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梅雨も終わり、初夏というには暑くなってきた水曜日。喫茶どんぶらの昼下がりに、猿原真一はコーヒーを飲みにやってきていた。いつもはホットだが今日は流石に暑すぎるのでアイスを頼んだ。アイスとホットできちんと豆を変えるこの店はよいものだ、と、猿原は常々感心している。最近ではそこまでこだわりを持つ店も少なくなってきたものだ。ここのマスターは若いのに、と自分のことを棚に上げて思ったりもしている。平日ということもあり貸し切り状態だ。湯の沸く音とともに外からは鳥の声が聞こえる。実に優雅なものである。
しばらくするとまっすぐなグラスに入ったアイスコーヒーが木製の机に置かれる。本を読みながらコーヒーを楽しむこの時間はなにものにも代えがたいものだ。さわやかな浅煎りが芥川龍之介によく合う。
ひとときの幸福を味わったのち、猿原は会計の代わりにこう言った。
「友去りてアイスコーヒー汗をかく」
いいよ、とマスターがカウンターの向こうから答えるのが聞こえる。ここのマスターはコーヒーのみならず風流も解する。俳句で支払うのが通例となっていた。
そこにひとつの声がかかる。
「二七点だ」
振り向くといたのは桃井タロウ、仕事中であることを表す赤と青の制服、手には荷物、マスターにサインを求めてそれを確認した後、荷物を引き渡してそのまま帰ろうとしたので猿原は彼を引き止めた。
「待て、点数だけ言って帰ろうというのか君は」
なら答えてやろう、これからちょうど休憩時間だからな、と桃井は帽子を脱いで猿原の向かいに座った。マスターがお冷を出してくれる。桃井はホットコーヒーを注文した。それならと猿原は二杯目のアイスコーヒーを頼んだ。
「ここでは俳句で払えるのが当然だと思って句に甘さが出ている。題材と言葉選びが安直だ。アイスコーヒーと外気温で結露が出るのは当然のことだろう」
そう言われてみればそうではある、あまりいい出来ではない、それが彼の言った原因から来るものなのかは定かではないが。とりあえず心の中にメモしておく、が、それを唯唯諾諾と受け付けるほど猿原は殊勝ではない。
猿原は本をかばんにしまいながら言う。
「まったく、君は思ったことを何でも口にする男だな」
「ああ、おれはそういう人間だ。何か問題があるのか?」
問題はない。率直というよりもむしろ不躾な発言に慣れてしまってはいる。ただ今の彼の発話にどことなく違和感がある。
どこだろうか?
ひとは通例、会話をする際に情報を過不足なく伝えようとするものだ。猿原は『君は思ったことを何でも口にする男だな』と言った。桃井はそれに対して『おれはそういう人間だ』と答えた。
不足はない。むしろ過剰だ。『人間』は『男』の上位カテゴリなのだから。
桃井タロウは嘘をつかない、というより、つくことができない。
彼にとっての真実以外を発話することができない。ならば。
猿原の脳裏にひとつの仮説が浮かび上がった。
話は変わるが、というか、これはただの思いつきなのだが、と前置きしてから、猿原は言う。
「復唱しなくてもいいが――君、もしかして、『私は男です』と言っても死ぬんじゃないか」
「そうだ」
桃井はためらいなく即答する。
「試してみるか」
「しなくていいと言ったが」
そうか、と桃井は言う。
「だとすると、私は君に相当無神経なことを言ったことになるのでは?」
かつて猿原は桃井の体質を試すために『私は女です』というフレーズを言わせたことがある。そのときは桃井が確実に『男性』であり、ということは『女性』ではないという判断をしていたのだ。
だが実際はどうだ。どちらもが桃井にとって『嘘』であるシチュエーションは、存在する。
猿原とてそういったケースの存在を知らないわけではなかった。ただ、日常の思考を行う上では、無意識のうちに排除してしまっている可能性であった。
しかしながら桃井は平然と言い放つ。
「そういう人間の相手には慣れている」
「すまなかった」
「なぜ謝る? あんたの責任ではないだろう」
「私も君を傷つけた社会の一員だからね」
「おれは傷ついたとは言っていない。もしそうだったとして、あんたが謝ることじゃない。それはかえって無責任だ」
彼はいつだって正しい。正しすぎるほどに。
桃井はつまり、こういうことだが、と言う。
「陣はおれに、納得できないことはわかるがそれを受け入れないと生活ができない、と言った」
桃井は幼稚園生のころに(あの桃井タロウも幼稚園に行っていたのだ!)先生に『どうして人間を恣意的に分類するんだ』と詰め寄ったのだという。そうしたら陣にそう言われたのだとか。
「おれは人間から見て男性に見えるから、そう分類されることに慣れた方がいいと」
彼の対応も間違いではないだろう。そうしなければ桃井はおそらく今以上に世間から遊離していただろうから。でも、それはあまりにも。
「それは、哀しいはなしだな」
猿原にはそう言うことしかできなかった。自分には想像もつかないタイプの社会との衝突である。自らの人生に軋轢がなかったと言えば嘘になってしまうが、少なくとも自我と身体に関しては、摩擦なく生きてこられたのは事実である。
「だが結局陣が『正しかった』、おかげでこうやってはたらくこともできている。おれには意味のわからないことはできないが、理屈が通るなら可能だ」
彼がどうやって理屈を通したのか知らない。というよりこの事実を知った以上桃井タロウを『彼』と呼んでいいのかもわからない。
自分は世界についてある程度のことを知っていると思っていた。でも、目の前にいる存在についてすら、何も知らなかった。
猿原はひとつ息をついてから、眼前の桃井に言う。
「それで、私にできることはあるか?」
「ないな」
桃井はまたもためらいなく答える。
「おれが何者であろうともやるべきことは変わらない。お供であるあんたのやるべきことも変わらない。戦いに性別は関係ないからな」
「別に私たちの関係は戦いだけにあるわけではないだろう」
「だが優先順位としては現状それが一番上だ。おれはそれでいいと思っている」
ああ、でも、と、桃井は猿原を見据える。
「これに気付いて、おれにそう言ったのは、あんたがはじめてだ」
マスターが注文の品をふたりの前に置いた。ひとつはアイスで、ひとつはホット。ひとつはグラスで、ひとつはカップ。そしてそのどちらもがコーヒー。そしてそのどちらもにミルクもシュガーも加えることが可能だ。その差異がどのくらいのものであるのかを、猿原真一は測りかねている。

2022-07-04

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