さいはてナイトトレイン - 3/4

You or Someone like You

 

暖炉の火を保つには、薪を供給しなくてはならない。燃焼という現象から発生する仮象にすぎない炎が、あたたかさをもたらしてくれる。そのために必要なのが、薪だった。
シャドーラインの客車には暖炉が設置されていた。夜の中を走るシャドーラインにとって、それは重要な空調機器のひとつだった。煙は外に排出されるので、一酸化炭素中毒になる心配もない。
クリーデンスがひとり客車にいると、薪を抱えた黒い人影が入ってきて、それらを暖炉の中に放り込む。火はぱちぱちと黄色く跳ねて、また穏やかな燃焼へと回帰する。
あれらはクローズというらしい。ゼットと同じように、どこかから出てきて、どこかに戻る、闇で構成されたいきもの。ずっと見ていると吸い込まれそうになる黒だ。彼らが仕事をしている間以外になにをしているのかはわからなかった。そのあたりで茶を飲んでいるのも見たことがない。彼らのための部屋もあるのだろうか。
そんなことを考えているうちにクローズは消える。暖炉の火はあたたかさを取り戻す。
扉が開く音がする。クリーデンスはそちらを振り向く。暗がりの中に誰かがいる。話しかけてくるひとは、ここにはふたりしかいない。きらめく声を持つものと、未だに掴めぬ霧のようなもの。
「当分次の駅はないみたいだな」
後者であった。
真っ黒な部屋の中では幾分まぶしい白を纏った、ゼットが現れた。

結局、彼が何者なのかをクリーデンスは知らない。
グリッタのことは少しわかってきた。明るくて、すこし恥ずかしがり屋の、かわいらしいひとであった。他人と友好を築く術のなんたるかを理解し、すべてを照らす太陽というよりは、むしろこぼれ落ちてゆくスパンコールのひとひらのような、儚くしかしよく存在するようなものだった。見た目からするとひとではないようだったけれども、クリーデンスがこれまでに会った誰よりも彼女は人間らしかった。
というよりは、クリーデンスのことを人間として扱ってくれた。対等なものとして。道具でも怪物でもなくて、ひとりの人格として接してくれた。ともだちというのはこういったものなのかもしれない。
兄弟姉妹たちとは対等だったかもしれないけれども、それらはみなひとつの秩序に従っているという意味での均一さだった。誰かが上にいるのではなく、ただ個として共にあるということ。ただ一緒にいるだけでたのしいものは、これまでに出会ったことがなかった。
それではあの闇の皇帝とかいうものはどうか。姿形は人間に近い。ロンドンの街にいたら、普通の人間だと思うかもしれない。ああいった服を着ているのは、ちょっと珍しいかもしれないが。往来にはあのような眩しい白や羽を身にまとっているものはいない。なんなら物語の中にだって、そこまで奇抜な服装のものはなかなかいないだろう。
それなりに気さくだとは思う。よく話しかけてくれるし、みんなでおやつを食べたりもする。よく退屈そうにしている。退屈そうな割には、何かを期待しているような光を瞳の中に宿していたりもする。時折黒い霧みたいになって消える以外は、かなり人間らしい。

闇から出てきて、暗がりに消える、彼は何者なのだろうか。

何者なのかはわからないが、ゼットはクッキーを持ってきた。大判のチョコレートクッキーだ。銀色のアラザンで縁取られている。彼の後ろにはクローズが付き従って、紅茶と菓子のセットをワゴンに乗せて持ってきていた。
ゼットはクリーデンスの向かい側に座る。目の前に置かれた皿に、ゼットは食べかけのクッキーを乗せる。クローズはクリーデンスの前にも紅茶のセットを置いてくれた。
一口では食べ切れそうにない大きさのクッキーだ。端をかじると、ココアの風味が広がった。しかも二枚もある。これだけでお腹いっぱいになってしまいそうだった。
クローズがカップに紅茶を注ぐ。淡い香りが広がる。昨日のものとは違うな、と思う。茶葉の品種や香りの名前はわからないが、甘くておいしそうだ。
「こっちのほうがあたたかいからな」
役目を終えたクローズは部屋を立ち去る。ゼットはクッキーを食べながら言う。
「自分の部屋に暖房はないの?」
「なんかな、光っていると縁起が悪いとか、闇の皇帝にふさわしくないとか、そういうことをあれこれ言われて、なくしたんだよ、暖炉は。あれは炎であたたかみを得るだろう。あたたかくなくても別にいいんだおれは。寒いからといって動きが鈍るわけでなし」
「寒くないほうがいいよ」
寒い家ではよく眠れないし、よく眠れないと寒くなる。彼らがクリーデンスと同じ身体を持っているとは思えなかったけれど、だいたいのいきものはそうだ。
「まあそう、そうなんだよな。お前みたいなやつがシャドーラインにもいればよかったんだ。そしたらおれの部屋にだって暖炉があっただろう。あのクローズたちはちょっと違う。意見なんかしてくれない。あれは闇そのものだ」
「ここにはグリッタしかいないんじゃ……」
「昔はな、いや、これから先のことかもしれない。いっぱいいたんだ、おれたちは」
ここにおいて、永遠は瞬間だ、仕方ない。
ゼットは少しばかり遠くを見て言う。ろうそくの火が揺れる。
この列車にはずっと乗っているような気がするが、実際ロンドンを出たのは昨日なのかもしれない。カレンダーはない。時計もない。昼と夜も曖昧だ。空腹になるタイミングもよくわからない。ロンドンにいたときよりはきちんと食べているだろう、ということくらいしかわからない。
サンドイッチも、マッシュポテトも、フィッシュアンドチップスも、フライドポテトも、いくらでもある。クローズに言えば出てくる。知らない名前の料理も出てくる。なんでもあるからこそ、すぐに食べたいとは思わないようになった。洋服も同じで、車内販売でもあるのかと思っていたら必要なものはみな支給ろれた。あまりそういったものに馴染みのないクリーデンスにすらそれが上等な生地だと見て取れた。
倉庫がある気配はないし、買い出しをいつしているのかもわからない。
次の食事がいつなのかを自分で決められるから、急いで食べる必要はない。そうすると適量というものが把握できてくる。
車窓には相変わらず夜ばかりがある。だから日時がわかりにくいのかもしれない。街や星の明かりはたまに見えるけれども、それが世界を昼にしてくれるわけでもない。太陽がある駅もある。そのときだけは昼だ。
駅しかない、それが時間を分節している。駅は夜のことも昼のこともある。駅に到着したら、外に出られて、それから戻ってくる。その繰り返しだった。
そうやって繰り返していると、この時間だって、一瞬のうちに人生に吸いつくされてしまうのだろう。
ゼットは唐突に切り出す。
「そんなことより、なんか、ないのか。小さい頃にやっていた遊びとか。そういったやつだよ」
「あまり思い浮かばないな」
「こっちもだから、責められねえが」
クリーデンスは笑った。なんでそんなことを尋ねてきたのかはまったくわからないけれども、悪意がないことは知っているし、こんな会話ができるなんて、まるで物語の登場人物のように自然にはなしが通じるだなんて、年の離れた兄弟ができたようで嬉しかったのだ。
ふたりとも世間話のなんたるかは知らなかった。ひとりは生まれ持った孤独のゆえに、ひとりは徹底した疎外のゆえに。どちらも似たようなものではある。『普通の会話』をする相手がいなかったから、こうやってつながらない会話をぱちぱちと続けている。
適当に集められたパズルに答えはないので、ふたりともそれをよしとしている。

結局のところ、クリーデンスはゼットにどことない親近感を覚えていた。もし同じ家に住んでいたら、仲良くなれたかもしれない。よくわからないが、強そうでもある。余裕があるように見えるからかもしれない。グリッタに陛下と呼ばれているし、どこかの王様なのかもしれない。今まで見たことがないだけで、実はイギリスの王なのかもしれない
ロンドンで出会った、あの魔法使いたちよりも。自分が強かったことはぼんやりと記憶があった。たくさんの敵がいて、たくさん倒した。誰かは自分の名前を読んだ。戦闘で相手を下せたにしても、なにもならないことも、救いにもならないことも、誰も迎えに来てくれないことも、わかってはいる。
打ち倒した相手は通例自分よりも強いものであるから、そんなものを助ける気になんてならないのだ。
だけれども、もしも彼くらい強かったら、圧倒できるほどの強さであったら、なにかが来てくれるんじゃないのか、そう思わざるを得ないこともある。
たとえばグリッタのような。
クリーデンスはグリッタとゼットがふたりきりで――物言わぬクローズを除いて――いる理由なんて聞こうとも思わなかった。どことなく距離があって、だけれども生まれたときから知っているかのように親しげでもある。なにかがあったのだろうけれども、少なくとも、あの善良そうなグリッタがゼットのいることを許しているのだから、ゼットがものすごく悪いものではないのだろう、と考えていた。

シャドーラインが汽笛を鳴らす。クリーデンスは外を見る。夜であることには変わりないが、小さな星々が主張を強めていた。星をつなぐための知識はそれほどなかったけれども、明るいものがグルーピングされて、幾何学模様や小動物の姿をとっていく。実際にはただの光の点だけれども、頭の中でイメージすれば、生き生きとした姿を見せてくれる。
あれは五角形、あれは子猫、あれは。
「星、好きなのか」
「好き――というか、もっと見たいんだ。これを」
ロンドンは曇天と小雨の街だ。こうやって星を見られるのは新鮮なことだった。空を飛んでいるから、雲もない。月明かりもほとんどない。地上にいた頃はあんなに幅を利かせていた月も、この星空の中では多少明るい星のひとつにすぎない。ずっと眺めていたら月の動くのを知り、恒星と惑星の区別を自ら発見できたかもしれない。
もっと小さな頃は、無邪気に星を眺めていられた。窓から空を眺めていた。家で暮らすようになる前は。その前の記憶はほぼなかったから、これは勝手な空想なのかもしれないが。クリーデンスには、よいところであってほしかったのだ。かつての自分が属した場所が。あの家にいた自分は、ほんとうの自分ではなくて、もっと、ほんとうの、自分があるはずなのだ。あたたかい家、安全なベッド、豊かな食卓と両親、それから兄弟姉妹。週末には教会に出かけて、礼拝をする。公園で遊ぶ。そこで友人ができる。一緒に学校に行く。たまに家に遊びに来たりする。
「こどもの頃って」
そんなことを考えていたら、ひとつの疑問が浮かんだ。
「こどもの頃って、あったの」
こどもであることは、クリーデンスにとっては苦しい日々だった。それは無力で小さいものであるということだった。親に従わなければ生きていけないということ、従っていても気分次第でどうとでもなるということ。星を安全に眺められないということ。
だから、もしゼットも幼いころにそういった体験をしていたのならば、より親しみが持てるのではないかと考えたのだ。
「おれたちは人間みたいには年を取らない。だから、生まれたときからずっと、こうだったともいえる。おれは闇の皇帝として生まれた。先代はいない。次代もいない。いたのかもしれないけれど、いたからっておれの立場がどうこうなるわけでもない」
「グリッタは」
「あれは少し違う。似たようなもんだが――成長する。これから違うものになるために生まれて、そして、違うものになった。結局違うものであることはやめちまったがな。あのままでいることが、あいつにとっての成長だったんだろう」
ゼットは紅茶を一口飲んで続ける。
「人間はキラキラを持ってる――持ってるんだよ、お前も、多分――最初から全部持ってる。おれが持ってなくて、これからも持つことがないだろうものを。そのかわり、人間はそのうち年をとって、こっち側が見えなくなっちまうんだ。そうして人生は楽しくないとか、勝手に絶望したり、はたまた勝手にこっちに希望を持つ。たまに、ずっと空を走る烈車を見ているやつもいて、そういうやつは変わり者って言われるんだろう」
「じゃあぼくは変わり者だね」
クッキーはあまり手を付けられずに残っている。クリーデンスはひとつ口に運ぶ。味はよくわからなかった。ざらざらしている。砂糖がたくさん入っていることだけがわかる。
「昔おれは、キラキラのはなしをしていた。そうしていたら、辺りは真っ暗になった。そうするべきではない、ってか。手に入らないんだからやめろと言われた。だから諦めてやろうとしたのに、地上にはキラキラがたくさんあるんだ」
「ぼくには思い当たらないけど」
そうだろうな。だからここにいるんだ。
車窓の向こうには流れ星がひとつ流れる。クリーデンスにとっては星の消失であり、宇宙にとっては塵がひとつなくなったことにすぎない。見間違うこともよくあるが、そのとき確かに星は流れた。

「帰りたいと思うか」
「どこに」
「おれはお前をどこにも連れていけない。おれにこの烈車の行先を決める権利なんかないからな。運転してるクローズも知らない。どこへ行くかを知っているのはただ烈車とレールだけだ。レールが延びる方向に進む。同じ駅に帰れるかもわからない。そもそもその駅は、帰りたい駅はもう存在していないかもしれない」
ゼットが言うのは謎めいたことばかりだ。しかし、クリーデンスにはなんとなく意味がわかるような気がした。香り高い紅茶のように勝手に腑に落ちてしまう。簡単に飲み込めるから、わからないはずのことが、わかってしまう。
「瞬間は永遠だ」
ゼットは先ほどとは真逆のことを言う。
永遠が瞬間で、瞬間が永遠であるのなら、ここはもうとっくに通過している場所なのではないだろうか。いま地上に帰ったら、自分を害するすべてが終わっていて、自分が帰る場所はそこにある。そんな奇跡が起こっているのではないだろうか。
きっとそんなことはない。もし奇跡があるのなら、と、願ったことはあった。
それは常に裏切られた。そういうことだ。闇ばかりが残されて、世界は信用できやしない。誰かがいてほしいけれども、その誰かの顔が見えない。願望の中の誰かには顔がない。思い浮かべようにも引き出しがない。どう言えばいいのだろうか。胸が詰まっているみたいでうまく言葉にならない。
ゼットは自分の紅茶を注ごうとする。水滴がぽたりと落ちる。ポットはもう空だったようだ。ポットをテーブルに置く。

信用できやしないけれども、どこかに行かなくてはならないことは知っている。
雨の後には虹がかかるのだと、この前誰かが教えてくれた。ならば、夜の後には何があるのか。クリーデンスはそれを探さなくてはならない。
「この列車は、どこに行くの」
「降りたいところで、お前は降りられる」
「あんな駅から、どこに行けるんだ」
「そう思っているうちは、降りられないだろうさ」
虹のかかったあの駅以外は、あまり積極的に降りてみようとは思えないものばかりであった。真っ暗だったり、割れたガラスが敷き詰められていたり、まっさらな大地に棒が一本立っているだけだったり。それでも降りた。何があるかわからないからだ。顔のない誰かの顔があるかもしれないからだった。
そして、降りたところで、もう一度この列車に戻ってきてしまうのだ。その駅にずっといたいとは思えなかったから。
「きみの帰る場所は」
「ホームはないが……強いて言うなら」
ここだ、と、ゼットは言う。
ここなのか、とクリーデンスは思う。

ぼくの帰る場所はここだろうか。
ここはやってきた場所であり、帰る場所ではない。

暖炉の音がする。ぱちぱちと薪が爆ぜる。この部屋であたたかいのはこれだけだ。暖炉がひとつきりあって、それが部屋全体を温めている。ことさら騒ぎ立てるようなことではないが、クリーデンスにとっては新しい発見であった。
あたたかいものはひとつきりでいいのだ。たくさん暖炉があったら、暑すぎる。なにもなければ、こんなところには寒くってとてもいられない。
消えない暖炉。薪をくべ続ければ、消えない炎。
そういった記憶がひとつでもあれば、それらが待っているであろう、どこかに帰りたいと思えるような気がする。
あたたかい場所には覚えがなく、家と呼ぶ場所は寒かった。
帰りたいのは、そこだろうか。
戻れるのは、そこなのだろうか。

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