Goodbye once (more) - 8/9


この手紙の宛先は明白だから、最初に名前を書く必要はないね。もしかしたら、きみ以外のひとがこの手紙を読むことはあるかもしれないけれども、そのひとにとって、この手紙は何の意味もない。
これはきみだけに宛てられた手紙だ。
同時に、きみに読まれることを望んでいない手紙だ――きみは文字を理解するだろうが、読ませたことはないからね。これがきみの読むはじめての手紙になったらいいと夢想する僕がいて、その夢想が叶わないことも知っている。
なぜなら僕はこの手紙を出すつもりがないからだ。正確に言えば、この手紙は僕の部屋の棚の、僕しか開けられない鍵のかかった引き出しに入れるつもりだからだ。そんな手紙、書く意味があるのだろうか? ときみは思うかもしれないけれども、僕は、ある、と答える。
なぜならこれは、僕がきみに宛てた手紙という体裁で、僕の感情を整理するためのものだからだ――なら、ノートにでも書いて、燃やしてしまえばいいのかもしれない。僕の手がまた、文字を書くための用をなすならば。僕はかつてよりも思考領域が拡張されているから、紙とペンのような外部デバイスに頼る必要は、本来的にはないはずだ。なのに僕はそうしたかった。何なら、思考整理用のラムダを作って、ひとしきり話したあと、それを破壊したって、構わないわけだし。とか書いていたら偵察用のラムダが帰ってきた。きみのところにもそいつは行ったことだろう。
そのラムダによると、今日も世界はありのままにあり、平和らしい。もちろん、存続するための適度なノイズとしての不法行為はいくつも存在するのだが、それらの発生は制御されており、目の前のスクリーンに美しい模様を描いている。スクリーンには、リアルタイムで遷移する世界の様子が描画されている。ひとの感情、行動、生物、非生物、存在するものすべてがカラフルなドットとして表され、それらは毎秒ごとに色を変えていく。一つ一つのドットに着目すればちかちかと目まぐるしく変わっているように思われるだろうが、スクリーン全体は、常にぼんやりと緑色だ。
そのように僕が設定したからだ。

きみとは毎日話しているから、いまさら手紙なんか、書かなくてもいいのだし、きみに伝えたいことがあるのなら、言えばいいのだろうけれども、きっと、もうすぐそうはできなくなるから、僕は手紙を書いている。

世界を映すスクリーンは正常だ。僕の精神も正常だ。だから、このままずっと、世界は平和なはずなのだ。だけれども、僕にはわかる、僕が「世界を平らにする」という天命を受けたのと同じように、「世界を混乱させる」という天命を受けたものが現れて、いずれ僕を殺すのだろう、と。
はるか昔に、死という概念は取り除いたから、どうやって僕を殺すのかは定かではないのだが、天命というものは不可能なことは望まないから、できるんだろうね。僕だって、世界を平らにできるとは思っていなかった。多少のテレパシーと機械工学の才能で、すべての偶然を制御し、すべての意思をよりよくし、すべてに均衡をもたらすことができるとは思っていなかった。でもできた。やってしまった。やれたからやっただけなのだ。
ある意味では、僕はその、いつか僕を殺しにやってくるその、彼なのか彼女なのかそれともそのどちらでもないのかわからない存在に哀れみを覚える。そしてきっと、彼なのか彼女なのかそれともそのどちらでもない存在も、僕を哀れむことだろう。いきなり、やれることをやれ、という、意味のわからない衝動がやってきて、自分の今までの人生をすべて、変えてしまうのだから。

そうだ、そうだ、きみの話だ。僕がいなくなる前に、きみがどうして存在するのかを話しておいた方がいいと思ったのだ。でも、話そうとすると、どうしたって息が詰まるのだ、別の話題に逃げたくなるのだ、いつの間にか、僕はきみに与えることはできるけれども、それ以外のことはできなくなっていた。
きみをそう作ったのだから、当然とも言えるのだけれども。

僕はシステムだ、そう作られた機構だ、そう作り変えられたロジックだ、世界を統御するものだ。誰にも認識されることなどなく、昨日と同じ平穏をもたらすものだ。
けれどもいつか、僕の存在をまっこうから認識して、僕を〈統一するもの〉と呼び、僕を倒すものが現れる、そんなのってあまりにも――なんだろうか、不平等じゃないか。僕はこんなに、ひととしての幸福を削ってでも、誰にも認識されなくても、均衡を保ってきたというのに、世界がそれに飽きたら、捨てられるんだ。ラムダたちがいる? あれらは機械だ。ひとじゃない。僕には誰かが必要だった、この緑色のスクリーンは僕の報酬だ、誰にも渡さない、なあ、僕はまだきちんと人のかたちをしているのか? 実はスクリーンを統御する電子存在なんじゃないのか? 僕にはもう区別がつかない、現実世界に存在する僕と、僕の役割を果たしている何者かの。

だから僕は、きみに、人間としての生活を与えた。僕の送らなかった生活を与えた。僕が送ることのできなかった生活を与えた。知識ならここにいる間にすべて得ているはずだから、次の世界でも問題なく生きていけるはずだ。
僕の生きられなかった人生を僕の代わりに、生きてほしい。
僕の感じられなかった感情を僕の代わりに、感じてほしい。

それはかつて存在した僕に向けての餞であり、それはかつて生きていた僕の墳墓になるはずだ。

なのにそれをきみに伝えたいとは願っていない。僕は自分が誰かのつづきであるという認識などしていないからだ。僕として生きてほしいきみにとって、この情報はノイズにしかなり得ない。だからこの手紙が出されることはない。この内容が伝わることがない。
なのに文字にして残してしまったのは――なぜだろうね。この手紙がきみに届かないことだけを祈っているのに、この手紙をこの世界から消し去るつもりは、まったくない。

きみだけは僕のものだから、僕が連れて行く、そのつもりだったし、僕はそのように、きみに告げるだろう。これは嘘ではない。僕が連れて行くのは、きみの中にある、僕の部分だけであって、それによって生じる、純粋なきみ自身が、歩んでいく世界に、僕は干渉できないし、したくない。
これは僕のエゴだ。この手紙自体が、ずっとそうだ。読まれないとしても、それでも僕は祈りたいんだ。

この部屋から青空が消え去ったのはいつだろうか。僕が最後に自分の目でこの世界を見たのはいつだろうか。僕はきちんと、きみのことを、見ていたのだろうか。
すべてがこのスクリーンに還元され、今日も均衡は保たれている。
ともかく。

きみの幸福を祈っている。

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