わたしには同居人がいて、その名を桃井タロウという。その青年がわたしの家にやってきたのはちょうど一年前なのだが、タロウ曰く、三年前から一緒に住んでいるのだという。三年前といえば王苦市に引っ越してきたあたりで、わたしも今ではそうではないのかと思い始めている。
その日のことはよく覚えている。タロウがわたしの家に出現した日のことを。
TAの仕事が一六時過ぎに終わり、図書館で本を物色していたら一九時になっていた。まだ明るさがわずかに残る道を本のいっぱい詰まったリュックサックを背負って歩きながら、今日の夕食を何にしようか考えていた。そこでわたしは冷蔵庫の中身を忘れていることに気がついた。炊飯器はセットして出かけたはずだし、まさか何もないということはあるまい。何もなかったら常備してあるレトルトでも食べればいい。というかその前に明日までにやらなきゃいけない課題がある。とか思いながら歩いていたらアパートに着く。
ただいま、と誰もいないはずの扉を開けた。
おかえり、と声が聞こえた。それから、おいしそうな、肉じゃがの香りが。
玄関には知らない靴が、置いてある。
リビングの明かりはついている。物音もする。合鍵を持っている人間は、少なくとも近辺には、いないはずだ。
親が勝手に上がり込んでいるのだろうか? 連絡くらいしてくれてもいいものを……とリビングに続く扉を開けたら、そこには見覚えのない青年がいた。わたしよりはいくらか年下だろうか。キッチンに立って、エプロンをつけて、味噌汁を作っている。ちょうど豆腐を入れようとしているところだった。おいしそうだ。いやそんなことじゃなくて。
「あの……通報しますか?」
「何を言っている。縁があるだろう、ずっと」
不思議な言い回しをするひとだ。
そしてその青年はわたしの名前を呼んだ。今となっては家族くらいしか呼ばないその名前を。大学ではだいたい名字で呼ばれる。
「とにかく手を洗え」
「え、タロウ、いつからここに?」
「妙なことを聞くな、今日のあんたは」
そしてわたしはこの青年の名前がタロウであることを思い出した。思い出した? 今まで知らなかったはずなのだけれども、とにかく、目の前にいる相手が『桃井タロウ』であって、わたしはこいつと同居しているのだということが違和感なく理解された。
わたしはリュックサックを置き、手を洗い、テーブルについた。テーブルの上には肉じゃがとアジの開きと豆腐の味噌汁と白米が並んでいた。立派な夕食だ。これをすべて桃井タロウが作ったのだろうか。
ごちゃごちゃ考えていても仕方がない。なんせ腹ぺこなのだ。いただきます、と手を合わせる。タロウもそうする。わたしはまず肉じゃがに箸を伸ばした。
完璧だ。
完璧な肉じゃがとは何なのか、わたしは今まで知らなかったが、この瞬間理解した。じゃがいもと牛肉が醤油と砂糖でつながっている、のがたしかにわかった。ものごとにはバランスがあって、それが達成されていれば、高級な食材でなくても完全を体現できるのだと。
わたしが嘆息していると、タロウはどうした、と言った。
「いや……あまりにもおいしくて」
「そうか。おれが作ったものだからな」
偉そうにはしているが偉そうにするだけのことはある。
わたしは自分の分の肉じゃがをすぐに平らげてしまった。白米もなぜだかいつもよりもおいしく感じた。
食べ終わった後、食器くらいは自分が洗おう、とキッチンに行ったら、ずっと前からこのような生活をしているような気がした。皿も箸も二セットずつある。リビングにはソファがある。桃井タロウはそこに座ってテレビを見ている。明日の天気は晴れらしい。
それにしても、桃井タロウは、ほんとうにここに、いただろうか。
わたしが家を探索してみたところ、記憶よりも、一部屋多くなっていた。桃井タロウの部屋だ。後で調べたところ、家賃は据え置きだった。ならいいだろう。それにその記憶も、どんどん薄れていった。
わたしはその日から、桃井タロウと暮らし始めた。
いや、二年前から、住んでいたのだが。
桃井タロウは高校を出てからシロウサギ宅配便で働いているのだという。その前どうしていたのかは知らないのだが、とにかく、この仕事が天職であり、タロウの言うところの『縁』をつなぐ大切なものであるというのは、よく話していた。
わたしは高校卒業後、地方の大学に行き、そのまま大学院へと進み、その研究室に残ろうと考えていたのだが、ボスの定年の関係で、博士課程から別の大学院に移ることになった。自分の研究テーマに一番近いところが、王苦市にある私立大学にあったので、期せずとも地元に戻ることになった。とはいえ、王苦市も広い。実家から通うには遠いので、近くのアパートを借りていた。ルームシェア相手を探していたところ、桃井タロウに出会った、らしい。
らしいというのは、わたしにはこの記憶に自信がないからだ。
第一、五つ以上年の離れた相手とどうやって出会ったのだろうか。まったくわからない。
わからないが桃井タロウはいいひとだった。
わたしはゼミとTAとアルバイトと自分の研究であまり家にいないし、タロウもシフトの仕事だからわたしたちが家にいる時間はあまり合わない。それでも、タロウはできるだけご飯を作ってくれていたし、わたしももし可能であればタロウが忙しい時に何か作ってあげることにしていた。もっとも、タロウの料理の腕はプロ並であり、どうしてこんな宅配の仕事をしているんだろうというところだが、わたしはいたって普通の家庭料理しか作れない人間のため、釣り合っているのかはわからない。
わたしが朝早くからバイトで、タロウが昼後からのシフトのときに、昼ごはんなのか朝ごはんなのかは判断に迷うところだが、おにぎりを作っておいたことがある。シャケのおにぎりだ。ふたつ。ラップをかけてテーブルの上に置いておいた。
夜、家に帰ってきたら、メモが残してあった。
『二十五点』
それだけ書かれたメモを見てわたしは苦笑した。
それ以上の点もそれ以下の点もついたことがなかった。
わたしはただいまと言えばおかえりと返ってくる生活に慣れ始めていた。
最初からそうだったような気がした。
わたしはただいまと言われるからおかえりと返す生活に慣れ始めていた。
最初からそうだったような気がした。
時折、大学生たちから妙な噂を聞くことがある。
なんでも、王苦市には突然現れたり消えたりするひとたちが存在するのだという。
そのひとたちは普通の人間の姿をしているが、急に出現して、どこかに消えていく。たまに空中に出現することもあるし、手だけ浮いていたりすることもあるのだという。
それは怪奇現象なのではないだろうか? と思ったところで、自分の家に突如桃井タロウが発せいたことを思い出す。王苦市はそういう土地なのだろうか? 治安が悪いことは、確かなのだが、都市伝説まであるとなると、ずっとここに住んでいていいのかわからなくなる。まあ、博士号を取るまでは、ここにいることになるんだろうけれども。
桃井タロウが嘘をつかないらしい、というかつけないらしい、ということに気付いたのはそれからしばらくしてからだった。
珍しくふたりとも昼間に家にいる日だった。特に意味もなくバラエティ番組を流していたら、ドッキリを仕掛けられている芸能人がいた。特におもしろくなかったが、タロウは怪訝そうな顔でそれを見ていた。
「意味がわからない」
「まあ、おもしろくはないな」
「なぜ嘘をついて笑う」
たしかに、ドッキリというのは嘘の側面がある。物事を当人にだけ隠して、後で明かす行為だからだ。
ただ、ひとは誰しも嘘をつくものだ。意味がわからないことはあるまい。
そこで、
「きみは嘘を一切つかないのか」
と尋ねたら、
「おれは嘘をつかない」
と返された。
あまりにも真顔で言うため、わたしは思わず笑ってしまった。バラエティ番組よりよほどおもしろかった。
「なぜ笑う」
それはきみがおもしろいからだよと言うのは、ちょっと失礼な気がした。
でも、そのことばに嘘はなさそうだったので、それから桃井タロウの言動を注意深く観察してみると、タロウは自分が本当だと信じていることしか言えないんだろうということがわかった。
たとえば、タロウはおべっかを口にしない。だからわたしのおにぎりを二十五点だと言う。
たとえば、タロウは気休めを言わない。だからわたしがゼミの発表前で焦っていてもそうか、全力を尽くせ、としか言わない。
その率直さは嫌いではなかったが、四六時中一緒にいると疲れるのは確かなため、たまにすれ違うくらいでいいんじゃないかな、と思っていた。
思っていたのだ。
タロウが、急に、いなくなるまでは。
タロウはある日突然いなくなった。三年前から一緒に住んでいたのに。
タロウの部屋は、なかった。部屋ごとなくなっていた。家賃は据え置きだった。
タロウが働いていたのだというシロウサギ宅配便にも連絡をした。そんな人間は存在しないと言われた。
じゃあわたしが今まで暮らしていたのは一体何だったんだろうか?
そこでわたしはようやく、タロウと一緒に撮った写真の一枚もないことに気がついた。
わたしの手元に、桃井タロウが存在したことを示すものはひとつもなかった。
桃井タロウが『いた』のと同じように『いない』のもすぐに、意識に浸透していった。わたしはずっとひとりで暮らしていたのだ。ただいまと言ったらおかえりと返してくれるひとなどいなかったのだ。
わたしはゼミの帰り道、いつもは曲がらない角を曲がる。猫を追いかけていったらたどり着いたのだ、その喫茶店に。のれんには『どんぶら』と書かれている。レトロな雰囲気のあるその店が、こんなところにあるとは知らなかった。
わたしはのれんをくぐり、そして見る。
重厚感のあるテーブルにつく青年、目の前にはコーヒー。わたしはこいつとずっと……ずっと、なんだったっけ、学校の知り合いだっけ、わからない、わからないんだけど、でも……
言葉を発せずにいるわたしに、青年はああ、あんたか、と言う。まるで昔の知り合いのように。
「一度配達に行ったことがある」
そうだ、このひとは配達員だ。青年はわたしに明るく声をかける。
「縁ができたな」
2023-05-18
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