ボーダー
眠りを妨げられるのには慣れている。そのような訓練を受けてきたからだ。いつ何が起こるかわからないところで生きてきた。深く眠らなければならない、かつ、いつでも目覚められなくてはならない、という、相反する要求に応えてきた。もちろん、今は最前線にいるわけじゃないから、そこまでする必要はないのだけれども、身体にその感覚が染み付いている。だから、今夜だって、ノックの音でもかんたんに目覚めることができる――そして、そのノックが、誰からのかだって、わかる。
意識が覚醒の方向に切り替わって、今日もかよと思いつつドアを開けるとそこにいたのは予想通りの人物で、ふわふわした髪はたぶんベッドの中で転がっていたせいでくしゃくしゃになっていて、それから、こいつはいつだって悪びれずに「おはよう」と言う、何時だって言う、ぜんぜん朝じゃないのに。
振り返って時計を見ると今は1時過ぎで、比較的早い方だったな、と思いつつ、
「おはよう」
と言ってやる。
「珍しいね、おはようだなんて」
「さっさと入れよ、寒いだろ」
実際、この建物はやたら高性能で、廊下にだって空調設備はついているのだが、ひとを廊下に待たせておくのは、なんとなく気が引けるし、どうしておれの部屋に来たのかわかっているのだから、目的は早く達成されたほうがいい。
じゃあおじゃまします、と彼は言う。あ、そうそうとボブが手渡してきたのは、あいまいな熊のかたちをかたどったカラフルなグミが入った袋だった。
「この前買ったグミがおいしかったから持ってきたけど、もう歯磨きしちゃったよね」
「当然だろ」
夜に押しかけてくるのみならず、なんか最近では手土産まで持ってくるようになった。固くて食べごたえがあるよとボブは呑気に言う。
寝る前にものを食べる習慣はないから、小さい袋菓子だけが机の上に積み上がっていくことになる。まあ、明日のトレーニングの後にでも食べればいいだろう。
寝たいんならさっさと寝ろよ、とおれは言って、ベッドに潜り込む。いつもおれは壁のほうを向いていて、なぜかってそんなの、こいつの顔を見ていたってしょうがないからだ。そうだね、と彼は言って手慣れた様子でひとのベッドに入ってくる。ひとりだとかなり広いと思えるのだが、ある程度の身長がある成人男性ふたりだとそれなりに狭い。どんな環境でも眠れるようにしてきたのだ。近くにひとがいる程度で眠れないわけがない。
最初に来たときはトレーニングでもすれば疲れて眠れるだろ、って思ってダンベルを持たせたりもした。そういうことじゃないんだよなと言いながらボブはダンベルを持ち上げてはいた。そういうことじゃないならそういうことじゃないんだろうと思う。どういうことなのかはわからない。
どういうことなのかはわからないがボブは来て、今日もぜんぜん眠れないんだよねと言うから仕方ないということにして一緒に寝てやる。おれの存在がどういうはたらきをするのかもわからないが、よく眠れるらしいからそれでいいということにしている。何度目かで追い返そうかとも思ったのだが、こいつが案外諦めが悪いということを、おれは痛いほど知っている。
ベッドサイドの電気を落とす。真っ暗にはならないが、そしておれやこいつの瞳に『真っ暗』はないのだが、眠るためにはそういう儀式が大切だ。
寝ようと思えばいつでも眠れる、なのにいつだって、おれは、こいつに話しかけてしまう。
「――あんたがよく眠れるようになったらいいな」
別にたいした意味じゃなかった。空調の音が耳に障ったからかもしれない。空間を声で埋めておきたかった、眠りに落ちるまでは。
どことなくぼんやりとした声で、ボブは答える。
「今はよく眠れるよ」
「そうじゃなくて、おれがいなくても」
ひとりで眠れるならそのほうがいい。ここからいなくなる予定は今のところないが、あまり安全とはいえない仕事だ。そのくらいの覚悟はしている。
ボブはああ、そんなこと、と衒いもなく言って、
「それなら気にしないで。だってここなら眠れるから」
何があったのか、聞いてもこいつは答えてくれない。ほんとうに何もないのかもしれなくて、そのほうがよほど厄介だ。原因があれば、それを取り除けばいい。それが可能かは置いておいて、対処法はある。原因がないことは、どうすればわからない。嵐に理由がないように、やりすごすしかないことは、ある。
でもこいつは、ボブは、原因がわからなくても、対処できるならそれでいい、と言うのだ。そんな不安定な世界に、ずっとこいつは生きているのだろうか。
「不安じゃないのかよ」
「――不安はいつでもあるよ」
共有しているブランケットのあちら側で、ボブがぽつりと言う。
「でも、明日が来るのは知ってる」
おやすみ、を先に言うのはいつもボブのほうで、だからおれも、おやすみ、と言ってやる。目を閉じればすぐに眠れる。おれはまだ目を閉じられずにいる。あちら側の呼吸が落ち着いてきたのを確かめるまで、おれはなぜだか壁を眺めていた。
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