リミット
無機質な電子音で目を覚ます。おれは手を伸ばして目覚まし時計を止める。ボタンを軽く押せばすぐに止まる。それはいい。それはいいのだが、止めたところでなにかがおかしいということに気がつく。そう、おれが目覚まし時計の音を聞くなんて何年ぶりだという話だ。いつもだったら、鳴る数分前には勝手に目が覚めてアラームを止めているはずだ。昨日は特に疲れるようなことをした覚えはなかった。普段通りにトレーニングをして、普段通りに仕事をした。それだけだ。夜にコーヒーを飲んだなんてこともない。息をひとつつく。隣には呑気に寝ているやつがいて、せめてこいつよりも早く起きられてよかったな、と思う。
身支度をして、朝のストレッチでもするか、と思っていたところ、ボブが起きてきて、おはよう、今日もよく眠れたよ、と言う。
「――おはよう」
「何その間、悪い夢でも見たの」
「お前じゃあるまいし」
おれは大きく伸びをする。ボブはそれじゃあまた、と出ていく。また、ってなんだよ。と思いつつも、これが日常に近くなってきたなと感じていた。
デスクの上には袋菓子がいくつか置かれている。
そういえば。
こんなにこいつの近くにいるのに、最初に会ったときみたいに、それから影の中にいたときみたいに、お互いの記憶が交じることなんかなかった。
おれたちのような存在は、基本的に活躍しないほうがいい。華々しく戦うということは、ニューヨークが、アメリカが、あるいは世界が危機にさらされているということだからだ。わかってはいるがデスクワークは性じゃない者ばかりが集まっているのがこのチームだ。別の仕事で忙しいひとも多いし。しかしながら定期的なミーティングが義務付けられていて、チームの誰かだったり、チームを支えている誰かだったりの作った資料を見ながらああだこうだと話し合ったりすることになる。
そんなとき、だいたいボブが近くのおいしいカフェテラスで飲み物を買ってきてくれる。最初は買い物のついでとか言っていたのだが、買い物がなくてもミーティングがあるときには飲み物を買ってきてくれるようになった。ちなみに経費で落ちるらしい。
何回目だかわからなくなってきて、ボブも手慣れたものだ、メンバーの好きなものを買ってきてくれる。
「フラットホワイト」
定位置についたエレーナが一口飲んで、やっぱりこの味、と言う。
「カフェモカのシロップ増し」
エイヴァはそのドリンクを一度に半分くらい飲んでしまった。
「ストロベリーのフローズンドリンクホイップ抜き」
アレクセイは酒じゃなければこれがいいと笑う。
「コールドブリューコーヒー氷少なめ」
バッキーはただのアイスコーヒーではなくてコールドブリューのほうが好きなのだとか。
きみにはこれ、と手渡されたのは、いつもの――ではなくて、なんか炭酸が入っている気がして、これはなんだ、と思っていると。
「エスプレッソトニック」
「エスプレッソトニック?」
存在は知っている。エスプレッソのトニックウォーター割りだ。知らなくても名前から類推できるだろうが。いやそうじゃなくって。
「季節限定のオレンジシロップ入りだよ」
ちなみにぼくはアーモンドラテ、と続けるボブに、
「……おれはいつもカフェラテダブルショットじゃなかったか?」
「だから、このエスプレッソトニックもダブルショット」
「こんなの飲んだことないぞ」
「まあまあ、たぶん好きだよ」
ほんとうか? と思いつつも、せっかく買ってきてくれたものを飲まないのももったいないので、口をつける。まずトニックウォーター特有の苦味と、オレンジの爽やかさが来て、エスプレッソが入っているのだろうか、と思ったところに苦味が現れる。しかしそれも炭酸で溶け合っていて、一見ちぐはぐな要素がぱちぱちとした感触によって統合されているように思われた。
「……おいしい」
そうでしょ、次もこれがいい? とボブが聞くので、おれはつい、じゃあこれで、と言ってしまう。ミーティングはだいたいいつも通りの感じで終わり、つまり今のところ世界は平和だった。
このチームになってから、なんだか調子が狂う、とは思うのだが調子はいい。どういうことかというとなんとなく気が楽だ。軍にいたときのほうがよほど大変だったし、重圧もあったが、今はそれほどではない。タイトルだけなら大仰なものがついているはずなのに、そんな気はあまりしなかった。それぞれが別々の場所で活躍しつつも、帰る場所はあるというのは不思議な感覚だった。タワーで寝泊まりしているメンバーもいればそうじゃないメンバーもいる。そう、寝泊まり、それが問題だ。
ボブが週に何回かおれの部屋に寝に来るようになってから、もう数ヶ月になる。ボブの手土産もなんだか増えてきた。今の身体ではそれほど必要のないことなのだが、一応栄養管理はしているから、そんなに菓子類を食べるわけにも行かないのだが、突き返すのも悪い気がして、賞味期限も長いことだし、とグミやらクッキーやらがデスクに積んである。そのうちの一袋を手に取ったら、いつだか持ってきてくれたあいまいな熊のかたちをしたグミだった。カロリーを確認してから袋を開ける。噛んでいると、ケミカルな味とともにしっかりとした歯ごたえがあって、あいつはこれをおいしいって言うんだなとか思う。
違う、グミが問題なんじゃない。『眠れすぎる』のが問題だ。まあ、おおかた、あいつが原因なんだろう。ボブ。このチーム随一の『スーパーパワー』を持つことは確実だが、頼りにするにはおぼつかないところのある『戦力』にして『弱点』。それは戦術的な話で、今おれがしたいのは生活的な話だ。アラームで目を覚ましたあの日から、また何度かボブは来た。ボブは安眠できているようだった。おれもそうではあった。普段のおれからすれば、眠りすぎているくらいに。あれこれ考えても仕方がない。とりあえず懸垂でもすればいいんだろうか。疲れすぎても眠れないが、この程度で疲れるような身体はしていない。部屋に備え付けのバーに手を伸ばす。
二十回目くらいのところでノックがある。今日はだいぶ早いな、と思う。いつもだったらみんな寝静まったころにやってくるものだ。手をはたきながら扉に向かい、開けるとやたらキラキラとした瞳のボブがいた。もしかしたら泣いていたのかもしれない、とは思うが、それを口に出してやるほどおれはやさしくはない。
「おはよう」
おれの部屋に来るとき、ボブはいつだってそう言う。
「何してたの?」
「懸垂中だった」
「ぼくもやろうか?」
「『そういうんじゃない』んだろ」
「腕力はあって悪いことはないし」
まあでも今度でいいかな、と、言いながらボブはおれの部屋に入って、ソファに座る。クッションを抱えようとして、そうだった、とポケットからピーナッツバターの入ったチョコレートをふたつ取り出してデスクに置いた。
「なんでふたつ」
「ぼくも食べようかなって」
「歯磨きは」
「もう一度すればいいじゃん」
歯磨きセットも持ってきたんだ、と言うボブになんだか力が抜ける。これじゃあティーンエイジャーのお泊まり会みたいじゃないか。
それはそれとしてピーナッツバターの入ったチョコレートがおいしいのは知っている。アメフトをやっていた時も当座の糖分補給のために食べていたものだ。今日くらいは食べたっていいだろう。青いパッケージに手を伸ばしたら、ボブはもう包装紙を剥がしていた。せっかちなやつだ。
「甘すぎってくらい甘いけど、たまにはこういうのもいいよね」
「ナッツが入ってるのもいい」
「へえ、ぼくら気が合うことあるんだ」
それには答えずに、おれはチョコレートバーを食べきった。
歯を磨いてさあ寝ましょう、みたいな空気になるのははじめてだった。それこそお泊り会みたいだった。普段だったらボブがベッドに飛び込んできてそのまま眠ってしまうからだ。なぜだかよくわからないけれどもそわそわした。それはもしかしたら、こいつといたら、また『眠りすぎて』しまうからかもしれないという理由もあった。
歯ブラシの手が止まっているおれに、横でオレンジ色の歯ブラシをシャカシャカしているボブは、
「何かあったの?」
「何かあるのはお前のほうだろ、いつだって」
口をゆすぐ。スペアミントの味が口の中にぼんやりと残る。タオルで口を拭く。ボブも同じようにしていた。
そう、こいつは他人の精神に干渉することができる。ならば。
「――実はそばにいる人間がよく眠れるようになるスーパーパワーとか持ってんのか?」
「もしそんなのがあったら、まっさきに自分に使ってるよ」
「そうだよな……」
「もしかしてきみって、ぼくといるとよく眠れるとか?」
「――認めたくねえがそうだよ」
自分にとっては寝過ぎなくらいだ、とは、言わないでおく。緊張感を持ちすぎているのは、わかっている。それが解消されるなら、実害がない範囲ではよいことのはずだ。
なのにどうして、これに苛立っている?
ボブはベッドの端に座った。おれは逆の端に座る。
「じゃあさ、今日は手を繋いで寝ようよ」
「は?」
「手とか、触れ合ってると、ひとって落ち着くものらしいよ」
「落ち着いたら困るんだよ」
「なんで? いいことじゃん」
ぼくなんか落ち着くための方法をたくさん持ってるよ、というボブに、おれだってそうだよ、お前と違う環境だったかもしれないけれども、と思う。
「とにかく、朝はちゃんと起きたいんだ」
「いつもぼくより先に起きてるのに」
ああもう、と頭を掻きむしろうとしたときに、もう片方の手に温かな感触があって、それがボブのものだということに気がついたときには、なんか毒気が抜かれてしまったというか、なんだろうか。
これが落ち着くっていうことなんだろうか。
おれよりもかすかに高い体温がその接点にあって、そこからやわらかな感情が流れ込んでくるような。あのときみたいに、トラウマを共有するのではなく、というか彼の能力によるものではなく、ただ手が触れ合っている、それだけのことが、どうしてだかおれの感情をフラットにさせてくれた。
どう? とボブが振り向いてきたので、うるせえよ、とおれはブランケットに潜り込んだ。いつもだったら壁のほうを見ているけれども、今日は天井を向いてやることにした。
「珍しいじゃん」
「……手を、つなぎたいんだろ」
ずっとあっちのペースに巻き込まれるのは業腹だ。ベッドサイドの明かりを消して、今度はおれのほうからボブの右手を掴んでやった。すこしばかり汗ばんだ手のひらがある。やわらかい手のひらだ。人を殺すための武器を持ちなれていない手だ。
あいつにとって、おれの手は、どのように感じられているのだろうか?
ボブはなぜだかおれを見ながらふふっ、と笑った。
おれはやっぱり壁のほうを見ることにした。首だけ回せば問題ない。
「なんだ、せっかくこっち見てくれるかと思ったのに」
「ひとの顔を見ながら寝る趣味はないぞ」
「ジョンの寝顔が見られたらうれしい」
「おれのほうは、お前の寝顔なんか見慣れてるけどな」
おやすみとボブは言う。おやすみと返してやる。
相も変わらずつないだ手はあって、それはきっと、明日の朝にはほどけている手だ。たしかになんとなく落ち着いている。落ち着いてしまっていいのかわからないが、眠気の前に、そんなことは考えなくてもいいことにする。
もしかしたら、また目覚ましの音を聞くことになるのかもしれない。
それでもいい。
朝目覚めたときまで、こいつがよく眠れているのならば、それで。
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