「〈月夜に沈んだジェードの采配〉公爵様、手紙です」
「封筒の色は」
「……黒ですが?」
「内容は」
「開けてもよろしいのですか」
「構わん」
伝令は封書を開く。ポケットから取り出した銀色のペーパーナイフで器用に封筒を開けてみせる。一枚の紙が入っている。
私は目をそらす。何も聞きたくはないし、自分で封筒を開けたくない。
面倒だからだ。こっちには仕事が山ほどあるんだ。地獄はペーパーレス対応をするつもりがなく、報告書や決裁書やその他の書類の作成はいまだに手作業で行われている。しかもわざわざサインまでしなくてはならない。役職が高い順にお辞儀をしているように。
人間の世界の悪癖だけを集めるのはやめてほしいが、地獄の仕事はそれなのである。あらゆる悪の収集。そして保存。
結果としてこの最悪の業務フローが完成している。公爵でさえこれなのだから、下はもっと大変なのだろうとは思う。そもそも爵位と職位をミックスした非常に効率の悪い組織が完成している時点でどうしようもないのかもしれないが。
あらゆる悪の中にはもちろん賭け事がある。私は賭け事よりも、それを構成するゲームの方に興味があった。
これから語るのは私とゲーム、そして対戦相手の物語だ。
彼?彼女?どちらでも構わないのだがーーと出会ったのは二つの戦争が起こる前のはなしであった。
悪魔とゲームをしていてもあまり楽しくはない。どうしても部下は私に本気を出そうとはしないし、上司とゲームができるような環境であれば地獄は地獄ではない。
だから人間界の新聞に広告を出した。適当な人間を捕まえて、ひまつぶしにでもゲームをしようと思ったのだ。これは人間を堕落させることなので、極めてまっとうな悪魔としての仕事だ。断じて遊ぼうとしているわけではない。
〈月夜に沈んだジェードの采配〉は私の悪魔としての呼称のひとつだ。楽しいゲームの世界にそんなものは持ち込みたくない。文面はこんな感じにした。
『モービウスがあなたとの対戦を待っています。病気がちで動けないため、手紙での交換を希望』
そうしたらすぐにその住所に手紙が届いた。そこから魔術で私の私書箱まで飛ばしてもらった。
白い封筒にはかすかに光沢がある。良質な紙だ。
『わたしはレームです。よかったらチェスをしませんか』
手紙で行うゲームのうち、もっともメジャーなのがチェスであるといえる。私はすぐに返信した。何週間かすると、レームから手紙が届く。
レームはすばらしいプレイヤーだった。人間にしておくにはもったいない。おそらくはこれまでに出た定石をすべて踏まえているだろう。チェスのチャンピオンか何かなのではないか。そうやってプレイしているうちに1年が経ち、2年が経ち、戦争が起こり、100年が過ぎた。
そうすると当然の帰結として、レームは超自然的存在に違いがなかった。100年このペースで文通ができるものを人間とは呼べない。
ついでにこちら側の存在ではなさそうだった。
私にはついうっかり授けられた批判的思考力があり(そのおかげで急速に地獄に下降することとなったのであった)すべての物証はレームの天国の住民たることを示しているのであった。まずこの真面目さ。チェスのことをよほど調べているに違いない。なんなら地上に行って人間と対戦もしていそうだ。天使がチェスをするのは、針の上で踊るよりは簡単そうだし。それから非常に論理的であることだ。
地獄にこんな奴がいるわけがないのだった。冗長性と非論理的な悪癖に満ちたこの地獄にいたらきっと発狂してしまうだろうから。
それがわかってなお、私はレームとの文通を続けた。レームもきっとわかっていたのだろうと思う。だけれども互いにそれを指摘することはなかった。そうしたらもうこんなに楽しい遊びはできなくなってしまうから。天国にも強力なチェスプレイヤーがいないからこうやって付き合ってくれているのかもしれない。
もう何回戦っただろうか。結果は私が多少負け越してはいたが、まあ同格と言ってもよいだろう。
こんな生活がずっと続くのだろうと思っていた。書類にサインをしながら次の手紙に書くべき手番を考える日々。
しかしそれはひとつの手紙によって終焉を告げる。
白い封筒だ。普段の手紙には手数しか書いていなかった。たまにこんにちはとかぶどうがおいしいですとか書いてあったが。
しかしあの手紙は異なった。
『これから敵対勢力の大規模な侵攻がある予定です。そちらはどうでしょうか。無事だったらいいなあと思います。実は○○地区に暮らしているんですよ。手紙の伝達速度からするに、きっと遠いところにお住まいなのだろうから、大丈夫ですよね、きっと』
そう、私がサインした、あの書類。あの地区への殲滅戦。
レームはそこにいるのだという。私にはどうすることもできない。サインを取り消すだなんてことは。ここは悪癖と慣習の支配する地獄。私自身もそこから逃れられない。もしも規律を破ったら聖水をかぶって死ぬしかない。
私は見て見ぬふりをした。引き出しの中の白い封筒を燃やした。灰になっていくのを眺めていた。火災報知器の点検なんてしてないから問題はない。
ああ、悪魔というのは悪魔のように考えるのが早いんだよ。封書でのやり取りなんてまどろっこしいくらいに。それは相手も同じだっただろう。同じ場所にとどまったか落ちたかの差異に過ぎない。
そうやって一秒未満の時間を引き延ばす。どうせわかっているんだ。わかっているさ。だけど聞きたくはない。自分で読む勇気もない。
伝令は言う。
「作戦に成功しました」
「そうか」
多分もう、白い封筒は届かない。
2019-09-08
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