印象に残ったのは何回も繰り返される太陽の描写だ。おそらく演出意図があるのだろうけれども。
大人になってから本を読む機会は少なかった。というか東京に働きに出てきてからは本を読む余裕がなかった。学生のころはこうやって、背伸びして海外文学を読んだものだった、だなんて、思ったりはする。カポーティだとかサリンジャーだとか、あのころの自分に理解できていたかは定かではないが、少なくともその経験のおかげで訳文に対する親和性はある。
あのころを思い出した。なんだって理解できると思っていたころ、本の中には別の世界があってそこなら自由なのだと思えていたころ。

あの本どうだった? と竜がこともなげに尋ねてきたのはそれから二日後のことだった。
「お前読んでもない本の感想聞きにきたのか」
「おもしろそうだったら読もうかと思って」
「おっとそれは責任重大だな」
まあ、悪くはなかった。しかしなんとなく作者の意図が鼻につくところもある。というかこの男に読ませたところでわかるかどうかわからない。おそらく無理だと思う。凱は竜の文学的センスについてはあまり信用していない。
だからこう答えることにした。
「なんかやたらめったら太陽が光ってる小説だったな。でもこの主人公の信念というか、世界の見え方については、興味深いところがあったぜ」
「それってつまり、凱にとってはおもしろかったってことか?」
「簡単に丸めるな。けどよ、そう思ってくれても構わねえな」
「へえ、まともな小説を読むのなんか学生ぶりだな」
楽しみだ、と凱の手から取り上げた文庫本を眺める竜に、子供じゃないんだからと凱は思う。部屋には午後三時の光が差し込んできていて、竜の横顔を照らしていたが、彼がそれに気付くことはないだろう。
「まあ、一度死に損なった人間は、こういう本を読んでおいてもいいんじゃねえか」
「おい、それってどういう」
竜は凱に詰め寄ろうとするが、凱はそれを手で制した。
「忘れろ」
凱は竜から目を逸らす。竜はそうか、と言って、本を持って病室から出た。
あの男は、最後の戦いの時、自分に命を預けてくれた。それは凱にとって誇らしいことだったし、生きて戻ってくると思っていたし、実際に生きて戻ってきてくれたが、でも。
お前だっておれと同じじゃないのか、あのとき、死ぬつもりはなかったけど死んでもよかったんじゃないか、とは、言えなかったし、これから言うつもりも、ない。
『異邦人』を読んで、死生観だとか、死を目前としたときの気持ちだとかの問題に彼が思い至るとも、あまり信じていないが、そういったところをこそ、好ましいと感じているのが嫌だ。

「もう、竜を困らせないでちょうだい」
次の日にひとりで来た香は、言葉とは裏腹にすこしたのしそうだ。薄いピンクのワンピースを着た彼女は、感じのいい花束を持ってきていた。
「おれがなんかしたか?」
「本を勧めたでしょう」
枯れた花を取って、新しい花を足して、並びをきれいに整えながら彼女は言う。
なんだ、あいつ本当に読んだのか、あの本を。正直なところ、持って帰るだけでそのまま机に放置されるのがオチだと思っていた。
「勧めてなんかないぜ、読んだとしたら、あいつが勝手にやっただけだ」
「主人公がなに考えてるのかさっぱりわからなくて読みすすめられないそうよ」
「それは本を読み慣れてねえだけだろ」
あれが小説を多く読んでいるタイプだとは思っていなかったし、そもそも竜の性格に合いそうな本でもない。主人公に感情移入しようとして足を取られたのだろう。そしてわからないことを適当に読み流せるほど不真面目な人間だとも、思っていない。
だからといって凱は竜に本の読み方を教えるつもりはさらさらない。もしそんな機会があるとして、おそらく、それは、香の役目だ。
凱の考えをよそに香はそうなのかしら、と首をかしげている。彼女は教養のために本を読んできたというか読まされてきたくちだろう、話していればそのくらいのことはわかる、わかってしまっていた。人間と深く関わりを持つとはそういうことだ。

それから数日もしないうちに退院できることになった。医者は凱にはよくわからない基準でものごとを判断し、凱が外の世界に出てもいいと宣言した。これからはこんな怪我をするようなことがないように、というか怪我したらさっさと病院に行けとも言った。医者じゃなくてもそんなことは言えると思った。
もともとそれほど大きな傷ではなかったのだ。処置が遅れてしまったから入院が長引いただけで。それが問題だったのだが。ベッドにずっといたから体も鈍っていたが、いくらかのリハビリで以前までとはいかないもののある程度体は動くようになった。腹には傷が残っている。一生消えないだろうと言われた。
自由になった。タバコだっていくらでも吸える。やりたいことならいくらでもあって可能な限りなんでもきる。
はずだった。
ようやく外の空気を存分に味わえる、じゃあ一服してやろうかと思った凱の目の前にいたのは――母親だった。
病院のエントランス、いくつかの書類を書いて手続きを終えたら、看護師がお母様がお見えです、と彼女を連れてきた。
最後に会ったときから随分髪も白くなったな、とは思うが、見間違えるわけがない。母だ。
レモンイエローのシャツを着た凱の母親は、今にも涙をこぼしそうであった。

言いたいことがたくさんあるわ、と言う母に対して、とにかく、立ち話も何だと、凱は近くのチェーンの喫茶店に案内した。自分がいつも行っているようなところは彼女には向かないだろう。
母はメニューを見てじっと黙っていた。こういう優柔不断なところは変わらない。自分が決めてやってもいいのだが、そうすると必ず違う方がいいと言われる。
「ブラックコーヒーでいいだろ」
「いやよ、私はアッサムにするわ。ポットでミルクも」
こうやって他人の意見に反射することでしか見解を表明しない、それは家でも同じで、だから――
結城凱は思考を止める。今はそんな過去の記憶に囚われているべきときではない。
いきなりやってきた相手に何を話せばいいと言うのだろう。仕事の話?恋の話? はたまたジェットマンの話? どれもこの相手には話したくはないことがらだ。なら天気の話でもするのか? 世間話をするために彼女が来たわけでもあるまい。
高校を卒業したころに家を出てから年賀状も送っていない。送られてもこない。連絡先を教えてないから当然だ。
もう十年以上になるのか。
しばらくするとコーヒーと紅茶が運ばれてくる。コーヒーは白いシンプルなマグカップ、紅茶は花の模様がついた華美なティーカップ。かちゃりと音を立ててテーブルに置かれる。隣の席でおそらく大学生と思われる若者たちが哲学のクラスの話をしているのが聞こえる。今期はショーペンハウアーらしい。名前しか聞いたことがない。
「探偵でも雇ったのか?」
沈黙に耐えかねて凱が口を開く。
「病院からの要請でスカイフォースの方が連絡してくれたのよ」
彼女の答えに、凱は舌打ちする。ジェットマンとして戦っていた時、竜以外は正規の職員としてではなかったのだが、万が一の際に備えて連絡先などは伝えてあったのだ。もちろん、緊急時に連絡すべき親族も。凱はこれまで身元引き受け人として世話になってきたバーのマスターにお願いしようとも思っていたが、それは受理されなかった。そういうところは融通がきかない組織だ。
母はティーカップも砂糖も無視して言う。
「どうして今まで連絡してくれなかったのよ。スカイフォースだなんて立派な人たちと働いているんなら、そう言えばいいのに」
「そう言うからだよ」
実際、ジェットマンとして戦ってはいたが、スカイフォース扱いではなかったので、多少の誤解はあるが、解く方が面倒なのでそのままにしておく。解いたところで、というはなしだ。
凱はコーヒーに口をつける。ただの苦いお湯だ。飲めたものじゃないが、場所代ということで勘弁してやろう。
「生活費なら送ると言ったじゃない。入院のお金もどうするの?どうせろくな仕事じゃないんでしょう?」
「こんな年になってまで親みてえな面するのか?」
「親だからよ。凱。それは変わらないの」
とにかくこんなことになったんだからちょっとは家に顔を出しなさい、と、彼女は言う。
正論なのはわかっている。
彼女はアッサムを飲んでいない。会計はこちらが持つと主張して逃げるように喫茶店を後にした。

過去に追いつかれてしまった、と、思った。
凱は歩く、いつもより速いことには気付きたくない。
腕時計で時間を確認する、たいした時間は経過していなかったのに何時間も経っていたような気がした。
どうしてこんなことになったかは明白だ。
生き残らなければ逃げ切れたはずの過去が、彼女の形をとって追ってきた。

そう。
逃げ出すように東京に来た。高校を卒業してすぐだ。何か決定的な出来事があったわけではない。ただ凱にとって自分の家は息苦しかったし、住んでいた土地は狭すぎた。こんなところで家業を継いで適切な相手と結婚して家庭を築いて生活と人生を再生産することに耐えられそうになかった。
だから、東京に行けばどうにかなると思った。親には大学に進学すると言ったが合格したところに行くつもりはなかった。はやく独り立ちしたかったからだ。
東京には何でもあって誰でもいる、そう思っていた。そんなドラマが溢れていた。リアルにもフィクションにも。その『リアル』はフィクションだったのかもしれないが。ただ、実際のところ、趣味でやっていたサックスで何の身寄りもない十代が食っていけるほど東京は甘くはない。アルバイトで生計を立てながら、たまに路上で演奏していたところをゴールデンゲートのマスターにうまいこと拾われて、生活できるようになった。
上野公園で誰もが素通りしていく中、ひとり立ち止まって小銭を投げてくれたのがマスターであった。もしほんとうにやる気があるなら来るといい、と名刺を渡された。その小さな紙片が、何よりもうれしかった。
最初は雑用ばかりだったのが、はじめてステージに立たせてくれた時の興奮は今でも覚えている。きらびやかな照明の向こうではなくて下に自分がいるということ。自分の音楽で金をもらっているということ、ようやく、家族から自由になって、自分の力で、生きていけるということ。
だからサックスは凱にとって自由そのものだった。自分を自由にしてくれたもの、なんなら翼。
そうしてどうにかこの街で暮らしてこられた。お気に入りのカフェも常連のバーもある。馴染みの服屋も勝手知ったる靴屋もある。すっかりここの人間になれたと思ったころに、非日常が、やってきて、そいつが日常になったころに、終わった。

母をひとりで喫茶店に置いてきてしまったのはさすがにまずかったかと思ったころには、もう今日の寝処に着いていた。なんせ電話番号も知らないはずだ。こっちだって知らない。スカイフォースだって緊急事態だから連絡しただけで、個人情報を易々と漏らす組織ではないだろう。地元の友人とはとんと連絡をとっていないからそこから漏れる心配もない。父はともかく母は心配性だ。これでまたどうにかして連絡が来たら厄介だと思いつつどうすることもできない。
凱はとりあえず夕食を作ることにした。これまで住んでいたウィークリーマンションは当然解約されていたので次が見つかるまでとりあえずホテル泊だ。外食というのも気が進まないから簡単な調理設備がついているところにした。とくべつな料理は好きだが食は自分のテリトリーであってほしい。

朝は買ってきたパンだ。サラダでもつければいいだろう。カーテン越しに日が高く昇っているのがわかる。時間は確認したくないが、今日は用事がある。
サックスを吹くのだ。久しぶりに。
ジェットマンとして戦っていた時も働いてはいたし、合間を縫って練習していたから、こんなに楽器を触っていなかったことは始めてから一度もなかった。あれから一ヶ月が経っていた。楽器は三日休むと感覚を元に戻すのに一ヶ月かかるだなんて都市伝説を信じているわけではなかったが、一日休むとどこか違和感があるような気がして、体調が悪くない日はずっと続けていた。
近くの公園に行ってもよかったのだが、せっかくの復帰戦だ、ということで、近くの防音室を借りた。一時間五百円の枠を三時間。譜面台とメトロノーム、チューナーを準備して、白い壁の部屋の中で、アルトサックスを黒いケースから取り出す。ぴかぴかに輝くそいつは、事故の前から何も変わらずそこにある。まずはリードを鳴らす。くちびるがびりびりとする感覚も懐かしい。ネックを鳴らす。音が鳴る。
組み立てて、ストラップをかけてから手に持つ。この重さも覚えている。
それから息を通す。サックスはきちんと鳴ってくれた。
鳴ってくれたはずなのにどこかに違和感がある。他人が聴いたらわからないかもしれないが、自分にとっては、砂を噛むようなそれ。
頭は、心は、楽器を覚えている。運指だってもちろん覚えている。息の吸い方も吐き方も腹の使い方も何もかも。なのに身体がついていかない。思いっきり息を吸おうとしただけで肋骨が痛んだ。傷はもう治ったはずなのに。傷ついているのはそこではないはずなのに。
凱はサックスを置いた。綺麗に磨いてケースにしまう。時間はまだ余っているが、ここでやるべきことはもうない。

それでも仕事はしなければならない。次のウィークリーマンションは見つかった。医療費を払ったところで貯金はまだあるが、それでも仕事はしなければならない。怪我をする前、いくつか働かせてもらっている場所はあった。そこにもう一回声を掛けてサックスを吹くのか。それなら元に戻らなければならない。いつになるのかは見当もつかない。
まあ、サックス以外でも、何かをすれば店には置いてくれるだろう。レジ打ちをしている自分はまったく想像がつかないがやればできるのかもしれない。ウェイター? おれが? そんなことできるのか? そもそもジェットマンとして戦っていたときだってそんなことになるとは想像もつかなかったわけなのだからなんだってできるという考えもある。
それに、練習すれば、サックスだって元のように吹けるようになるかもしれない。まったく吹けなくなってしまったよりはマシだろうし。今のところは全盛期の八割といったところだ。あとの二割が埋まるのかどうかは知らないし、真実を教えられたところで聞く気はない。

梅雨も終わり、夏にさしかかったところとはいえ、都合よく晴れの日ばかりが続くわけもない。その日は朝から雨だった。湿った大気が気分まで落ち込ませるのはあまり好ましくない。
ローストビーフを作ってあるし、せっかくだからメシでも食いに来い、と竜を呼びつけた。たまには奥さんに楽をさせてやれという意図もある。人の家に行くのではなくて人を呼びつけるのはちょっとした甘えでもある。それを許す相手だと思っている。
午後五時半、チャイムが鳴る。日は落ちかけているがまだまだ明るい。
竜は近所の八百屋で買ったのだとぶどうを持ってきていた。こいつも買い物とかするようになったんだなと妙な感慨がある。
デザートはそのぶどうにすることにして、メインディッシュに合わせるのはオリーブオイルと塩で味付けしたルッコラのサラダだ。キャロットラペも添えて。
ローストビーフならワインは赤を出せばいいだろう。さしもの天堂竜にもその組み合わせくらいわかるはずだ。
「香ほど丁寧じゃねえかもしれねえが、たまにはこういうのもいいだろ」
竜は大皿に盛られたローストビーフを自分の皿に取った。凱は野菜もちゃんと食えよと子供相手みたいな指摘をすることになる。
ワインで乾杯して凱はローストビーフを口にする。しっかり味がついていてうまくいったな、と思う。
竜はフォークで肉と野菜を一緒に刺して大きな口を開けて食べていた。相変わらずうまい、と彼は言う。
竜が結婚する前はたまにこうやって凱の家で食事を共にすることがあった。シフト制のスカイフォーサーと夜勤の多いサックス吹きの予定が合うことなんかなかなかないのだが、そのたまの機会には凱はできる限りのご馳走を作った。自分ひとりのためだけには作れないものを、という考えもあるが、何より、竜に、おいしいものを食べてほしかった。
竜はワインを飲み干して言う。
「すっかり元気になったみたいだな」
「……そうだな」
ああ、この男はなんて無邪気なんだろうか。人間が元通り戻ってきたと思っているのだ、二週間の眠りを経て。自分にとっては元通りなんてことないのに。
だけれどもそれを伝えるつもりはない。
サックスがろくに吹けなくなったことなんかこいつに言ってどうなるんだろうか。親が訪ねてきたはなしなんかしたところで何にもならない。
そのかわりに出てくるのはたとえ話だ。
凱はサラダを飲み込んでから言う。
「たとえばの話だけどよ、もしお前がいきなりスカイフォースを辞めなきゃならなくなったらどうする?」
「え? どうしてだよ」
「理由は何でもいい。とにかく時間ができたらやることあんのかって話だ」
まあ確かに世界が平和になってるんだから、スカイフォースが解体する可能性もあるわけだしな、と竜は職を失うことを考えてもないような呑気さで言う。
それから、ワインを片手でグラスに注いで、
「ああ、それなら、まずは長い間会えてない親戚のところを訪ねて歩くかな。観光だってできるし一石二鳥だろ」
予想外の返答だったが、そうだった、こいつは親戚筋とは仲がいいんだった。自分にはまったく思いもつかないことだ。
「だって、楽しそうじゃないか、そりゃあ仕事でもいろんなところ行くけどさ、純粋にその場所を楽しむっていうのは」
なんでこいつはなんにもわかってないのに、わかってないはずなのに、わかったようなことが言えるんだろうか。
そういう人間だから、好ましいのも、そうなのだが。
「場所を楽しむとか、お前にしては気の利いたこと言うじゃねえか」
「おれにしてはってなんだよ」
竜がむっとして見せるので凱は彼の肩を叩いた。
「ほめてんだよ」
そうなのか……? と竜はまたワインを煽った。ペースが早いな。自分もそれなりに飲んでるから、ボトル半分くらいはなくなってしまっている。
そのあとはたわいもない話をした。仕事がどうだとか、生活がどうだとか。竜はきちんと毎日ゴミ捨てをやっているらしい。あの天堂竜がスケジューリングされた生活をするなんて! 生活のことがらをきちんと行えているなんて! 香を困らせていたらどうしてやろうかと思ったがそんなことはなさそうだった。
「お前、今、しあわせか」
「またいきなりなんだよ、でも」
しあわせだ、と彼は言う。
ならよかった、と凱は答える。
やはり最高の親友と最高の女が結婚したのだからしあわせに決まっている。それを証明するのがあの人生最良の時だった。
ローストビーフは大人二人にはちょうどいい量だった。かなりお腹いっぱいになった。でもまだぶどうを食べる余地がある。ワインだって白もある。

竜は夜中に帰って行った。流石に既婚者を泊まらせていくわけにもいかない。また来るからなと言う竜に、今度は香と来てもいいぞと答える。それはさすがに悪いだろと竜は言う。これが悪いとは思っていなかったのか。

そういえばあいつに『異邦人』を読み終わったのかを聞くのを忘れた。また会う機会もあるだろうしそのときでいいだろう。
どうしてだかあいつにあれを読み解けないでいてほしいと思う気持ちがある。あいつには、世界から与えられる死を目前にして、ようやく歓喜することのできる、人間の気持ちなんか、わからなくていい。
凱には共感はまったくできなかったが理解はした、そこに書いてあることを受け取りはした、それでも、自分がこうやって生きているということに後悔は、まったくない。

次の日の朝、昨日片付けそこねた食器を洗ったりしたあと、今日も公園でサックスの練習をする。池にはあひるボートが泳いでおり、中の家族連れたちがたまにこちら側を見てくる。初日よりはだいぶこなれてきたような気がする。外だと音が響かないから力が入りすぎてしまうことがある、というのを思い出す。口の周りが若干痛い、筋肉がこわばっているのだろう。初級の練習曲なんかやるのはいつぶりだろうか。それからジャズバーで吹いていたいつもの曲を。ありきたりだけれども特別だったすべての夜を思ったりもする。
凱はあの仕事を好きでいた、客のリクエストで曲を仲間たちと演奏する仕事を。芸術性というよりはむしろ再現性を問われるその仕事を。
スケールを吹く。上から下まで音の粒は揃っている。
だけれども。
やっぱり違う、何かが違う――その何かを嫌いかどうかは、わからない。自分にしかわからないにしてもそこに間違いなく差異はある、自分が目を覚ましてしまったあとの生活のように。
池の向こう側にはトランペット吹きがいる。かすかに聴こえるのは「トランペット吹きの子守歌」、目が合ったような気がして会釈する。気のせいだったのかもしれない。

午後五時、ゴールデンゲート。昼間はカフェ営業もはじめたという。ハンバーグランチが好評でけっこうこっちも繁盛しているそうだ。カフェタイムとバータイムの隙間に凱はここを訪れた。従業員ではないがバータイムにはたらいていたのだからよいだろう。それから、カウンターでグラスを磨いているマスターに、今まで世話になった、と、頭を下げた。
マスターは凱を一瞥して答える。
「それで、サックスはやめちまうのか?」
「やめるわけねえだろ、まあ、そのうち元に戻るんじゃねえか」
「お前ほどの腕があれば、また吹けるようになるさ」
「当然だ」
とは言ったものの、実のところ完全に元に戻る自信はなかった。今までスランプもあったけれども、なんだかんだで乗り越えてきた。でもこれは違う。違うことくらい凱にもわかる。これからは、完璧には復帰しない身体と、生きていかなければならないのだろう。
「とりあえず、適当に日雇いでもなんでも仕事しながら、いろいろな土地を回っていくつもりだ」
この土地から離れて、気ままに旅をする、それが凱の計画だった。計画といえるようなものではないかもしれないが、バイクさえあればなんとかなると、思っている。
別に竜に言われたからそうするわけではない。ただ、その選択肢もあるのか、と気付いたのは彼のおかげだった。
「ああ、それなら、こいつはどうだ」
マスターが裏に回ってしばらくしてから、取ってきたのは小型の黒いカメラだった。フィルム式のものだろう。手のひらにすっかり収まるそれは、どことなくレトロでかわいらしいフォルムをしていた。
「こいつは十年くらい前のカメラだが、まだ動く。きちんと手入れしてたからな」
凱はこれまでインスタントカメラしか使ったことがなかった。日頃使うにはそれで十分だし、カメラの世界はどうやら奥が深そうというのもある。サックスの維持に金がかかるし、練習に時間も取られるから、これまであたらしい趣味を見つける余裕はなかった。
「凱、こいつをお前さんにやるよ」
「いいものだろうに」
「俺はもうカメラは引退してるのさ。道具は使われなくちゃ意味がない」
「それが、どうしておれに」
「特に意味はないが、強いて言うなら」
お前さん、やることないと死んじまうだろとマスターは笑う。
それはそうかもしれねえなと凱はこぼす。
「いつかこんな日が来ると思ってたんだ、だってお前さんはここの人間じゃないだろ」
「結局は田舎モンってことか」
「いや、どこの人間でもない、そういう音を鳴らす男だから俺はここに誘ったんだよ」
ここ、ゴールデンゲートの名前の由来は、もう存在しない黄金時代への門であると、マスターがそう語っていたのを聞いたことがある。

逃げ出すように東京に来た。また逃げるのだろうか。いや、今回は違う。行き先がなかろうとも、その旅の中で、生きていくつもりだ。
最近放置してしまっていた愛車はしっかり整備した。こいつでどこまでだって行けるはずだ。ヘルメットも新調した。黒と銀のスタイリッシュなデザイン、サイドにはシンプルな翼の意匠のあるものを選んだ。
荷物は最低限に、サックスを背負わなければならないから。足りないものは旅先で買えばいい。カバンの中にはカメラも入っている。旅に出る前に、一通りの使い方は覚えた。たまにピント調節がうまくいかないけれども、それはこれから上達していけばいいだろう。
ゼロからなにかを始めるということは結構たのしいことだったな、と、思ったりはする。楽器をはじめたてのときだって、そうだったなと言われればそうかもしれない。
サックスは元通り吹けるようになるのだろうか。それは行き先のようにわからない。その日が来たら、もう一度それを仕事にするのだろうか。それも未来のようにわからない。
エンジンをかける。懐かしい音がする。これから当分付き合っていくことになる音が。
晴れてよかった、思い出の中のあの青よりはわずかにくすむが悪くはない青、雲はかかるがそのほうがむしろ日陰ができて好ましいような天気。
天気予報は見ていなかった。だからこれはただの幸運だ。天気予報を見たところで、天気は変わらないけれども。
親のいる土地――というか自分の故郷に行くのかはわからない。あの都会になりきれない土地、ひとびとの縁があるようでない土地、唯一自由になれたのはあの本屋で、そこくらいになら顔を出してみてもいいかもしれない。まだ同じ場所にあったらいいと願ってしまう。色あせた看板、選書眼のいい店主、小説の棚はまだ入口の右だろうか。
でも少なくとも、しばらくの間は、この都ともおさらばだ。

このことはかつての仲間たちには話していなかった。話す機会がなかったからともいう。旅に出るだなんて、わざわざ、言うほどのことだろうか。生きていればどこかでまた、会えるかもしれない、そのくらいで、いいだろう。

バイクを走らせて西の方に行くと、東京といっても都会ばかりではない、ということを、実感する。知識としてはもちろんあったし、ツーリングに行くのもたのしかったが、それはひとときのことであって明確な記憶ではなかった。今度は覚えておいてやろう。
沿道には家々が並んでいる。これらの中にはそれぞれの生活がある。プランターに紫色の花を並べた家がある。洗濯物を干している家がある。こどもが小さな庭で遊んでいる家がある。それらを横目に見ながら凱は進む。

そして時間も進む、進むだけだ。
もしこの土地に帰ってきても、そのときはまた、違う自分で、あるだろう。

緑の木々を抜けてトンネルに入る。オレンジ色の光がトンネルの中を照らしている。当然のことながら真っ暗なわけはないのだ。明るくなければ走れないのだから。対向車線には四輪車。すれ違うだけのそれらと、今までの生活に、何の違いがあっただろうか。

死ぬつもりはなかったけど死んでもよかった、とか、あの日の青空は美しかった、とか、それは甘美なイフではあるが人生は続く。

結城凱はバイクを加速させる。
バイクはトンネルを抜ける。
そして。
目の前に広がるのは果てしなく続くパノラマ。

送信中です

×

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!