Goodbye once (more) - 2/9


あなたへ

結局、この手紙はこう始めるしかないのです。
そういえば、前回の手紙の最後に、現在のわたしの名前はシロであると記したのですが、それがなぜなのかは書いていなかったので、ここで書くことにします。書いたところで、あなたに届かないのは十分にわかっているのに、そうします。あなたくらいしか、正直な心の内を話せる相手がいないのです。今この世界に、存在しない、あなたくらいしか。

あなたのいない世界は、あなたがいた頃と同じように回っています。多少犯罪率は増えたと聞いていますが、そのくらいです。あなたが世界を統治する方法が、調和をもたらすものであった以上、当然のことかもしれませんね。街にラムダはもういません。もっとも、わたしはラムダがいた街を、この目で見たことがないのですが。ラムダは見たことがあります。街は今見ています。わたしは常にあの部屋にいました。あの部屋の外に出たのは、あなたがいなくなってからです。
どこに行くのかと聞かれたら、アレンに頼まれて買い物に行くなどしています。今日はりんごとレタスをスーパーマーケットで買いました。スーパーマーケットはかつての世界にもあったものですね。世界そのものはまったく変わっていなくて、というか、だいたいのひとはあなたに支配されていたことすら知らなくて、普通に生きているのですから、当然のことです。
そのスーパーマーケットは毎日にぎわっています。それを知っているのは、わたしがほぼ毎日買い物に行っているからです。アレンは、ここにいるなら仕事があったほうがいいんじゃないか、と言いました。わたしは、何もしないのも退屈だという理由で、その言葉を受け入れました。

そういうわけでわたしはスーパーマーケットに行きます。そのスーパーマーケットまでは、歩いて十分もかからないのですが、わたしは毎日、途方もなく長く感じます。たとえばその道にジャスミンの花が咲いていること。たとえば家からスーパーマーケットまでの間に電柱が十五本建てられていること。たとえばすれ違うひと、老若男女、それぞれ、同じ人であっても違う服を着ていること、違う表情をしていること。同じ時間に歩いたところで、太陽の角度が昨日とは異なっていること。まったく同じ時間には歩けないということ。歩幅が安定していないということ、おおむね同じではあるけれども、まったく同じではないということ。似ているということ――何に?
それらすべては知覚したことがなかったものなので、すべてが新鮮です。ラムダの報告でしか聞いたことのなかったアスファルトというもの。あなたの言葉の中にしかなかったヒトというもの。それらは明確な像としてわたしの中にあったのですが、わたしの中にあったのは明確な像だけであり、実体ではなかったのです。
しかしながら、実体を見たところで、わたしはそれをわたしの中の明確な像と結びつけることだけができて、ほんとうに理解しているのかは定かではない、ということくらいはわかっています。わかっているとはどのようなことなのでしょうか。文字として書けるということなのでしょうか。わたしが文字を書いたのは、この手紙がはじめてだというのに、文字を書く機能そのものは、きちんと備わっていたのです。
あなたが与えてくれたからです。

スーパーマーケットは野菜や果物、肉、惣菜などのコーナーに分けられており、最初はどれがどこに配置されているのか把握していなかったのですが、今はすぐに目的地に辿り着くことができます。野菜は入って右にあります。肉はその奥にあります。特売品や、気になるものはあるのですが、わたしはそれらに目もくれません。わたしは買うべきものをメモしているからです。それ以外のものを買うことはありません。
たまに、アレンが、
「お前の好きなものを買ってきてもいいよ」
と言ってくれるのですが、それでは、何が、自分の好みなのか、と言われると、困ってしまいます。甘い果物は好きです。今日買ってきたりんごのことは好きです。食べたらしゃきしゃきした食感と酸味と甘味が入り混じった味がすることでしょう。この前食べた、レーズンも好きです。生のぶどうはまだ食べたことがありませんが、きっとおいしいのでしょう。それらの事象と、わたしがそれらを好きなことと、わたしがスーパーマーケットで好きなものを買っていいことが、どうにも結びつきません。そのことをアレンに話したら、
「なんだろうな。おれはさ、シロに望んでほしい、んだよね」
と苦笑していました。
「……それは正しいことですか?」
わたしはそう答えました。正しいことならば、やるべきなのでしょうが、そうでなければ、やらなくてもよいでしょう。
「正しいから、じゃないんだよな。そもそも正しいとか正しくないじゃなくって」
「わたしが何を望むかは、アレンが決めればいいのでは?」
「それじゃあ意味ないんだよな」
アレンは頭を掻いていました。アレンにもわからないことがあるのだなあとわたしは思いました。あなたほどではないにせよ、あなたを倒したアレンなのですから、世界を正しくしたアレンなのですから、世界についてよく知っているものなんだと思っていました。

わたしは、自分の足で長いこと歩く経験がそれほどなかったので、筋力がないのではないかと不安だったのですが、杞憂でした。スーパーマーケットまでは問題なく歩くことができたし、それ以外の場所に立っていくこともできるでしょう。わたしはヒトと同じような組成でできているものだとばかり思っていたのですが。ヒトであったら、あれほど長い眠りの果てに目覚めることはなかったのでしょうね。ヒトであったら、もしかしたら。もしかしたらあなたが連れて行ってくれたのではないかと思うのですが、それは気のせいなんでしょうかね。

白い机に月光が差し込む夜に
シロ

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