ぱちぱちと輝く草原のなかにそのひとはいたのだった。朝露だ、大気の変化がもたらした水滴の飾る草の縁を、昇りかけの太陽が照らしている。クリスタルガラスを無造作にばらまいた光景に相似したそれは祝祭だった。鳥の声くらい聞こえてもよさそうなところだが、なぜだか一羽もいないようだ。その代わりに風の音に混じってあのひとの声がするのだ。ぼくを呼んでいるはずの。
太陽の向こう側にそのひとはいるのだった。逆光で顔は見えない。誰なのかは知っている。だって、ほら、何度出会った人間なんだ。出会って別れてそれっきりになったひと。その立ち姿を知っている。ぼくらはあのひとがいたから戦ってそして帰ってきたのだった。いつまでもそうならばよかった。座っている方がよほど馴染み深いけれど、最近は立っていて、いや、違う、そうじゃない。
なぜこんなに視界が明るいのかってそれはいつものルビークオーツが光を遮っていないからで、なのに周りは見えていて、ひとつの変化も起こっていなくて、要するにここは現実ではないのだろう。それによって行動の左右されることはなかった。夢だからといって何なのだろうか。なすべきことはいつもひとつしかない。
身を起こそうとすると服が濡れて、青々とした香りがして、このまま光を眺めていられたらいいのに、と、思う。ガラスよりもきらめいていてしかし時間とともに儚く消えるものたちを、観察しながらこの場所を終えることを。可能なことなのだろう。それでも、走らなければならないということはわかった。
そのひとに、会って、話さなくてはならない。
何を?
浮かんだ疑問詞を無視して走る、草原を、低い背丈の葉が足に引っかかって、朝露にぬかるんだ土は走るのを妨げて、それでも、行かなくてはならない。
なぜならかつて間に合わなかったから。なぜならかつて届いてしまったから。なぜならかつてぼくらは話さなかったから。なぜなら。
で、ほんとうの理由のためになんて走れないから、にせものの理由を括り付けて走るしかなくて、ほんとうの理由は背後に置いておくこととして、足を取られる。
早送りで進む太陽はすでに中天に坐し、影の位置が変わるはずなのに、相変わらず逆光で、光はぼくの味方をしてはくれない。やってきたことを考えれば当然なのだろうか。光にさえ見放される筋合いはないはずなのだけれど。
これだけ走れば追いついたはずだった。そこに、蜃気楼と同じく近づいた分だけ遠ざかっていく人影をぼくはそれでも追い求めた。ティーンエイジャーに戻ったみたいだった。行動すればなにかが変わって自体が好転するのだと無邪気に信じられていたあの頃。
呼ぶ声はある。あのひとの声だ。大気を震わせて届くのはここに。なのにぼくの声は大気を動かすことなどなくてどこかに消えてしまう。鳥と同じくぼくの声が聞こえない。あのひとにも聞こえていないはずだ、聞こえていたら応えてくれるはずだから。あのひとが自分を見つけたのであって逆ではない。その瞬間にぼくは世界を見たのだった。再び世界を見ることができたのだった。だから世界というのはあのひとのことだった。かつては。だからあのひとが見つけるまでぼくはきっとここにいない。だってあのひとを見つけられない。声だけなら確かに耳元まで届くのに、伸ばした、この手は、届かない。
時間切れだ。
待っているひとなどいないのだ。
アイマスクを外す。ベッドサイドのバイザーを探す。バイザーを掛ける。目を開く。暗いから何も見えない。部屋の明かりをつける。明かりはついたけれども、大したものが見えるわけでもない。灰色の壁と、天井と、フォトフレームのひとつだけ置いてある棚、そのくらいだ。豊かな草原とは比べ物にならないくらい殺風景な人工物の群れ。ルビークオーツが視界を少しばかり暗くしていて、だけれども、ぼくにはこの視界しかないのだから、暗いかどうかなんて気にすることもない。ただ、夢の中のほうがよほど明るくて、それだけは多少口惜しかった。
この類の夢を見ることなんてしょっちゅうだったけれども――要するに、引き起こしたなんらかの事件に関わるものだ――このパターンは初めてだった。穏やかだというのは。
これまでの夢はもっとあのときのようだった。夢というよりは記憶の再話に近いそれは絶望だった。完全に自らの記憶ではないが、確かに隣接した領域に保存されているものを自らの記憶として引き出して夢に見る、いつかはあのひとがぼくを殺して、いつかはぼくがあのひとを殺して、いつかは誰かがあのひとを殺して、しかしどれがこの世界における事実かなんてことはよく知っているのだ。炎のちらつく世界の中で、あのひとが倒れているのを。何度見ただろうか。おかげですっかり自分の記憶になった。
それらに比べてよほど明るい内容だったけれども、浅ましさに胸が重くなった。昔にはもう戻れないのだ。ここはかつての学園の名を冠したまったく別の施設、生徒はいて、でも、かつての学園のようではないことを、かつての学園のようではもういられないことを、一番よく知っていてそのようにしたのは自分なのだ。それに何より。
ぼくのことを呼んでくれるだなんて、希望を、今更持ってどうするんだ。
夢のはなしなんてしない性質だった。ほとんどの場合で現実に影響なんかしないからだ。影響する多少の場合にあたるような能力を、あいにく持ち合わせてはいなかったし。
「で、わたしに言って何になる」
エリックにそう返されるのも無理はないのだ。逆の立場だったら自分もそう答えるのであろうから。ふとした会話の隙間に、ふと、あのときの夢のはなしをしてしまったのだ。エリックははなしを黙って聞いてはくれた。
「そうだな、それは、わかっているけれど」
「慰めのほしいなら余所にしておけ」
それだけ言って彼は立ち去る。おそらく走れば追いつくけれども、追う理由なんてどこにもない。
あなたには話しておきたかったんだ、きっと、同じ草原にいたことがあるだろうから。呟こうとした言葉は地面に落ちてそれっきりで、なるほど正しく許されないとはこういうことだ。
2021-08-16
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