地獄にようこそ

車は与えられるらしい。
スコット・サマーズは鍵を持っている。車の鍵だ。その鍵で動く車が、目の前にある。
二人乗りのオープンカーだ。レトロな赤色がまっすぐな太陽の光を反射している。バイクのほうが性に合うけれども、これもこれで悪くはない。例えばかつて誰が乗っていたような、という想像を、頭の片隅に追いやっておく。
スコットは自らが地上において生を終えたことを知っていた。
それまでの罪状からするに、ここはおそらく地獄だろう。まさか天国ではあるまい。天国にふさわしい歓待なんて受けた覚えはない。
あるいはここが地上ともありえない。地上はもっと、我々にとって住みにくい場所のはずだ。
地獄とはもっと、騒々しくて、強大な力を持つ魔神がいたり、魔物がいたりする場所のはずだったけれども、この地獄は妙に静かだ。生前に行く地獄と、死んでから行く地獄は異なるのかもしれない。
あるいはこれからコキュートスの水に浸されるのかもしれない。
いずれにしても、わかるのはひとつだけだ。
乗って、行け。
道があり、鍵があり、車があるのはそういうことだ。
スコットに選択権はなかった。見渡す限りベージュの砂が広がっていて、太陽が中天から動く様子を見せなくって、標識なんてなおさらない。
歩いていくよりは、車のほうが速い。
エンジンをかける。アクセルを踏む。道にはどうも見えない道を、スコットは行く。

ガソリンという概念はないらしい。
ついでに速度制限もない。速度制限がないから、いくらだって飛ばせるけれども、いくら飛ばしたって代わり映えのない景色だし、時間もよくわからないから、達成感がない。これはシーシュポスに課せられた刑罰と同じようなものなのだろうか。実はずっと同じ道を進んでいて、永遠にこの円環から出られないのではないだろうか。
ガソリンステーションもなければ、マクドナルドもないし、当然のことながら警察もない。警察がいたら捕まるのかもしれない。地獄に警察はいないのかもしれない。検察ばかりが存在するのだ。
残念ながら、検察すらいなかった。罪を裁かない地獄に、存在意義があるのかわからないけれども。
一回止めてみようかと思った頃、遠くに小さな点が見えた。
近付いていくと、それはひとの形をしていた。
もう少し近付いていくと、それは手を上げてヒッチハイクをしているようだった。
速度を落として、車を止める準備をする。質量のある物体が高速で運動している場合、すぐには止まれない。それは意識も同様で、高速に適応していた思考が、車と一緒にゆっくりになっていくのがわかる。
申し訳程度に生えている植物、ベージュの大地、それからひと。
止まった頃に、それが誰なのかわかった。

おい、乗せてくれ、と彼は言う。
スコットはそれがなにものかはわかった。でも認めたくはなかった。それは、スコットよりもずいぶん小さくて、ずいぶんがっちりとしていて、ずいぶん態度の大きい男だった。おまけに酒臭い。
彼はレザーのジャケットを着ていた。風景に似合っているので、スコットはなんとなく腹立たしかった。
これに当てはまる人物は、ひとりしか心当たりがなかった。それなりに親しかったこともある。敵だったこともある。味方だったことのほうが多い。多いだけですべてではない。
しかし彼は死んだのだった。
そいつは死んだら、天国に行くべき人間だ。間違っても砂礫の大地ではない。どう考えても無限に続く地獄の端でもない。ふわふわとした世界で、アルコールの川に浸って生きるべきものだ。道に迷った子どもに進路を教えてあげたりするものだ。
よく似た誰かかもしれない。あとスクラルとか、そういったもの。
それにしても、よく似ている。そうこの絶妙に自分を苛立たせる、この目とか、よく似ている。
どうしようかと思っている間に、そいつは勝手に車の助手席に乗り込んできた。
「勝手なことするな」
じゃあこのまま歩いて行けってか。
歩くには少々、広すぎる大地だ。

車は与えられなかったようだ。そのかわりに酒を持っている。飲むか、と聞いてくる。飲むわけがない。飲酒運転は法令で禁止されている。地獄に法律があるかどうかは判別し難いが、法律があった場合、破るともっと下に落とされるかもしれない。
断ると、そうか、と言う。物分りの良いやつだ。昔はこんなんじゃなかった。他人のバイクに勝手に乗ったりする。今もこの車に勝手に乗ってきた。ということはこいつは。
いやこいつが地獄にいるわけがないから、昔とかないんだった。

その男はスコットをスリムと呼ぶ。なおさら誰かみたいだ。
どこに行くんだ、と彼は問う。
わからない。わかったら困っていないし、わかっていたら、多分、こいつはいない。

敵がいないから、爪もブラストも必要がない。
スコットの知っている誰かによく似たこいつが、爪を出すこともない。だから、もしかしたらそいつじゃないんじゃないかと、安心することができる。
スコットは、彼が夜寝ているときに、気が抜けたのか爪を出しているのを見たことがある。暫定地獄には昼しかないので、眠りもない。そうすると、彼が鋼の爪を持っていると確認することができない。
知らないひとだと思うことにする。知らないひとの割に、馴れ馴れしく話しかけてくる。
適当に返事をしていると黙る。知らないやつならいいのだが。

標識はなかった。それともスコットに見えていないだけで、一時停止でもあったのか。
「オレはここで降りる」
そうか、誰だか知らないけど、こいつにはぼくとは違う行き先があるのだ。スコットは安心した。こんなのと世界の果てまで行くんだなんてことは、あまり想像したくない。
引き止めないのか。
「引き止めない」
第一、ぼくがお前を引き止めたことなんてあったか。
スコットの知る誰かによく似たそいつは、苦笑いしてスキットルを手に取る。

そいつは歩いて行く。スコットはその姿が見えなくなるまで眺めていた。彼の姿が地平線に溶けて、いや、地平線に辿り着く前に消えていたのかもしれなくて、そのほうがよかったんじゃないかと、思う。消えた先に穏やかな場所があるのではないか、でも、そこでもう一度出会うことなんてないんだろう。ぼくとあいつは違うところにいる、それでよかったんだ。相変わらず標識もなにもない、なのに彼は迷わずに歩けるらしく、そのときの感情をスコット・サマーズは名付けられずにいる。
それは祈りに似ていて、だからこそ、彼には届かないものだった。

車は与えられていて、同行者もいた。今はいない。
スコットはアクセルを踏む。
そのうち、この道の果てまで行って――旅は終わる。

2018-07-18

送信中です

×

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!