Goodbye once (more) - 3/9


あなたへ

最初の手紙で、わたしの名前について示唆したのに、次の手紙で、わたしの名前の由来を語るのを、すっかり忘れていました。あなたがそれを知ることは二度とないにも関わらず、あなた宛の手紙なのだから、あなたにすべてを知ってほしいと願ってしまい、思ったことをすぐに書いてしまっています。だから今回は、時系列を遡って、わたしの名前のはなしをしたいと思います。
わたしはあなたから名前を与えられませんでした。わたしはあなたにしか会いませんでしたし、ラムダはヒトではありませんからね。ラムダたちにとっても、わたしは「その部屋にいる誰か」でしかないようでした。たまに、ラムダがわたしのことを『お前』と呼びましたが、そのたびにあなたは『きみ』と呼ぶように訂正しました。だから、あの頃のわたしの名前は、『きみ』であったということができるかもしれません。
しれませんがそれが詭弁であることをわたしは理解しています。わたしは言葉を解するので、『きみ』というのが二人称の代名詞であることを知っています。代名詞は名詞の仲間ではありますが、固有名詞ではありません。一般に、ものの名前とされるのは固有名詞です。たとえばアレン、たとえばキャシー、たとえばシロ。みなコモンネームであるので、同じ名前を持ったものはいくらでもいるのでしょうが、文脈によって同定できるのならば、固有名詞としてもさしつかえないでしょう。そのようなことはあなたも知っているとは思うのですが、なぜだか、すべてを解説したいと思ってしまいます。この紙の上で。
この地下室に月光が差してくることなどないのに、どうして前回の最後に月光などと書いたのでしょうね。ここにあるのは蛍光灯の光だけです。わたしの手元を照らすには十分すぎる光です。無機質ではありますが、では、月の光と何が違うのでしょうか。月の光を有機質だと言うのは誰なのでしょうか。わたしがこの前読んだ詩では、そのようなことになっていたのですが、蛍光灯と月がそれぞれ発する光に名称以外の区別をつける瞳をわたしは持っていません。月の光が無機質でも、蛍光灯の光が有機質でも、かまわないのではないでしょうか。発する元が違うというのなら、月の光はもともと太陽の光なのだから、無機質であるといえます。その光が感性にもたらす影響が有機質だの無機質だのに関わってくるのならば、そんなのは恣意的に決められるものです。
はなしは毎回逸れてしまいますね。わたしの名前が今、シロとしてあり、それがわたしを指し示すというはなしをしたかったのです。
ある夜、シチューを食べながら、
「名前決めなよ」
と言ったのはアレンでした。
「お前、って呼んでるの、なんかやだからさ」
「それがわたしを指し示すのであれば、問題ないのでは?」
「そりゃ、おれとお前しかいないなら、それでもいいよ。〈統一するもの〉とお前は、ふたりしかいなかったから、名前がいらなかった、んだろうし。でも、お前はこれからいろんなヒトに会うだろうし、そのとき名前がないと不便だよ」
今は、外に買い物に行くくらいです。だから、ヒトとの交流は最小限です。店員はわたしの姿を認識していないでしょうし、逆もまた然り。
「わたしはこれから外の世界に出るんですか?」
「出たくないの?」
「わたしはあの家の部屋にいました。今はアレンの家の地下室にいます。何も変わりません――ラムダの定期連絡がない、くらいですかね。アレンはわたしに新聞を渡してくれますし、本も与えてくれます。白いジグソーパズルを組み立て続けるよりは、ずっとマシです」
今思えば、の話で、たとえばわたしはあの家にいた時、パズルを組み立て続けることに満足していました。それはあなたに言っておかなければなりませんね。それしか知らなかったからです。しかしながら、わたしはさまざまな情報と、情報を得る手段を知ってしまったのです。
そのときのわたしにとって、情報がすべてでした――あの家にいた時と、変わらず。
「外の情報を与えたら、外に出たくなるかな、って思ったんだよね」
「そうだったのですか」
「なんで他人事なの」
「わたしに関することは、わたし以外が常に、決めていましたから」
「あのなあ、もう〈統一するもの〉はいないんだよ」
その言葉はわたしに重く突き刺さりました。そんなことは目覚めたときからずっと分かっていたのにもかかわらず、明言されたのはこれがはじめてだったからです。
あなたはもういません。アレンが殺したからです。
アレンに怒りを覚えていいはずなのに、わたしはその感情を他人事のように眺めていました。アレンに怒りを感じている自分と、あなたがいなくなって悲しい自分が、いるのは事実なのですが、それらは川の向こうにいて、わたしに手を振ることもありません。ただそこにいるだけです。座って、わたしが来るのを待っています。わたしはそれらの感情に与することがありませんから、虚しい願いであるとしか言いようがないのですが。わたしは対岸に渡る気がありません。そう思っているわたしが誰であるのかは、うまく言い表すことはできないのです。
「〈統一するもの〉はいないから、お前には名前が必要なの」
「なら、アレンが決めればいいんじゃないですか? わたしはその名前を受け入れます」
もしあなたがわたしに名前をつけたなら、わたしはそれを受け入れたでしょう。ありえない仮定ではありますが、名前は誰かがつけるものです。そのように認識しています。ヒトは、親から、名前をつけられる。ペットであったら、飼い主が名前をつける。
そういえば、とわたしは思います。ラムダがラムダであったのは、あなたがそう名付けたからだったのだろうかと。群体ではありましたが、ひとつひとつに名前はありませんでしたが、ラムダは確かにラムダで、わたしはすこし、それがうらやましかったのだと気がつきました。
アレンは苛立たしげに言います。
「それじゃ意味がないんだよ」
「どうしてアレンが意味を決められるのですか?」
「だって、お前はまだ何も分かってないから」
「あの部屋で知識を与えられ続けたわたしに、理解していないことがあるんですか?」
あの部屋には、現実以外のすべてがありました。そのことをアレンに説明したことがあったと思うのに、アレンはわかってくれなかったようです。
「そうだよ」
アレンはシチューを平らげていて、わたしの皿の中にはにんじんが残っています。
「とにかく、お前には自分で、自分の名前を、決めてほしい」
わたしは地下室に戻りました。蛍光灯をつけると、部屋は白く照らされました。部屋の隅まで、影ひとつない、清潔な部屋です。
わたしは、自分で何かを決めたことがありません。こうやって、あなたに手紙を書いているのだって、アレンが決めたことです。たまに、部屋の掃除をするのだって、アレンがそう言ったからです。そもそも、あの部屋にいたわたしには、何かを決める権利はありませんでした。わたしはあなたからものを受け取るための人形であり、わたしはラムダから世間話を聞くだけの機構でしたから。王様の耳はロバの耳、というそうですが、わたしは王様だったのです。真に支配していたのはもちろんあなた。わたしは王様。何もかもを聞いているだけの、そう望まれたからそうあるだけの。
決める、というのは、なにかを、なにかから分節することです。よい、とわるい、を分節すること。わたし、とわたしではないもの、を分節すること。
椅子に座りながら、そう考えていたら、わたしは、この部屋にはあまりにも家具が少ないということに思い当たりました。机と椅子があります。ベッドがあります。それだけです。本はいくらかあります。アレンが貸してくれたものです。それらは大きな本棚に、ひっそりと置かれています。
この部屋にはあまりにも余白が多いのです。
余白。
そしてその余白にはわたしがいます。部屋の余白を占めているのがわたしということは、わたしを指し示すことばは余白でもよいのではないでしょうか。
固有名詞として扱われる名前にしてはいささか奇妙ですが、役職名で呼ばれるようなものだと思えば、これでもいいのかもしれません。
でも、わたしは余白でしょうか。
余った部分にある、空白なのでしょうか。
少し考えると、それは違うということがわかります、なぜならわたしは余りですらないからです。それは、あなたがわたしを置いていったからです。もしあなたがわたしを連れて行ってくれたのならば、わたしはあなたの余白だったでしょう。でも違います。あなたは連れて行ってくれなかったので、わたしは余白の余りです。
ということは、つまり。
わたしはシロです。余白のシロ。余白から、余りを取り除いて、ただの白だけが残った、シロ。
これをわたしの名前にするのが、わたしを指し示すものにするのが、よいのではないでしょうか。
次の日の朝、それでいいのかとアレンに聞いたら、
「お前がそれを望むなら、お前は今日からシロだよ」
「望むなら、ですか」
「ああ、でも、いい名前なんじゃないか」
アレンは、よいことと悪いことをきちんと分節できるようです。どうやって?
「じゃあ、街に行かなきゃな」
「わたしは店に出かけていますが」
「なんだろう、友達が必要なんだよ」
おれ以外の、とアレンは付け加えます。どうやらアレンはわたしの友達だったようです。
「おれだけがお前を知っていても、意味がない。みんなが、お前のことをシロだって認識してくれたら、お前はシロになるんだ」
「それは、よいことなのでしょうか?」
「いいも悪いもないよ。ヒトの間に生きるっていうのは、そういうことなの」
アレンはいつでも、自分が正しい、と思っているかのように喋ります。あなたもそうでしたね。でもあなたとアレンは違います。アレンは正しくないかもしれませんが、あなたは正しかったのです。正しいものが自分が正しいと思っているかのように喋るのは、当然のことです。
しかし。
それならなぜ、あなたは死ぬ必要があったのでしょうか?

真夜中は時計の音ばかりがしますね
シロ

送信中です

×

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!