セントエルモの火 - 2/3

 

St.Elmo’s Fire

オプティックブラストはある。だからここは天国ではないのだろう。

もし天国ならば、こんなサングラスはいらないはずだ。彩度が平均的なものとは異なる視界で、スコットは思う。平均的なものとは異なるが、自分の視界としては標準的だ。大人になってから裸眼で過ごせるようになったときに違和感を覚えた記憶があるくらいには、ルビークオーツ越しの色彩に慣れていた。
当然のように地獄でもない。地獄とか、魔界とか、地下都市とか、異次元とか、そういうものにも慣れている。ここは地上ではないらしい。道があって、建物があって、植物があるという点では地上によく似ているが、太陽がない。月もない。もちろん星もない。明かりはあって、それは天井だ。
地上には天井はないから、地上ではないのがすぐにわかる。太陽の圧倒的な光によって照らされる地上とは違って、淡いが安定している光が天井全面から発せられているのであった。まるで乳白色のドームの下にいるようだった。幸いなことに、ドームは空と同じくらい高いので、圧迫感はない。
ランタンの光が消えたら、ここにいた。スコットはそう認識している。最後の質問が何であったのかは忘れてしまったが、そのとき光が消えて、闇の中に、このやわらかな光に照らされた都市に転移したのだ。テレポーター系統の能力によるものとは思えなかった。ああいうのは一度どこかの異世界を経由しているものだが、この移動は、移動というよりもむしろ――いきなり明かりが付いただけのように感じられるのだ。つまり、移動はしていない。
ただ電気がついただけだ。この光が電気という保証はないけれど。
地上と同じように存在する物質たちも、ドームと同じ乳白色の素材で作られているようだった。木のように見えるものを触ってみると、微かな弾力がある。少なくとも、樹皮の感触ではない。
「これは、何だ?」
「そういうところです」
案内人と名乗るひとのかたちをしたものは、そう言った。案内人は、気がついたときにはすでにスコットの横にいた。大通りを歩いていると、それと同じ顔をしたものといくつかすれ違う。
彼ら、もしくは彼女らは、イスカールナリ、いっしょ人、あるいはただ単に「ひと」と、さまざまな名称で呼ばれるのだという。
どこかで聞いたものと、同じ声をしていた。マンハッタンですれ違ったのかもしれないし、カルフォルニアで助けたのかもしれない。それがどのようなものかを記憶することはできないけれど、相似であることは理解された。
それらもまた天井の乳白色をしている。発光はしていない。服までもが白だ。
「そういうところ、じゃあ、わからないんだが」
「そういうところです」
案内人は繰り返し、それから次の文を発した。
「われわれはひとつの意識を共有しますが、あなたは違います。われわれに話しかけるときは、誰でもよいのですが、あなたは違います。われわれはいわばキャストであり――あなたは自分が何者かご存知でしょう。幸運なことに、あなたと似たようなものが、今ここにいます」
「ここってなんだ?」
「ここは待合室、あるいはエアポケット、あるいは猶予期間。あるいは最後の休暇地。回転扉の執行猶予、最後尾よりはそれなりの手前ですね。のんびりと過ごすことが推奨されてはいます。戦いとか、荒事とか、統治とか、そういった暴力的な行動に向いた世界ではないですね。――やることがないのも退屈ですからが。その前に」
スコットの持つランタンを指し示す。上り坂からこちら、置く理由もないのでずっと持っていた。暗い場所ではわからなかったが、くすんだ銀色をしている。明かりはもう消えていて、温かみも何もない。
「ランタンは持っていますね」
「これか」
「それです。失くさないようにしてください」
「火もついていないのに?」
「火がついていないからです」
捨てる理由もないから、持っていることにする。
第一、これまでの道中に、ゴミ箱は見当たらなかった。

案内人に従って街を歩く。案内人と同じ顔をしたものたちが、挨拶をしてくる。みな真っ白で、少し奇妙ではあるが、マルチプルマンのようなものであると考えれば、そう不思議でもない。もっとも、マルチプルマンよりはわかりやすい。案内人たちは記憶を共有しているが、マルチプルマンたちは元の一人に戻らない限り意識の共有はしていないからだ。
すべての建物が同じ規格をしており、看板のみが異なる。あれは肉屋。あれは交換所。あれは交番。
案内人はそのうちのひとつに立ち止まる。その建物は他のものとは異なり、煙突がついている。煙は出ていない。それに、畑もある。
「こちらがあなたの滞在する家です」
家自体は、一見普通だ。
意外なことに、その家には、先客がいた。
スコットにとって、最も会いたくないひとであった。それと同時に、こいつがいるならまあ危険ではないのだろうと思えるひとでもあった。
「は?」
「最初に掛ける言葉がそれか」
黒のジャケットを着た、ローガンがそこにいた。畑で、草刈りをしているところだったようだ。手には小さい鎌を持っている。
同時に、このローガンは案内人たちとは違うのだろう、とわかった。色彩を持つし、あのような穏やかさを持たない。粗暴で、生意気なのがローガンだ。これをあのアクリル樹脂のようなもので再現できるとはまったく考えられない。
「お前に会う予定はなかったからな」
「安心しろ。ぼくにもない」
「ふたりはお知り合いで」
「知り合いではあるな」
そう、知り合いではある。多分、友人と呼んでも差し支えない。ついでに、敵だったこともあるし、それよりは味方だったことのほうがずっと多い。
だけれども、それらのラベルをここで用いるには抵抗があった。
だから、知り合いということにしておく。
知り合いとはいっても、最近あまり見かけなかった知り合いだ。
「死んだんじゃ」
「お前が言うか」
そういえばそうだった。ここが地上でないのなら、自分は地上にいないのだった。どうやって現世を去ったのかは、天井と同じ乳白色の彼方にある。
ローガンが死んだのは覚えている。伝聞の形で情報を知り、なんだか不死身のようで、だけれどもどこまでも死に近いこの男があっけなくその歩みを止めることになったのだと聞き、彼のためにできることはないのだろうかと、思った記憶は多少ある。
最後に会ったときは味方だった。その少し前は敵だった。だけれども、ジーンのために乾杯をしたのは、覚えている。
鎌を持っているということは、ここのローガンは爪を持たないのだろう。その方がいい。爪があったら、その方が便利だろうけれども、不意に威嚇されずに済むし、安全だ。

「この畑で育てる作物です」
案内人は畑を示して言う。
茶色い土に、緑色の葉が行儀よく並んでいる。しかしこれが本体ではない。土から掘り出されたところの写真を見せられた。ビーツというらしい。スーパーマーケットで見覚えはある。外側からその根を見ると、くすんだ赤色をした大根に似ている。断面図は鮮やかなピンク。主にボルシチの材料になるらしいが、あいにくボルシチの作り方は覚えてはいなかった。
白くなくてよかった。スコットは思う。白い植物は、あまり健康的に見えない。
表紙にビーツと書かれたブックレットを手渡される。
「育て方はここに書いてあるし、あとはローガンに聞いてください」
「長いのか」
「お前よりは」
「そうだろうな」
ローガンが農作物を育てるところは、あまり想像がつかなかった。どちらかといえば、狩猟採集民族に近いものだと感じていた。外に出て、帰ってくると、獲物を持っている。もちろん、ローガンはほんものの肉食獣ではないのだから、獲物は普通、おみやげという形でもたらされるのだが。
「水をやったりすればいいのか」
「水をやる時間っていうのがある」
「だろうな」
果たしてこいつで大丈夫なのだろうかと不安になった。畑は青々としている。それをもって安心の材料にすればいいのだろうか。

案内人は去る。案内人と同じ顔のものはたくさんいるので、群衆の中からこの案内人を特定することはもうできないだろう。
「家も一つしかないのか」
畑の横には小さな家がある。家も当然、樹脂で形成されている。土の茶色とはコントラストを成している。車庫がない以外は、郊外の標準的な居住地であるといっても構わないだろう。
「家はこれしかないが、部屋は……あるな」
「なんだその間は」
「昨日まではなかったんだよ。昨日ってか、お前が来る前はな」
スコットは家の中に入ってみる。鍵をローガンから渡された。それも昨日発生したのだとかいう。机の上に置いてあったから、ポケットに入れておいたのだとか。
「家、だな」
パブリックスペースとしてリビングがある。キッチンがある。廊下があって、部屋はふたつある。ユニットバスもあるし、通例一軒家として要求される水準は満たされていると思われた。
「お前はこっちだ」
指し示された方の扉を開ける。清潔なベッドと、机、窓、棚、部屋に必要なものはすべて揃っていた。それらはすべて、天蓋を構成するあの乳白色で形成されていた。
ローガンによると、部屋の引き出しを開けると、かつて自分が着ていたような服が出てくるらしい。試しにひとつ開けてみると、SLIMとプリントされたシャツが出てきた。これはあまり着たくないな。次の引き出しを開けると、青いチェックのポロシャツが出てきた。服には色がついていることに安心した。
白くないものはあと、ランタンくらいか。ランタンをとっておくようにと、案内人は言っていた。スコットはランタンを棚に置く。空っぽの棚だ。ほかに置くものもない。
いくらやわらかい白であっても、白ばかりでは気が滅入る。目に映る中で白くないものが、ローガンだけだなんて、そんな事態は避けたかった。
こんなところにいつまでいなくてはならないのだろう。

ひととおり家の中を見たあとに、辺りはどうなっているのだろうかと家の周囲を散策した。そうすると、案内人と同じ顔のものたちがたくさん歩いている。自分たちと同じような、色彩を持つもの――つまり、案内人の仲間ではないものだ――は見受けられなかった。
それにしても、勝手に部屋が増えたり減ったりする、それは地上ではあまり考えにくいことであった。ローガンは増築工事をした覚えもないのだという。
だから一番近くにいた案内人に尋ねてみることとした。
「ああ、部屋ですか。増えますよ」
「減るのか」
「減ることもあるんじゃないんですかね」
「いつ減るんだ」
「必要のなくなったときに。必要のあるものは、すべてここにあり、不必要なものはすべて、ここにはありません」
彼らはいつでもあいまいなことばかりを言う。この世界のたいていのことは、AもしくはBだ。AもBもあるのではないだろうかという言明は、あまりにも当然過ぎて、情報量がない。
明日の天気は晴れか雨です。そんな天気予報は、役に立たないだろう。
「そういえば、この世界の名前は」
スコットは聞いてみようとしたが、さっき話しかけた案内人は、すでにどこかに行ってしまっていた。彼らの言うことを信じるなら、他の個体に話しかけても会話は続く。そこまでして情報のない会話をしたいわけでもなかった。

ここに夜はない。夜がなくなると昼間という概念も消失する。その割にはきちんと眠くなり、朝になると目が覚める。目が覚めた時刻を朝と認識している。
時計はあるが、数字はひとつも書かれていない。ただ円形を分針や時針が区切っているだけだ。だから、これが地上における正しい時刻という保証はない。もしかしたら、一二時間制ではなくて三一時間制を採用している可能性もあるのだから。脈拍とにらめっこして一時間粘ってみようかと思ったこともあるが、煩雑なのでやめた。もしかしたら一日三分しか寝ていなくて、一五時間起きているのかもしれないけれども、それを証明して何になるのだろうか。
というより脈拍を感知することができなかった。食欲は立派にあるというのに、こういったところだけ妙に忠実に生体反応がないのだった。
今は、もしこれが一二時間制なのだとすれば、八時を示している。
空を見上げると、やわらかいプラスチックを通したような光を注ぐ、天蓋がある。雲や雨をなつかしいと思う。地上にいたときは、うっとうしいものであったのに。

時間のあるときは、スコットは本を読んだりしていた。区切りのはっきりしない時間はいたずらに過ぎてしまうので、どうにかして生活に秩序を取り入れようとしているのであった。一〇〇ページおよそ三〇分のペースであったと記憶していた。だから、二五〇ページ読んだら、一時間半かかっていることになる。
脈拍を測るよりは生産的だし、何もしていないという焦燥感から逃れることもできる。
スコットにとって、この静かな生活は安らぎでもあり、また苦しみでもあった。ここには救うべきひとも、導くべきひとも、戦うべき相手も何もいない。生活に存在する目的はただひとつ、野菜を育てることだ。野菜は動かないので、会話相手には向いていないし、特に周りから被害をうけることがないので、守る対象でもない。
小動物くらいいてもいいのに、カラスもハクビシンもいない。害獣とみなされるものがいないのは悪いことではない。
悪いことではないのだが、かかしくらいは作りたかったものだと、スコットは思う。

空っぽの棚は、欲しい本を取り出せる本棚でもあった。ラブストーリーとか、数学書とか、メモ書きを置いて眠れば、仕組みはわからないが、目覚めたときにはそのカテゴリに属する本が棚に並んでいる。あとは家の周りをジョギングしたりした。そうすると案内人が出てきたり、出てこなかったりする。
ローガンが何をやっているかは知らないが、約束どおりに家事はこなすし、夕食(ということにしている三回に一度の食事)の時刻には帰ってくるのだ。
時計もないのに、律儀なものだ。腹時計が正確だという可能性もないわけではない。

雨がないから、毎日水をやる必要がある。夜がないから、たまに土の状態を確認する必要がある。乾いていたら、水をやる。いちおう本棚からビーツの育て方の本を持ってきて、調べはしたのだが、この土地ではそこまで気を使わなくてもよいということがわかった。ローガンが立派に畑を管理できるくらいなのだ。水がなければ枯れるだろうが、そのくらいだ。
水は白くなくてよかった、スコットは水道から水を汲みつつ思う。
ついでに水道があってよかった。井戸から汲むことを強制されるのは、地上での生活に慣れた身にとってはつらいものだ。力仕事はたいていローガンに任せてしまうが、彼はヒーリングファクターを失い、アダマンチウムの骨格も持たないので、単なる少々筋肉のあるがっしりした小男にすぎない。
ローガンはといえば、畑仕事以外はどこかに行っている。どこにいるのかは聞いていない。地上にいるならば、おおかた酒場に行っていたのだろうが、こちらに酒場があるとは思えなかった。酔っ払って帰ってくることがないので、それはそれで便利であった。
タバコも酒もない世界での嗜好品は、コーヒーくらいしかなかった。コーヒースタンドでもどこかにあるのだろうか。それとも、実はここには自分たち以外のひと――案内人ではない、色のついた、ひと――は存在するのだろうか。いるなら声をかけてほしいものなのだが。差別主義者でない限り。
案内人たちが嗜好品を求めるようには見受けられなかった。

調理やパブリックスペースの掃除は、分担することとした。ローガンが今までひとりでやってきたからといって、すべてやらせるのはひととしてどうなのかと思ったのであった。
さいわいにも、スコットはどちらも経験がある。寄宿舎で育ったのだから当然のことともいえる。学園の掃除担当を適当にやってどこかにバイクで行ってしまうのが常だったローガンも、自分の家となればそれなりに掃除をするようだった。
埃まで白いから、きちんと掃除できているかをチェックするのは困難だ。しかし、埃っぽさを感じないということは、たぶん埃はないのだった。

交換所は毎日空いており、自分たち以外の客を見つけたことはない。ローガンもそうだと言っていた。店員とおぼしきものは、すべて白く、つまりはいつもの案内人たちなのであった。
所内には棚があり、それぞれビーツ何個分か書かれている。ここの通貨単位はビーツのようだった。ビーツ以外を育てている畑がないのだろうか。今日必要な野菜をかごに入れる。それから要冷蔵コーナーにあるさまざまな肉を眺める。今日は牛にしようということでローガンと話がついていた。サーロインステーキ用の肉がある。しかも分厚い。毎日商品が変わるので、もしなかったらどうしようかと思っていたが、運がよかった。かごに入れる。
買うのはだいたい食料品のみでよい。ここで交換しなくても、ティッシュや洗剤などの生活必需品なら隣の家の案内人からもらえるので便利であった。
「これで」
「ビーツ一二個分です」
袋に入れて持ってきたビーツを渡し、商品を受け取る。案内人は、商品に加えて、スコットに立方体を渡す。
「火種です」
交換所でビーツを何かと交換すると、決まって案内人はスコットに火種を渡す。最初はこれを何に使うのかわからず、困惑した。
「これは火種です。あなたはランタンを所持していますね? ランタンの中に入れると、火が点きます」
おまけかなにかなのかと思って尋ねてみると、案内人はそう答えた。
火種は、ガラス製の小さな立方体の中に入っている。真っ赤な光は、中空に浮かんでおり、熱はない。スコットはそれをトートバッグに入れる。
「ありがとう」
火種には延焼性はなく、勝手にパッケージから出ることもないので、布製のバッグに入れても安全だ。その見かけとは裏腹に、炎の仲間ではないようなので、冷凍食品と隣り合わせにしても問題がない。LEDライトよりも安全そうなので、こういったものが地上にもあればいいのにと、スコットは思う。

何度か交換所でビーツを何かに変換して、それから種火というものをもらっているが、どうしてこんなにまどろっこしいことをしなくてはならないのだろうか。
スコットは近場にいた案内人のひとりに尋ねる。
「今すぐに、戻るというわけにはいかないのか」
「火種を集めてください」
案内人は明日の天気と同じトーンで答える。
「集めて、どうするんだ」
「ランタンを明るくします。そうすると、ここはここではなくなるので」
「そんなこと言って、永遠に帰さないつもりじゃないだろうな」
「そうしたら、天国と地獄の収支がつきませんからね。ここは回転扉、どちらへも行かないもののためのリゾート。われわれがいなければ、地上は衰える一方となるはず」
そうだとすると、多分、ここでやれることというのは野菜を育てて生活することくらいなのだ。そうして、ランタンを明るくして、何かが起こる。前回死んだときも、こんな面倒なことはしていただろうか。
残念なことに、前回死んだ時の記憶は持ち合わせていなかった。どんなに別離が不可逆でなくとも、可逆なのかそうではないのかは、地上において知ることはできない。
もちろん野菜畑でも。

スコットは日用品等の荷物をリビングに置いてから自分の部屋に戻る。ローガンはまだ帰ってきていないようだった。
ガラスに覆われた火種を机の上に置く。棚からランタンを取り出す。ランタンの明かりは、徐々に増えてきていた。部屋すべてを照らすほどではないけれども、もし完全な暗闇が訪れたとしても、足元くらいは照らせるだろう。
この世界に暗闇が発生することは、今のところなかったけれども。
スコットの知っているランタン――要するに地上のランタン――には決まって火を灯すための芯があった。電気で駆動するものには、電球が入っていた。しかしこのランタンには芯も電球もない。そのかわり、ガラスに覆われた中心部には、ただの光がある。慎重にガラスカバーを外す。光はそこにとどまったままだ。
火種の蓋を外して、光に近づけると、火種がふらふらと光に向かって進行し、ひとつになる。そうすると、ランタンに入った明かりの光量は上がる。眩しくはない。サングラスをしているからでもあるが、そもそもこの明かりはひとを害するようにはできていないようだった。
ガラスカバーをかける。それから机の端にランタンを置く。今くらいの光量だと、読書灯としてぴったりなのだ。

キッチンは一つしかない。論理的な帰結として、食事は一緒にとることとなる。
ここまでつくりものめいた世界のくせに、空腹感は一人前に実装されている。
「爪があったら、刺して焼けばいいんだがな」
「熱くないのか」
「冗談だ」
「そこに暖炉もあるぞ」
「マシュマロでも焼かせる気か」
「冬になったらな」
ここに冬はあるのだろうか。それよりも、冬になるまでここにいなくてはならないのだろうか。以前はそう考えたかもしれない。ここには案内人以外誰もいない。あれらは人間ではなさそうだが、ミュータントでもなさそうで、それから自分たちミュータントにレンガを投げる素振りも見せない。
平和なのだ。
平和というか、生き残るために戦わなくてもよい世界だ。
生き残るために必要なのは、おそらくビーツを育てることくらいで、ビーツを育てるために戦いは必要ない。規則的な生活と、畑に対して注意を払うくらいだ。

畑を増やす必要があった。かつてはひとり分のビーツを収穫できればよかったが、今はふたりいる。作物を増産しなくてはならないのだ。交換所のレートは、そう悪いものではないが、やはり、畑は多いほうがいい。
暇つぶしのひとつともいう。
畑の部分は、茶色い土をしている。畑でない部分は、この世界のほとんどと同様に乳白色をしている。その覆いはコンクリートのようなもので、剥がせないのかと思っていたが、道路以外なら鍬でどうにかなるようだ。
スコットは地面に鋤を振り下ろす。白色が線状に消失する。一センチくらいの白くて弾力のある層の下に、やわらかい土が隠れている。これらをすべて取り除けば、畑となるだろう。
しばらく作業をしていると、ローガンは小型の耕運機を持ってきた。電源を入れ、作動させる。モーター音とともに、白かった地面に土を露呈させていく。
「そんなのがあるなら最初から言えばいいだろ」
「気付かなかった」
スコットは鋤で新たな地面を開拓するのをやめる。そのかわりに耕運機によって荒く耕された土地を整えていく。機械の仕事はあまり丁寧ではないので、人間が畝を作らなくてはならない。これまであった畝の隣に、同じように作っていく。

新規作成された畝に種をまく。粒上の肥料とともに。
それから水をやる。一昼夜もすると(夜はないけれども)立派な葉がついている。種をまいてから出荷するまでには、一週間ほどかかる。地上ではありえない成長速度だが、あの光になにか原因があるのだろうか。ここにハンクでもいれば、分析してノーベル賞のひとつでも取ったのかもしれない。
出荷時期をずらすために、畝は複数ある。この一列は今日収穫し、次の一列は明日収穫する。何もなくなった土には、新たなビーツが植えられる。

ビーツを収穫すると、取引所に持っていくことができる。取引所では、日用品、野菜、肉、その他生活必需品を入手することができる。毎日収穫されるビーツで、十分以上のものを交換できるし、最近何なら余りつつある。
今日は肉にした。昨日もそうだったかもしれない。
調理が楽なのだ。焼けばいいから。焼いて調味料を降ればそれなりの味になるから。
そういうところが中途半端に現実みたいだ。スコットはエプロンを引き出しから取り出す。『MEAT IS MURDER』とプリントされたそれには大いに見覚えがある。新エグゼビア学園のときに着用していた。人数が少ないから、キッチンに立たざるを得ない機会が多かったのだ。
ローガンがエプロンに書いてある文字を見て笑う。
「お世辞にもセンスがあるとは言えねえな」
「エマが買ってきたんだよ。お土産屋かなにかで見つけたらしい。なぜここにあるのかは、知らないが」
「おれが思うに、お気に入りの服がタンスから出てくるものなんじゃないか」
「まあ、気に入らないわけではないが」
それはそうとこのエプロンを着用しない選択肢はなかった。肉を焼くのだから。油がはねたら困る。あのときはハンバーグを焼いたが、今はステーキだ。

たいていのものは焼けば食べられる。煮ても同じことが言える。火を通せばよいのだ。生食に適したもののほうが少ないくらいだ。
「せっかくなら、こんな野菜じゃなくて、牛や羊を育てる担当がよかったな」
「豚は」
「大変そうだ」
「身勝手な奴め」
それはさておき牛肉だった。ステーキにする。それ以外の調理法を知らないともいう。ミディアムレアでいい。分厚いから、それにも時間がかかってしまうが。
付け合せはビーツだ。これも焼くとおいしいのだという。ビーツをすべて売る必要はなく、貯蔵も可能なので、たまにこうやって本来の目的で使用することとしている。アルミホイルに包んで、オーブンに入れる。火が通ったら食べごろだ。
じゃがいもと人参も一緒にオーブンに入れてある。隣の案内人からもらったローズマリーも一緒にだ。そうすると香りがついてよいのだという。
案内人からもらったローズマリーは、案内人が持っていたときには白色をしていた。スコットはローズマリーを知らなかったので、そのようなものなのだと思っていたが、持って帰ってテーブルに置いたときには、緑色となっていた。
この程度の不思議には適応しつつあった。

こんなにおいしそうなステーキがあるのに、ビールがないのが残念だった。禁酒法時代はとうの昔に終わったはずなのに、ここだけまだ施行されているのだろうか。
「ないものはないですね」
案内人はそう言うだけだった。それなら仕方ない。
というわけで、ここにはステーキと、付け合せの野菜盛り合わせと、コーヒーがある。
「水よりはマシだ」
というローガンの言により、浅煎りのコーヒーをビールの代用品としている。コーヒーも嗜好品だろうに、交換所に低レートで存在する。なぜかサイフォンもキッチンに配備されていたので、普段はサイフォンでコーヒーを淹れている。
「資源削減のためだろうか」
「それにしては、本格的すぎねえか」
あまり意見の合わないふたりであったが、サイフォンについては満足している。火にかける時間だけ気にすればよいのだから、ネルドリップよりも属人性が少ないというのもある。だから、安定した品質のコーヒーを飲むことができる。
学園にもこのくらいあってもよかったのに、と思うが、それはどちらの学園のはなしなのかわからなくなってしまうから、口にはしない。

これまで、ローガンとふたりで食事をする機会は、あまりなかったような気がする。食堂のような場所で、みなと一緒にいることはあったけれども。あのときはだいたい大きなテーブルで、中央に料理が置かれており、時にオプティックブラストで切り分けたりしたものだった。
リビングにはテーブルがひとつ。木製のそれに、いくつか焦げ跡がある。
タバコの火を置きっぱなしにしたのではない。灰皿ならある。
「できたぞ」
鉄板焼きなどの熱い料理を作った際に、うっかりランチョンマットなしに置いてしまったことによる。今回はきちんと、緑色のマットを敷いているから問題がない。
フライパンで焼いた肉と、野菜。それからパン。
必要かどうかは知らないが、習慣として主の祈りを簡略化して行う。それからナイフとフォークを手に取る。
切り口を見る。ちゃんと赤い。今回はミディアムにできたようだ。この前はうっかり焼きすぎて、ぱさぱさになってしまったこともあった。でも今は違う。口に入れる。油と赤身のバランスがちょうどよい、地上と遜色のない牛肉だ。
ところで、とスコットは言う。
「畑があるなら、牧草地帯もあるんだろうな」
案内人以外の哺乳類を見た記憶がなかった。案内人が哺乳類であると確認したわけではないが、ひとの形をしているので、そう類推する。というか、動物がいない。植物だけだ。
「おれは見たことないが」
「牛はいつ眠るのだろう。太陽も月もないところで」
「ひとが眠くなるのと同じように、寝るんだろうよ」
スコットは牛が眠っているところを想像しようとする。そうすると、そもそも、牛の眠る姿を知らないということがわかった。知っている牛は常に目覚めており、草を食んでいる。そうでなければ、食卓に並んでいる。

皿を洗うのは、調理をしたほうではないひとの担当である。だから、今日はローガンがやっている。何度見ても慣れないものだ。いや、皿洗いの当番くらいあったから、見たことがないはずはないのだけれども。
「なんか、慣れないな」
「おれも皿くらい洗う」
「ぼくにだってできる」
「知ってるさ、スリム」
この生活自体に慣れてはいないけれども、慣れなくても日常は進行する。スコットは、自室に戻らないでリビングの暖炉のそばで本を読むことが増えていった。ローガンはどこかに行ったり、戻ってきたり、鍋で何かを煮たりして過ごしていた。

ランタンの明かりは日に日に強くなっていった。ビーツを交換して、ついでにもらえる火種をランタンに追加しているのだから当然のことだ。光量が上がってもうるさくはなく、むしろ穏やかな落ち着きがあった。

ローガンのランタンを見せてもらったことがある。アダマンチウムよりも多少暗い色彩を持ち、工業的な素朴な実用性のあるそれは、スコットのものとはだいぶ異なるように思われた。中に入る光はシルバーで――無彩色に近いのに、鮮やかな輝きを示していた。ついでに、スコットのものより明るかった。
「火種の数が違うんだ」
「いや、特に明るいとか言ったつもりはないが」
「なんだ、明るさに引け目を感じたのかと」
それはなかった。それはなかったことにしておきたい。ここにやってきた時期の違いだけなのだから。
「どうしてここの法則に馴染めるんだ」
「逆に、どうしてお前はここに馴染んでいないと思ってるんだ」
「馴染んでるのか」
さあな、と答えて、ローガンはランタンを片付けに行く。

テーブルの上には何もない。空白がそこにはある。薄めたアイボリーの世界の中では、色のあるだけで希少であって、それがなくなると即座に空間に寂寥感が生まれる。
そうして思い出したのは地上の記憶だ。地上における雪の記憶だ。雪はもっと白くて、基本的には冷たい。
彼は飛行機のコックピットにいた。自分は地上にいた。
目線を交わしたのだった。何かを言おうとしたのであった。
多分あの時が最後ではなかったはずだ。雪の中にある記憶だった。その後も、ふたりで敵対組織を壊滅させたり、したはずだった。なのに思い出されるのは、あの日、誰かのために集まったときの、どこか他人事のような邂逅なのだった。
その誰かは大切だったのだろう。大切だったし、その空白に別々の視線を向けながら、ぼくたちはそれまで生きてきたのだろうと思えた。
彼の訃報を聞いたのも覚えている。それは夕闇の中の記憶だった。いなくなってせいせいしたわけでもなく、ただどうしようもなかった。ひとはこの世界ではよく死ぬもので、そしてよく帰ってくる。帰ってこないものもいて、そのひとつにかつて愛したものもいる。
ローガンは帰ってくるのだろうか。
ローガンは帰ってくる。この家に。
そういうことではなくて、現世に――自分たちがいた、色彩にあふれている、誰も彼もが傷ついて、守らなければならないものと、戦わなくてはならないものがいる、場所だ。彼はそこにいるべきなのではないだろうか?
真綿でくるまれたように減速された世界ではなくて。

スコットはあるとき、案内人たちがひとところに集まっているのを目撃する。家の近くの十字路の角にある、空き地のような場所だ。
交換所以外で案内人がどうしているのかなんて考えたこともなかった。道を歩いているか、家にいるかの、どちらかだと思っていた。クッキーが焼けすぎたみたいな理由で、案内人の家を訪ねたこともない。
集まって、何をしているのだろうか。見たところ、円を作って、回転している。右回りだ。
踊ったりしているわけでもない。その証拠に音楽はかかっていないし、呪術めいた儀式のように何かを唱えているわけでもない。
「何をしているんだ?」
案内人のひとりが答える。
「運営です」
「何の?」
「この街です」
「こうやって運営されるのか?」
「われわれは違いがないので、こうやって生きているのです。口調や服装で個体差を出しながら、根本的には天からの御使いのように同一です。違いがあるとすればあなたのような――あなたたちのようなひとが来たときにはイレギュラーとして対処しますが、それ以外はこう、各地で、エネルギーの循環を行い、運営を行います」
「そうか」
理屈はよくわからなかったが、彼らが危険ではないことはわかった。この空間を崩壊させるとか言われたら困っただろうが、危険でないのなら、特に干渉する理由もなかった。
「望むなら、この列に加わることもできます」
案内人のうちのひとりが言う。
他の案内人たちは、相変わらず回っている。近くの道を見ると、日常生活を送っている案内人もいる。
スコットにはそれらの区別をつけることができなかった。見知らぬ羊の顔の区別がつかないように。
スコットは立ち去ることとする。まだ何もいないこの街で異端として生きていくほうが、整然とした虚無よりはましなのではないかと思ったからだ。

畑は充実している。枯れた苗はないし、一列ごとに生育状態が異なるから、安定した収穫を見込める。毎日一列を収穫し、一列を植える。そうすると、毎日ビーツを収穫できる。
自然がやさしく形成されているのも大きかった。今のところ、雹やら霰やら、豪雨なんてものはここになかった。実際の畑であれば、こんなにうまくいかなかっただろう。
穏やかな緑と、その下にあるであろう鮮やかな根を想像するのは、ミュータントの子供たちを見守るようで、親近感があった。
畑仕事が好きなコロッサスあたりがこの畑を見ても、おそらくは満足してくれることだろう。彼は今どうしているのだろうか。というよりも、地上に残したひとたちは、無事に過ごしているのだろうか。
ここに新しく来るひとが誰もいないことが、その答えだと思いたかった。

時間は経過する。
ビーツも育つ。
天候がないので、四季もなく、住民の移り変わりもなく、変わるのはひとつくらいだ。
それがこの、安全を損なう落下物だ。

この土地はだいたい安全だ。安全ではないことのひとつに、予測不可能な落下物がある。
たんぽぽの綿毛が飛んでいる、とかだったら、微笑ましくてよいのだけれども、残念ながらそれは人体だ。
空から人間のようなものの死体(の一部)が落ちてくるのは、あまり好ましいことではない。ここがニューヨークだとしても治安が悪すぎる。全身ではないだけましなのだろうか。
白を基調とする世界において、それはかなり目立った。無視できない程度には、人間の形をしていたし、色がついていた。
スコットはその腕を観察してみた。どうやら左手のようだ。断面はつるつるに磨かれた、白色をしている。そのまま落ちてきたら、直視に耐えないものとなっていただろうから、この世界の配慮に感謝する。それ以外の部分は、繊維に覆われている。この死体は、死ぬ前は赤と黒のぴったりとした服を着ていたようだ。ぴったりとしたというか、全身スーツである。
しかも、指の先まで、かなり強靭な繊維でできたスーツだ。一般人の着るものではない。赤と黒。この配色には見覚えがある。
次は右手が落ちてきた。道を歩いているとき、ちょうど一歩先くらいの場所に落下したので、無視しようがなかった。この速さで落ちてくるこの重さの物体にまともにぶつかったら、大怪我しそうである。
その右手は銃を持っている。明らかに一般人ではない。
スコットは右手を持ち上げる。まるで人体みたいな重さがある。交換所でもらった半透明のビニール袋が会ったので、それに詰める。銃はどうしようか考えたが、安全装置を確認してから、持ち帰ることとした。いざというときに、役に立つだろう。
「ローガン」
袋詰めになった腕をローガンに見せたが、あまり驚かれなかった。いくらなんでも死体慣れしすぎじゃないんだろうか。
「なんか、こう、落ちてくるじゃないか。死体みたいなのが」
ローガンは一瞥して答える。
「ウェイドじゃないのか」
「やっぱりな」
やっぱりで片付けてしまっていいのかわからないが、空から落ちてくるのはデッドプールのものらしい。血が流れていないのは前からで、無視していても片付かないから困っていたのだという。デッドプール以外の部品が落ちてくるのかは、彼も知らないそうだ。

案内人にもあれらについて聞いてみたこともある。あんな頻度で落下物があれば、彼らも不便だろう。
「腕が落ちてきたんだが」
「足のこともあります」
「そういう意味じゃなくって、これは、なんなんだ」
「肥料にできますね」
「肥料……」
斬新なソリューションが提供されてしまい、スコットは口ごもる。
「タンパク質を地面に埋めると、肥料になります」
日持ちがするものでもなさそうだし、ごみ収集に出して処分するのも面倒だし、埋めることにした。服は剥ぎ取れそうにないので、そのままにしておいた。繊維が生分解性であることを祈るしかない。
度々落ちてくる腕、足、胴体の一部などを次々に畑に埋めていった。それだけだと、殺人犯みたいで嫌になってしまうが、これはビーツの発育のためなのだと自分に言い聞かせた。
実際、推測デットプールを埋めると育ちがよくなった。埋めていない部分よりも、ひとまわり大きい気がするし、葉も青々としたきがする。測定するのはなんだか恐ろしかったのでやめておいた。
ビーツのサイズと埋めた何らかの物体に、ほんとうに相関が見られたら、天から腕が降ってくることを願ってしまうかもしれないし、それはあまり倫理的な行為ではない。

推測デットプールが落ちてくる。埋める。ビーツを収穫する。回収人がやってくる。ランタンの明かりが増える。
推測デットプールが埋まった畑から作物を収穫しているという事実に関しては、自分で食べるものではないのでよしとする。
「あいつ、ヒーリングファクターで再生するだろ。だからといって、元の身体がなくなるってわけじゃない。だからその、死んだ部分だけがここに落ちてくるんだろうよ」
ローガンにヒーリングファクターがあった頃はここに落ちてきたのだろうか。流石にそれを尋ねるのははばかられたし、そのころ彼はこんなところにはいなかっただろう。
そんなことも考えながら、人体が落下してくるのは日常となった。
真っ白な世界に適応できるのだから、ちょっと妙な物体が落ちてくるのにもまた適応できる。多分、砂漠でムカデを食べて生活するのよりはマシだと、スコットは自分を納得させる。

なんだか酒臭い気がする。
スコットが交換所から戻って、パブリックスペースのドアを開けた瞬間にそう思った。どちらかというと消毒用アルコールに近い匂いだ。まさかアルコール欠乏に耐えかねてメチルアルコールでも飲んだんじゃないかあいつは、とか脳裏によぎったりした。
あいつがいくら酒好きでもそこまではしないだろう。 しないでほしい。
ローガンに何をしているのか尋ねると、この壁は何色だと聞かれたときと同じような調子で答えた。
「ああ、これは酒だよ」
「酒? 売っていないんじゃないか」
「おれたちの育てているビーツは、ウォッカの原料になる」
「まさかお前」
「そのまさかだ。やればできるもんだな」
「あの交換所には麦も米もある。日本では米をサケにするんだ」
だからってビーツもできるとは限らない。そこにローガンが取り出したのは自家製アルコール作成の入門書だった。自分の部屋にだけあの便利な本棚があるというわけではなかったのだ。
「ここにビーツからウォッカを作った実績が載ってるだろ」
確かにあった。町おこしの一環として実験した自治体があるという。
「だからって、できるのかそれ」
「だからやってんだよ」
ビーツをペースト状にして、水と麹を加えて、放置する。たまにかき混ぜる。
今の所、見かけは濁った水だ。これを蒸留するのだという。そうすると、アルコール度数が上がる。簡単なことだ。原理上は。
「ここの時間の進み方的には、もうすぐできるぜ」
「えーと、まあ、たのしみではあるな」
そうは言っておいたものの、どうせできないんじゃないのか、なんて思っていたのが、ついこの前のこと。

アルコールの匂いなんてものじゃなかった。アルコールだった。
圧力鍋と、ボウルの水、チューブ、それからコンロの火。それらで簡易的な蒸留設備が構成される。圧力鍋は肉を短時間で煮込むためだけに存在していたのではなかったのか。
それからローガンにこのような工作技術があったのか。
火にかけられたことによって水分が飛び、冷却されてアルコール分だけが残る。中等教育で習う簡単な仕組みだ。圧力鍋の中に麹を加えられたビーツ加工品が入っており、それを熱することによって、アルコールだけが気化する。その蒸気はチューブを通り、氷の入ったボウルを通り、水滴となったそれがガラス瓶のなかに一滴ずつ溜まっていく。

それによって、一見水のような液体が、最終到達地に滞留することとなる。ガラス瓶に、透明な液体。ラベルでも付けておかなくては、水と間違えて飲んでしまいそうだ。
「ほら、できたぜ」
ローガンはふたを外し、ふたつのショットグラスに半分ずつ注ぐ。ご丁寧に用意してあったロックアイスをそれぞれに入れる。
スコットは手渡されたそれを口に含む。
くせがないというか、純粋なアルコールに近い。多分割ったほうがいい。そう思ったらローガンはきちんとトニックウォーターと炭酸水を用意していた。あとシロップ。ここはバーなのか。
というか、アルコールはないくせにしてそういうのはあるのか。交換所に。
「木苺のシロップはここで作った」
考えてみると、むさ苦しい成人男性が果実を煮詰めてシロップを作っているのは、ちょっと面白い光景に思われた。でも、そういうこともあるのかもしれない。ローガンと暮らし始めてから、ローガンはきっと、やりたいことならなんだってするのだろうと思い始めてきた。
スコットは氷の入ったグラスに木苺のシロップを入れ、ビーツから生成されたアルコールとトニックウォーターを注ぎ入れる。赤と透明色のグラデーションで、割と本格的な見た目になる。
「美味いな」
たいていのものは、美味しければ問題がない。
必要のないものはここにないのなら、これは必要なのかもしれない。スコットは次の日から、ローガンのアルコール製造を多少手伝ってやることとする。

必要な部屋は増える。キッチンひとつだけでは、アルコールを醸造するのには不便だ。だから、冷蔵庫付きの部屋が増えた。ついでにもうすこしちゃんとした蒸留設備が誕生していた。チューブを自前で用意して、ダクトテープで留めていた過去の蒸留設備から、ガラス管を使用した本格的なものとなっていた。
この家も気を利かせるのか、とスコットは思う。
ならまず、なぜローガンと同居する仕様になっているんだ。家だってもうひとつくらい増やせるだろう。
それから、蒸留設備なんか作らないで、トレーニングルームとか、なんならデンジャールームとか作ってくれたってよいのではないだろうか。
思ったところで、文句を言う先はなかったので、ノートに書いておく。

アルコールが作られてから、晩酌という習慣が発生した。相変わらずいつが夜なのかわからないから、それは生活リズムの改善ともなった。
ということにしている。
焼いた肉には、ビールがよく合う。いつそんなものを作ったのか、なんとここにはビールがある。ホップをどこかから調達してきて、作ったらしい。
地上だったら、もうクラフトビール工房とか、バーとか、そういうものを開いてもいいんじゃないかとすら思える。ついでに味付け用のシロップも増えた。この前はぶどうを煮ていた。スコットはトマトジュースを作ったりもした。作るとはいっても、洗って、フードプロセッサーにかけたくらいなのだが。
この勤勉さを、なぜあのころはミュータントのために使ってくれなかったのか。ローガンがこれほど日常のためにはたらけるのならば、日常を守るためにもはたらいたはずだ。
それはさておき、今日はローガンが調理担当で、今日も肉だ。
ただし鶏である。ここで健康に配慮することに意味があるのかわからないが、たまにはあっさりしたものも食べたくなるのだ。肉か魚かでいえば、肉派であることは一致していた。
その一致に気がついたのだって、ここに来てからだった。

何も知らないにはこの生活は短い。何もかもを知るのには短すぎるし、そうすることを望んでもいなかった。
これまでも一緒に生活することはあったし、付き合いも長いはずだった、それなのにこんなにさまざまな情報を得てしまうのだ。案外真面目だということ、真面目でないときでも人生を楽しんでいること、これがどこであろうとも、普通に暮らしてみせる豪胆さと、野菜を枯らさない几帳面さのこと。
これまでは理解しようとも思わなかっただけなのかもしれない、と、スコットは述懐する。
食卓に並ぶのはチキンの香草焼きと、まるいパンと、ビールだ。半分以上が麦類で構成されているが、アメリカの標準的な食事ではある。
先日買ってきたチーズケーキがあるのだ。ニューヨークスタイルの重さのある、ボリューミーなケーキだ。あまり健康によくないが、たまにはこういうものが食卓に並んだっていい。
そう思える程度には平和だった。
平穏無事を煮詰めたような生活が終わりに近付いていることを、スコット・サマーズはまだ知らずにいる。

あるとき目が覚めると、スコットは周囲が普段とは違うことに気付く。最初はかすかな違和感だった。ちょっと調子が悪いせいで、視界が霞んでいるのではないかと思った。
しかし違った。顔を洗っても変わらない。洗面台が白くない。白かったはずなのに。床、カーテン、すべてがそうだ。
くすんだ灰色をしている。あたたかな光に包まれていた家が、一転して冷たさすら感じる灰色と化していた。
窓の外を覗く。灰色だった。乳白色の光がなくなるだけで、都市の様相はここまで変容する。真っ暗だというわけではないのだ。やわらかい乳白色がそのままやわらかい灰鼠色に変化したような、それは穏やかな暗闇だった。
野外に案内人がひとりもいないのも不可解だ。どんな時刻であっても、あれらは外を歩いているものだったが。
ローガンはどうしているのだろうと、リビングへ行く。ローガンは出かける準備をしていた。
「どこに行こうとしてるんだ」
「夕日のある場所」
「夕日?」
「あるときはある、ないときはない。歩いていくと、あるんだよ。こうやって暗い日には、出てくるんだろうよ」
スコットは交換所と居宅くらいしか歩いていったことはなかった。どの区画に行ったところで、似通った景色しかなかったからだ。
ローガンによると、ここには世界の果てというものがあるらしい。象や亀に支えられた世界ではないと思うのだが。それが果てかは確証がないが、少なくともドームが終わって、出られない端があるようだ。
以前もこのような夜があったらしく、そのときに歩いていったら、見つかったのだという。ほかにも同じように、ここに来ているものがないのか捜索した際の副産物といて、ドームの端、虹の終わり、空が地面と接する場所にたどり着いたのだ。確かにここが地球と同じように球形をしている保証はない。確かに、平面にドームが乗っかっている構造ならば、天井の終わりは存在するはずだ。
「来るか?」
「畑はどうなる」
「誰もいないんだ。畑を放置したって問題ない。ついでに、光がなきゃ育たない」
なるほど正論であった。
「どうやって行くんだ」
「歩くしかねえな」
残念なことに、交換所にバイクも車もなかった。自分で作るには、材料がかなり足りない。バイクがあったところで、一台では足りないことだし。
まずは朝食をとることとした。お腹が空いていたら、遠くまで行けないだろう。食パンを焼き、缶のスープをあたためる。パンにはバターを塗り、メイプルシロップをかける。このメイプルシロップは、ラベルの記載を信じるならばカナダ産なのだとかいう。ローガンがその味に満足しているのならば、真実なのかもしれない。
そのカナダもこの世界のどこか灰色になっているのだろうか。そうだったらすこしおもしろいのかもしれない。
スコットは自らの順応に気付かないが、ひとにはそういったことがよくある。

そしてふたりは歩いて出かけることとなる。ビーツも、少し放っておいたくらいではだめにならないだろう。たとえここの時間の進み方がおかしいからといって、ビーツがすべて枯れるまでに帰ってこれないようでは、こっちの体力がもたない。
「ランタンを持って行け」
「暗いからな」
明度的には、地上の黄昏時よりは明るい。だけれども、この灰色というのはあまり親切ではなく、すべてがのっぺりとして見えるので、光を持っていって濃淡をもたらしたほうがよいのだ。部屋の中でさえ、机と床の境界の区別がつきにくくなっており、危うくフォークを落としそうになったくらいだ。
フォークも灰色に近付いており、持っているだけで不思議な気分になった。灰色と、輪郭を示す少し濃い灰色。それだけだ。下手な木炭画家がこの世界を再配置したみたいだった。
靴紐を結びながら、ローガンは言う。
「なんなら、お前が来た日はずいぶんと暗かったもんだ」
「白にしか見えなかったが」
「暗いところから来れば、どんな小さな光も明るく見えるもんだろう」
スコットの記憶にはふわふわとした乳白色しかなかったが、よく見える目を持つローガンにとっては違ったのだろうか。それとも、色のついたサングラスのせいで本当の色を見誤っていたのだろうか。
記憶にある色どうしを照合することはできないので、真偽は確認できないが。

ふたりはランタンを持ち寄った。灯がふたつもあれば、昼間のようまでとはいかないが、十分な光を放っている。
スコットのランタンは最初よりはかなり明るくなっていた。足元を照らすには十分だ。そう思っていたら、ローガンの持ってきたランタンを見て驚いた。自らのものとは比べ物にならない光を湛えていた。以前見たときは、ここまでの華やかさはなかった。鈍いシルバーグレーの光は、どちらかといえば今の街の色彩に近いはずだった。
なのに、建物や道に反射すると、虹のように多彩な輝きが現れるのだ。加法混色をペーパークロマトグラフィーで分解したような、それは鮮やかな無彩色だった。
まじまじと見ていると、ローガンは怪訝な顔をした。それから、ふたりは歩き始めた。
「どうして、そこまで行こうと思ったんだ?」
「時間はあって、ひとはいない」
確かに、ここには他者がいなかった――ローガンを除いて。案内人たちは、とても親切だが、それ以上ではない。どの案内人も、同じ答えを返すし、どの案内人も、同じ行動をする。
自分の来る前の、ローガンの生活を想像する。あまり楽しそうではなかった。スコットが来たからといって、楽しくなるかは限らないけれども、少なくとも、乱数が増える。
平坦な毎日よりは幾分マシだろう。
「ずっと何してたんだ」
「何って、お前に話すことか」
「タバコも酒もないし――まあ、酒はこの前できたんだが――ひともいない」
「いるじゃないか」
「あれはひとか?」
「難しいところだな」
とりあえず人間の形をしているのはわかる。あの案内人たちが、実は裏側で生活しているのかもしれないのもわかる。だが表側に見えている部分はあまりに無機質だった。
「とにかく、清潔で、埃一つない、管理された幸福の中にある都市だ。ヒーリングファクターなんかなくても、傷がつくことはない。だからなくなったんだろうが。ああでもお前のバイザーはあるな」
「敵でも来るんじゃないか」
「縁起でもないこと言うな」
「戦わなくていいっていうのは、こんなに」
スコットは口ごもる。こんなに、なんなのか。
はじめは生きるための闘争だった。お互いそうだった。戦場は異なれど、学園に来るまでは生き延びるために戦う必要があった。そして、学園に来てからは居場所を守るために戦うこととなった。
居場所というのは境界線の内部であり、そして境界線は絶えず変動する。絶えず変動するものを守るのだから、同じ戦いではいられない。
その果てにぼくたちは別の道を行くこととなったのだ。
今は、どういうことか、同じ夕日を目指している。
「なんだろうな、よくわからなくなった」
ローガンはだよなあと笑う。
地上にはいろいろな立場があった。自らの取ったそれを間違っていたとは、スコットは思わない。
だけれども。
こうやってローガンと笑いあえるような日々は、確かに失われていた。
「たぶん、そのうち、ぼくらは生き返るんだろう」
「今生きていないってか?」
「言葉のあやだ。まあ、ここが、終の棲家じゃないのなら、いつか戻るんだ」
「その時にも、こうやって歩いていけるんだろうか」
「だいたいはお前の問題じゃないか、スリム」
「お前が勝手にいなくならなければいいんだ」
首輪をつけておけば簡単なのかもしれないが、あいにくどこの首輪も外してしまうような男なのだ、これは。いつもどこかに所属しているようで、実際のところX-menでもX-forceでもアベンジャーズでもなく、ひとりでいるような気がしてしまう。
「今はここにいるだろ、それで満足しろ」
「なんで上から目線なんだ」
「その身長のやつに言われたくはないな」
「まあ、呼ばれて、気が向いたら、戻るな」
ランタンは相変わらず明るい。だけれども、ふと消えてしまうのではないか、そんな感情を抱かずにはいられなかった。
そして、消えたところで、こちらの光があれば問題がないのだということも。

天井が低くなってきているのを感じる。灰色は遠近感を狂わせるが、どことない圧迫感を覚えるようになってきた。そのうち頭につっかえてしまうのではないだろうか。
建物はいつもいた場所よりは低く、そして道は狭い。今はかろうじてふたりが並んで歩いても大丈夫だが、そのうち並んではいられなくなるだろう。
視界の真ん中には地平線がある。地平線も濃い灰色なだけだから、そこまで行くのに、どれほど時間がかかるのかわかりにくい。
次第に道は細くなり、ローガンが前を進んだ。彼の持つランタンの方が明るいからだ。スコットの持つ赤い光も、十分に用はなしていたのだが、話し合うこともなく、自然とそのようになった。
最初はそれほど離れていなかったと思う。なぜなら、スコットの持つランタンの光が、ローガンもまた照らしていたからだ。スコットの持つ赤色は、スコットの手元を明るくすると同時に、ローガンの背を赤くしていた。
ローガンの銀色の光は、スコットの足元までも届いていて、赤と銀色の混色が行われ、なお明るくなっていた。道とそうではない場所を簡単に見分けられるほどの明るさがあるので、安心して歩くことができた。
たまに声を掛け合う。それほど話題もなく、ついでにまだお腹も空かないから、時間もよくわからない。
それからどれほど経過しただろうか。天井はなお低くなり、夕日と呼ばれる現象は未だ発生する気配がない。
その中でスコットは気付いた。ローガンの姿が赤くなくなっている。つまり、この光の射程距離の外にいるということだ。シルエットが同じくらいのサイズだから、わかりにくかった。これもまた灰色のせいなのだろうか。
スコットはできるだけ早く歩こうとする。走るとランタンを落とすかもしれない。身長はこちらのほうが高いのだから、歩幅も広いはずだ。しかし追いつく気配がない。仕方ないので呼ぶこととする。
「ちょっと待て」
しかしローガンは歩みを止めない。もう一度言う。ローガンは立ち止まる。左手を挙げる。聞こえていることがわかって、ほっとした。
スコットが追いつくまで、ローガンは待っていてくれた。それからもう一度歩き出した。今度は絶対にはぐれないようにしてやろう。

もうそろそろ手を伸ばせば天井につくのではないか。そう思ってやってみたが、まだらしい。
「本当に夕日なんてあるのか」
「なかったら帰るぞ」
あったらすぐにわかるけれども、ないことを証明するには世界の端まで行かなくてはならない。
悪魔の証明というやつだ。そもそも世界に端なんてあるんだろうか。現世にはなかったのだが。端があったら、ここはまた地上とは異なるのだとよくわかるだろうが。

だからこそ、ようやくたどり着いた場所は、まるで生まれてからはじめて過ごす一日のように刺激的で、新鮮で、輝いたものだった。
「ああ、今日は、」
夕日だ。そう口にしたのはどちらなのだろう。
どちらでもよかった。言うことは変わらなかっただろうから。
白ではないことはわかった。だからといって、それが何色なのか、スコットには一瞬わからなかった。あまりにも色のない世界に慣れすぎていた。ルビークオーツの影響を差し引いて世界を観測する習いを忘れかけるほどには。
「これは、地上の夕日と同じ色をしているのだろうか」
「多分な」
前方へ手を伸ばす。そこには固形物がある。色の与える印象とは異なり、熱はない。体温と同じくらいのぬくもりを持つ。冷たくもなく、熱くもない。ただ、強烈なまでのオレンジ。下に向かうにつれて赤へと変化する。照り返しで、地面も暖色に染められている。
手のひらを見る。肌の色はいっそう赤みをおび、血液がその下に流れているのを感じさせる。
「もしかしたら朝日なのかもしれねえな」
「これから世界が真っ白になっていくなら、それでもかまわない」
太陽と地平線が接近する機会はふたつある。昇りと下りだ。どうしてこれを下りだと思っているかというと、このあとに闇が訪れることをどこかで諒解しているからだ。
あれらの白は光ではなくて目くらましなのだ。その意味では限りなく暗い。
しかし、いずれなくなる景色だということをわかっていてなお、その夕景はふたりを魅了した。こどもの頃のように、あるいは世界の端の、存在しない断崖ではしゃぐ冒険家のように。

スコットはこのサングラスがなくても生活できた頃のことを思い出す。ずいぶんと昔のことだ。弟や友人たちと公園を駆け回っては、いつのまにか訪れる夕闇の、少し前に現れる光景を。その夕日に似ているわけではなかったが、喚起する感情はそう遠くはなかった。
こちらに適応してしまってからも何度も夕日を見た。それは都会のこともあるし、大平原のこともある。それから、大切なひととの思い出も、いくらかある。
「ジーンがかつて、夕日を見せてくれたことがあった。彼女の視界を通じて、ほんとうの色を見せてくれたんだ。だけれども、彼女の顔を、見ることはできなかった。ジーンは彼女自身を見ることはできないから」
いくつかの最後で、彼女の瞳を見たこともある。この世界にはない青色をしていた。能力を失っていたときには、当然のように正しい視界を手に入れることもできた。今のスコットにとっては、いずれも遠い記憶であった。
いつだって人造宝石を一枚介している。そんな気がしてならないのだった。
ジーンというよりは、世界に対して。
「ぼくの見るジーンがほんとうのジーンだったのかはわからないが、彼女の見るぼくはいつだって正しい」
「おれはジーンを見たことがあるが」
きっとお前と同じものを見たんだよ、じゃなければ。ローガンは言う。
「見ているだけでいいなんて思えなかっただろう」
あらゆる世界の果て。終わりの果て、スコットが見た、ジーンを思い出す。彼女が現世からフェニックスと共に去る、あの赤色の果て。
あれをずっとローガンが見ていたのだとすると、それは、納得の行くことだ。羨ましいとは思わなかった。それはまったく平和で争いのない社会を望むようにのように無駄なことだろう。それに、

結局ぼくらは同じ世界を愛していたのだった。愛したひとが同じなのだから。

だがぼくたちは何も似ていない。それはこれだけ暮らしていればわかることだ。似ていなくても、同じ視界を共有できなくても、同じ夕日は見られるし――同じ場所で生きていける。
なんなら、同じ道を歩いて帰るのだし。

やがて夕日は地面の方向に向かって去っていく。それと同時に、乳白色が視界を席巻していく。
ランタンの光ももう目立たない。光っているのはわかるけれども、必要というわけではなくなってきた。
立ち去る前に、名残惜しさもあり、スコットは言う。
「酒を持ってきたらよかったな。スキットルにでも入れて。グラスでも持って。そうすればお前と乾杯できた」
シンプルな日常。敵を倒して、乾杯する。そういった世界ではもはやないけれども、今くらいは願ったっていいはずだ。
なぜならこれは最後の休暇なのだ。
「また来ればいいんじゃないか」
まあ、そうかもしれない。簡単なことだ。
帰り道はずいぶんと早かった。壁から離れるにつれて、普通の白色に世界が戻っていく。実際は彩度から離れていっているだけだけれども、まるで別の世界に行くようだった。建物の大きさもすぐに回復される。道路には案内人が、まるで何事もなかったように闊歩する。挨拶をすれば、挨拶を返す。

また来ればいいんじゃないのか、そのはずだった。しかしその言葉は守られない。
スコットにとって、それが最初で最後の夕日だった。
灰色は現れないし、ひとりで歩いても、夕日は現れてくれなかったからだ。

ローガンは去った。彼は彼自身のランタンを持って消えた。予告なんてない。それが朝なのか、昼なのか、夜なのかすらわからない。
畑はある。部屋は減った。最初からひとりで暮らすための住居であったかのように、平然と家はある。乳白色にオレンジ色が映えることもない。
「いつもそうだ」
何度繰り返した「いつも」なのか、スコットは覚えていなかった。だけれども、物事は、いつもこうやって終わる。

あいつはいつも、勝手にどこかに行く。
今回はたまたま帰ってくるほうがが多いだけで。だけれども、自分はまだここにはいなくてはならないのだろう。戦う場所が違うだけで、あいつもどこかで生きていて、戦っている。

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