さいはてナイトトレイン - 2/4

Over the World in the Night

「次は『ふたりぼっちの憂鬱』駅」
無機質な声で、アナウンスが流れる。男性のようだったけれども、聞き覚えのない声だ。
「これは」
「駅があるのね」
グリッタは言う。ふたりはまた客室にいた。日中――とはいっても窓の外は夜なのだが――はだいたい客室にいることとしていた。本もあるし、木星の小さなゲームもあるし、頼めば食事ももらえる。
夜、というか眠たくなったら、簡易的な寝台のある部屋で眠ることができるけれども、その部屋は窓も小さいし、あまりずっといたい場所でもない。必然的に、昼間は同じ客室にいることとなる。
ゼットと名乗ったあの男は、闇の渦巻くあの部屋から出てこない。相変わらず他に客も見当たらない。
「シャドーラインには、駅がありますの」
「普通の列車にもあるよ」
「ええ、そうでしょうね。わたしは乗ったことがありませんが」
クローズが飲み物はいらないか、とワゴンを押してくる。黒いシルクハットをかぶった、黒を基調とした制服を着たそれらが、この列車を動かしているものたちであり、給仕を請け負うものたちだった。彼らは発声することはないが、身振り手振りとメニューの文字でコミュニケーションが可能であった。
グリッタはローズヒップティーを注文する。クリーデンスはアールグレイを頼む。
代金を支払おうとしたこともあったが、どうやら紅茶や軽食の料金はチケット代に含まれているようだった。あまり手持ちのないクリーデンスにとっては、幸運なことだった。
注文をしてからしばらくして戻ってくると、クローズはテーブルの上にポットとティーセットを二つずつ置き、それぞれの茶葉をティースプーンで計量し、ポットに湯を注ぐ。ついでにクッキーまでつけてくれた。四角くて、格子状の模様の入ったクッキーだ。アイスボックスクッキーというのだと、グリッタが教えてくれる。
湯の注がれたポットにはティーコゼーがかぶせられ、紅茶の温度が下がらないようにしてある。
砂時計が置かれる。三分計だ。
この白い砂が落ちきったら、紅茶を飲んでも構わない。
一通りの行動を終えると、クローズは別の車両に移動する。
「この駅って、誰かが乗ってくるのかな」
「そういったこともありましょう」
「降りる人は」
「あなたが降りたければ、降りられます。停車時間があるので、その間は自由に行動してもよろしいですし、戻ってこなければ、この駅で降りるということになります」
「この切符は、どこまで行けるんだろう」
クリーデンスはポケットから真っ黒な切符を取り出す。始発はキングス・クロス駅。降りる場所が書いてあるようには思われない。
グリッタはその切符を一瞥する。
「おそらく、どこでも降りられますよ」
「そうなんだ……」
そう言われても、どこで降りるかなんか決めようがなかった。何があるのかすら知らないのだ。次の駅はアナウンスされたが、知らない名前の駅だった。少なくともパリではないだろう。
「そういえば、きみたちは、どこで降りるの」
「わたしたちは……そうね、降りる駅はないのよ。終着駅を定めないの」
そういうことに、決めたのですから。グリッタの声はどこか誇らしげだった。
最後の砂が落ちる。ふたりはティーコゼーを外し、ティーカップに紅茶を注ぐ。グリッタの注ぐローズヒップティーは、白のカップによく合っていて、美しいものだと思う。つい見とれてしまったが、クリーデンスのカップは、青色に金の縁取りがなされているものだった。アールグレイを注ぐ。冷めないようにポットにはティーコゼーを掛け直す。
今までロンドンの家で飲んでいた紅茶というのはただのお湯だったのではないかと思えるくらい、華やかな香りのするアールグレイだった。

ふたりが紅茶を飲み、クッキーをつまんでいる間にも、列車は減速を始める。空を飛行していた列車は、地上へとゆっくり下っていく。それと同時に、窓の外の闇が次第に薄れていき、景色が見えるようになる。
イギリスの風景とは異なっていた。木は高く、地面は乾いている。鳥の声が聞こえる。晴れているようだ。しかしどの程度かはわからない。相変わらず、外の景色は曇ったガラスに阻まれている。真っ暗でないにしても、薄曇りのような暗さを視界に添える。
ブレーキの音がする。蒸気の音。
完全に停止したときに、また駅名が読み上げられた。
ふたりぼっちの憂鬱。
駅の名前にしては、縁起のいいものではない。

「クリーデンス、あなたはどうするの」
グリッタが尋ねる。
「きみたちは、ここでは降りないの」
「わたしたちは、ここで待っていますので。紅茶が冷めきらないうちに、戻ってくればよいのです」
ティーポットが保温されているとはいえ、そう長い時間ではないだろう。しかし、クリーデンスは外に出てみたかった。それが許されるのであれば。列車での時間は快適なものではあったが、閉塞感は否めない。
「よければこれをお使いくださいな」
グリッタは白い日傘をクリーデンスに渡した。彼女の服と同じように、繊細なレースで装飾されている。
「だって、晴れているでしょう?」
クリーデンスは彼女の言葉の意味を駅に降りた瞬間に思い知ることとなる。

晴れだ。まごうことなく。雲はない。もちろん霧はない。ロンドンとは違う。石畳はなく、馬車もなく、家もない。
街がない。
クリーデンスは日傘を開く。少し、眩しさは落ち着く。

この駅には駅員はいないようだった。おまけに、チケット売り場もない。無人駅だ。誰かが同じ列車から降りてくることもない。これにはクリーデンスの他に、乗客はないのだから。
駅員がいないから、勝手に駅の外に出ることができる。

まるで平原の真ん中に作ってしまったかのような駅だった。駅というのは、交通の要であるから、街の中心にあるものだとばかり思っていた。しかし、ここは、なんだ。
あれはもみの木。あれは池。
目の前に線路があること以外は、普通の郊外の風景だ。
右を見る。線路が続いている。建物のある気配はない。
左を見る。線路が続いている。
左側の線路の向こうに、建物はないけれども、人影と四角いものが見える。
クリーデンスは人影のある方へ歩いていくこととする。何、そんなに遠くはないだろう。

線路の上を歩く。正確には、線路と線路の間を歩いていく。
曲がってはいない。まっすぐだ。
このようにして、線路の上を歩くなんていうのは、ロンドンではなかったことだった。路面電車の線路の上はまたいだことはあるけれども、あれは地面に半分くらい埋まっている。
これは違う。
これは地面の上に敷かれた線路だ。金属のレール二本で構成され、動かないように固定された、まっすぐな道標だ。
もしこれがロンドンだったら、あまりの列車の量でこんなにのどかに歩いてなんていられなかっただろう。あっという間に列車に轢かれてしまう。
下ばかりいて歩いているのも危ないと、もう一度視点を水平に戻す。先程の人影にだいぶ近付いてきた。何か作業をしているように思われる。

金属質の音がする。
連続的な、心地よいリズムを持った、ハンマーで金床を叩くような、音だ。何回か繰り返す。音が止まる。そうしてまた音がはじまる。
そこに、ひとりの男がいた。黒いタンクトップを着て、オレンジのヘルメットをかぶっている。手には金属製の工具のようなものを持ち――レールを叩いている。
その背後には、ヘルメットと同じ色の車両がある。鮮やかなオレンジだ。しかもドリルが連結されている。これは客車ではなくて、工事用の列車だったりするのだろうか。こんなに大きなドリルははじめて見た。

クリーデンスはその男を観察することにした。線路を叩いているひとを、彼は見たことがなかった。当然といえば当然で、『母さん』の行っていた慈善活動以外の仕事を、彼はろくに知らなかったからだ。
だから最初は、それを仕事だとは思わなかった。趣味の一環なのではないかと考えた。
趣味で線路を叩くというのも妙なはなしだけれども、そういう趣味だってあるだろう。
そう思っている間にも、その男は線路を工具で叩く。叩く。リズムが止まる。視線を線路と平行にして、レールの鉄材を眺める。横から隙間を見る。位置を変える。
また工具を振り下ろす。
クリーデンスの視線をものともせず、その男は作業に没頭している。五メートルくらいの場所で彼を見ていても、クリーデンスに気付く様子はなかった。

最初に声をかけたのはクリーデンスの方だった。
その男が何をしているのかを知りたくなったのだ。
「きみは」
「虹野明」
「ぼくはクリーデンス」
「そうか」
それだけ言って、虹野明と名乗ったその男は、作業に戻った。
変わったひとだ、とは思わなかった。その感想を抱くまでには、クリーデンスはあまり人間に会っていなかった。自分を利用しようとしたもの。自分を傷つけたもの、それから――自分を助けようとしてくれたひと。
そのくらいのカテゴリしか持ち合わせていなかった。
この男は、どのカテゴリにも当てはまらない。ただ、自らのするべきことを、している。単調な作業だ。レールを叩く。位置を変える。水平面をチェックする。それからまたハンマーを取り出す。

「何をしてるんですか?」
クリーデンスは虹野明に尋ねる。
「烈車の整備員だ。おれは、レインボーラインが正常に運行できるように、レールを直している」
「ここはシャドーラインって聞いたけど」
「誰にだ」
「グリッタというひと」
「そうか、それなら間違いない」
虹野明はそのまま作業に戻ってしまう。レールを叩く。金属音。慌ててクリーデンスは聞く。
「じゃあここは、シャドーライン」
「でもここは、レインボーラインでもある。この駅の名前は」
「ふたりぼっちの憂鬱」
「レインボーラインの駅のときは、『みんなの笑顔』駅と呼ばれるんだ」
まあ今は、あれが止まってるんだから、シャドーラインか。
彼は今や遠くに見える、黒い列車を指差す。クリーデンスが乗ってきたものだ。
「ここはどちらの駅でもありえるんだ。いや、同時にそうあることはできない。お前にあれが見えるか」
虹野明は空を指差す。地面に対して三十度くらいの位置だ。
そこには空がある。青い空だ。空以外のなにもない。
「他の人にも聞かれたけど、何も見えない」
そうか、と彼は言う。少し困った表情をする。工具を箱にしまって、クリーデンスに向き直る。

「かつて、レインボーラインとシャドーラインは完全に別れていた。だけど、今はひとつだ。ひとつというよりは、同じ路線の裏表を使っているんだ」
「きみは、どっちに」
「おれは子供たちから闇を集めるのが嫌になって、シャドーラインをやめた。それから、おれはこの名前――虹野明――をもらって、レインボーラインで働けることになった」
「ひとを傷つけた……?」
「子供たちは泣いていた」
クリーデンスはロンドンにいたときのことを思い出す。闇というのは、あの絶望に似ているのだろうか。この日々が終わらないということ、痛み、助けてくれるかもしれないひとが、助けてくれなかったこと。
それからの真っ暗な記憶。
「レインボーラインで、子供たちの夢を守れるようになった。もしもこの線路が破損してしまえば、レインボーラインは脱線してしまうだろう。それを避けているんだ。だからといって、おれの本質は変わらない」
「レインボーラインはきみを助けてくれたの?」
「いや、おれがレインボーラインを助けたんだ。おれたちが、と言ったほうがいい」
やはりこのひとも、あの魔法使いたちと同じなのだろうか。不思議な力を持っていて、誰かを助けるひとだ。
クリーデンスのことは、人間界にいる誰もが助けてはくれなかった。
シャドーラインに来て、美味しい紅茶が飲めるようになった。生活は前より安定している。誰かに脅かされることがない生活。あのゼットとかいうのはよくわからないけれども、今のところ害はない。
でも、自分が『助かって』いるのかどうか、よくわからなかった。
「あいつらといることによって、おれは子供たちの夢を守れるようになった。おれがかつてシャドーラインにいたとしても。雨の向こうに、晴れがあることを、それから雨上がりの空には虹がかかることを、知っているからな」
「虹……」
「何だお前、虹を知らないのか」
虹野明は意外そうな顔をする。みんな知ってるものなのだろうか。聖書に書いてあったような気もするけれど、見たことはあっただろうか。
「雨上がりに出る光だ。七色をしていて、アーチを描く」
「それは知ってる」
「見たことは」
「ないけど」
「それは虹を知っているなんて言えない」
「ロンドンはいつも薄曇りで、雨が降って、晴れ間を見た記憶はあまりない」
雨が降ると、部屋の中にいなくてはならない。そうでなければ、傘を持って、はたらいていた。雨が止もうとも、ビラを配ったりしなくてはならないから、空を見上げる余裕なんてなかった。
「じゃあ今から、虹を見るといい」
虹野明はクリーデンスに告げる。まるでそれが確定事項であるかのように。

それにしても、虹を作ることなんてできるのだろうか。それこそ、彼は魔法使いなのだろうか。
「少しの間、目をつぶっていてくれ」
彼は傘を差せと言う。
グリッタから手渡された傘を、もう一度きちんと差すこととする。視界が少し暗くなる。
目を閉じる、傘に何かが当たる音がする。軽い音が連なって、雨音だということを示す。大気の温度が一瞬で下がり、湿り気を持った空気が周りに充満していく。ロンドンの雨よりは重くない。
グリッタの傘は雨傘としても十分に用いることができた。傘をすり抜けた雨粒がクリーデンスの肩に落ちる。
懐かしい。ロンドンは雨と霧の街。薄曇りが太陽を隠す街。
雨だ。雨が降ると、家に入れることがあった
入れないこともあった。
だからクリーデンスは雨があまり好きではなかった。どんな理由で怒られるのかもわからないし、水に濡れたまま夜になると寒い。
だけれどもここは安全だ。傘が破られない限り、強い雨に当たることはない。ただの雨音だ。音だけだったら何の驚異もない。
そう思ってみると、雨というのもそう悪いものではなかった。さらさらと地面を洗い流すであろうそれは、無害である限りやさしい音を立てている。
「目を開けろ」
雨音が止む。傘を閉じる。目を開ける。
それが虹だ、という彼の言葉がなくとも、クリーデンスは彼が何を見せたかったのかがわかった。
晴れ渡る空はそのままに青く、その青を貫くように、彩りが広がっている。
赤、紫、緑、彼の身にまとうオレンジ。やわらかな色彩が、青空を貫いていた。帯状のグラデーションが地面から空中に向けて伸びている。アーチを形成したそれの端は見当たらない。探そうとしてもどこかに行ってしまう。
水たまりは日光を浴びてきらめき、空には虹がある。
はじめての光景だった。もしかしたら、ロンドンにだって虹がかかっていたのかもしれないけれども、それはクリーデンスから遠いところにあった。
思わず手を伸ばす。
「……きれいだ」
近くにあるように見えるけれども、かなり遠いところにあるようだ。そもそも、存在しているのかわからない。
存在はしている。目には見える。
触れることはできない。
「触れないぞ、それは」
触れなくても構わなかった。もしこの光が手のうちにあったら、と思わなくもなかった。だが、光はそこにある。あるだけでいい。うつくしいものが、そこにあるということだけで、希望となる。どうしてこんなものを今まで見たことがなかったのだろう。雨上がりはこんなに普遍的なのに。
もしかしたら、あのロンドンにもあったのかもしれない。
自分が下を向いて生きていくしかなかっただけで、みんなは、見ていたのかもしれない。
不思議と憎しみはなかった。その光をなんとしても奪いたいとは、思えなかった。
なぜならこれは輝くものだからだ。自分のやった破壊とは真逆の、雨の後の、希望だから。クリーデンスは忘却の雨が上がった後の街の様子を知らない。逃げることに必死だったから、雨が降っていたことしかわからない。とにかく逃げたかった。雨の音から。追いかけてくる光から。
あの雨の後にも、こんな光景があったのかもしれない。なにがあったとしても、自分が免罪されることはないだろう、ともわかっている。
「おれも詳しい仕組みは知らないけれど、とにかく、こうなるんだ。おれが雨を降らせても――虹はある。普通の雨の後にだって、虹がある」
それを教えてくれたやつらがいるんだ。虹野明はどこか眩しげに言う。
「だからおれはレインボーラインにいられるんだ」
「しあわせだね、きみは」
「そうか? まあ、仕事はたのしい」
クリーデンスは虹野明の笑顔を見て、彼もまた虹に似ているのだと思う。悲しみの後にあるよろこび、モノトーンの後にある色彩、なにもかも終わりなんかじゃないと教えてくれる鳩のはばたき。
まばゆい色の中で、雨のあとでも笑っている、彼の強さを。

光のショーはまたたく間に終わる。虹は次第に薄くなり、そこには青空だけが残る。寂しくはならなかった。一度これを知ったなら、雨はもう怖くない。
そういえば、とクリーデンスは思う。グリッタはこれを見たのだろうか。
振り向くと、今まで乗っていた漆黒の車体がある。カーテンは閉められている。開けておけば、もしかしたら見られたかもしれないのに。
そうだ。列車で思い出した。
紅茶が冷める前に戻らなくてはならないのだ。もうずいぶん時間も経ってしまったのではないか。ここにずっといられるわけではない。虹野明の列車はひとを乗せるものではないようだし、青空と雨しかない空間に一生いるわけにもいかない。どんなに美しくても、ここにはその二種類しかないからだ。

「それじゃあ、ぼくは戻らなきゃ」
虹野明は、口の端を少し上げて笑い、クリーデンスに手を振る。
戻りの道はなぜか早かった。あんなに遠いと思っていたのに、すぐに黒い列車が彼をホームで出迎える。
太陽光のもとにさらされたそれは、雨に当たったのだろう。水滴が日光を浴びてちかちかと輝いている。
キングス・クロス駅に停まっていたときの威容ではない。宝石を身にまとった貴婦人のように、列車はそこにある。
あの列車も重苦しいものだけというわけでもないのかもしれない。

それにしても――
あのひとはなんだったのだろうか。グリッタと知り合いのようではあるけれども。それにしても、人間の姿をしていたが。ゼットも人間の姿をしているし、グリッタが例外なのかもしれないが。
それでも。
クリーデンスは見ていた。タンクトップを着た彼の姿が、まぶたを閉じる前の一瞬、異形へと変わったことを。黒ずくめで刺々しいそれは、グリッタにも少し似ていた。だけれども、それをことさらに言おうとは思わなかった。
見なくていいものは、見なくたっていいのだ。
そして、見たいものは、見ることができる。雨が上がると、虹がかかる。
クリーデンスは今、それを知っている。

ホームへ駆け上り、列車に乗り込む。扉が閉まる。
青空を背中に残して、クリーデンスは客室へと戻る。
「あら、どうでしたか?」
もうすっかり乾いた日傘を閉じて、グリッタに返す。
それから、紅茶をポットから注ぐ。もうぬるくなっていたが、ベルガモットの香りはぼんやりと残っている。
「虹を見た」
「虹、それはまあ、よいことね」
そして列車は動き出す。ロンドンには帰らないのだろうと思われる。パリに着く気もあまりしない。家はもうとっくに壊れていて、帰るべき場所は最初からない。
徐々に列車は地面から離れていく。また空の旅となるのだ。
窓から外を覗いてみる。地面には線路がある。オレンジ色の列車も見当たらない。もう誰がいるかなんてわからないけれども、この線路のどこかで彼はまた、彼の責務を果たしているのだろう。
「グリッタは虹を見たことがある?」
「ええ、一度だけ。空から地上を眺めたときに。遠くからだけれども、よく見えました。あれはきっと、虹だったわ」
グリッタは喜びを声からにじませていた。どんなものであっても、虹を見るとうれしくなるのだろうか。クリーデンスとグリッタには共通項があまりないような気がしたけれども、ひとつ見つかって、よかったと思う。
ゼットは相変わらず出てこない。あれには虹はあまり似つかわしくないのではないか。あんなに暗くて、ひとりきりで、青空の下が似合わなそうだからだ。
でも、もしかしたら。キラキラについて語っていたときの彼の瞳には、かすかな虹が映っていたかもしれない。

離れゆく駅を眺めながらクリーデンスは考えている。
自分のなすべきこととはなんなのだろう。虹野明にはそれがあるようだった。レインボーラインの保線員として、子供たちの夢を守ること。
ロンドンで起こったこと、あまり覚えていないけれども、すべてを破壊したいと願ったときのこと。そのすべてではなくても、いくらかが叶ってしまったこと。瓦礫の山と、人間たち、人間ではないもの、すべてを壊したくって、そうなった。
それらについて、どうするべきなのか、まったくわからなかった。
わからないから、目的地のわからない列車に乗っているのかもしれない。ここではないどこかで、見つかるのかもしれないと願って。
クリーデンスはもうすっかり冷めたアールグレイを口に運ぶ。冷めてもおいしいはずなのに、味はクリーデンスの舌を上滑りしていく。水みたいだ。水なんかじゃないのに。
グリッタのポットは、もう空になっているようだった。

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