The First Step of Our Journey
太陽がふたつあるようだ。
中空に輝く光球と、直下に同じサイズの同じ輝き。実際に太陽がふたつあるわけではない。ひとつは鏡像だ。水平線はまっすぐ伸び、それらの対称軸となる。軸の上に一つ、軸の下に一つ、太陽がある。ように見える。
クリーデンスは足元の水を蹴り飛ばす。下にある太陽が揺れる。つまり、それはほんものではない。
この駅に降り立った時、初めて見る光景にクリーデンスは圧倒された。これまでにもさまざまな駅はあった。しかしこれほど整った風景はなかったのだ。
沈みゆく太陽、果てしない水、そして何もかもを映す水面。
駅以外の場所には水しかなかった。足首までくらいしか水はないので、簡単に歩くことができる。いきなり深くなったりしないかと、最初は警戒していたが、そのような気配はない。遠浅の海のような、塩辛くはない水。
体温と同じくらいの温度のそれは、身体を冷やすこともない。少し重たい空気のようにしか感じない。
試しに少し戻り、駅への階段を昇ってみると、靴はまったく濡れていない。
もしかしたら飲めるような水ではないのかもしれない。極限まで薄めたガラスのようであった。もっとも、ガラスのように固まったりはしないのだけれども。飲んでみる勇気は流石になかった。
『みかがみのかがみ』という名前の駅なのだ、と止まる前に電光掲示板に示されていた。どんな駅だろうかと思っていたが、降りてみるとその駅には駅名の書かれた看板くらいしかない。今までの駅には何かひとがいたり、森があったり、とにかく、ものがあった。
ここにあるのは水だけだ。そして景色。
「ここに降りる必要はあるのかな」
窓から見ても、一面の青、それしかない。横に線を一本引いただけのキャンパスのような。なにか得られるものがあるとは思えない。
「まあ、降りてみればいいんじゃないか」
ゼットは呑気そうに言う。
「ここに来たことがあるの?」
「誰もが一度は、この駅に来るもんだ」
降りなければ、列車は停まっているだけだ。適当な時刻に進み始める。それなら、外に出てみてもいいのかもしれない。クリーデンスは扉を開ける。
そうしたらふたつの太陽が彼を迎えた。車内からは見えなかったそれらは、まもなく沈んでしまいそうでありながらも、永遠にそこにあるのかもしれないと思えるほどの安定感をもってそこにいた。
窓越しには見えない景色。どこまでも続く水鏡。興味を引くには十分だった。
先に進む前に、クリーデンスは後ろを振り返る。白い木でできた簡素な駅、そこに止まっている闇色の列車。
水面はその列車を、カラフルなものとして映していた。赤や緑のおもちゃのような機関車だ。水面の上には見慣れた真っ黒の列車。下には詰め合わせのキャンディみたいなポップな列車。心なしか今まで乗っていた黒い列車よりもかわいらしいフォルムをしている。
光の加減で色がついて見えるのだろう、とクリーデンスはそれを無視する。
太陽は見る間に沈んでいく。降りたときには中天に坐していたそれは、水平線に向かって近づいていく。鏡像も当然同じように動くから、ふたつの太陽距離は近づいていくといえる。
水平線に揃ったら、ひとつに見えるのかもしれない。
ふたつ太陽があれば、夕焼けも二倍となる。深い赤と青のグラデーション、水平線は明るい。フライパンに押し付けたバターのように太陽は溶けていく。水面に。実際水に溶けることなんてないのだけれども、太陽が溶けて流れていくのではないかと思われてしまう。こちら側の夕焼けと、あちら側の夕焼け。光が上方に向かっているのなら、朝焼けと呼ぶべきものなのかもしれない。もしもあれが別の世界だというのなら。上下対称なだけで、まったく関係がないというなら、偶然の一致だ。
暗くなりつつある空に、金星を見つけた。オレンジと黄色の中間の色をしていて、紫色の空を背景としている。夕暮れに見る金星を宵の明星というのだ、とどこかの本に書いてあった気がする。ならば、水面の上にあるのは宵の明星だろう。けれども、向こう側はどうなのだろうか。太陽が上に昇っていっているのだと考えれば、あれは夕焼けではなく、朝焼けであって、そうすれば、宵の明星ではなく、明けの明星となる。
同じ金星であるのに、ふたつの呼び名がある。
見られる時間帯によって、かつては違うものだと思われていたのかもしれない。明けの明星のほうが、心なしかふんわりとした光り方をしているような気がする。
宵の明星は悪魔だけれども、明けの明星は天使だ。クリーデンスはあの家で教えられたことを思い出す。悪魔の象徴は恐れるべきもので、しだからこそ倒さなくてはならない。天使の象徴は敬いながらも遠ざけなくてはならない。だから金星にはあまり近付いてはならない。そう教わってきた。
あれはどちらなのだろうか。
どちらがほんものの金星で、どちらが鏡像なのか。それによって天使の対か悪魔の対か変わってくる。
その推論のどちらもが間違っていて、あれは金星ではないのかもしれない。一番平和な解決とも言える、実は黄色がかった火星なのだ。火星は不和をもたらすからそれもよくない。
どこまで行けばよいのかわからなかった。誰かがいたら、そこで話せばよかった。何かがあれば、それを観察すればよかった。広すぎる水たまりと自分。ひとはいない。ひとでないものもいない。ひとがいるならばそれは自分だ。
ここにあるのは景色だけだ。足を阻害しない水だけだ。
だんだん暗くなっていく世界、振り返ると駅だけはある。
太陽は水平線に接しつつあった。ふたつの円が徐々に融合していく。その果てには夜が来るのかもしれない。金星のようなものは背景が暗くなるに従って明るさをましていく。点のように、恒星たちもおずおずと現れてくる。星座を作るには至らないまでも、さみしげな空に華を添えていく。
夜が来てしまうのか。それは悲しいことだ。悲しいことなのだろうか。ずっと夜を走り続ける列車は悲しかったか、クリーデンスは判断できずにいる。
夜が来るのではないかと、ずっと遠くだけを見ていたから、試しに自分の下を見てみると、そこに映るのは自分の姿ではなかった。
というよりは、人間の姿をしていない。手足もない、ぼんやりとした暗い塊だ。沈みゆくとしても太陽はまだまだ明るいのに、人間は影としてしか映してくれないのだろうか。
クリーデンスは水面を覗き込む。近づいたところであるのは影だけだ。自分の顔は見えない。水面に手を触れると、波が立つ。それだけだ。そうだ、この地面はどうなっているのだろうか。手を水底に近づけていく。石畳のような感触がある。なでたって消えやしない。なんだ、歩けるんだからそんなに気にすることはなかった。そう思って手を引き上げようとした瞬間、世界の底が抜けた。
水底は突然やわらかくなり、ゼリーのようにクリーデンスを引き込んだ。足場が崩れる。今まで立っていた地面が信用を失い、やわらかに溶けていく。
溺れる、体勢を立て直さなくては、と思う間もなく全身が水面の向こう側へと落下していった。
気がつくと、クリーデンスは浅い水面に倒れていた。空しか見えない。青い空だ。透明な空。おそらく、さっきまでと同じところだ。水は寒くないし、息も普通にできる。クリーデンスは起き上がる。水平線だ。
太陽は上に登っていっているようだった。
先程まで沈んでいた夕日が水面を突き抜けて先に、上に進んでいったかのように。朝焼けの果てにくぐもった青色が見える。金星――あるいはそのようなもの――は消えつつあった。
水面は相変わらず光を映している。ふたつの太陽。青い地平線。青い空。振り返ると、駅にはカラフルな列車が停まっている。水面の向こうにあった列車だ。
ここは先程までの駅ではない。自分の乗ってきた列車は、あれではないのだから。もっと暗い色をしていた。夜よりもなお暗くそこにあった。あれは違う。明るくて楽しげな配色をしている。
どうやったら元の場所に戻れるのだろうか。水面をもう一度手で触ってみても、やわらかくなる気配はない。固く閉ざされているだけだ。
クリーデンスはひとまず、あの列車に向かってみることとした。もしかしたら、誰かがいるのかもしれない。
こちら側は、あちら側よりもずいぶん明るかった。
先程まではあれが世界の輝きの上限だと思っていた。しかし、こちら側に来たらわかってしまった、あれは所詮、あの世界でありうる限りの輝きであると。
大気は一段と澄み渡り、水面はさらに強い光の太陽を反射して輝いている。目からうろこが落ちたようだった。今までは質の悪いサングラスを掛けて生活していたのかもしれないとすら思えた。
ガラスはきちんと拭いておかなくてはならない、部屋が暗くなるから。よくそう言われたものだった。少しでも曇りがあると叱責された。ほこりがあると太陽が我々に恵んでくれないからだとかいう。太陽の恵みをもたらす神への感謝が薄れてしまうのだとかいう。だから毎日窓を拭いていた。
それは正しかったのかもしれない。今まで間違った世界にいたのだ。曇ったガラスの世界。真っ暗な列車にいたから、忘れてしまったのだろうか。
そしてあれだ。あの列車だ。
シャドーラインは光を吸い込み、どこでも落ち着いた闇として存在していた。安定していて、自分を迎え入れてくれた。
しかしあのカラフルな列車は違う。あれは光を反射し、キラキラと無邪気にきらめいていた。おもちゃみたいだというのは変わらない。もしかしたらセルロイドでできているのかもしれない。木製で、長く使えるものなのかもしれない。使うとはいっても遊ばれるのだ。おもちゃというのはそのためにある。おもちゃはガラスケースの向こうにある。おもちゃは幸福な子供が幸福な親から買い与えられるものだ。
だから自分のものではない。
虹色の列車はおもちゃに似ていた。
どこまで近づいても、その列車はたちの悪いいたずらのように明るかった。
ようやく到着したこちら側の駅には、色とりどりのグミのような色をしていた。水面の向こうには、これまで乗っていた黒い列車がある。水面を蹴飛ばす。列車の影が揺らぐ。
真っ赤な機関車、それからピンク、イエロー、グリーン、ブルーの客車。もしこれがロンドンを走っていたら、誰もがジョークだと思うだろう。こんな色の列車があるわけがない。あるとしたら遊園地だ。ここはおそらく遊園地ではない。
これまで乗っていたあの列車に比べると、非現実感がある。真っ黒な列車も現実味がないけれども、これよりはましだ。これには誰か乗っているのだろうか。駅員はいないけれど、乗客や、作業員はいるんじゃないか。クリーデンスは扉を探す。しかし、どこからも乗りこめるような扉はない。いや、扉はあるのだ。扉のように彫り込まれているパーツはある。取手はある。ドアノブはある。
だけれども使えない。
それこそおもちゃのように、扉の形はしているけれど、開くことはない。叩いても引いてもだめだ。中に誰かがいたら、扉を開けてくれたっていいだろうに、そんなこともない。
こんなにキラキラしているのに――あるいはだからこそ――その列車はクリーデンスを拒んでいた。もしかしてこれは、列車ではなくて置物なのかもしれない。レールの上に置かれたもの。オブジェみたいなものだ。美術館には大理石像があったりするけれども、そのように、レールの上に配置された芸術品なのだ。
ほんものではないとすれば、あきらめも付くというものだ。ほんものであったときのことはとりあえず考えずにおく。
クリーデンスは一旦休憩することとした。駅の端に座る。駅には立て看板があって、『みかがみのかがみ』と名前が書いてある。鏡文字でもない。水面に映る看板はどうなのだろうかと様々な角度から見てみたけれど、ホームの存在に阻まれてあちら側でどうなっているのかは確認できなかった。
これは同じ駅なのだろうか。もしかして、自分が眠っている間にあの黒い列車は塗り替えられて、こんなものになってしまったのだろうか。グリッタやゼットはこの中にいるけれども、自分は入れないだけなのだろうか。
ふと浮かんだその考えを、クリーデンスは打ち消す。彼らはそんなことをするようなものではない。適当に希望を見せておいて、ちょうどいいところで放り出すようなことはしない。
そう信じている。
そうでなければ、駅に戻ってこようとなんてしなかっただろう。
線路はある。水の中に沈んでいるが、レールはある。これを右か左かに進めば、そのうちあの列車に戻れるのだろうか。そうでなければ、この前会ったあの列車保線員のような存在に会えるのだろうか。
駅に座って、線路を覗き込んでいるときに気づく。
この水面を覗き込んでいるのは自分なのだろうか。自分のはずだ。
影の側には自分がいる。怯えた青年が映っている。黒い服を着ていて、黒い髪と黒い瞳を持ち――クリーデンスそのものが映っている。
あちら側、シャドーラインがある側で水面を見たら、黒いもやが見えただけだったのに。
そして自分の手を見る。見る? クリーデンスはここではあの影でしかなかった。元の世界で見た、影の姿だ。黒いもやの集合体のような。今までどうやって歩いていただろうか。何を見ていたのだろうか。これは影でしかないのに、自分は影でしかないのに。こうやって存在した自分のことを思い出す。これも確かに自分なのだ。世界をすべて破壊できたあの頃のこと。ひとを傷つけることに抵抗のなかったあの頃のこと。すべては怒りで動いていた。悲しみもすべて怒りにしかなってくれなかった。それ以外の発露を知らなかったし、誰も教えてくれなかった。
誰もこの自分を見ようとはしなかった。
魔法の杖を思い出す。光は彼を消そうとばかりしていた。声を思い出す。説得しようとした声。
そして自分をはねつけた声。
そもそも誰も傷つけたくなんてなかったんだ、なのに、誰かはここにやってこない。だってこれは影だから。影は物体がなくしては存在しない。存在しないはずなのに、ここに存在してしまった。仕方ないって誰かが言ってくれただろうか。自分はどう言いたかったのだろうか、霧に考えることはできない。
雨が降り始める。
太陽は見える。青空もある。
自分がどうやって見ているかもわからない。水面は濁っているからあちら側の自分が見ているのかどうかすらわからない。しかしこれは確かに雨だ。天から降りゆく水滴だ。
それと同時に、カラフルな列車が動き出す。汽笛の音がする。白い服を着た車掌が安全確認をしているのがぼんやりと見える。声がしている。ような気がする。列車は煙突から蒸気を出して走っていく。先程まであんなに明るかったのに、雨が降り始めてからはすべてがあいまいだ。これはほんものだったのか。動いているから。じゃあ自分も乗せてくれ。そう叫んだのかもしれない。
雨は影を通り抜ける。手を振ることはできない。呼びかけることもできない。手を降っているつもりではいる。もし自分に手があったとするのならば。あの列車に自分は見えているのだろうか。線路に沿って走り出す。あの赤い蒸気機関車。嘘みたいにビビットなカラーリングの列車たち。
雨は霧を水に溶かしていく。クリーデンスは自らの意識が薄れていくのを感じる。眠りに落ちる前の感覚に似ている。眠るときは明日の朝目覚めることが確実だから眠れるのだ。今は違う。溶けていった先になにがあるのかは予想がつかない。このまま雨を見ていたい。雨を見ていることすらできない。
またどこに行くのだろうか。
せめてここではなければよいと思う。
雨だ。
雨を感じられる肌を持っている。冷たさが彼と世界の輪郭線を作り出す。
境界線があるのだ。世界と。クリーデンスは目を覚ます。またもや水だ。しかしもう水は鏡とはならない。雨が降っているからだ。雨が降りしきる水面は、もはやものを映すことができない。まっさらな青空から降る雨は、水面を曇らせてしまうからだ。太陽も光っている。しかし水面には映らない。
たったひとつの太陽は、空気をあたためるには足りない。
ましてや雨の中なのだ。
あの時降った、春の光の灯った雨とは違う。ロンドンでうっすらと降りつづける霧との連続体とも違う。ただ、空を地上に縫い付けていくような雨だ。
辺りを見回す。駅を見つける。まだ列車は待ってくれている。
黒い列車だ。
クリーデンスの下には相変わらず不定形の影がある。その影さえも、雨はあいまいにしてしまう。
雨は冷たかった。ただの水とは違う。肌を叩いていく。雨粒の一つ一つがクリーデンスの身体に当たり、間違いようもなく表面から冷やしていく。あの水面はやさしかったけれども、これは身体を濡らすものだ。この前まであんなに何物でもないような雰囲気を醸し出していたのに、常温のガラスみたいだったのに、もうただの水だ。
足は重い。だけれども、駅まで帰り着かなくてはならない。もしここで倒れてしまったら、ずっとここにいることになる。そうでなければ、またあの向こう側の世界に戻ってしまうこととなる。
現実離れした鮮やかな空、現実離れかどうかすらわからない列車、乗ることはできない列車。
影でしかない自分、乗れない列車、そんな世界にいたくはなかった。
じゃあどこに行けばよいのだろうか、考えているうちに駅に着く。白い木で組まれた簡素な足場。そんなものであっても、列車が停まっていれば、駅となる。列車には当然扉がついていて、手を伸ばせば開けることができる。
「ただいま」
扉は開く。いつものように。黒い列車の扉は開く。
「まあ、外はそんなに降っていたのね」
びしょ濡れのクリーデンスを見て、グリッタがタオルを持ってきてくれた。もうすぐあたたかい紅茶が来ます、だからもう少し待っていてくださいね、とグリッタは言う。
タオルはあたたかかった。こんなにふわふわとしたタオルに感謝したことはなかった。寒かった、あの夜のように。いくつかあったあの夜のように。あの水はなにもクリーデンスに何も与えなかったが、このタオルはひとをあたためてくれるのであった。それからようやく、自分が空腹であることに気づいた。
甘い香りのする紅茶だった。普段のものとは少し違う。バニラのような甘さを持っており、ミルクを入れるとちょうどいい具合に渋みがなくなってクリアな味となる。小さな砂糖菓子も出てきた。銀色の皿の上で、白、紫、黄色、緑……さまざまな色がまたたいている。丸っこいトゲが付いているけれども、決してひとを傷つけないそれらは、口の中でしゃりしゃりと溶けていった。純粋な甘さが広がる。グリッタの言うことにはそれは金平糖なのだという。金よりも星に似ている。
それから、窓の外には先程とは違う景色があることに気づく。もうとっくに、列車は出発していたのだ。地上は太陽を反射して光っている。雨が降っていたはずなのに、雲ひとつなかった。
グリッタは変わらずクリーデンスの向かいの席に座っていた。彼女はどうしてここにいてくれるんだろうか。この連結された車両のうちに、客室なんていくらでもあるはずで、それでもなお、クリーデンスと同じところにいることが多かった。
そんなことを考えていると、黒い影が現れる。クリーデンスの影ではない。影は人の形をとり、見知った顔を作り出す。ゼットはいつも通りの、なにかを諦めたかのような笑顔でそこにいた。
「どうだった、そこは」
クリーデンスはこの駅で遭遇した出来事について話した。水面のこと、太陽のこと、金星のこと。反転した向こう側と――雨のことだ。
「あっち側には行かなかったのか」
「あちらのぼくは、ぼんやりとした暗い影だった」
「キラキラしていただろう、だって」
確かにあちら側はキラキラとしていた。黒色を基調としたこの列車の中よりももっと。雨が降る前の水面よりもはるかに。世界そのものが光を放っているかのような地平線。濁りのない水で構成された完全性。
しかし、それらはクリーデンスにとって希求力のあるものではなかった。
「まあ、輝いてはいたけれども――あれはぼくのいるところじゃないだろう」
「それなら、ろうそくの炎は好きか?」
ゼットはテーブルの上のろうそくを指差す。ろうそくが短くなると、消える前に必ずクローズが交換してくれるため、どのテーブルにもかならず炎がまたたいている。あたたかみのある、黄色の炎だ。たまに、紫色のものもある。
「嫌いじゃない」
「おれも嫌いじゃない」
「雨が降ってきたし」
「雨か」
あの雨のせいでこんなに濡れてしまったのであった。水面だけではああはならなかっただろう。靴が濡れるだけで済んだはずだ。
「雨というなら、もしかして」
クリーデンスはゼットの言を遮る。
「ぼくしかいなかった」
あの保線員がいたらよかったけれども、おそらく彼の雨ではなかった。そうだったらもっとやさしかったはずだ。あんなに水と太陽があったのに虹の欠片もなかった。一番虹に似ているものはあのカラフルな列車だった。そういえば虹野明も鮮やかなオレンジ色の列車と共に作業をしていた。ゼットも彼に会いたかったのだろうか。
そういえば、とクリーデンスは気にかかっていたことを尋ねる。
「水面の向こう側のゼットは、どんな姿をしているんだろうか」
彼もこの駅に来たことがあるようなことを言っていた。あちら側のゼットもまたぼんやりとした影だったりするのだろうか。この列車に乗っているときのような。
しかし、ゼットはきちんと応えてはくれなかった。
「さあな」
「聞かないほうがよかったかな」
「どの姿であっても、どうせおれなんだよ」
クリーデンスにとって、あの影は自分の姿ではなかった。自分に巣食ったなにものかではあるが、自分として認めるには不自由すぎる身体をしていた。生まれた頃はきっとあれではなかっただろう。人間として育てられたら普通に生きてこられたし、ちゃんと誰かが迎えに来たら街なんて壊さなかったはずだ。あのような破壊をするのが自分であるとは思いたくなかったし、実際自分ではなかった。
そのはずだった。
「どこに行くかは、お前が決められる。決めなくてもいい」
それだけ言い残して、ゼットは立ち去る。
グリッタいわく、時刻表はおろか、駅名のリストすらないのだという。
「じゃあ、どうやって行き先を決めるんだ」
「烈車は自ずと知っておりますし、名前があれば大丈夫ですよ」
「行きたいところがあるって言えば、この列車はきちんとそこに着けるだろうか」
「ええ、もちろん。シャドーラインの駅だって、レインボーラインの駅だって、名前さえわかればそこに、わたしたちは向かいます」
そういえば今までに行ったすべての駅には違う名前がついていた。ロンドンにも似た名前の駅はあったが、少し異なっていた。
「終着駅は」
「ここが終わり、というひとはいます。だけれども、ここで終わり、という駅はありません」
駅によって区分される無限に続く駅を想像する。線路はたまに分岐し、合流し、天を走り、子供たちはそれを見上げている。なんなら空を追い越して、宇宙にだって行けて、他の星にも駅がある。それは、地球が丸く、限りがあるということに比べたらよほど希望の持てる話だった。
「グリッタには行きたい場所があるの?」
「もう辿り着いております」
ここです。ここがわたしたちの居場所なのです。
グリッタは初めて出会ったときと同じように、誇らしげに言う。
シャドーラインこそが自らのいるべき場所で、居場所なのだと。
彼女が行くべき場所がもしここだとするならば、自分が行くべき場所はどこなのだろうか。
向こう側ではない。向こう側は自分を拒絶するところだった。出口があるようでない世界。クリーデンスを置いていってしまう列車のある世界。
それならば水面のこちら側だろうか、そちらにも雨が降ったのだった。雨が降ったら濡れてしまう。いくらその後に太陽が出てきて乾かしてくれるからと行って、雨が降るという事実は変わらない。
今までの駅に、ここにずっといられたらよかったのにと思える場所はあっただろうか。そんなものはひとつもなかった。
強いて言うならば、ここにずっといたかった。ゼットもここがホームなのだと言っていた。ホームがあればどこかに行かなくても済むのだろうか。
「もしも、ぼくがずっとここにいたいと言うのならば?」
「ええ、そうね、きっとわたしたちは、それを叶えることができる」
「じゃあ、そうするよ。ぼくはきっと、ここで眠るんだ」
眠れる場所が家だとするならば、今のクリーデンスにとってこの列車は家であるといって差し支えがなかった。さまざまな駅に行き、降りて、発車するまでに戻ってくる。カレンダーはなかったから、何日経っても一週間くらいのようだった。寝て起きたら一日ということにして、記録しようかとも思ったけれども、そんなことをしてもあまり意味のないことなのではないかと思ってしまった。
モーニングとランチとディナーがあり、たまにそこにティータイムが加わる日常、それだけがぼんやりと過ぎていった。グリッタはだいたい客車にいたし、クローズは必要に応じて現れた。
しかし、それからずっと、ゼットは現れなかった。彼の現れることが多い、あの部屋をこっそり覗いても、中は真っ暗だった。
グリッタにゼットがどうしているのかについて尋ねても、何も教えてくれなかった。
「陛下にも何かお考えがあるのでしょう」
彼女は紅茶を飲み、編み物をし、刺繍をし、クリーデンスのはなしを聞いてくれた。
クリーデンスは彼女から刺繍を習った。グリッタはハンカチくらいの大きさの布に細かな刺繍を施していた。多くの図案があるようで、簡単なものから始めることとした。最初は四角や丸などの抽象的な図案から刺していったが、最終的には白い布に白の糸で、小さなバラを描き出すところまでできた。イニシャルを添えて。
「ハンカチを作るなんて、はじめてだ」
「ええ、お上手ですよ」
グリッタはというと、刺繍のみならず、ハンカチの周りを彩るレース編みも自分でこなすのでかなわない。
クローズたちは何も言わずに、自分たちに付き従ってくれていた。
いろいろな駅があった。
何度か、同じ駅に行きたいと思うこともあった。ひとつのひまわりが咲き続ける星、カメが世界のすべてを背負う世界、小さな湖を守り続けるネズミのいる森。地面にひとつ穴が空いていて、中に入ると万華鏡のような図案がくるくると回る土地、十回に一回しかマッチで火がつけられないほど可燃性が失われた街、発した言葉が端から現実になっていくからろくにおしゃべりもできない広場。
それらであっても、二回も行ったら、満足してしまった。駅名を覚えて、ここに行きたいといえば、そこに行ける。だけれども、そこに永住するような気持ちにはならなかった。ここにいたって、また列車が迎えに来る保証なんてないし、そこが自分が存在するべき場所だなんて、言えるようなところではなかった。
なぜならそれらには、すでに主がいるからだ。そこに満足して暮らすひとびと。それに交じるようなことはしたくなかった。自分がいなくたってそれらの世界は完結している。完成したパズルにピースを加えることはできない。
反対に、恐ろしい場所もいくらでもあった。その度にあの鏡を思い出す。鏡の向こうに映った自分のこと、オブスキュラス、黒い霧に似てその実すべてを破壊するもの。誰かと握手をしようにも腕のない身体。
自らの本質はオブスキュラスなのではないのだろうかと。あれが潜んでいる以上、どこに行ったって無駄なんじゃないかと。
快く迎え入れられる旅人と、拒絶されるべき世界の敵。自分は常にどちらかであったし、だとすれば駅がどのようなものであっても関係がないのであった。
それらはすべてクリーデンスの存在するべき場所ではなかった。
だから行くべき場所を決めたかった。グリッタに何度もそのことについて相談した。どうにかして駅を探したいのだと。自分が降りてもいいと思えるような駅。その名前を知りたいのだと。
いつもだったら明るく、しかし慎ましやかに答えてくれる彼女は、このことになると話を濁すばかりだった。
「どうすれば、行く駅を決められる?」
「正しい駅名を述べられれば」
その正しい駅名がわからないから、サイコロでも転がしたように行き先を決める。駅名リストがなかったとしても、適当な単語を組み合わせれば偶然それが名前になることがある。
もしくは、自動的に列車が指し示す場所へ行く。どこで分岐しているのか、はたまた一本道なのかはクリーデンスの知るところではなかったが、何も言わなくたって、とりあえず時間さえ経過すれば、どこかしらの駅には到着する。
そこがどんな駅であろうとも、クリーデンスは一度は降りることにしていた。もし降りなかった駅が自らの降りるべき駅で、それを寝過ごしてしまったとすれば、それほど悲しいことはないからだ。
そしてクリーデンスは『みかがみのかがみ』へ戻ってきた。望んではいない。辿り着いただけだ。
ここが自分の駅ではないことはわかっていた。
それでも降りた。
駅は何も変わっていなかった。簡素な木製の駅、看板、そして水面。すべてを映し出し、本質を暴き立てる、透明な鏡。
クリーデンスは水面を見つめる。ふたつめの太陽。影。
「きみがオブスキュラス?」
オブスキュラスに話しかけようとしたのはこれが初めてだった。分離されていないのだから、当然であるとも言えるが。影であるときの自分が、冷静に話をできる状況ではないとわかっていたし。コントロールできるようなものではない。そうできたら、過去は変わったかもしれないけれど、ここにあるのは現在だけだ。
そして影は答えない。そこにあるだけだ。
「そっち側に行ったら話せる?」
影は答えない。動きもしない。不定形でふわふわと、流れず薄まらずそこにある。水面に手を伸ばす。今度は引っ張られたりしない。水面が乱されるだけだ。水面に映ったそれがかき回されるだけだ。そいつは暗雲に似ていた。雨が降る直前のくぐもった色をした雲。実際空には雲ひとつないけれど。
これは水面、本質でも自分でもない。
これは鏡。本質だし自分そのもの。
どちらなのだろう。
「でもどうせきみは、こちらには来られない」
黒い煙に意思があるようには思えない。オブスキュラスと呼ばれたあれよりも、幾分おとなしい。どれだけ何を言ったって、怒りもしないからだ。怒らないし暴れない。こうやって見ていればとても安全だ。何も知らない者が見たら、ただの自分の影だって思えるくらいには。
だけれども、クリーデンスにとってこれはオブスキュラスであった。完全に自らそのものではないにせよ、自らの一部。
望まれなかった人間のための、望まれない怪物。誰もが後者を自分と呼んだ。クリーデンスの名前を呼んでくれたひとは、オブスキュラスが憎むこととなった。結果として更地になった。なにもかもが。
「――ここにいるのはぼくだから」
クリーデンスは水面に手を伸ばす。鏡は揺らめき、影は語らない。これは水面。水とその他を分ける境界。この程度の差しかないのだ。自分と、あの怪物には。容易に反転しうる様相でしかないもの、自らではないがまったくの他者とも言い切れないもの。
どちらが自分の本質なのか。
どちらでも構わないのかもしれない。
だったら、行く場所は、もうひとつしかない。
クリーデンスは列車に戻った。グリッタが刺繍をして待っていた。彼女はクローズを下がらせる。
「今度は雨が降らなかったのですね」
「ようやくわかった」
そう言うと、グリッタは朝露のように微笑んだ。
「正しい駅ですか」
「正しいかどうかはわからないけれど、名前はわかる」
「行きたいところが見つかりましたか?」
グリッタは刺繍の手を止める。星を宿した瞳でクリーデンスを見る。
「そうだね、ここは安全だ。きみたちのことも、信頼できる。だけれども、どうしてだろう、わからないんだ。ぼくも。どうして帰りたいと思うだなんて。どうしてここにいてはならないと――いや、もうここにいなくてもいいんだなんて、思えるのかも」
そう、もうここにはいられないのだ。いられないというわけではない。行きたいところなのかもわからない。その駅で降りなくてはならない。どこかの駅で。
「だから、ぼくは」
クリーデンスは行き先としてひとつの名前を告げる。
正しく受け取った列車は、次の行き先として、その名称が掲示される。
列車は動き出し、空を駆け、地を行き、目的地へと走りはじめる。
「ここからどのくらいかかるんだろう。ぼくらはもう、かなり遠くまで来たんじゃないかと。何度寝て、何度起きたことだろう。何度ここから外に出て、戻ってきただろう。ぜんぶが昨日みたいで、もう何年も経ったようで」
「行くべき場所へは、行くべき時間で着くように。そうなっているんですよ。ここは」
「行くべき時間って、どのくらい?」
「だいたい、とっておきの紅茶を飲み終わるくらい」
そしてグリッタはクローズに『とっておき』を頼んだ。いわく、これはストレートで飲むべきなのだという。貝殻を模した形のカップに紅茶が注がれる。ふわりと広がる芳香は、春の野原のように涼しげで、確かにこれには何も入れないほうがよいのだろうとクリーデンスは思った。カップは微かに透けており、よくできたガラス細工のようだけれども、口当たりはたしかに磁器なのだ。
先のグリッタの言は正しく、クリーデンスがポット一杯の紅茶を飲み終わる頃に、列車は減速を始めた。急ブレーキを掛けるようなことはしない。汽笛の音がする。しだいに窓の外は明るくなってくる。夜を抜け出した証拠だ。
そうして窓の外にあるのは見知った景色だ。ひとは多く、柱だらけの、おおよそ快適とは言えない建造物だ。
クリーデンスは荷物をまとめていた。トランクケースが必要なほど多くのものは持ち込んでいなかった。せいぜい大きめのカバンくらいだ。降りようとしたときに、ゼットが暗がりから現れた。
「これか、お前の駅は」
「多分」
「多分、で降りられるか?」
ゼットは問う。
クリーデンスは答える。
「きみたちがいるんだろう、夜には。すべての影には。あるいは空には」
「ああ、いつでも。曇りの空を見てみろ、渡り鳥の跡を探せ、ショーウィンドウに映る影、日の昇る前の暗がり、おれたちはそこにいるだろう」
彼は誇らしげだった。その場所に立つことに。その言葉を贈ることに。
クリーデンスは想像する。今までの闇の中すべてに、彼らがいたならばどれほど心強かっただろうかと。何も知らない頃は、恐れるしかなかった。今だって積極的に関わりたくはない。
だけれども。
光の輪郭線として存在する数多の闇を知った今は、違う。いや、それらの存在意義は輪郭線になるだけなのではないのだ。それ自体が、独自の在り方をしている。偶然にも、輪郭線として働くこととなる。夜の闇と空の星には隔たりがあるのにもかかわらず、互いが互いを引き立てているように。
タラップを降りる。途中までクローズが荷物を持ってくれた。そう大きくはないトランクケース。コートを羽織って、もう長いこと乗っていたような気がする列車を降りる。
窓からグリッタが手を振っている。ゼットが自らの部屋に戻っていくのが見える。
「きみは、もしかして」
そのときにはもう扉は閉まっており、窓にも彼の姿はなかった。そのかわりに黒いもやの残滓があった。わずかに駅に差し込む日光にまぎれて、消えてしまいそうなもの。
列車は走り出す。クリーデンスはホームにとどまる。歩き出す。迷うべき時期はもう過ぎていた。
キングス・クロス駅は人でごった返している。
そのうちのひとりだけが黒い列車を見送った。空を飛ぶ列車が見えないだなんて、彼らはどれほど忙しいのだろう。
クリーデンスは黒い切符を持っている。コートのポケットにそれをしまう。もう片方のポケットには、自らの刺した白のバラの刺繍の横に、紫色のパンジーのモチーフが入れられたハンカチが入っているのだが、彼はまだそれを知らない。
切符売り場に並ぼうとして、さて、たくさんある目的地のうちどれにすればよいのだろうか、と思う。途中で降り立っていい。ここには数え切れないほどの可能性がある。
知っている名前も知らない名前もある。そのどれかを選んで、乗り込めば、それでどこかに到着する。
いずれにせよ、この世界に降り立つことは決めたのだ。自分がもともといた世界。空の上ではなく、地の下でなく、地上だ。魔法があるのかどうかも定かではない世界。奇跡があまり起こりそうにない世界。結局、どこに行けばよいのかはわからないけれども。
しかし、今のクリーデンスは理解している。この世界でだけ生きていかなくてはならないのではないということを。夜の闇に彼らがいることを。それは深い夜の中にいることを。現れたり、消えたりしながら、星々の背景にあることを。
どこかに行きたいと願えば、行けることを。
クリーデンスは時刻表を眺める。青い文字で書かれたひとつの地名が目に入る。かつて本の中で見た名前だ。本の中でしか知らない名前だけれども、その偶然に頼るのも、悪くはないと思えた。
もう夜を、暗闇を、恐れる必要はない。それらの向こうには彼らがいる。
この世界は長いこと滞在時間のある停車駅のひとつだ。いくつもの駅を経てここまできた今ならわかる。
いつか、またあの列車に乗り、降りるときが来るのだろう。
そのときにまたたく星の色を知っている。
2019-07-07
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