無限に限りなく等しい長さの辺を持つ大理石の板。歴史を含まないがゆえにまっしろの大理石がわずかな傾きも許容せず置かれている。そういった光景をわたしは見ている。このわたしがどこにいるのかというと四角形の中心で、なぜそうだとわかるかというと空からそれを眺めているからだ。わたしは地面に着陸する。靴を脱ぐ。冷たさが足に染み入る。表面に水が流れているのであった。平らなはずなのになぜか?それは風の吹くがゆえ。肌を優しく撫でる程度の風であっても、これほどにも水平であればきちんと役目を果たしてくれるのであった。厚さにして数ミリ程度の水が、常温の水が、透明な水が、果てに向かって流れ続けている。わたしは端を目指すこととする。無限に近似しているだけで無限ではないから、歩き切ろうとすれば歩けるのであった。
そうしてわたしはここに板と水以外のなにもないことを知る。空が青くてもいいだろうに、鳥が飛んでいてもいいだろうに、太陽が水面を照らしてもいいだろうに。そういえばどうしてわたしには前が見えているのだろうか。
前を見せているからに他ならない。白い空白のは手に存在する誰かが。わたしはそれを許されている。ものを見ることを。大地に立つことを。歩くことを。そうでなくてはここに存在すらできないだろう。
そういうわけでわたしは歩いていて、水を邪魔だと思いながらも、歩みを進めていく。この方角で合っているのだろうか、その考えはきれいに修正されて足の向く方向も適切に処理される。だからこれは正しい道行きである。歩数を数えるのも修正された。どうやら具体的な数字は知られたくないようだ。ただ果てしないとだけ、ただ数が多いとだけ、ただ遠いとだけ、知られたがっている。
知られたがっているように知る義理などひとつもないのだけれども、抵抗するすべもないのだからそのようにしてやる。りんごが赤いのはりんごが赤いと思われたがっているわけではなく、光と素材と諸々の関係であるけれども、この空間はいささかわがままなようであった。
そうしてわたしは果てに辿り着いたのであった。敵とかそういったものがいないのは幸いであった。ただただ、これが最後の場所なのだ。下を見下ろせば水が落ちていくのがわかる。垂直な滝のように落ちていっている。ナイアガラの滝がもっともっと長かったら、こういった光景が見られるのだろうか。横を見ても水が落下するのには変わりがなかった。そして地面は見当たらなかった。わたしは大理石が空に浮いていたことをしる。最初から知っていたような気もしている。
このまま身を投げてしまったらどうなるのだろうかと思う。もちろんわたしは重力に抗うこともできる。あえて重力に逆らわないとしたら。この清冽な水とともにどこまでも落ちていけたらよいのではないかと考えてしまう。無限の落下がもたらす無限の浮遊感、そしていつか地面に激突する衝撃を願ってしまうような時間。
わたしはそういった時間を好まない。
好まないようになっているだけなのかもしれなかった。
破滅すら許しはしないこの高度、有限であることを拒めばいいのにそうもしないような意思、わたしはそれを受け入れながら身体の存在しないことを感知する。わたしは存在するひとつの意思であった、わたしは歩くものであった、それらがすべて仮のものであって、今こうやってあるのは水を溢れ落とさないための境界。中心から湧き続けるのであれば、5センチでも、1メートルでも、足りないのだろうけれども、少しでもそこに水を留め続けるには必要なものなのだ。
どうしてそうしたいのかはわからなかった、わたしはひとつの意思であったもの、彼に漸近して離れてしかし同じ景色を見たもの、ただうつくしいものがそこにあってほしいと、そこにはあるべきなのだと、思っただけのもの。
透明な水よ、白の大理石よ、世界を祝い続けなければならないと規定したすべてのものよ。
そういったかたちでチャールズ・エグゼビアが存在することを、エリック・レーンシャーは知っている。
2020-01-07
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