この物語は川辺の家からはじまる、ある町をふたつに分断するように流れている川、その川の近くにひとつの家がある。町に住む誰もが、その家のことを他の家とは区別せずに、つまりは特段認識せずに暮らしている。その家にはふたりの青年が暮らしている。少なくとも、あなたにはそう見える。
陽光の差し込むリビングで、ひとりが語る。
「これはユキちゃんの話なんだけど、ユキちゃんっていうのはこの前言ってた未来ちゃんの隣に住んでる子で、ああ、未来ちゃんのことは忘れちゃったよな、えーっとだから、どう説明したらいいんだろう、とにかくユキちゃんっていう子がいるってことだけわかっててほしくって、そうこの町に住んでるのね。そのユキちゃんの家がさ、猫を飼い始めたんだって。おれに嬉しそうに話してくれたよ。その猫の名前がキャサリンっていうんだけど、そのキャサリンの首輪の色を何色にするかで家族で大騒ぎになったらしくって、なんでそんなことで会議するんだろうって思うんだけど、まあそういう感じになって、キャサリンがきれいな黒猫だから結局赤にしたんだって、ユキちゃんの家に行けば見られるよ。おれは見てないけど、写真は見せてもらった」
もうひとりが答える。
「どうだった?」
「うん、かわいい猫だなって感じ」
「俺にも見せてよ」
「写真はもらってない」
「そうだよね」
「だって普通の猫だったし」
普通の猫なら写真をもらうほどでもないよなあとひとりが呟く。
このふたりは那由多と幸矢という。長々と要点を得ないことを喋っていたのが那由多、猫を見せてもらえなかったのが幸矢。ふたりはこの家で暮らしていて、那由多のほうはよく外に出て生活費を稼ぐための労働に従事したり、町のひとから話を聞いたりしている。
「おれってこの町の猫みたいなものだから」
と那由多はかつて幸矢に言ったことがある。幸矢は、
「猫にしては大きすぎるんじゃない?」
と返した。この会話は那由多の記憶の中にしか存在しないだろうが。そして猫というのが比喩であることを幸矢は理解しているのだが。
幸矢はもっぱらこの家にいる。家にいるっていったってやることなんていくらでもある。掃除はしなければならないし、庭もあるし、書庫も広い。彼があまり家から出ない理由は後述されることになるだろう。
幸矢は言う。
「これでいいの?」
那由多は答える。
「それはお前が判断することじゃない」
「誰が判断するの?」
「世界、あるいはこの町。あるいはルール。あるいは」
おれと言ってもいいかもしれない、と那由多は告げる。
それは昔の話。その会話よりも以前の話。もはやカレンダーで測ることのできない時間の積み重ね、その話。
水谷幸矢がこの家にやってくる前の話――はそれほど語ることはない。彼はこの町の小学校に通い、この町の中学校に進学し、この町の高校に行き、この町の大学に合格した。大学では社会学を専攻し、もっとも入門までしか受講することができなかったのだが、それは置いておいて、サークル活動もするしアルバイトもしている、至極一般的な大学生活を送っていた。それを一般的と呼ぶのかは、各々の判断に委ねられる。
水谷幸矢がこの家にやってくるきっかけになった話――はしておいたほうがいいだろう。そう、その日までは語られる必要のない日常を送っていた青年の、ターニングポイントになってしまった日。
その日は幸矢の誕生日の前日だった。このくらいの年になれば誕生日などそれほど重要ではないが、周囲から祝われるかもしれないということで多少浮足立っていた可能性はある。桜はとうに散り、薄手のシャツ一枚で歩けるが、朝晩は多少肌寒い、そういった季節であったことを幸矢は記憶していない。それはさておき、その日は授業が三限まであって、三限にあったのは教養科目の仏教概論で、図書館で本を借りてからアルバイトに向かおうとしていた。大学からアルバイト先までは自転車で十五分くらいだ。カゴに荷物を乗せて走る。その日は晴天だったと記録されている。
坂道を下る途中、幸矢の自転車のブレーキが故障する。それだけならどうにかなっただろうが、向かい側からトラックが走ってくる。それだけならどうにかなっただろうが、運悪くトラックの運転手は陽光に目が眩む。複合的な要因で、幸矢はそのトラックにはねられることになる。
残念ながらこれは物語の終わりではなく始まりであり、まあこの事故によって幸矢は落命したのだが、幸矢は周囲の人間に通常程度に大切にされていたので、たいそう悲しまれたのだが、そんなことは外側の話だ。彼らの話ではない。
彼らの話をしよう。
幸矢がその家のソファで目覚めたとき、視界に入ったのは自分のものではない家で、明るい茶髪の青年がコーヒーを淹れているところだった。
その青年は幸矢に「おはよう、コーヒーは嫌い――じゃないだろうな、好きかは知らないけど」と言った。実際、幸矢はコーヒーを好き好んで飲むほうではないが、喫茶店に入ったら適当にコーヒーを頼む程度にはコーヒーを嫌いではなかった。
誰なんだろうと思ったが、同時にこの人を知っている、とも思った。もしかしたらグループワークか何かで一緒になったことがあるのかもしれない。
どちら様ですか、と聞く前に、その青年は、
「おれは――えっと、なんて説明したらいいのかな、名前は何でもいいんだけどさ、お前がつけてくれるとこれから円滑に話が進む気がするんだよね。もちろん気が進まないならランダム生成できるけど」
普通の状況だったら、幸矢は何言ってんだよとか答えたかもしれない。その青年の返答は、初対面の人間にするものとしては不適切だったからだ。しかし、そのときすでに幸矢は『切り離されて』いた。それまでの知識を保有したまま、世界から切り離されてその家にいた。だからその質問だけに率直に答えることができた。
「じゃあ、那由多で」
那由多というのは仏教における大きな数を表すことばだ。さっき受けた授業のレジュメに書いてあった、それを思い出しただけで、特に幸矢にとって深い意味はなかった。ただ、なんとなくその青年に似合うような気がした。
青年――那由多は、
「へー、那由多か。いい名前だな。いろんな名前があったけど、おれもそんな名前になったことはないよ。せっかくだからいい名前のほうが気分がいいし。ありがとな、いい名前をつけてくれて」
「ど、どういたしまして……?」
ごきげんな様子の那由多に対して、ここはどういたしまして、でいいのだろうかと思いつつ、幸矢は答える。
キッチンのほうからコーヒーの苦みのある香りがする。
「とりあえずおれのことは那由多って呼んでな」
那由多が自分と同じくらいの年齢に見えることに、幸矢はそのとき気がついた。さっきから見ていたのであったから、もっと早くわかってもよかったものを、という些細な違和感は、那由多によってテーブルの上に置かれたマグカップの音でごまかされる。
「お前は幸矢だよな。少なくとも今はまだ。これから一緒に住むことになるんだから仲良くしような。あ、コーヒー冷めちゃうから早く飲んだほうがいいよ」
「あの、さっきから妙なことばっかり言ってるけど、少なくとも今はまだ、って」
「まだ幸矢は幸矢だよなって話だよ。そんなに難しい?」
難しくはない。難しくはないが脈絡がない。幸矢は自分が水谷幸矢であるという以外の認識をしたことがなかった。生まれたときからこれだ。これ以外の自分であったことがない。那由多が言っていたみたいに、別の名前を持っていたことも、ない。
「細かいことはいいだろ、コーヒーあるんだし」
幸矢は自分の目の前に置かれたパステルイエローのマグカップを手に取る。コーヒーでごまかされるほどコーヒーのことが好きだというわけではなかったが、たしかにそのコーヒーはおいしいほうに入った。幸矢の隣に座っている那由多はパステルブルーのマグカップで飲んでいて、やっぱりエチオピアがいちばんいいな、と呟いていた。
幸矢はなんでいきなりこいつは国名を口にしたんだろうと思ったが、すぐに豆の産地かと思い至った。エチオピアの特徴は知らないけれど、ちょっと酸味があるのはわかった。
あ、そうだ、と那由多は立ち上がって、キッチンに戻り、しばらくしてから赤い箱に入ったクッキーを出してきた。そのクッキーは正方形をしていて、周りには縄のような模様があって、口に入れるとバターの味がした。その甘味がコーヒーに勝ってしまっているようにも思われたが、コーヒーと一緒に食べるとそれはそれでおいしかった。
「ごめんな、クッキーくらいしかなくってさ」
「いや、おいしいからいいんだけど――」
と言ったところで、幸矢はクッキーを取り落とす、マグカップを持っていなくてよかった、とどこかで思いながら、胃の底のほうからこみ上げるものがあるのを感じる、感動とかそういうんじゃなくって、単純に不快な、今すぐにでも吐いてしまいたいくらいの、強い吐き気が――
口を押さえようとする幸矢をよそに、那由多はあくまで平静に、
「あ、気分悪くなった? 耐えないで吐くといいよ。そういうふうになってるから」
幸矢はそれってどういうこと? とは思うのだけれども、吐き気がひどすぎてそれどころではない。立ち上がってお手洗いにでも行くかとしたところで、この家の間取りなんかしらないことに思い当たる。
真っ白な顔をしている幸矢に、那由多が座ったままキッチンを指し示して、
「吐くならシンクにするといいよ。水道あるし」
何をどうすればいいのかわからなくって、とりあえず那由多の言葉に従う。銀色のシンクに思いっきり胃の中のものを吐き出そうとするが、胃液くらいしか出てこなかった。そうしたところで、胃の重さは解決しない。何か塊が身体の中にあるような気がしてならない。幸矢はまたも嘔吐する、食道を大きな塊が通っていくぞわぞわとするような感覚があり、口に達し、からんという音を立ててシンクに落下した。吐き出してしまえば、さっきまでの異常な気分の悪さはなくなり、ちょっと喉が渇いたな、と思うくらいであった。
幸矢の吐き出したそれは半透明の青色で、直径二センチほどのいびつな球形をしていた。こんなものが入っていたらたしかに吐きたくもなるだろう。後ろで幸矢を見守っていた那由多は、その物体を取り上げて、水道水で洗った。
まあ疲れただろうし座りなと那由多は言った。幸矢はソファに身体を沈めた。ソファの柔らかさは幸矢にやさしかった。
幸矢の隣に座った那由多は、その球体を部屋の明かりに透かして、幸矢に見せた。光を通したそれは鈍く輝いていて、まるで宝石かガラスのように見えた。
「これ、何?」
「これはお前の記憶のかけらっていうか、結晶だよ――さっきまでどこにいたか、この家に来る前にどこにいたか、覚えてるか?」
幸矢はこの家に来るちょっと前に死んだのだが、その瞬間の記憶は存在していなかった。それどころか、自分が帰る家がどこなのかという記憶すらも持っていなかった。もし那由多が尋ねてくれなければ、その記憶がないことにすら気が付かなかっただろう。
だから幸矢はこう答えるしかない。
「いや、全然」
「最初になくすのはこれなんだよみんな。いやおれもちゃんとは知らないよ。そうらしいってだけで。でもよかったな。もし覚えてたら、悲しくなっちゃうもんな、家に帰れなくって」
人間が記憶を石にして吐き出すなんて、聞いたことがない。だけれども、たしかに幸矢は記憶を失っている。というか、それ以外にもなにか忘れているような気がする。なら、那由多が言っていることはほんとうなのかもしれない。
「じゃあ、これを飲み込めば俺の記憶は戻るってこと?」
「それは無理だなあ。結晶化しちゃったら、すりつぶして粉にして飲み込んだところでもとに戻りはしないよ。ただ気持ち悪くなるだけで」
「なんで知ってるの?」
「やったことあるやつがいるのを、おれは知ってるから」
那由多はいろんなことを知っているように振る舞っている。欠落していく記憶の中で、世界から切り離されてしまった幸矢は、それを所与のものとして受け取るほかない――そのことにすら気付けずに、まるでコーヒーショップで店員と世間話をするように、軽い気持ちで那由多と話している。
那由多は石をテーブルに置いた。光が当たらなければそれは、そのあたりに落ちているような石に見える。
「で、この石は川沿いに置くことになっている」
「なっている、って誰が決めたの」
「おれ」
じゃあ置きに行こうか、と那由多は言う。幸矢がどうしていいのかわからずにいると、
「大丈夫だよ、そんなに遠いところじゃない。っていうか、川沿いならどこでもいい。てか、もう吐き気はないだろうし」
「あーうん。気分はもうそんなに悪くないと思う」
他人の体調がどうしてわかるのか、まったくわからなかった。自分でもそこまで意識していなかったのに、顔色か何かに出ていたのだろうか。
「なんでわかるの」
「そういうことになっているから」
この家に来てから、そう決まっていることばっかりだ。いちいち反論していたら仕方がないくらいには。
不思議なことはたくさん起こるのだが、このままここにいたって仕方がない。幸矢は石を持って、那由多について外に出た。玄関を出たところは高台になっており、河原を見下ろすことができる。両隣にも家があったが、その表札に名前はなかった。引っ越したあとなのだろうか。
幸矢は石をまじまじと見つめる。陽光の差し込んだそれは、部屋の明かりの下よりもより穏やかに光っていた。特に魔法の力がありそうとか、そういうのは感じられなかった。もちろん、これまで幸矢の生きていた世界に魔法など存在しなかったのだが。
那由多は幸矢に言う。
「この石を置くってわけ」
「ここから投げちゃだめなの」
「水に触れないほうがいいかな」
「水に触れるとどうなるの」
「せっかくがんばって吐いた記憶が無駄になる」
大変な思いをして吐いたわけなのだから、無駄にはならないほうがいい。そういうわけで幸矢は河原に下りていって、青い石を川から一メートルほど離れた場所に置いた。灰色の河原の中に青が目立つのかと思ったが、その石は案外周囲に馴染み、もし自分が置いたのでなければ、ほかのものと区別がつかないだろうと感じられた。
「これでいいの?」
と幸矢が振り向くと、那由多は大きく手で丸を作ってくれた。幸矢は那由多のほうに歩いていき、
「なんでこんなことするの?」
と尋ねる。
那由多は腕を組んで、
「あいつらが、石になった記憶を食べるんだよ。そうすれば、あいつらは町のひとたちを襲うことなく、川向こうに帰ってくれるんだ。あいつらは記憶と人間の区別がつかないから」
幸矢は、この家に来る前も、この町を分断している川の向こう側に行ったことがないどころが、気にすらしたことがないことに気がついた。那由多が川向こう、と言った瞬間に、そういえばあちら側があったのだと認識された。
「それからあいつらって」
「それはそのうちわかる」
たしかに、最初からたくさんのことを言われてもわからないかもしれない。
「あとさ、石って勝手に転がらない? 風とかで」
「風はノーカン。こどもが蹴って川に入ったとしても、とりあえず今、川辺に置いてあれば大丈夫」
「そうなんだ……」
ルールがいまいち掴めなかったのだが、那由多をこれ以上追求しても答えが出てきそうになかった。
幸矢と那由多は家に戻る。幸矢はようやく、その家を外側からまじまじと見ることになる。二階建ての一軒家で、屋根の色はブラウンだ。住宅地にはありふれた光景。子どものいる家族が住んでいると言われても信じられそうな大きさの家だった。駐車場はあるが、車は停められていない。
中に入ると、すでになんとなく見慣れてしまったリビングには、飲みかけのコーヒーが残されている。
幸矢はもうぬるくなったそれを一気に飲み干して、こう言う。
「もうそろそろ聞いてもいいと思うんだけど、那由多、って、誰? というか、何?」
那由多はクッキー缶の中にもうクッキーがないことを確認して、あ、クッキー切れちゃったなあとぼやいてから、答える。
「おれは、この町を守るために、お前の願いを叶えるものだよ。流れ星が消えるまでを見守る役目、そういうやつ」
平たく言うとこの町のかみさまかな、と那由多は言う。
何が平たく言うと、なのだろうか。なるほどなと思えるほど、幸矢は素直ではなかったのだが、一旦これは飲み込んでおかないと、話が進まないのだろうとは思ったので、一応そういうことにしておいてやろう、ということにした。
「かみさま、だと仮定してさ、なんでこんな普通なの?」
かみさまっていうのはなんか、もっと超常的な力を持っていたりするものだ。人間を弄んだりするものだ。ここまでのところ、那由多はたしかにちょっと世間離れしているところがあるというか、話は飛ぶし、何言ってるかわからないところがあるけれども、だからといってそんなひとはいくらでもいる。幸矢は素朴に、そのように認識している。
「普通じゃないやつと暮らすの嫌だろ、お前」
「今もだいぶ普通じゃないよ」
いきなり現れてこの家に住むんだって言ってきて、ひとが吐き出した石を川辺に置きに行くとかいう人間は、あまり普通ではない。というか、幸矢の人生に現れたことはない。というか、現れていても困る。というか、自分がいきなり石を吐くようになったことについてもまだ納得は行っていない。
「なろうと思えば一辺二メートルの直方体とかにもなれるけど、あんまり人間って、そういうのと暮らすの向いてないじゃん。だから、同世代のヒトの姿を取ってるってわけ」
「えーっと、親切でやってるってこと?」
「そうそう、おれは親切」
「親切な人間って、自分のことをあまり親切って言わないものだよ」
「じゃあ親切なかみさま」
かみさまならば自分のことを親切だと形容していいのか、幸矢には判断がつかなかった。
家を一通り見せてもらった。今来たばかりだというのに、なんとこの家には幸矢の部屋さえあった。その部屋は幸矢が暮らすのに必要十分なものが揃っていた。元いた家のことは忘れてしまったから、それと比較することはできないのだが。
足りないものがあったらいくらでも買ってきてやるからなと那由多は言った。自分で買えるよと幸矢は答えたが、那由多はそうもいかないんじゃないかなと返すばかりであった。
リビングの時計は午後三時を指していた。
普段の幸矢だったら、この曜日のこの時間はアルバイトに行っているはずだ。どうやら自分が死んでいるということは知っているから、死人がアルバイトに行く必要があるかについては議論の余地があるのだが、こうやって身体がある以上、アルバイトくらいには行けるだろう。
「バイトに行きたいんだけど」
「こうやって実体があるから勘違いしがちなんだけど、お前死んでるんだよな」
「じゃあとりあえず外に行くよ」
「まあ出かけてもいいけどさ、でもおれは、家にいたほうがいいと思うよ」
どんなにこの家が広いからといって――ふたり暮らしには広いだけで、豪邸だというわけではない――ここにいたら退屈だ。と思ったところで、どこに行くべきなのか皆目見当がつかないことに気が付くのだが、歩いていけばなんとかなるだろうと、扉を開ける。
慌てて那由多が追いかけてきて、これ家の鍵、と投げ渡してくる。
玄関を出て、河原沿いを歩いて、町の中心部まで進む。それは、普段と変わらない町だった。大通りにはひとがごった返しているし、駅には花屋があるし、学校から帰って来るひとたちもいる。幸矢はとりあえず、喉が渇いたのでコンビニで水でも買うか、と思った。
コンビニに入る。記憶と同じ棚に、ぼんやりと覚えている清涼飲料水が並んでいる。幸矢はその上にあるミネラルウォーターを手にとって、レジに並んだ。
そのコンビニにはセルフレジがなかった。だから幸矢は最初の最初で壁にぶつかることになるのだが――まずレジの順番を追い越される。こんなにこの町にはモラルがなかっただろうか。ようやくひとがいなくなって、レジの前まで進み、ミネラルウォーターを台に置いたところで、店員が一切挨拶をしてこないことに気が付く。
「あの、すみません」
と幸矢は言ったが、店員はまったくこちらを見ない。
「どういうことですか?」
まるで、このコンビニにいる誰もが幸矢のことが見えていないようだった。このコンビニが何かおかしいのだろうか? と思って、ミネラルウォーターを棚に戻して、他のコンビニに行ってみたのだが、同じだった。ついでに、街頭募金をしているひとたちにも無視されたし、ポケットティッシュを配られることもなかった。
自分が透明人間になってしまったのだろうか、と疑って、アパレルショップの店頭にある鏡に身体を映してみたが、どう見たって幸矢は存在している。頬をつねっても、痛いし。
何の買い物もすることができずにあの家に戻ると、那由多はにやにやと幸矢に言った。
「だから言ったじゃん」
「誰も俺のことが見えないとは言ってないじゃん」
「説明したって信じてくれないだろ。なら、実際に行ってみるのが早いんじゃないかと思った」
現在の幸矢に、自分が死んでいるという情報はあるが、実感は特にない。那由多の言うとおり、実際に体験しなければ、自分の今の状況を理解できなかったかもしれないが、それでもちょっと苛立ちはする。
「そりゃそうかもしれないけど、心の準備がさ」
「準備したって仕方ないよ。そのうちその感情も食わせるんだし」
ああ、それならそのぶんの記憶増やしておいたほうがよかったのかな? でもそんなの一ミリくらいにしかならないもんな、とか那由多は呟いて、
「おれは、お前が消えるまで見守る係だからさ、見えるの。で、お前も生きてる間、死んだひとって見えなかっただろ? だから、他のひとには見えないの」
その理屈は幸矢にとってわかりやすいものではあったが、もうちょっとわかりやすく言えるんじゃないかと思えてならなかった。
「いっつも思うんだけど、那由多って、その、超常的存在? かみさま? のわりに、説明下手だよね」
「それとこれとは話が別だろ」
ところで必要なものある? と那由多は聞いて、思ったんだけど今ならネット通販で買えるじゃんと幸矢は答える。
那由多が提示した『この世界のルール』は三つ。
幸矢は一週間に一度、自分の記憶を石にして吐き出す。
その石は、川辺に置きに行く。
石が吐けなくなったら――幸矢の記憶がなくなったら、幸矢は消える。
幸矢がこの家にやってきてから数日、家の構造にも慣れ、どうすればよいのかわかってきたころ、黄色いエプロンをつけて毎朝パンケーキを焼いてくれる那由多は言う。
「だから、その一週間に一度の『お役目』以外は、何やってもいいよ」
「那由多以外とは話せないのに?」
通話アプリなどで、インターネット回線を通せばなんとかなるんじゃないかと淡い期待を掛けたこともあったのだが、死者はインターネット越しだろうとも他者と会話できなかった。まあ、そんなことになったら、自分が幽霊扱いされるのは目に見えている。
「暇つぶし用の書庫はあるし、庭の植物は人間じゃないから、別にお前を拒絶しないよ」
書庫は一階のリビングの奥にあって、本が上から下までみっちり詰まっている。自分の興味のないジャンルの本ばかりだなあと思っていたのだが、ほんとうに読みたい本があれば勝手に出てくるシステムなのだと教えてくれた。幸矢は人並みに本を読む方だったが、それだけで一週間つぶれるほどではなかった。
庭は歩いて十五歩ほどの小さなものであったが、花の咲く植物が植えられていた。幸矢が訪れたときにはチューリップが咲いていた。那由多の言うとおり、植物は幸矢が触れることができた。というか、昆虫だって寄ってきたし、野良猫とも目があったので、死者が見えないのはどうやら人間だけのようだった。
じゃあ今の自分ってなんなんだろう、人間と接せないだけで、鏡にも映るし、モノも触れるし、庭に水をやることもできる。
「人生って死ぬまでの暇つぶしって言うじゃん」
「俺はもう死んでるんじゃなかったっけ」
「そう、だから、この家は、お前が消えるまでの暇つぶし」
それにパンケーキはおいしいだろ、と那由多は言う。
そのことばに間違いはなく、分厚く焼かれたパンケーキはメープルシロップをよく吸い込み、おいしかった。
「このパンケーキの味もいつか忘れるってこと?」
「そうだよ」
幸矢が石を吐くことになるのはたいてい水曜日のことだったが、前後一日ずれることもあった。最初の方は突然の吐き気に困惑したものだが、そのうちああいつものね、と思えるようになった。吐いた日には那由多がカレンダーで丸をつけた。幸矢が吐くとき、だいたいいつも那由多はそばにいてくれて、しかしそばにいてくれることしかしない。感情も感覚も肩代わりすることなんかできないからだ。吐き終わったらじゃあ河原に行こうか、と言う。そしてそのあと必ず、
「おつかれさま」
と言ってくれる。
「これって何の役に立ってるの」
「最初に言ったじゃん。あいつらからこの町を守れるんだよ」
「あいつらって結局何なんだよ」
「うーん、おれも正確には把握してないっていうか、それを知っているのはおれの本体なんだけど、とにかく、あいつらは川のこっち側に来ようとしているんだよね。で、来るとみんなが困る。困らないようにするために、お前みたいなのが選ばれて、記憶を消費し続ける」
「――今のところ、『みんな』は守れてるってこと?」
「そのはずだよ」
「ほら、防波堤ってあるじゃん。あれって決壊したらおしまいなんだけど、決壊するまでその存在をみんな気にしてないだろ? お前の記憶はその防波堤なの」
だいたい、那由多の説明はよくわからない比喩を使うせいでごちゃごちゃになっているような気がする。
「比喩とか使わないでそのまま言えばいいのに」
「そのまま言ってるんだよおれは」
本人がそのつもりならば、幸矢に言えることはない。
それに。
もしきちんと納得できたとして、そう、消えるのだ、これは。この会話は。この記憶は、幸矢からそのうち、失われるのだ。
いつか失うために得る情報はどこか虚しいもののように思われたが、最初からずっと白いままのキャンバスと、色を塗ってから削ぎ落として白くしたキャンバスの間にはなんらかの差異があるのではないだろうか、そう考えたところでこれも結局的を得ない比喩だなと、幸矢は思う。
ある日、那由多がバイト先――今日は花屋だったようなのだが――からだいぶ咲いた桃の枝を持って帰ってきた。どうやら、余ってしまったが廃棄するのももったいないということでもらってきたのだという。
「那由多って働く必要あるの?」
「必要はないけどさ、お金って意味では。そのへんはちゃんと設定してある。でもおれって町を見守らなきゃいけないから、働いてるといろんなひとに会えるし、働いたほうがいいかなって」
「何やってるの」
「昨日はコンビニにいたし、明日はクリーニング屋だよ」
なんでも、毎日別の店で働いているらしい。
「店のひとの記憶とかは、まあ、おれってかみさまだし、どうにかできてるってわけよ」
そこまでして働く理由は幸矢にはわからなかったのだが、町のひとたちと関われるのはいいな、と無邪気に思ったりもする。なんせ今の幸矢はひとと関わることができないのだ――那由多はどうやら、かみさまのようだし。
桃の枝は二リットルペットボトルに挿すことになった。大きな花瓶などという洒落たものは、この家にはなかった。数日すると幸矢は石を吐き、この桃の枝のことを忘れた。
幸矢はあまりやることがないので料理に凝り始め、間違いなく腕は上がった。とはいっても、那由多以外に披露する機会はないのだが。この前は鮭のムニエルを作った。その前はスパイスカレーを作った。たとえばかつての友人に振る舞えればいいんだろうな、と思ったりはする。友人がいたという記憶はある。誰だったかはわからないし、わかったところで認識されることはない。民話みたいに、家の前にメッセージとともに食事だけ置いておくみたいなことをすれば、食べてもらえるかもしれないが、物騒なご時世だ、不審物だと思われてしまうだろう。
というか、元いた家で自分が料理を作っていたのかすらわからない。家族と暮らしていたような気はする。家族が作ってくれていたような気もする。たまに自分が作っていたのかもしれない。今となってはそれらはすべて可能性でしか語られない。
なんだ、新しいことも記憶できるんじゃん、と幸矢は思う、その影でいくつの今までの人生の記憶を失っているのかは、自分では判別できない。
「なんか、不思議なことに、消えたくないとは思わないんだよね」
「そういう感情は、切り離して作ったからなあ」
「一応聞くんだけど、俺ってかつての俺なの?」
「砂場の山を一回崩して、まったく同じかたちに作り直したくらいには」
どのくらいの時間が経ったのかはわからない。石は一週間に一回吐くことになっているのだが、だからそれを数えていれば何週間経ったのかわかるはずなのだが、季節は移り変わるしそれは観測できるのだが、その積み重ねすらも指の間からするする抜けていくように消えていってしまう。カレンダーに丸はついてはいるものの、そのカレンダーが何を意味しているのかが、どうにもうまくつかめない。カレンダーに書いてある数字、一日、一週間、一ヶ月、一年、それらが意味するものが何なのか、かつては知っていたはずなのに。那由多に聞けばわかるのかもしれない、と幸矢は思う。那由多はきっと、すべてを認識してくれているのだろう。まあ、ほんとうのことを言ってくれるとも限らないのだが、那由多が余計な嘘を付くタイプではないことを幸矢は諒解していた。
説明は下手なのだが。
「あんまりよくない夢を見た時、俺ってこういう感じでよかったなあと思うよ」
「忘れるから?」
「そう」
「人間だって、いつかは忘れるよ」
「忘れたって、何の役にも立たないだろ?」
概念は空白ばかりになってきたが、それでも類推と推論で会話をすることはできて、エピソード記憶が失われつつあっても、それについて会話をすることはできる。
たとえば、このように。
それはある冬のこと、この町には滅多に雪が降らないが、それなりに積もった、ある冬のこと。
ふたりはリビングに出したこたつに入りながら、テレビを眺めていた。芸能人たちがモノに対してどのような価値があるかを当てていくそのバラエティ番組では、失敗し続けると画面から消えてしまう。
「あのさあ」
と幸矢が言い、
「何」
と那由多が返す。
「俺っていつになったら消えるの」
「名前を忘れたら消えるよ」
「なら当分大丈夫だね」
なんといっても自分の名前だ。いちばんよく使う名前だ。名前がなければ、自分が誰なのかわからなくなってしまうだろう。
那由多はみかんを剥きながら言う。
「お前、自分の名字覚えてる?」
「名字って何?」
そういうこと、と那由多は言い、幸矢にその意味はわからないのだが、たぶん、この世界にはそのような事象があるんだろうな、と思う。
那由多は剥いたみかんを幸矢に半分渡した。そのみかんは、若干味がぼけてはいるものの、冬に食べるものとしては上出来だった。
増えていく記憶よりも失う記憶の総量のほうが多い、せっかく幸矢が身につけた料理の腕も、どんどん断片的になっていき、今ではオムライスを作るのが精一杯だ。毎日オムライスというわけにはいかないので、那由多が作ってくれることも多くなった。那由多はたいていのことはそつなくこなした、そうすることを幸矢が望んでいたからではあるのだが。
「今日ね、豚丼もらった」
だから今日の夜ご飯は豚丼な、と那由多は言った。
「なんでふたりぶんなの?」
だいたい、まかないというものは自分の分をもらってくるものなのではないだろうか。
「いつも作ってもらってるし」
「じゃなくて、何と言ってもらってきたの」
「おれは育ち盛りだからふたつ食べますって言った」
よくそれが通ったな、と幸矢は思う。まあ、たしかに那由多はスポーツでもやってるんじゃないかなと思わせる体格をしているが、それほどたくさん食べるようにも見えない。那由多のことだから、何か不思議な力でどうにかしてしまったのかもしれない。
豚丼をレンジで温めながら、幸矢は問う。
「あの町では俺ってどういう扱いになってるんだよ」
「いないことになってるよ。最初から。死んだっていう記録も、そのうちなくなるよ。お前が消えたら」
「そうなんだ……」
薄々そうなんじゃないかと思っていたが、明言されるとさすがにショックではあった。自分が最初からいないということになるのは、たとえこの町を守るためであっても、割に合わないような気がした。
那由多は得意げに言う。
「大丈夫、おれが覚えてるからさ」
「那由多が覚えてたってなんの意味がないだろ」
「意味はあるよ……えーっと、意味はあると思うんだけど」
那由多がうまく答えられずにいると、レンジの音がする。
「レンジ鳴ったよ」
「そうだったな」
豚丼には温泉卵を乗せて食べた。このくらいのことまでいずれ奪われるんだなと幸矢は思った。
それはいつかのどこかの記憶、とっくの昔に『あいつら』が食らった記憶、この世界のどこにも存在しない記憶。
それは春でも、夏でも、秋でも、冬でも、その他あらゆる時制を無視した、どこかの記憶。
幸矢はこの生活に慣れていた――慣れないところはいつの間にかすべて、那由多がどうにかしてくれているから。吐き気がたまにあるだけで、石を川辺に置くだけで、それ以外は全部『普通』の生活。
幸矢はコーヒーが好きでも嫌いでもなかったという記憶をすでに失っていた。それでも那由多はコーヒーを淹れた。少し酸味のあるそのコーヒーは、幸矢にとって新しいものだった。
新しく得たということは、いつか失うということでもあるのだが。
青いクッキー缶に入ったお菓子をつまみながら、幸矢は言う。
「ねえ、那由多が俺に思い出を作ってくれたらいいんじゃないかな?」
「――どういうこと?」
「那由多は町の人たちとああやってお話ができるんでしょう? なら、その話をしてくれたら、俺の思い出のひとつになる。俺はその記憶を吐けばいい」
新しい記憶をどんどん増やすことによって、石とする記憶を増やしていく。そうすれば、この生活がいつまでだって続けられるのだと、幸矢は考えたのであった。
「そうじゃなくっても、こうやって暮らしていけば、記憶なんかいくらでも増えるじゃん」
那由多はいつになく冷静に答える。
「そんなうまくいくわけない。どの記憶が消えるかはおれたちには選べないんだ。思い出の総量よりも減っていくほうが早い、そういうふうにできているから――」
「じゃあたくさんお話してよ、那由多」
「それは、地面に落ちきるのをぎりぎりまで食い止めるだけの作業だよ、わかってるのか? すっと消えるほうが楽だよ、そのためにおれがいるんだし。お前のことをちゃんと使い切ってやるために、おれがいるんだし。お前にいい気分で終わってもらえるように、なんだってしてるじゃん」
コーヒーも淹れる、話し相手になる、パンケーキも焼く。なんだってしてるじゃん。
那由多はこのときほど自らの『制限』を呪ったことはなかった、なんでもできるはずなのになにもできない、願われてしまったのならばそうするしかない、叶えるしかない。できるのはせめて説得することだけ。
「焼け石に水ってことばあるだろ、それ、それなんだよ、お前が『役目』を担った時点で終わってるの、っていうかお前は死んでるの、覚えてないけど知ってるだろ?」
「知ってるけどさ」
幸矢は自分が死んでいることを知っている。情報として。
すでに『切り離されて』いるのだから、今更そんなことに驚きはしない。
「でも那由多って俺の望みを叶えてくれるんでしょう?」
那由多は機構だ、この町のかみさまだ。そう名乗った。そのようにはたらいた。幸矢はその前提を受け入れている、受け入れるほかに道がなかったから。そして今まで積み重ねてきた事実が――穴の空いた記憶の中にも確かに存在する事実が――那由多が『幸矢の消失まで願いを叶えてくれる』ことを証明していた。
「そう、だから、おれはその願いを断れない――んだよ、でもそれでいいのか? ほんとに? なあ、ほんとに?」
「いいよ、だって」
俺はこのまま那由多と暮らしていきたいよ。
幸矢は言う。
那由多の知る限り、このような行動パターンを取った『お役目』を背負った死者はいなかった――はずだ。みな、自分の役目を果たして、きれいに消えていった。
こいつは、地面に衝突するその瞬間まで、減速に減速を続けていこうとしている。
無限に切り刻んだ時間の果てに、衝突することには変わりがないのに。
「毎日、毎日、毎日、毎日、お前は忘れる、忘れたっていう事実ごと、忘れる、その道をお前が選んだ」
「そうだよ」
それがお前の望みなら、と那由多は呟く、この会話を記憶しているのは、那由多だけだ。
だから那由多は語る。ソファに座っている幸矢に語る、もうオムライスも作ってくれることはない幸矢に語る、ほんとうのことなのか嘘なのか、幸矢に判別できない思い出を語る。今日の思い出のお供はミルクコーヒーだ。コーヒーに対する思い出はいくつかあったはずだが、すべて失われている。
とっくに夕日が沈んだころのこと、太陽の残照がかすかに大気を明るくしているころ、もっとも部屋のカーテンは閉められていて、彼らがそれを知る由もない。
「えーっとあのね、昨日は雪が降ったんだけどさ、そしたらユキちゃんが、ユキちゃんのユキは雪じゃないんだけど、でもすごく楽しかったらしくって、雪だるまを作ったんだって、で、今朝になったら崩れてるわけ。ちょっとした丘みたいにはなってるんだけど、玄関の前にあったそれはもう雪だるまじゃない。だからユキちゃんが昨日撮った写真を見せてくれてさ、まあこどもが作るものだからそんな大きいのじゃないんだけど、ちゃんとした雪だるまだったよ。二段重ねの。にんじんで鼻をつけようとしたけど失敗したから小石で目をつけたんだって」
幸矢はどこか拗ねたように言う。
「俺には見せてくれないの?」
「写真を見せてもらっただけだからな」
それじゃあ仕方がないねと幸矢は返す。
「これでいいの?」
「それはお前が判断することじゃない」
判断するのはこの世界だ。この世界のルールがこの記憶をそのうち石にしてしまう。そして吐き出させる。そして記憶は『あいつら』に食われる。食われない記憶などない。
幸矢はパステルブルーのマグカップを両手で持ちながら言う。
「今度は覚えていられるかな」
「覚えなくていいよ、忘れるだけだから」
「知ってる」
「知ってるならなんで聞くんだよ」
「もしかしたら次は、って思うだろ」
思っても無駄なんだよ、と那由多は言わない。言ったところで幸矢が忘れるのは目に見えているからだ。その言葉すら、忘れるなら言ってもいいのかもしれないが、自分のことをこれ以上忘れられるのは、那由多の望むところではなかった。
自分の望みなんて持つもんじゃないな、と那由多は思った。
望むのは、おいしいコーヒーが淹れられますように、くらいで精一杯だ。
いつの間に、この町でならなんでもできるって思ってたのに、なんにもできないってことに、なってしまった、いちばんの望みは。
那由多の思いも知らず、幸矢は気持ち悪くなってきたから吐くね、と言う。
この物語はこう終わる。川辺の家にふたりの青年が住んでいる。彼らは時に語り合い、時に食事をともにし、時に夕日を眺めている。彼らは普通に暮らしている。
少なくとも、あなたにはそう見える。
2025-03-03
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