ぼくがどう答えたのか、覚えていない。まったく、ひとのことは覚えられても、自分の言動を逐一忘れないのは難しいことだ。
で、今、なんでこんなことを思い出しているかって? それは夢を見たからだ。
あいにくぼくが見たのは平凡な、眠る時に見る夢だった。マンハッタンにサメがたくさん降ってきて、みんなが埋もれてしまって大変なところにアベンジャーズがやってきて蹴散らすというものだ。リアリティがないとは言い切れないのがこの世界で、この前は人口の半分を無から掬い上げたりしたのだった。その人口の半分にぼくも入っていたし、おかげで生きている。サメが降ってくるよりも復旧が大変だけど――っておばさんが呼んでる。ドアの向こうから。大丈夫? 朝食ならあるけどって言ってる。そう今は目覚めたばかりで、パジャマから着替えて、時計を確認して、見なかったことにしようかなと思って、ヒーロースーツを念のためカバンに隠して、扉を開ける。オムレツにシリアルにソーセージ、オレンジジュース。申し分ないブレックファストをできるだけ早く口に入れる。うん、おいしい、おいしいなって思っている時間はちょっとない。
もう一度時計を見る。タイムターナーはこの世界にはない。
「行ってきます!」
急がなきゃ、この調子だと始業、ロッカー開けて教科書取り出して教室に走ってってやるには――まあ、ちょっと、スイングしても構わないだろうか?
ロッカーを開けてやたら重い教科書を取り出す。ちょっとしたヴィランならこれで倒せる気すらしてしまう重み。ぎりぎり滑り込んでどうにか座る。チャイム。セーフってことにしておいてほしい。ネッドと目があっておはようって言う。MJはと思ったらちょうど後ろの席にいた。朝早くと量子力学というのはなんとも困った組み合わせで、先生の声がニュートリノのように全身の細胞をすり抜けていってしまう。火花が散ってほしいがそう何度も分子と衝突してくれるなんてことはない。前回はビデオでスターク・インダストリーズのラボのドキュメンタリーを見せられたが、今回からは教科書の内容に入っている。基礎についてはこの前ラングさん――アベンジャーズのラボに寄っていたところを捕まえたのだ――から聞いているけれども、それじゃあまだタイムトラベルはできない。無限小の量子の世界ではいろいろ不思議なことが起こるらしい。「えーと、とにかく言葉にはしにくいんだけど、やってみれば――いやでもやらないほうがいいなあれは。量子的バトルっていうのは」彼が苦労したのは伝わってきた。本人曰くそういうのはどちらかというとピム博士の担当で、どちらかというとあるものをどうにか組み合わせてガジェットを作ったり、アイデア出しをするのが得意なのだという。というかタイムトラベルをするためにはとても多くの要因が必要なんだと、最初の授業で聞いていた。古典的なSF小説みたいに水晶の棒や不可解な金属板でどうにかなるものじゃない。
それを思い出していた。記憶は脳のシナプスの間にある、シナプスってどう繋がっているんだろう、いや化学物質なのはわかるけど、もっとミクロな次元で、発火するニューロンがどう繋がったら今ぼくを構成している意識が形成されるのかとか、量子コンピュータ上で再現するとしたらどこまで可能なのかとか、基礎を超えて応用のほうが楽しいけどもちろん基礎はちゃんとやらなくちゃいけない(からこうやって学校に来ているんだ!)とか、そういったことを、重ね合わせて。
だからかもしれない。
予兆に気付くことすらできなかった。
スパイダーセンスでも捉えられないようなことってあるんだろうか?
まあ、しかし、起きたんだから仕方がない。
その瞬間、ぼくは「そこ」にいた。
「そこ」は来た瞬間に「ここ」になる。
そんなのありえない、だけどこれってあることなんだ。
そう、まるでニュートリノがぼくの脳に突き刺さる確率のように。
コーヒーの香りがする、白いマグカップをぼくは持っている。「そこ」はラボだった。地下室のようで、太陽光は入ってきていない。小規模ながらも充実しているということがわかる。日曜大工のガレージのようにも思われるが、いくら科学に重点を置いているとはいえハイスクールには到底揃いそうもない設備が揃っている。いくつか用途のわからないものもある。ぼくはそこにいて手を動かしている。これは自分じゃなさそうだ。自分じゃないものになる夢というのもありえないはなしではなくて、なるほどこれは夢なのかと納得する。アシカとかトナカイになるんじゃなくてよかった。自分じゃ手を動かせないのも夢みたいだ。『自分』は物理モニタと仮想モニタの数値を見比べて、コンソールを操作してモデルの数値設定を行っている。今は理論化の段階のようだ。参考資料が辺りに散らばっている。これはなんだろうか、と思ったところに思考の本流が流れ込んでくる。パラレルワールド、無限小の世界における多次元への干渉可能性、自らを量子化して他世界で観測させる方法、そのデメリット、戻ってこられない可能性、そもそもその世界がどこなのかを我々は理解できるのか? スキップのように考えが先に進んでいく。我々のいる世界の次元振動数を記録しておけば問題がないのではないだろうか。次元振動数の計測はこの前やってみた。それなりに確からしい数値が出る。他人の思考だけど自分が考えているようだった。それでもこれはすべてじゃない。多すぎる水量に川が氾濫してしまうように、こちらのキャパシティが足りなくて追いつけていないような印象がある。さっき授業で聞いたはなしと接続しそうでうまくつなげることができない。夢ってもっと適当なものなんじゃないのか? とか思っているうちに、よし、これで十分だ、とぼくはモニタの電源を落とす。ぼくにとっては何も十分じゃないけど――暗くなったモニタに『自分』の顔が映る。
あれ、これって見覚えのあるどころか、知っている顔なのでは?
と思ったところで目が覚めてしまった。ネッドがぼくにジェスチャーでメッセージを伝えているようだった。起きろよ、大丈夫か? ぼくは大丈夫だよと口元で答える。なんだったんだろうあれは、白昼夢? 特に寝ていたという形跡はない。でも講義はほぼ終わりかけていた。時間だけが過ぎていて、その間に起こったことを何も覚えていなくて、夢にしてはリアルな記憶だけが残っている。意識がはっきりしてくると夢のことなんて忘れるんじゃなかったか?
クラスの解散するところで、先生に声をかけられた。
「元消滅者用補習授業がありますが、参加しますか? 」
「あ、ええ、そうですね。参加します」
「それなら放課後図書室に」
答えているのも上の空だってばれてしまっているだろうか。放課後、図書室。少しばかり年の離れてしまったクラスメイトたちに追いつくための臨時講義。ぼくたちの社会は消失を受け入れてゆっくりと動きつつある。生活もだいぶ落ち着いてきた。だからこそ余計に動揺してしまったのかもしれない。ありえないもの、失ったと思っていたもの、というよりも受け入れようとしているもの。
そう、最後に映ったぼくの――夢の主の顔はトニー・スタークによく似ていた。
というより、スタークさんそのひとだった。
あれはなんだったんだろうか? ただの夢だとは思うけれども、妙な胸騒ぎがする。スパイダーセンスとはちょっと違う、日常の違和感。レポートを書いたはずなのに保存されていなかったような。それは一時保存を忘れただけなのかもしれないけど。それは置いておいて。
だってあの数式は、理論は、ぼくにはまだ理解の足りないところがあるかもしれないけれども、自分がまだ知らないはずのことばかりだったからだ。ただの夢だとして、自分の知らないことを見たりすることができるのだろうか? 科学の徒としてはにわかに信じがたいが、ぼくは科学だけじゃない世界をちょっとばかり知っている。もしかしたら敵の攻撃?
覚えている断片的な情報を元にハイスクールの契約しているジャーナルをいくつか調べてみた。確かにこれは完全に間違っている情報というわけではなさそうだ。最先端の研究ではいくらかフォローされている『トニー・スタークのタイムトラベル技術の分析』というのが一番近かったけれども、ぼくが見たのは単一時間線のタイムトラベルではなく複数の次元を渡り歩く方法だった。リード・リチャーズが同様の研究をしているみたいだけど、キーワードのところでわけがわからなすぎて挫折してしまった。
さてこれは放課後の自習教室で明らかになる内容だろうか。そうはいかなそうだな。行きますって言っちゃったけど今回はパスで。来週も同内容のクラスがあるみたいだからそちらに行けばいいだろう――何事もなく放課後を過ごせればのはなしだけどね。
ぼくはアベンジャーズのニューヨークラボに向かうこととした。アベンジャーズの本拠地はニューヨークから移転してしまったけれども、メンバーは世界各地で活動しているから、小さなゲストハウスやラボがいくつかある。ぼくはアイデアがうまく回らなくなった時にそういったところに行くことが多い。アベンジャーズにはさまざまな分野に精通したひとがたくさんいて、はなしができるのは大きなチャンスだ。自然科学だけじゃなくって、体術などについても学ぶことがある、というか学ぶことしかない。この前はワカンダからオコエが来ていて、スーツに用いたアダマンチウムの繊維の精製方法を教えてもらった。次のスパイダーマンのスーツはぼくが作ることになるだろうし、それが生かせたらいいな。予算があるかわからないけど。今のところは今のスーツに満足している。
ぼくは路地裏でマスクをかぶる。マンハッタンを飛びながら、子供が離してしまった風船を返してあげたり、ひったくり犯を捕まえたり、ビルにぶつかりそうな人をそっと方向転換してあげたりする。窓ガラスに自分の顔が映る。顔って言っても、マスクだけど。赤いマスクだ。
赤だけど、アイアンマンとは違う。
そうしたらまた、彼の姿が見えた。ぼくとは違う原理で空を飛ぶそのヒーロー。赤と金の金属に身を包んだひと。
もういるはずのないひと。
「スタークさん」
言ったそばから嘘になってしまうのではないかと怖かった。でもそのひとはこちらに手を振ってくれた。まるで真昼に見る夢のように。実際夢だってことはわかってる。それが自分の手の動きと同じだったということは、次のビルへとスイングしている途中に気付く。
アベンジャーズのラボに行くと、フライデー(正確に言うとフライデーの子供みたいなものらしい、本体はスタークさんの家にいる)がコーヒーをいつも出してくれる。入り口で受け取る。移動速度から逆算してぴったりのタイミングで用意してくれるのだ。『彼女』のメタルアームがマグカップを差し出す。
あの夢のコーヒーの香りに少し似ているような気がする。完全に一致しているわけではないけれども。こっちのほうがちょっぴり苦味があって、ミルクを入れるとおいしい。フライデーは気の利く人工知能なので、ミルクは入れておいてくれる。
研究員がせわしなく歩き回る廊下を抜けてロビーに出ると、ドクター・ストレンジさん(このドクターは医者の方のドクター)がいて、マグカップを片手にミックスベリーを食べている。冷凍かな。私服だけど、マントは一緒について来ているようだ。
彼のマントがこっちに手を振ってくれているので振り返す。本人よりもだいぶ陽気な性格だ。空飛ぶマントに乗ってアラジンよろしくマンハッタンの空中旅行をしてみたいな、いつか。スイングが悪いんじゃなくて、ホールニューワールドをしたいだけだ。
運がいい。
不思議なことについて聞くなら、彼以上の人間はいないだろう。
ちょっとお時間ありますか、と聞いたらコーヒーを飲み終わるくらいまでは、と言われた。
「ぼく、スタークさんの夢を見たんです。スタークさんの夢というよりは、スタークさんそのものになる夢みたいな。そこで彼、というかぼくなのかな、は時空転移装置を作っていたんだけど、当然僕が知っている情報じゃそんなものはできないんです。他の次元に干渉するなんて」
「つまり、知り得ないものの夢を見たと」
「だから、もしかして、どこかでスタークさんが生きているんじゃないかって。その世界があって、ぼくに連絡してくれたんじゃないかって、思っちゃったんです」
なるほど、とストレンジさんは答える。
「ピーター、君は賢い。その推論は、あながち間違ってはいないだろう」
ストレンジさんはミックスベリーをぼくに差し出して言う。ぼくはミックスベリーを手に取る。ラズベリーとクランベリーが入っていた。赤くて区別はつきにくいけど、食べればすぐにわかる。
「無限小と無限大が連続しているのは知っているな?」
「あまりにも小さな世界、量子の世界から他の次元の可能性が見えるってことですか?」
それはこの前ラングさんから聞いたはなしだ。
「科学的に言えばそう。多少魔術的に言えば、脳の中でスパークしている回路は、宇宙にそのまま繋がっており、その宇宙同士も繋がっているということ。私に観測できるのは『この世界』の可能性だけであって、平行世界の可能性には触れることができない。だから、今回きみが見たように、どこかの並行世界で『トニー・スターク』が生きている可能性は十分以上にある」
平行世界のピーター・パーカーが存在するように、とストレンジさんは言う。ぼくは無限に続く時空平面のすべてのぼくが同時にハローと言うのを想像する。そうすると無限のぼくがハローと返す。不思議な光景だけど、ありえないことじゃない。
「もちろん、少しの違いが、多くの差異を生む。バタフライ・エフェクトは知っているな? 蝶の羽ばたきひとつでハリケーンが生まれる可能性だって存在する。だからこそ我々には『知ってはならない』ことがある」
それがすべての並行世界の観測だ。
「多少見るのはいい。猫が世界を治めている世界も、生命体が滅んだ世界もある。だが無限にある世界すべてを観測してはいけない。私――私たちはひとよりも多くのことを知ることができる。だからこそそれはやってはならないことなんだ。もしもすべての未来のすべての可能性を知ってしまったら、何も変えられなくなってしまう。観測した時点でもう現実なのだから。シュレーディンガーの猫は、箱を開けてしまった瞬間に生死が決まる。実際そうでなくても」
ストレンジさんのはなしはちょっと難しかったが、無限は文字通り無限であって、全部を眺めていたらそれだけで可能性を使い潰してしまうということだろう。数えられる無限ではなくて、数えられない無限のはなしなのかもしれない。
黙り込んでしまったぼくに、ストレンジさんが声をかけてくれる。
「そうそう、だから、君が見たのはどこかの世界の現実だ。この世界の物理法則とまったく同じとはいかなくとも、君が『その』スタークの技術を実現することだって、できるんじゃないか?」
マントさんの裾が踊っている。はげましてくれているのだろうか。
「……そうですね!ありがとうございました!」
マグカップを置いて、ストレンジさんはマントと一緒に窓からどこかに飛んでいってしまった。出入り口から出ればいいのに、と職員のひとたちがはなしているのが聞こえる。マントさんと飛んでみたいって言うの忘れてたな。また今度会ったときに伝えてみよう。
そうだ、それなら、ぼくが作ればいいんだ。
はじめてスパイダーマンのスーツを作ったときのように。
と思ったはいいものの、やっぱりうまくいかないな。設計図ではうまく動くはずだった並行世界観測装置を眺める。家に帰ってから設計図を引いて、学校にある機材を使って、ぼくは平行世界の観測装置を作ろうとした。すべての可能性を見るものではない。平行世界のぼくに会うためのものだ。
一言くらいハローとあいさつしてみたいじゃないか。どこかの世界のぼくはスパイダーマンじゃないかもしれないし、どこかの世界のぼくは高校生じゃないかもしれない。そんなぼくたちに、会いたいな、会えるんじゃないかと思ったんだ。
でもやっぱりどうしようもない。ネッドに連絡して、一緒にバグ取りもやったんだけどな。ミレニアム・ファルコンのプラモデルを作るのとはわけが違う。完成図がわからないものを作るのは。
まだ早かったのだろうか。
まだ早いなら、いつ追いつけるんだろうか。
やっぱり、なんて思っちゃいけないんだろう。ストレンジさんの言うように――スタークさんがぼくに示してくれたように。あのひとは諦めるなんてことを絶対にしなかった。自分が「できない」ことを当然としてはならない。できることはやる。やった上で、今できないなら、それはいつかやるべきことなのだ。
まだぼくはスタークさんには遠く及ばない。だけど、だからこそ、あがいてみせなくちゃならないのだ。
「定期報告、楽しみだな」
次のスターク基金の報告は1ヶ月後だ。それまでになんとか形にしたい。その前に宿題をやらなくちゃいけないんだけど、どうにかなるだろう。装置を机の上に置いて、ぼくはベッドに転がり込む。上を見上げる。天井がある。今は何もない普通の天井だけど、ここにスタークさんが作ってくれた街の危険を知らせるシステムがアニメーションで投影されたこともあった。最初は驚いたけど、すぐに日常になった。二次元投影装置はホログラムになって使い勝手がよくなった。もう誰もそんなことはしてくれない。
まばたきをひとつする。アラームが鳴る。マンハッタンに何かがあったんだ。ぼくはマスクを被り、親愛なる隣人として空へと飛び立つ。ビルの光の中をスイングしながら、ガラスに映る己の姿を見る。その赤はスパイダーマンの赤でしかなく、だけれども今の自分に十分な赤だ。
ぼくは思い出した。
醒めたまま見る夢の名前を希望という。
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