一撃ちで倒してくれと言ったのに、どうして僕だけ残して行ったのか。
埃塗れのコラント、穴の開いた床、流れている血液は一人分ではあるまい。兵士の死体と学生の死体。最後にきみの伸ばした左手は、僕の右手を掴んでいた。
きみは壁にもたれかかったまま息絶えていた。ベストは原型を留めていなく、それに縫い込まれた金糸は赤黒く変色し、それでもきみは美しかった。血に塗れた白い肌は、銃痕を除いて傷ひとつなく、きみの神性を失わせることをしなかった。
置いて行かれた、だけれども、失望はしなかった。いつもきみは、僕の前にいたからだ。最後に追いついたことのほうが、偶然であったのだ。あの時のことは霞がかかったようでろくな記憶が無い。確かに覚えているのは、きみが最後に微笑みかけてくれたことだけだ。それすらも、自らの願望が生み出した幻のように思われた。
繋いでいた手を、慎重に離した。それから体をゆっくりと座らせた。きみの手は、僕の手を握った時のままの形で床に落ちた。やわらかい音がする。その身体が大理石でできていないことなんて知っているのに、意外なことだと感じた。青みがかった鉱物質の光を湛えていた、その瞳をそっと閉じる。
きみを背負って、ぼろぼろになって壊れそうな階段を下った。意識を失った身体というのは通例重たいものだが、きみの重さはせいぜい一杯に入った葡萄酒の瓶五本くらいだった。魂の質量のほうがよほど、きみの身体よりも高かったのだろう。
一階にはずらりと、かつての僕らの仲間たちが並べられている。コンブフェール、クールフェーラック、ジョリ、レーグル、フイイ。それからミュザンに時折集っていたくらいの者達。少女。小さなガブローシュも、その列に混じっていた。
誰も彼も、幸せそうでも不幸そうでもなかった。
バリケードの材料に使われて、大砲で蹂躙されたコラントは、ほぼ骨組みしか残っていない。この柱はバオレルが折りかけた柱だったろうか。プルーヴェールが即興詩を書き付けた梁は落ちているし、皿も酒瓶も割れて散乱している。
外に出ると、石畳のせいで残った血を、女達が雑巾で掃除していた。幾人かの子供も桶を持って手伝っている。大雨の後のようだ、その色が赤でさえなければ。噎せ返るような臭いに思わず鼻を塞ぎたくなったが、両手がふさがっている以上無理というものだった。
僕がコラントから出てきたことに気付いて、ひとりの女性が桶を置いて近寄ってきた。耳打ちされて、「何もできなかったから」と渡されたのは、穀物でも入っていたのだろうと思しき麻袋と、一枚の紙切れ。紙には簡略化された街道名と、矢印が書いてあった。「使いなさい、逃げて」
言われるまで自分の身を省みようとも思わなかったが、この姿は死体を担いだ殺人者に見えなくもない。少しばかりの礼をして、僕は天使の亡骸を袋詰にする。手足を折り曲げようとすると、関節が硬くて動かしにくかった。赤子のように丸めて、麻袋を被せる。
路地を一本出れば、昨日のことなど何も知らないような素振りを見せる街があった。市は立つし金は舞う。大きすぎる袋を持って歩いている僕のことを、民衆は見て見ぬふりをした。ぶつかったところで目を逸らすだけだった。
貰った地図の道を辿ると、確かにそこには廃屋があった。住むにはいささか心もとなさそうではあるが、きみのことをきちんと埋葬する時間さえ稼げれば、それで十分だ。その時はそう思っていた。
✕ ✕ ✕
彼は「それ」を飾ることをもうひとつの日課としている。
暖かい季節には花で。寒くなり、雪が降り、花が咲かなくなったら、適当な葉を見繕うのだ。植物が足りなくなって困ることはなかった。奇妙なことに、その傍に存在する植物は、切り離されていたとしても枯れない。天使の肉体が不変であるのと同様に。
死体が腐敗しないということに気付いたのは、この小屋に移ってから三日程経った頃だった。穴を掘り、埋葬する前に遺体を清掃しようと、身体を湿らせた布で拭った。九発の弾丸に貫かれた箇所以外には傷ひとつなく、陶磁の肌はそのままに蘇った。
リュクサンブールの葉が落ちる頃になっても、死体に変化はなかった。生前と同じみずみずしさを湛えながらも動くことがないだけだった。
彼は神を信じなかったので、それをいわゆる奇跡と見做すことはしなかった。ただ、現実であることは認めざるを得なかった。
時間もあるので、簡易的な庭も作った。庭仕事をするのは嫌いではなかった。価値のあるものなど何もない人間社会に接するよりはまだ、自然を相手にする方が有益だと感じられたからだ。価値がないどころか、害をもたらす人間よりずっと、彼を傷つけない存在とともにあることを選んだのだった。
土を耕し、肥料を撒き、天使に見合う花であればこれしかないであろうと薔薇を植えた。燃える情熱の色、赤がふさわしいであろうと、赤いものばかりを。赤の中にも様々な赤がある。焔のような、恋情のような、夕焼けのような、革命のような。
ミダスの庭園が客人たちを歓待するためのものであったならば、彼の薔薇たちはただひとりを賛美するためだけに存在した。すなわちは変わることのない宝物を、落ちてきた時と変わらぬ供物を。
寝台の花は増える一方で、減ることはない。いつか部屋に溢れて、家ごと埋もれてしまえばいいのではないかと、彼は夢想している。ヘリオガバルスの薔薇処刑がごとく甘美な死を自らに課すということ。華やかな枯れることのない花々に埋もれてゆくアポロンというのは、なかなか魅力的な誘いであった。家の方が先に限界を迎えて朽ち果てる時、漸く花々は大地に解放され、風に舞い、中心には永遠の美しさを保った身体がある。
彼のどんな空想にも関わらず、寝台の上の天使はあらゆる沈黙を守っていた。
✕ ✕ ✕
僕がミュザンの片隅で、クールフェーラックと酒を飲んでいたら、きみが僕の瓶を取り上げた。
「グランテール、いい加減真面目に会議に参加したらどうだ」
「そいつは僕の燃料なんだから、むしろなくっちゃ困るってものだ」
瓶をきみの手から奪い返すと、きみはもう知らないとばかりに、不機嫌そうな顔をして去っていき、コンブフェールとの憲法談義に戻った。
何を考えること無くそちらの方を見つめていると、クールフェーラックが、
「馬鹿だなグランテール。きみも、我らが気高き首領の考えることくらい解っているだろう。あいつの潔癖はきみの頭を酒精に浪費させることを許しやしないよ。役に立って見せたらどうだい? きみは無意味なくらい口なら立つし酒さえ止めれば大したものだろうよ。オレステスに対するピュラデスくらいにはあいつに付き従っているし、アルセストの厳格を見捨てぬフィラントの如く彼の傍にいる。何なら画才を活かしたっていい。毎日ここまでわざわざ見下されに来ることもあるまい、好いているならなおさらだ」
幾分高く僕のことを買ってくれている友人に、
「解ってないなクールフェーラック、役に立つ僕なんぞ、彼は必要としていないだろう。優秀で使える奴らなんか、ここには大勢いるからな。僕には別の働きがあるんだ。彼の素晴らしさを感得する働きがね。美しさに奉仕が必要だろうか、それはただそこにあるだけで十分であり、何も付け加えることなどないじゃないか。つまり僕にするべきことなど何もない、友と酒を酌み交わす事以外は何も。それに僕は彼を好いてはいないさ、信仰してはいるが」
そう言うと、彼は僕の杯に葡萄酒を注いで答えた。
「やれやれ。きみも牧師さんの仲間ということか。それとも太陽に灼かれることを恐れるイカロスか。まあ、それならそれで、僕は止めはしないが」
ちょうど皿を回収しに来たルイゾンに、もう二本と頼んだら、クールフェーラックはやっぱりお前はそれでなくっちゃ、と笑った。
✕ ✕ ✕
彼は酒を飲むことを止めている。
逃げるべき現実が存在しないし、理想ならばこの手にあるが故に。日々の仕事も、生活の困窮もどこか遠い夢の国の出来事のようにしか思えなかったし、固かったはずの地面は、雲を踏むようであった。彼が失ったのは他の仲間達とは違って、実感であって、事実ではなかった。
その一方で部屋の寝台に厳然と鎮座するそれは、彼を現世に留めおくのに十分なほどの現実感でもって、世界の中心に横たわっていた。天使がこの世界にある限り、たとえ空虚な生であろうとも、生きなくてはならない。彼はそう思っている。己がいなくてはこの大理石は捨て置かれるのだから。彼を見捨てた世界に取り残されるのだから。
なんという献身であろうか。その仕える先は既に無く、最初から命令などないにも関わらず、彼は使命を感得して生を永らえているのだ。
一本だけ所蔵している葡萄酒は、何年か前に市場で衝動的に買ってしまった、一八三二年のものだ。飲む気なんてしないのに、気さくな店主と、その年号に惹かれてしまったのであった。値切るのもすっかり忘れて、所持金を考えることもなく、久しぶりに気前のいい買い物をしたのであった。緑色の瓶に入ったその酒は、本棚の横に立ててある。
彼はその横から手記を取り出し、その日の分を書き始める。
✕ ✕ ✕
リシュフーの連中を焚きつけるだなんてまっぴらだ、と思った。意欲が全くない人々に、何を言っても無駄だろう。そもそもこちらに、説得する気などないのだ。
頼まれたならそのくらいはする。無意味なら、やらない。無意味なことをすることほど無意味なことはないし、実際僕はそれを好んでいたりするのだが、この行動が依頼してきた誰かにとっては意味のあることなのだとすれば、話は別だ。
だから彼らとドミノにでも興じることにした。少なくとも僕たちの心象は下げないはずで、首領の意に反しはしないことだと考えたのだった。いつにも増してさっぱり勝てなかったが、勝負は時の運、といったところだろう。
その帰り、僕はマリウスを見つけた。クールフェーラックが紹介してきた青年は、気弱そうだったが急に皇帝について話し始めたり、コンブフェールに一刀両断されたり、それでいてまたミュザンにやってくるし、妙なやつだ。
声は掛けずにおいた。年頃の少女と一緒にいたからだ。これが噂の、と思った。大きな帽子のつばに隠れて顔はよく見えなかったが、ふわふわとした金髪と人形のような腕が見えたら、それで十分だった。下町には少々不釣り合いな恰好をしたふたりは、いつの間にか視界から消えていった。
ずっと年下になのにも関わらず、こいつもどこかで、何か諦めてきたんだろう、そう感じさせる陰を、極稀にマリウスの中に見つけることがあった。
だから、ほんとうに、嬉しかったのだ。彼が恋に落ちて、愛にうつつを抜かして、軽やかに魂を飛翔させるのが。
クールフェーラックは何度となく「あいつはひとりの女に入れ込み過ぎだよ。もっと軽やかに生きるべきなんだ。女の子は蝶や花と一緒で、収集すべきものであり、身を捧げて共に生きるものではないだろう」だなんて言っていたけれども。
革命なんか忘れてしまって、彼女の元へ行くのが、何よりも楽しいことだと思いこむこと。
ふたりだけの充足した、星々の楽園にいつまでも足を浸すこと。
そんなことは何もかも、どこかの誰かには、望むべくもないことだったから。
✕ ✕ ✕
彼は一度だけ、旧友とすれ違ったことがある。
死体の列に加わらなかった、その名前をマリユスという。
謝肉祭の最終日であった。パリは騒乱でも起きる前のように浮き足立っていて、しかし前者と違うのは、皆武器ではなく仮装を身につけて、騒ぎそのものを楽しんでいるというところだ。国王に道化に聖職者に、権威を茶化した装いをする市民の列が、これまた雑多な楽団を引き連れてバスティーユの周りを行進する。
彼はその行列には加わらず、かと言って逆らわずに歩いていたが、反対側からもうひとつ何やら仰々しい団体が向かってきていた。近頃では珍しい、壮麗な婚礼の馬車が二台も街道を走っている。先頭の馬車の窓からちらりと、淡い白に縁取られたヴェールが覗く。おそらく金持ちの結婚であろう。
彼はその次の馬車に目を留める。見間違いではないだろう、黒い上下に身を包み、窓縁に手を掛け外をうち眺め、瞳に映るは夢か現か。一瞬ではあったが、それはマリユスであった、と彼は確信した。
では「愛しのユルシュール」の方は、先の彼女のことであったのだろう。以前見かけた時よりもずっと、美しく、幸せそうに思われた。
馬車の通った後には、ばら撒かれたフリージアだけが残っている。
✕ ✕ ✕
ジャン・プルーヴェールが拾ってきた雀の子は、僕たちにささやかな騒乱をもたらした。
「道端に落ちていたんだけど」
定例会に数分遅れてきた彼は、掌の上の小鳥を見せた。
「羽が折れていて飛べないみたいだ」
確かに右の羽が、妙な方向に曲がっていて、これはどうしたって飛べない。それなのにばたばたと羽を動かしているのが、どことなく切なげであった。
僕は救護班の数に入れられていなく(プルーヴェールもまっとうな判断をするものだ!)よってちいちいと鳴く雀を見ているのみであった。
「そんなの放っておけばいいじゃないか、そのうち勝手に空でも飛ぶさ」
バオレルが冗談めかして言いながら雀をプルーヴェールからつまみ上げようとすると、
「駄目だよ、だって震えてる」
プルーヴェールが雀をバオレルから隠した。あ、これもしかして本気の展開? と尚も事態に重要性を見出さないバオレルをコンブフェールがたしなめている。
何が起こっているのかとレーグルが、
「ねえ見せてみてよ」
受け取ろうとしたら、雀は突然暴れだしてその掌から落下しそうになった。
「ほらきみは危なっかしいから」
床に落ちるすれすれで、ジョリが捕まえた。動物に関する本を探していたコンブフェールが、情報を書庫の内に見つけるのは諦めたのだろう、小鳥を覗きこむ。
「残念ながら僕には、鳥のことはよく解らない。まあ人間の手当の方法から鑑みるに、木でも当てておけばいいんじゃないかな」
「それなら余った木材で作っておこうか」
扇作りの内職をここでもしていたフイイが、こちらも向かずに応えた。興味のないことには冷淡なのが、彼の常態である。
しかしフイイは瞬く間に、それらしいものを作ってきたし、コンブフェールが添え木をすると、雀の羽は固定された。
そうこうしている間に、マリユスが外から小枝を集めてきて、小さな家を作っていた。細工物を作ったことなどないのだろう、お世辞にも見目がいいとは言えない。クールフェーラックがそんな見た目じゃあまりに飾りっけないよ、と飾釦を屋根に取り付けている。おかげでそれなりに豪奢な、鳥には似つかわしくないくらいの家が完成した。僕の上衣の襟の釦まで持って行こうとするのは、勘弁願いたかったが。
しばらくそうやって構っていたが、こう煩いんじゃ治るものも治らないと誰かが言って、それはそうだと各々のしていたことへ戻っていった。半ば飽きていたのではあるけれども。
夕方になって、その家の前で立ち止まっている人物が目に留まったが、それは僕にとって意外な人選であった。
「きみはそんなものには全く興味が無いと思っていたが、一体どういう風の吹きまわしだ?」
雀に関する一連の騒ぎにまったく参加しようとしなかった、我等が首領がそこにいた。きみの髪はパクトロスの水底で煌めく黄金のように、淡く夕日に照らされていて、瞳はまっすぐに建物の中身を見つめていた。
自らの進むべき道――共和制の未来――以外には、フイイよりも冷ややかな態度を取るのが通例であるのに、きみは穏やかな視線を小鳥に向けていたのだった。
「国土を、その抱える自然を愛さずして、何が共和であろうか」
演説でも始めるかのような返答の後、きみはliberté、と雀に向かって囁いた。
「何だ、いきなり自由だなんて」
「これの名前だ」
仲間たちに話せば、ひとしきり笑いの種にでもなるのだろうが、やめておいた。きみが本当に、小さな翼に自由を託しているのだと感じられたからだ。
✕ ✕ ✕
彼はパリで、政局の変動が始まろうとしていることを知る。
「明朝ブリュメ街で」「卵と小麦粉を、それぞれ一揃い」「次の街道へ急げ」「準備はできたか?」
女の買い物に紛れて暗号が手渡され、子供の会話の端々に隠語が混ざっている。雑踏に真実が紛れていることを、今日の今日まで警察は見逃しているものだ。大体あの時だって、その前だって同じだったのに、と彼は回想する。
「安くしておくよ、なんと五スーだ」
商売上手な店主の皮を被った、連絡者であろう。彼はその人物から、走り書きを受け取る。
捨てれば、彼はまた平穏な生活を送ることができる。捨てなければ、彼はかつての自分に反することになる。
彼は決心した。
✕ ✕ ✕
一撃ちで倒してくれと言ったのに、どうして僕だけ残して行ったのか。
僕はかつて、そう思っていた。
「パリで共和派が蜂起した、どこもかしこも、バリケードだらけだ。僕は共和制の未来なんて信じない、人民はそんなに賢いだろうか? だからといって帝政が覇権を握ることなんてあり得ないと思うし、王政なんてまっぴらだ。立憲君主制は子供騙しの綺麗事だ。ずっとそう思ってきたし、今だって変わらないさ。変わりっこない、僕のこの考えも、変えたってどうなる、祖国ははなから一体なんかじゃない。取り戻すとは何を誰からだ。社会の仕組みに対抗して、変革の可能性を夢見て、潰されたのが僕らだ。
もう誰も覚えていないさ、一八三二年の六月のことなんて! あんな小さなバリケード、無関心な民衆、日和見主義者ども、無駄死にだ、ああそうだ! 貧しい子どもたちにもきちんとした教育を与えたいと願っていたコンブフェールは、広く文化の重要性を説いていたプルーヴェールは、フランスだけでなく西欧諸国民の幸福を構想したフイイは殺されたんだ! クールフェーラックはいつだって機知を忘れずにきみたちを盛りたててくれたね、不運ながらもボシュエはやることはやってのける男さ、気にしすぎなことだってあったがジョリの直感は有用だったし、バオレルの情報によってきみが危機を脱したことも一度や二度じゃあないだろう? 僕はきみたちの思想なんてどうでもよかった、きみたちの理想なんて叶わないと断じてた、それでもきみたちが好きだったんだ。きみたちと過ごした時間をかけがえのないものだと思ったし、酒を酌み交わしたりドミノに興じるのも愉快なものだった。無論きみが頂上で輝いていたからではある。きみはよく僕の言う愛に対して嘘だって言ったね、言わずに無視もした。その他の全部とは違って、全て本気であったのに、きみは僕の懐疑を理由に何にも期待しなかった。僕はきみの言うとおりの人間だった、僕は何もしなかった……精一杯の決断は、きみの横に立つと決めた時に使い果たしてしまった」
大理石の天使は昨日からも、あの日からも何も変わらず僕の前に立ち現れる。ならば明日も、その先の未来でも傷つけられることなどないのだろう。
傷つけられない代わりに、再び敢えて革命という、傷を負いに行くこともしない。
「一度だけ信じさせてはくれないか、僕に、きみの存在以外を」
寝台の横に跪いて、彼の右手を握る。相変わらず冷たいし、熱を帯びることは二度とない。動いていた頃には、触れたこともない手。強く力を掛ければ、僕にだって壊すことはできるはずだ。そうしなかったのは、きっと怖いからだ。
彼の手に触れている、もう片方の手には紙片、記された場所には間違いなく、あの日とは異なる戦場がある。
どんなに話しかけても応えてくれないことくらい、きみと暮らした年月で嫌というほど思い知らされた。
だから、これで最後にしよう。
「アンジョルラス、きみの世界を信じることを」
どうか許して欲しい。
かつての首領、天使、この世に存在するもの総てを足して尚、釣り合うことなどないもの。
その手を離して、僕は立ち上がる。
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