首尾は上々である、とコンブフェールは胸を高鳴らせた。革命の炎の消えかけた場所には薪を継ぎ足し、煌々と燃えているのならば火加減を確認する。彼らのなすべきことはそれであった。
自身の直接向かったピクピュスも、話せば分かる連中であったし、他の仲間達の行ったところもも同じような結果だったそうだと聞く。最後に戻ってきたアンジョルラスが、クーグールドの熱は全く冷めていなかったと報告してきた。
火花のひとつあれば、どの集団もたちまち我らが列に加わり、その連鎖によって決起は行われるであろうと確信された。
機が熟したなら、その時は。
職人たちから学生に至るまで、彼らは約束した。
それ故、コンブフェールは首領の浮かない表情に納得がいかなかったのである。
「今日の演説はうまく行ったそうじゃないか」
コンブフェールが、窓際に佇んでいるアンジョルラスの肩を叩いた。
「耕された畑に種を蒔くのはたやすい。後は水をやって、日の当たるのを待つだけだ。今までの努力も無駄ではなかったということだな」
「待つだけならば、それこそ天命だろう。雨の日も曇りの日もあるが、丁度いいように自然は完成している。一体何を憂うというんだい」
「彼だ」
為政者の搾取もしくは世に蔓延る不幸以外で、アンジョルラスが表情を曇らせるとしたら、あの男のことより他にコンブフェールには思いつかなかった。
「グランテールか?」
「今度こそ信じてやろうと思ったのに」
曰く、目的地の近くだったとグランテールの持ち場であるリシュフーを覗いてみたところ、アンジョルラスの期待した教化ではなく、ドミノをしていたのだという。自分の担当があるから乗り込むわけにも行かず、ただ呆れたらしい。
「彼はいつもそうだ。まともなことの出来るふりをして、酒が入れば使いものにならない男だ。僕が期待した事の方が間違っていたのだろう。居るべき場所にいることのできない奴なのだ、あれは。何度言っても聞かないしな」
「彼の目的は、僕らとは違うらしいし」
本人曰く、アンジョルラスのため、だそうであるが本気に取れるものではない。
「それこそ馬鹿馬鹿しい」
アンジョルラスが心底嫌そうな顔をする。
「まあ、本人が帰ってきてから話を聞こうじゃないか。きみの行った頃には、もう話が終わっていたのかもしれないだろう」
「あれに限って、そんなことがあるものか」
「時に、救済する人民の全てに、彼は入っているのかい」
グランテールを待ちかねて、コンブフェールは尋ねる。いつか聞いてみたかったことでもあった。
「コンブフェール、きみは優しすぎるのではないか」
「そう言うきみも、切り捨てないだけ甘いだろう」
だから腹が立つんだ、とアンジョルラスは小さく零した。
✕ ✕ ✕
グランテールと名乗る男がいつからABCの友に加入していたのか、はっきりと覚えている者は誰もいない。ただカフェ・ミュザンの秘密の部屋の片隅で、陽気に酒を飲んでいる醜男がいただけだった。
その陽気であるがために、自然と仲間に加わり、カルタ遊びに熱を注いだり世間話に花を咲かせていたのである。
元より渾名で呼ぶことを好む若者たちの集団だったので、本名でないことには誰も気を配らなかった。むしろ洒落が利いていると歓迎したものだ。
見ない顔がミュザンにいる、ということに最初に気がついたのはアンジョルラスであった。彼は何者か、と仲間に尋ねたら、誰からともなく大文字Rらしいぞ、という声がした。
「きみは――グランテールとかいう名前だと聞いているが、何について関心を持っているのか? 祖国フランスをどのように人民の手に取り返すことを望むのか。あるいはもっと広く、ヨーロッパ全体を視野に入れても構わない。僕らは開かれた会であることを願っている。何でも話してくれればいい」
グランテールの答える所によると、
「今年のシャンパーニュはどうなのか、それだけが僕の関心事だ。そうでなければコラントに新しく入荷した酒樽に、そそっかしい鼠が穴を開けていないのか。それともヴォルテール通りの珈琲店にもうそろそろいい豆が入荷した頃だとか、球撞台の調整が右に僅かに傾いているから賭け事をする際には留意すべきだとか。きみたちにおける実際の意味するところ、それらに何らかの価値があるだろうか?」
淀みなく言い切った。
そして、ルイゾン、もう一本、と女給を呼び止めて注文する。彼の座っている机には既に二本の空き瓶が転がっていて、アンジョルラスは眉をひそめた。
「となればきみは、何故ここにいる? 僕達は開かれている。だがそれ以前に、未来を夢見る者達だ。ABCの友――民衆の友である。信義無き者の席を用意するほど、余裕のある机ではない」
「きみのためだ」
静かに憤っているアンジョルラスに対して、グランテールは葡萄酒を煽りつつも大真面目に言う。
「きみは正しい。完膚なきまでに、人間を超越した何者かとして、存在していることそのものが正しい。正しいことは美しいことでもある。いや、逆なのだろうか、美しいものこそが正しい。モナリザの微笑に自然界の比率が隠されているが如く。『民衆を導く自由の女神』が思想と芸術を同時に反映するように。例え世界すべての均衡が崩れ去ったとしても、きみは確固たる事実として在るだろう。それ以上の理由が必要か?」
「答えになっていないどころか、意味がわからない。美辞麗句を並び立てたところで、その実何を表しているのか明瞭でないからだ。言うに事欠いて僕のためだって?」
アンジョルラスが詰め寄ろうとすると、傍で聞いていたクールフェーラックが制した。
「お固いこと言いなするな、なぜなら彼は悪いやつではないだろう。彼が王党派などと言ったか? 王党派ですらないのだ。かと言って僕らと主義を同じくするようではないがな。僕たちの半分くらいはただの寄りあいだ。特段思想を持たぬ弁護士志望だってその辺の床にごろごろ転がっているぞ。カルタ遊びをしているのならば、それらの間に何の違いがあるというのか」
バオレルが俺だっているぞ! と外野から叫んだのを、クールフェーラックはきみのことを言ったつもりだったんだが、とそちらも一顧だにせず答える。
「僕達は遊んでいるんじゃない」
「それに決起のためには人数がいる、そうだろう」
コンブフェールがクールフェーラックに援軍を出した。アンジョルラスは、
「諒解した。彼を置いておいても、ミュザンにおける酒の売上が増えるだけで害はない」
グランテールは面を上げることなく、杯を挙げて、その受諾に感謝を表したように見えた。
「なんというか、あいつがああやって怒るのって、新鮮じゃないか」
事態に一応の結末が付いた後、バオレルがテーブルの片隅で所在なさそうにしているレーグルに話しかけた。
レーグルは、アンジョルラスがグランテールに掴みかかろうとした際落としたグラスの破片が右手に刺さって、ジョリに応急処置をしてもらったところだ。
「そうか? 普段の口数こそ多くはないが、彼の理想を語る口調はさながらグラックスの政治を語るものではないか。不正義に対しては激高することもある。あれは怖いものだ」
先日の街頭演説のことがレーグルに思い起こされる。野次を飛ばしてきた観衆に対して手酷い叱責を浴びせる彼は、天使と言ってもラファエルではなく天使長ミカエルの様相だった。
バオレルは、彼にしては考えこんで、
「俺でもそれは解っているんだが、そうだな……血と肉の揃った、中身の詰まった人間というか、そんな『人間』だよ。人間? なんだそれは。ああもう、面倒なことを考えるは止めだ。益体もないことに時間を費やすのは哲学者の仕事だ。でもって俺は、孵ることのない弁護士の卵だ。まだ昼間じゃないか、部屋の中に居たってしょうがない」
「また敷石でも剥がしに行くのか」
「いいや、投げるんだ」
不敵に笑ったバオレルは、レーグルを威勢よく外へ連れ出した。
✕ ✕ ✕
アンジョルラスがグランテールを厭うのも無理は無い、とコンブフェールは思っている。それはアンジョルラスの純粋故であって、別にグランテールに非があるわけではないのだろうが。あるとすれば、不似合いな場所に来てしまっていることだけだ。
幾分経ってからグランテールはミュザンに戻ってきて、何事もなかったかのように、
「マリウスは元気そうだったぞ。可愛い娘っ子と一緒だ。あれがあいつの約束の相手だろうな。騒々しい街の中でふたりだけ別の宇宙で花々と遊んでいたさ」
彼が帰ってくるのを聞きつけたアンジョルラスは掴みかからんばかりの勢いでやってきた。
「きみの用はマリウスの探索であったか?」
「ああ、僕は立派に使いを果たしたさ。主義を語るのに、何も言葉を使う必要はあるまい。ドミノというのは十分に、ダントンを表すことが出来るのだから。憲法だってこの板を並び替えればきっと」
「僕はきちんと見ていたからな。これ以上言うことはない」
もう話はしたくない、と言わんばかりにアンジョルラスはミュザンを飛び出して行ってしまった。
「何だってこう、通じないのかね。僕は大嫌いな真実を述べているというのに」
近くのテーブルにある酒をひっつかんで飲んでからぼやくグランテール。遠くからあれ僕のだったのに! と叫ぶレーグルの声がする。
「きみの方にも問題があると思うが」
そうコンブフェールは声を掛けたが、アンジョルラスの感情をこのように動かせるのがグランテールだけだということに対して、彼が苛立ちを覚えているのも事実だった。
✕ ✕ ✕
そうして六月が来て、「革命」は起こる。
騒乱児たるバオレルは既に亡く、我らが詩人ジャン・プルーヴェールは敵の手に落ち、最期の一声のみ残して散った。
犠牲は仲間内だけではなかった。果敢な老人や、勇気ある少女。これらは革命に燃える彼らを鼓舞すると同時に、彼らだけの問題ではないのだと現実に引き戻した。
負傷者も多い。この一群には医学生も混じっていたが、実践するのは初めてに近かった。
防塞の補修を行う者、残った弾薬がいくらか数えている者。水も食料も僅かしかなく、生き延びるための作業に没頭することで士気を高めているのであった。
その内にひとり、厳然と闇を見据えるものがいる。
このバリケードの首領であるアンジョルラスは、夜風に髪を靡かせながら、獅子の如く敵襲に備えていた。視線の先には国民兵の潜んでいるであろう市街地がある。
コラントの中で、フイイと明日に向けた戦術を組んでいたコンブフェールは、気分転換に外の空気でも吸おうと扉を開けた時、アンジョルラスを見つけたのだった。
「少し休んだらどうか。灯りもなくては国民兵も攻めては来られないだろうし、見張りのものなら別にいる。こうも静かなら、物音も我らの助けになろう」
アンジョルラスは降りてきて、かつてソファであったものの近くに腰掛けた。コンブフェールも、葡萄酒の一瓶を持ってゆく。分配されたはいいものの、どうも飲む気にならなかったものだ。
革命の化身となって戦っていた昼間のアンジョルラスとは違って、そこにいるのは見慣れた同士で、友人であった。
瓶の中身を一口飲んで、どうだ、とアンジョルラスに差し出す。今はいいと酒瓶を置いた彼は、数瞬間を置いて、意を決して話し始めた。
「僕がこの後起こることを知っているとして、きみはその理想において僕を断ずるか?」
予想だにしない話題であったので、コンブフェールは少しばかり困惑した。
「なるほどきみの弁舌は、その場にいたかのように巧みだからね。視座は国民公会にありながら、市井の民草の痛みすらその身の内にある。過去を知るものが未来を見たと思ったとしても、何の不思議もあるまい」
「疑いはしないのか」
「疑って欲しいのかい? きみのことを?」
コンブフェールに神秘は開かれていた。行かような真実でさえ、それが彼にとって十分確信できるものである限り、否定することを好まなかった。故にアンジョルラスの言葉を無碍にあしらうことはしなかったのだ。
「そういったわけではないが」
彼にしては珍しく、言葉を濁した。
「きみが何を知っていようとも、僕がきみを軽蔑することなどあるものか」
本心からの言葉であったが、アンジョルラスの不安は解けないようで、どうしたものか、とコンブフェールは思った。彼にも不安なことがあるのか、とも。少女のようにすら見えるアンジョルラスが、時にはヘラクレスに及ぶほど剛胆であることを、彼は一番良く知っていた。
ひとを導く方法は知っていても、不安そうなひとに対して何をすべきかなんて、思いもつかない。こんな時クールフェーラックやバオレルだったら、抱きしめておけ、だなんて言うのだろうが。もちろん彼はその方法を取ることはしなかった。
その代わりにコンブフェールは、
「そうだ、アンジョルラス」
静かに話を始める。アンジョルラスは、黙って聞いていた。
「僕は、天啓を得た、と感じたんだ。きみに初めて会った時に」
大学の構内で、ひとり朗々と平和を説く、金髪の佳人に目を留めたのがきっかけだった。コンブフェールは声を掛けずにはいられなかった。初対面であるとは思えないほど話が合ったし、互いに譲れない論点が存在することも分かった。
この時はまだ、結社を作ろうだなんて考えもしていなかったが、この出会いがなければABCの友を結成しようと思わなかったとすれば、重要な転機であった、と今となってはわかるのである。
「話したのはミュザンだったか」
「そう、だからあの店を集会場としたんだろう? 壊されなくて幸いだ。コラントはこの有り様だ」
コラントの前の敷石は剥がされ、バリケードの材料とされている。その上、昼間の砲撃で建物の一部は破損しているから、もし元に戻されたとしても、営業を再開するのは難しいだろう。
そう、それでね。コンブフェールは続ける。
「これで、フランスは、世界はより良い方向に変わっていく、その頭に立つのがきみであると確信したんだ」
革命を今すぐ行うべきだとは、コンブフェールはさらさら思っていなかった。まだ穏便な方法があるのではないかと模索し続けた。
だが、起こってしまったのならば、最善を尽くすまでだ。すなわち、
「明日が無垢な者達の手の内にあるならば、それ以上何が必要だろうか」
友を案ずることを、選んだのである。
「優しいな、コンブフェールは」
アンジョルラスの瞳は晴れなかったが、唇の端を少し上げて笑った。コンブフェールはこれでよかったのだろう、と思った。
これ以上は、きっと僕の立ち入る区域ではないのだろうと。並び立つ者としては、支えるのみが職分なのであろうと。
『僕は優しすぎる』って言ったのはきみだ、とコンブフェールは微笑でもって返した。
「おふたりさん、どうしたんだい」
背後からふたりに話しかけたのはクールフェーラックであった。悲嘆に暮れるマリウスと一緒にいてやっていたのだ。
「ちょっとした話さ」
コンブフェールが答えると、
「じゃあ混ぜてくれよ」
こいつも元気づけてやって欲しいし、とマリウスを指して言った。
「僕達もいいかな」
銃に火薬を詰め終わったジョリとレーグルがやってきて、
「正直もう、そんなにやることないしな」
フイイもそれに加わった。
誰かが、じゃあ飲もうか、と言った。ジョリがついさっき地下室に発見したという酒を持ってきて、ささやかな酒会となった。
月とランプに照らされたバリケードに、一時の休息が訪れる。今はもういない人々の話であったり、かつてこの地で行われたな出来事の数々であったり。話すことならいくらでもあって、それでもどこか、静かであった。
皆、これが最後の夜であるとどこかで感付いていたけれども、誰も口には出さなかった。
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