彼が家にやってきてから、おれはずいぶんと多くのものをなくしてしまった。
家計簿につけ忘れたレシート、鍋、カビたフローリングの端、来年こそは着るからと大掃除で捨てなかった服、曲の構想を書き付けたノート、鉛筆ホルダー、もらいものの万年筆。数えられるのはこのくらいか。
数えられないものもたくさんある。覚えていなかっただけともいう。こころなしか部屋がすっきりとしてきたような気がする。
さっきもハサミがなくなっていたことに気がついた。普段だったらリビングの上から二番目の引き出しに入ってるのに。
窓からベッドに冬のつめたい光が差し込んでいた。その光の中に、ひとりの少年がいる。おれが高校生のころのクラスTシャツとジャージをゆるく着て、おれのベッドに座り込んでいる。彼がやってきてから、おれは床に布団を敷いていて、ベッドは客人に譲っていた。
「ハサミどこ?」
「ハサミならぼくが使ってるよ」
尋ねると、少年は右手に銀色のハサミを掲げてみせた。まだあってよかった。
「そっか」
「だってこれ切ったほうが食べやすいし」
彼が示したのは革のベルトだった。もちろんそれもおれのものだ。ハサミで切り、一口大になったそれを口の中に入れていく。噛みながらまたベルトを切る。口の中に入れる。噛む。
ベルトとか、布とか、ふつう食べるものじゃないものを食べている少年にも、もうとっくに慣れてしまった。
「おいしいのか?」
「おいしくはないけど」
第二次性徴前のソプラノが軽やかに答えた。
いらなかったものたちとは違って、あのベルトはけっこう使っていたんだけれども。いや曲の構想だってなくしちゃいけないけどまた考えればいいし。そういう問題ではない。でも仕方がない。彼と暮らすというのはそういうことだ。新しいベルトを買えばいいのだ。それもまた食べられてしまうのかもしれないが。
彼は何もかもを食べるためにこの星にやってきた。らしい。
十二月も半ば、街はクリスマスムードに浮かれ、コンビニでは安っぽいケーキの予約依頼を受けている。今日も五台の予約があった。よかった、ノルマは達成できそうだ、と思いながら、バイトのシフト終わりに家まで歩いていた。その十五分くらいの間にも新しい曲のアイデアを考えなければ、と、頭の中で音を並べていたのだが、どうにもうまくいかず、そんな折、三つ向こうの街灯の下にひとを見つけたのであった。
最初はゴミ袋だと思った。でも二つ向こうになったときにはわかる。頭があり、足がある。あれは人間だ。丸く転がっている人間。
おれはそれに向かって駆け寄った。真夜中の道に自分以外に人の気配はない。雪こそ降っていないがコートとマフラーがなければ寒くて歩いてなんかいられないくらいの時期だ、こんなところで寝ていたら下手すると命が危ない。
足元にいる彼――もしかしたら彼女かもしれない、その身体はいまだ未分化であった――はまだ小さい。黒い薄手のポンチョのようなものを着ている。少なくとも自分よりは年下だろう。というかこどもだ。
えっと、その、救命方法なんかわからないけれども、しゃがみこんで、とりあえず抱き起こそうとする。その時、彼の口が動いていることに気が付く。何かを食べているようだった。横になったまま、何を食べているのだろうか、と思ったら、手を伸ばして、転がっている石を口に入れているのであった。
がりがりという音がする。噛み砕けているのだろうか。
ともかく、普通の状況ではない。お腹が空きすぎて、おかしくなってしまったのかもしれない。どうすればいいのか途方にくれて、ああでもとにかく救急車かな、とか慌てていたところ、それはぱちりと目を開けた。黒い瞳。どうしてだかはわからないけれども、吸い込まれそうな黒。無限に広がる宇宙みたいな黒い瞳を持ったこどもは、
「ぼくの名前は?」
と言った。
「え?」
「ぼくの名前をつけてよ。名前ならあるけど、この星のひとには、発音できないだろうから」
ぼく、というなら、おそらくは少年なのだろう。それはわかったけれども、この星、とか、そういったことはまるでわからない。
「何言ってんだ、きみさ、警察呼ぼうか?」
「ぼくは空から来たんだ」
少年は身体を起こし。上の方を指差した。元気そうで何よりだが、相変わらず何を言っているのはわからない。
「ここの言葉で表すなら、宇宙人かな」
その時冬の風が吹いた。彼の身に纏っていたポンチョがめくれる。素肌の上に直接着ていたようで、彼のあらわになった胴体を見ることとなった。
「う、わ」
ほんとうだ、これは、ほんものだ。
少年の胸にはぽっかりと穴が空いていた、直径十センチほどのまんまるの穴があって、向こう側まで貫通している。血が流れている様子もないし、もしこれが傷だったらとっくに死んでいるはずだ。傷でもなんでもなく、ただ、穴が空いている。断面はつるつるとしていて、月の光を反射している。
おれはそれを見てしまった。
宇宙人かどうかはともかくとして、少なくとも人間ではありえない。
少年はそれを隠した。さっきのそれがほんとうだったのかを確かめるために、もう一度服をめくろうとしたが、彼は首を振った。
そしてもう一度言う。
「だから、名前をつけてよ。はじめて会った、この星のひとだから」
名前、名前をつけてほしいらしい。肌は街灯に照らされて白く、髪は夜のように真っ暗で、宇宙の底の瞳を持つ彼。それから胸に空いた穴。それらはすべて非現実的だった。なのに腕の中にいるこの体温はどうしても現実だ。動揺した頭で、どうにか、ひとつの名前を探り当てる。
「――ハルカ」
しかし、それを口にした瞬間、苦い感情だけが心のなかに残った。これだけは口にするべきじゃなかった、どう考えてもそうだ、なのに、頭に残ったのはこの名前しかなかったのだ。
「やっぱなしで」
それなら何がいいだろうか? トーマなんかどうだろうか、だなんて考えていたけれども、
「いいね、それ。じゃあ、ぼくはハルカ」
少年は楽しげに言う。
「やめてくれよ、もっといい名前つけるからさ」
「いやだ、ぼくはハルカ。きみがそう言ったから」
どうしてここに来たのだろうか、というか何者なのか。宇宙人とか言ってるし、まあそれに関しては信じるしかないのだが、じゃあ、何をしに来たんだろうか。まさか侵略? 宇宙人と言えば地球を滅ぼしに来るのが定石だ。
あながち外れではなかった。
歌うように笑う、彼――ハルカは、この星すべてのものを、食べるのだという。
本来なら警察に届けるべきなのかもしれない。じゃなかったら病院だ。これはほんものの宇宙人なのだから。どう考えても一個人の家に置くべきものではない。もしかしたら自分のほうが病院に行くべきなのかもしれない。
だけれども。
「家とかあるのか?」
「この星にはないし、どこにもないよ」
「じゃあさ」
おれの家にでも来るか、とハルカに言ってしまったのは、どうしてだろうか。
大人ふたりが住むには狭いワンルームでも、大人とこどもならどうにかやっていける。食事代もかからないし。ハルカはおれの部屋にあるものを片っ端から食べていっていた。一日中。おれがバイトに行っている間にも。寝ている間以外はずっと。
もちろん、冷蔵庫の中にある『普通の食べ物』も、彼は情け容赦なく食べる。食べ物とそうでないものの区別がつかないみたいで、容器や包装も一緒に食べてしまうから、ゴミが少なくてすむ。
いろいろなものがなくなっていく中、まだこの部屋で生活できているのは、ハルカがまだ小さい少年の姿をしていて、その口もまた、小さいからだ。なんだかんだいって、おれのベルトを食べるのにも一日くらいかかっていた。
部屋からは出ないように言っておいた。また道端で倒れていたら今度こそ通報されてしまうだろうし、そうでなくても、草とか花とか電信柱とかその辺で食べていたら不審者扱いされるだろう。
朝起きたら自分の腕がなくなっている、なんてことがあるんじゃないかと思って、最初に確認したが、どうやら、生きているものは食べないらしい。
「生きているものには寿命があるからね。寿命が来てから食べればいいじゃないか」
「お前にもあるだろ」
「それはどうかな」
それはどうかな、って。
宇宙人だからってそんなことあるんだろうか。ここでナイフを取り出してじゃあ死んでみてくれとは言えないから、ハルカに寿命があるかどうかは今のところわからない。
わからないが、とにかくさまざまなものを食べている。とりあえずここにあるものは全部食べるよ、と告げられて、でもパソコンは食うなよと言っておいた。
あとはベッド。ベッドを食べるとお前の寝る場所がなくなるからな。
何を言っても基本的にハルカは穏やかに笑っていた。はじめて会ったときのつめたい瞳はあれから見ることはなかった。
「どうしてそんなに食うんだよ」
おれはキッチンで自分の分の朝食を作りながら、ベッドの上で寝転びながら解体した棚の破片を口に運んでいるハルカに言った。
ハルカは口の中に入っていたものを飲み込んでから、妙に間延びした声で答える。
「わかるから」
「何が」
「食べたものが」
「わかるってなんだよ」
「何って、全部」
おれには牛を食べたところで牛のことなんかわからない。味はわかるけれども、それもおいしいかおいしくないかの二択だ。もっと牛に詳しいひとは種類とか部位とかブランドとかはわかるだろうけれども、だからといって牛のそれまでの生活全てがわかるなんてことはないだろう。
おれはリビングに戻って、自分の机の上に今日の朝食を置いた。自炊しているとはいってもスクランブルエッグにトーストとトマトくらいだ。あとインスタントのスープ。
片付けようとしていたら、ハルカが机の上に置いてあったノートを手に取る。まだ使いかけなのだと、止める間もなく彼は無造作にページを開いて破り取り、口の中に放り込んだ。
「おい」
ろくに噛みもせず飲み込んでしまった。つるりとした喉にのどぼとけは見当たらない。
ステーキを食べてもガラスをかじっても同じ顔をする彼は言う。
「これは遠いところで作られたんだね。ここよりももっとあたたかい工場だ。機会じゃなくって人が作った。もともとの紙がどこから来たかはちょっと遠縁すぎるけど――車で運ばれてきて、店に並べられて、きみに出会って、きみはおおむねこいつを家計簿として使ってきた。十月分の支出は収入より多いみたいだけど大丈夫かな」
「いや内容はいいだろ」
前半部分はあてずっぽうでも答えられるだろうし、第一自分にも答えはわからない。でも家計簿をつけているとか、十月分がどうとか、中身を見ずにわかるわけがないし、この宇宙人の言っていることもほんとうなのかもしれない。
食べるとわかる、そういった種類のいきものなのだこれは。宇宙人なら仕方がない。悪の組織だったら解剖してどういう仕組みになっているのか調べてみようとなるところだが、おれは善良な一般人なのでそうする意思も技術もない。いやちょっと気になるけれども、ハルカが血を流しているところを見たいというわけではない。
しれっと家計簿の残りのページを食べようとする彼を制する。
「それって、大変じゃないか?」
「大変って」
「だって一日中食べてるじゃん。一日中何かをわかりつづけなきゃいけないってことだろ? 飽きる、っていうか疲れないのそれ」
おれは牛を食べたときに、牛のこれまでの来歴が情報として入手できたら、と考える。こんな親から生まれて、やさしい飼育員によってブラッシングされて、ミルクを与えられて育てられて、ブランド飼料を食べ、たまに人間のこどもと牧場で交流したりして、痛みなく殺された。
そんなのがいちいちわかっていたら、日々の食事なんかやっていられない。
だけれども、どうだろう、とハルカは言う。いままでずっとそうやってきたしと。
「ぜんぶおいしいよ」
ハルカはノートの残りも食べようとする。
おれはなんだか胸がざわついた。
こうもまあ、普通に、普通じゃなく、いられるんだと。
朝食を食べ終わって、適当に片付けて、ノートパソコンを開く。そうしている間にもハルカがのんびりと何かを噛んでいる音がする。
デスクトップにはメッセージの通知がある。『ミカサノ市大災害の真実とは!古代大怪獣VS宇宙人の証拠』だなんてブログ記事をメールでわざわざ送ってくるのは、大学時代の友人だ。その友人――タカユキは都市伝説を集めたサイトを作っていて、たまにこうやって宣伝してくるのだ。
将来的にはこのブログの広告収入で生きていきたいのだとかいう。それはちょっと無理なんじゃないか、とは言えないでいる。クリックしてはみたけれども、いつも通りトンデモな内容を各種資料できっちり裏取りした、真面目なんだか不真面目なんだかわからないブログだった。
まあ、いい年してこうやってインターネットで曲を発表している自分も似たようなものかもしれない、と思う。
先週配信した新曲『ライターズハイ』の再生数と通知を確認する。どうにか四桁再生の大台には乗っているようだった。コメントもちらほら。
『トキワさんの新曲、よかったです!』『今日もトキワさんの曲を聴きながら学校に行きました』『サビの進行がトキワサウンドって感じ』
コメントを流し見しながら、次の曲の構想を練る。この路線が受けるのはわかっていたから、今回の雰囲気で続けていけばいいのだろうが、ワンパターンでは飽きられてしまう。
おれは「トキワ」というハンドルネームでここ五年ほど音楽を投稿し続けている。
今まで書いてきた曲は、『ブルーアワーを走りきれ』、『さよならナイトトレイン』、『ミスティックべ―ジュ』、『レイニーデイズレモンサワー』、などなど。
大学在学中から人工音声シンセサイザーを使い、さまざまな楽曲を配信してきた。バンドを組む社交性はなかったし、ちょうどシンセサイザーの曲を聴いて育ってきたから、自分でもできると思ったのだ。調整すれば人間の声がするシンセサイザーは、ひとりで音楽制作をする上での大きな支えになった。
プロになるつもりはなく、あくまでも趣味の範囲で、というつもりではじめたのに、今では音楽を続けるためにパートタイムの仕事を選ぶようになっていしまった。他人よりは多少音楽が得意だから、やってみたら、見ず知らずのひとからコメントがもらえるのがおもしろくなって、続けている。当初から変わらない、ポップで疾走感のあるロックミュージックは、それなりに他人の心を掴んでいるようだった。
イントロは短く、キャッチーに、サビはわかりやすく、口ずさめるように、歌詞はエモく、言葉遊びをふんだんに。そういった定石を押さえて、現代のプラットフォームに適応しながら、自分のやりたい音楽をやっているはずだった。
動画配信サイトではちょっとした有名人だし、固定ファンもいるけれども、CD化する予定はどう考えてもなさそうだ、というのが「トキワ」の現状である。たまにSNSでバズるが、MADに使われて動画が大量に拡散されたところで、本体の再生数は上がらない。
『みなさん、新曲お聴きくださりありがとうございます。ライターズハイは、新しいサウンドを試してみたのですが、ご好評で何よりです』
自分のサイトの日記を更新する。思ってもいないことしか書けない。ここでのおれは息をするように音楽を書く、自意識のないアーティストだ。だからブランディングとしては正しい。おそらくは。
イヤホンを付けて、楽曲制作に入る。視界の片隅では、ハルカがシーツを食べようとしている。
「外に出たいな」
「やだ」
「外に出たいな」
同じ言葉を繰り返し続けるハルカにおれは答える。
「知り合いに会ったらどうするんだよ」
実際、知り合いは近辺にはあまり住んでいない。せいぜい、バイト先のひとがいるかもしれない、というくらいだ。でも、もし、万が一、会ったとして、ハルカが何者なのかを説明できる気はしなかった。自分のこどもにしては大きすぎるし、親戚にしても似ていない。誘拐してきたんじゃないかとか思われかねないのではないだろうか。
とか考えていたところ、急に霧が晴れたように、そんなことどうだっていいような気分になった。今までの不安が一切なくなってしまった。何だってできるような気がする。別にいいじゃないか、ハルカと一緒にどこかに行けば。
ハルカを見ると、得意げな表情をしている。一体何が起こったのだろうか。彼は笑って、自分の口を指差した。
「今ね、きみが外に出たくないなっていう気持ちを食べたんだよ」
「そんなことできるのかよ」
「そりゃねえ。ぼくは生きていないものならすべて食べることができるから」
そういうことらしい。ものを食べるのならば、感情だって食べられるのか。自分にはちょっとわからないが、とりあえず、さっきまであった外に出たくないという気持ちはなくなってしまった。
いろいろ考えたが、ミカサノ公園に行くことにした。遊園地や動物園に行くほどの金はないし、ハルカはただ外に行きたいとだけ言うので、それなら近くの、ただ中規模の公園でも問題がないだろう。
ハルカは大丈夫だと言っていたが、一月のこの寒さの中Tシャツ一枚で外に出すわけには行かないと、出かける前に近くの量販店でキッズサイズのコートを買った。シンプルな黒色のダッフルコートは、彼の黒髪によく調和していた。こども用の服なんて、布地が少ないんだから、そんなに高くないと思っていたのだが、それなりの出費となった。それを痛いと思わなかったのも、ハルカが外に出たくない気持ちを食べてくれたせいなのかもしれない。
ミカサノ公園までは家からバスに乗る必要がある。近くのバス停から、だいたい十駅だ。バスに乗っている間、ハルカはまるでおとなしいこどものように静かにしていた。借りてきた猫というやつか。いつも家で何かをずっと食べている伸びやかないきものと同じようには見えなかった。
バスから降りるとすぐにミカサノ公園だ。
「着いたぞ」
「いっぱいひとがいるねえ」
やはり、こども連れの親子が目につく。自分と同年代のひとの中には、こどもを持っているひともいる、ということを思い出してしまう。同級生から届く年賀状、公園でこどもと遊ぶ写真、おれが送り返したのはテンプレートを流用したおざなりなもの。そんなことを考えていたら、横にいるハルカはおれのコートの裾をひっぱって、あれに乗りたい、とブランコを指差す。
「乗ったことないのか」
ハルカは頷く。
運が悪いことに、四つあるブランコはすべて埋まっていた。ハルカとおれは並ぶことにする。
「なんで乗りたいんだ」
「見たことないから」
「見たことないものばっかりだろう」
「ぼくはけっこういろいろ見てきたよ」
こうしていると普通のこどもにしか見えないが、ハルカはそういえば、宇宙人なのだ。だったら、地球では思いもしないようなものを見ていたのかもしれない。そういったことも、聞いてみれば、新しい曲づくりのヒントになるかもしれない。
そうこうしているうちに端のブランコが空く。ハルカを座らせて、チェーンを掴ませて、離すなよ、と言う。
「わかった」
おれはハルカの背中を押す。ブランコはゆっくりと振り子運動をはじめる。こうしていると、ただの年の離れた兄弟みたいだ、と思う。ブランコはだんだん加速していく。高く、高く、振り子の頂点は上がっていく。小さいころは一回転するまでやったりしたけれども、はじめてのブランコでそんなことはさせられない。
加速に従って、ブランコを押す力も強くなっていく。
「どうだ、たのしいか?」
そうかもしれない、とハルカは呟いて、一番高いところで両手からチェーンを離した。
危ない、と思ったところ、ハルカは落下スピードを減速していき、ふわりと着地した。まるで重力なんか知りませんと言わんばかり――いや、重力なんか、食べてしまったのだと、言わんばかりに。
周りのひとたちがこちらを見ているのがわかる。携帯端末のカメラをこちらに向けようとしているひともいる。おれはハルカの手を引いてそそくさと公園を立ち去る。さすがに追ってまではこないみたいだ。バスに乗ってようやく、おれはため息をついた。
家に帰ってきたおれはブログを更新する。
『音楽を通して伝えたいことがあるというよりも、音が自然に降りてきて、それを書いているだけです。それがみなさんの心を動かすなら、これ以上のことはありません』
嘘ばっかりだ。
それから先、ハルカと外に出ることはあまりなかった。それこそ都市伝説になったりでもしたら困る。その代わり、おれはハルカが食べるためのものを買ってくるようになった。これ以上服とか皿とかがなくなったら困るからだ。最初はゴミ捨てしなくても勝手に部屋が片付くとか思ってたのに、本末転倒かもしれないが、この家で食べるものがなくなったらハルカがいなくなってしまうのではないかと感じた。
それに、ハルカは感情を食べたときのほうが、ものを食べるよりも満腹になるようだった。今朝も起きる前の億劫な気分を食べてもらったが、それだけでハルカはうつらうつらしてベッドで横になっている。おれはハルカの頭を撫でてからバイトに行く。
どうして撫でてしまったのかはわからない。同じシャンプーを使っているはずなのに髪はさらさらだった。もしかしたらこの行動の理由も食べられたのかもしれない。
ないほうが都合のよい感情というのはいくらでもあって、ハルカはそれをなくしてくれるからとても便利だった。ものを食べた時と同様に、彼は何を口にしても文句を言うことはなかった。バイトに行きたくないようなぼんやりとした気持ち、ノートパソコンを開いて未完成の楽曲に向き合うのが怖い気持ち、親に現在何をやっているのか嘘をつくのが後ろめたい気持ち、そういったものはぜんぶ、ハルカに食べてもらった。
おかげで身軽だ。
大きなものは『噛み砕く』までに時間がかかるらしいが、ちょっとした罪悪感なんかはすぐになくなる。
「ここには食べるものがたくさんあってうれしいな」
「いつまでここにいるんだ?」
「食べるものがなくなるまでかな」
満腹のハルカはいつだってたのしそうだ。赤子みたいに、ものを食べるか寝るかくらいのことしかしない彼は、しかしいつ見たって、愛らしくまるい瞳でこちらの様子をうかがっている。これを見ていると、なんだか今日も頑張れるような気がしてしまう。
梅の香りがほのかに風を伝ってやってきている。おれとハルカはベランダに出て、街の風景を眺めていた。外に出かけなくても、外の風に当たることはきっと、いいことだ。とはいっても、アパートの三階からの光景だ、絶景とまではいかない。それでも、マンションや民家のカーテンから漏れる微かな光は、ハルカにとって興味深いものだったらしい。
「光も食えるのか?」
「もちろん」
食べてみせようか、だなんて笑うけれども、それはやめてほしい。この辺り一帯が原因不明の停電に見舞われることになるだろう。
まるくてしろい月が温度のない光を地表に放っている。まるではじめて出会った日と同じ月みたいだ、ハルカにそう言ったら、どこにも同じ光なんかないよと返された。どこにも同じ月はないし、どこにも同じ星はない。どこにも同じ日はない。この前とは角度がちょっと違うでしょう、電柱と月のなす角度が、ほら、って言われても、おれにはまだわからない。
月とか太陽の位置が毎日変わっているというのは、学校で習ったから知っている。だからといって、目視で理解できるほど、おれは世界をきちんと見ていない。
わかる日が来るのだろうか。
「じゃあお前にとって変わらないものって?」
「うーん、そうだね、これとか、どうかな」
彼はおれの手を取って、彼の胸に当てさせた。普通だったらやわらかいはずのそこには、まんなかがくぼんでいて、周りには硬い縁のようなものがあると思われた。手を外す。冷たくはなかった。宇宙人だっていうのに、人間みたいなあたたかみがあった。その代わり、なんか妙な感触が、あったけど。
彼は自分の胸の中央を指差して言う。
「ここには穴が空いているんだよ。だからぼくたちは服を着るんだ」
それは最初に出会ったときに知っていた。彼が服を着ているから、意識することはなかったけれども、彼の言を信じるなら、宇宙人で、そして胸には穴がある。
「なあ、その穴、見せてもらうことってできるか?」
ハルカは黙り込んでしまった。もしかして、よくないことを言ってしまっただろうか。そもそも、これって、他人に服を脱げって言ってるってことだ。地球人相手だったらセクハラだ。宇宙人相手だって多分そうだ。そして彼は答えた。
「いいけど――外はやだなあ」
監視カメラとかあるかもしれないだろ、と言う。なんだ、そっちか。
部屋に入ると、彼は電気をつけて、カーテンを閉めた。ベッドに座って、ハルカはシャツのボタンに手をかける。おれは部屋の隅にいた。見てはならないものを見るような気がして目をそらす。ノートパソコンを開いてなんでもないファイルを開こうとしては何をしているんだっけと我に返る。当然のことだが、ハルカが服を脱いでいるところなんか見たところがなかった。風呂だって当然別に入るのだし、着替えをわざわざ覗くこともない。少年であってもこどもの着替えを自分から見たいと思うのはどうかという意識くらいはあった。見ないようにしていると逆にそれはどうなんだという気がしてならない。
これから見るのだ、彼の胸の穴を。彼いわく背中まで空いている穴。背骨とか肋骨とかどうなっているんだろう、と考えることによって罪悪感のようななにかから逃げようとしている。最初に出会ったあの日、見た、あの空虚。
そうこうしているうちにハルカはボタンをすべて外し終わっていた。肌着の上からもくっきりと穴の輪郭が見える。手のひらではぎりぎり覆えないくらいのサイズのそれ。
ハルカはいいかい、と聞く。
「いいよ」
そう答えると、ハルカは肌着を脱ぐ。
彼の上半身があらわになる。
おれはそれを見る。
自分の上半身を鏡で見たのとほぼ同じだ。彼のほうが多少筋肉が少ないっていうのと、胸の真ん中に丸い穴が空いていて、向こう側のカーテンが見えるってこと以外は。出来の悪い合成のようだったが、斜めから見ても、何も変わらない。
「どうして近付かないの?」
ハルカはいつもの笑顔ではなかった。表情というものを作ることをやめてしまったかのような顔。だからこそ、彼の造作のうつくしさが際立った。まるで人形みたいだ。
近付いていいんだ、と、一歩ずつ前に近付く。しまいには彼の肌に簡単に触れられるくらいの距離まで来た。穴の中を覗き込む。骨はない。内側は黒いガラス質で覆われているように見えた。蛍光灯の光を反射してつやつやとしている。どうなっているのだろうか。
「触っても」
いいかと発する前にいいよと言われた。まるでその答えを待っていたのかのように。
おれは彼の胸の真ん中に手を差し伸べる。トリックでもなんでもなく、手首まで通って、向こう側へと突き抜けることができる。ハルカの体温を手の周りにぼんやりと感じる。生きているのだろう。それはわかっていたけれども。生きているのだ、彼は。人形などではなく。こんなに無機質な中身を持っていても、肉体を持って、行きているのだ。そしてガラス質の内面に触れる。今までにない熱を感じた。なるほど、内臓に直近しているからなのか、と、納得する。だけれども皮膚のはかなさはなくて、あくまでもガラスのつやめきがおれの指と彼の内蔵を隔てていた。撫でてみると、思っていたよりもさらさらと、抵抗なく手のひらを動かすことができた。なんだかおもしろくなってしまって、内側を撫でさすると、ちょっとくすぐったいよ、と言われたのでやめた。
おれはハルカから離れる。ハルカは相変わらず無表情だし、胸に穴は空いている。
もう服を着てもいいかな、と言う。
もういいよ、ありがとうと答える。
その夜、おれたちは彼のベッドにならんで座って夜通しはなしをしていた。
「生まれたときからこうなのか?」
おれはハルカの服の下にある穴を指差した。
「そうだよ。まず穴があって、そこからぼくらは発生する。ぼくらはそうやって生まれる、らしいよ。空白から生まれて、いつか空白に還る」
「不思議だな」
おれにはまるで想像がつかない。
そもそも穴って、周りになにかがなければ存在しないはずだ。存在する前にある穴って、なんなんだろうか。
人間も、どこからどうやってきたのかなんて、完全にはわからないのだから、同じようなものなのかもしれないが。
「存在の秘跡なんてどこでだってそんなものさ」
少年の見た目をした宇宙人は、十分に成熟したひとのように答えた。
おれはいつも、ハルカに聞いてみたかったことを尋ねてみることにした。
「宇宙には何があるんだ?」
「あまり覚えていないんだ。ぼくはほんとうはもっと、もっと、食べなくちゃいけないのに、食べないから、記憶を維持できないんだよ」
「これより食うのかよ」
「ぼくの兄弟たちは、一日で星ひとつを食べるんだ」
「お前は?」
答えは聞かなくてもわかる。この小さい口で、地球を食べるには、きっと数百年はかかるだろう。
ハルカはだいたいものを食べているか寝ているかだから、こうやって話すことはあまりなかった。
「例えばだけどさ、夢って食えるのか」
「夢?」
ハルカは目を細めた。しばらく口を開けたり閉じたりしてから、
「どれのこと?」
と言った。
おれは、まあいいや、忘れてくれ、と告げる。ハルカは小首をかしげて、じゃあいいか、と言う。
ハルカの中身――というか穴に触れてみたところで、なにかが変わったわけではないけれども、前よりもハルカとなかよくなれたような気がした。一緒に公園に行ったときよりもずっと。
ハルカは相変わらず部屋にあるものを食べていた。それを見ているだけでもどことなく満足感がある。ものは減っていくのに。
『ミカサノ市古代宇宙人の謎!胸に穴の空いた巨人!』とかいうタイトルのブログ記事がまた送られてくる。タカユキだ。流し見してスルー。いや、胸に穴の空いた巨人? 巨人ではないけれども、胸に穴の空いた宇宙人は、今ここですやすやと眠っている。
一応中身を確認すると、前回の更新の続きで、ミカサノ市の古文書には江戸時代に怪獣が現れた記録があって、それを退治したのが胸に穴の空いた巨大な人形のいきものだったのだとかいう。驚くべきことに、突然現れた巨人は、暴れる怪獣を取り押さえて貪り食ったのだという。その巨人は、怪獣を食べ終わると横たわって、それが今のミカサノ山になったのだとかいう。
もしかしたら、ハルカの同種の宇宙人だったりするのだろうか? だなんて思ったけれども、ハルカはこんなにも小さい。怪獣を食べることなんかできないし、ましてや戦うことなんかできないだろう。
楽曲制作は滞っていたが、生活そのものは充実していた。ハルカも、ものばかり食べていたら不満だろうと、ちゃんとした食事を買うようにしはじめた。自分ひとりじゃ絶対行かない、ちょっといい洋菓子店でシュークリームを買ったりもした。それでもハルカは時間があるときには部屋のものをかじっているのだけれども。
ひとりで生活することだけを考えていたバイト代では多少足りなくなってきて、シフトを増やした。
シフトを増やしてつらいという気持ちもハルカに食べてもらったから、何の問題もなかった。ハルカが勝手におれの感情を食べることは、最初の一回以外はなかった。
あのあとも、たまに、ハルカの胸の穴を触らせてもらうことがあった。そのつるつるとした感触におれはどことない満足感を覚えた。ハルカはおれを拒絶しなかった。
そんな日々は、そう長くは続かなかった。
ハルカが家にやってきてから、おれはずいぶんと多くのものをなくしてしまった。
おれはそれでいいと思っていた。最初からろくなものを持っていないんだから、食べられて、消えるんなら、それでもいいんだと。
でもこの光景はなんだ?
それはある朝のこと。ハルカはまだベッドに横たわっている。朝食を用意しようとしたときだった。不意にリビングを振り返ったら、存在したのは信じがたい光景だった。
机の足の半分はないし、棚は三分の一も残っていないし、食べかけの本が散乱している。カーペットの端はちぎられていて、出かけるにもベルトはないし、皿も自分の分しかない。マグカップの取っ手はなく、カーテンもなくなっていて、何も知らない陽光がベッドに影を作っていた。
無事なのは電子機器くらいだ。生活できているから気付かなかった。
気づきたくなかった。
生活がとっくの昔におかしくなっていることに。おかしさをハルカに食らわせて普通に生活していただけだということに。
「出ていけ」
おれの作る朝食を待っているであろうハルカに言う。
自分でも驚くくらい冷たい声だった。
「どうして」
「どうしてもだ」
この気持ちもハルカに食べさせればなくなるのだろう。そうすればまだハルカと暮らせるのだろう。
だがその先に何がある?
わかった。ハルカはベッドから飛び降りて、すたすたとドアの方に歩いた。振り返ることなく玄関に向かった。おれは思わず目を背けた。鍵の開けられる音がする。ドアノブの押される音がする。ドアの閉まる音がする。
そしてこの部屋にはおれひとりになった。
「どうしよう、この部屋」
なくなったものは、買い戻さなければならない。その前に、部屋を片付けないと。一ヶ月ほどで散らかり、荒らされ、穴の空いた部屋は、数時間でもとに戻るわけがなかった。おれはバイトに行く。当然行きたくなかったけれども、当然その気持ちはずっと心のなかにある。
そんな状況であっても、新曲を作らなくてはならない。最低でも月に一回は更新しないと、ファンは離れていってしまう。家に帰ってきたおれはノートパソコンの前で途方に暮れる。『丸の内進行』でもすればいいのか? 使えばウケる要素はなんだって使ってきた。順列組み合わせのように曲を作ってきた。売れた曲を分析して歌詞を書いた。それでよかった。それである程度の反応がもらえるんだからそれでよかった。
じゃあどうして今それができないんだ?
からっぽの部屋で、おれはクッションに倒れ込む。天井には蛍光灯がある。月の光ではなくて。あの時みたいな月ではなくて。
ハルカの連絡先なんか知らない。携帯端末を持っているはずもない。だってあいつは宇宙人だから。
夢を食べてくれたらよかったのに。ハルカがこの夢を食べてくれたら、自分を理解してほしい、だなんていう望みを、捨てさせてくれたら、こんな思いはしなくてすんだのに。
ハルカが。ハルカが全部捨てさせてくれたら、こんなことにならなかった。
そう、ハルカが。
おれはノートパソコンを開き、いくつかクリックして、あるフォルダまでたどり着く。
これは最初に作った曲。
タイトルは『ハルカ』。
高校生のころ、好きだったひとのために書いた曲だ。
思いを告げることも、もちろんこの曲を聴かせることもなかった。他のひとにも聴かせたことはない。
紺のセーラー服、常磐色の鞄。前下がりのショートボブ。記号ばかりがよぎって、彼女の姿はおぼろげにしか思い出せない。卒業アルバムでも見れば、写真がいくつかあるんだろうけれども、そんなものは実家に置いてきてしまった。
なんなら、あの宇宙人のハルカに出会うまで、このタイトルは頭のどこかに封印していた。ハルカは、彼女にどこも似ていなかったのに――いや、似ていた、あの瞳、宇宙を思わせるような、吸い込まれそうな、黒。それだけは、とてもよく似ていた。
おれは再生ボタンを押した。何年ぶりだろうか。完成した瞬間に、聴くことなんかやめてしまって、でも、消せなかった曲。メロディアスなトーンに調整の甘い電子音声が韻律もなにもないリリックを奏でる。技術的には今に遠く及ばない曲だ。遠い夏の日とか風になびく髪とかべたべたの表現しか使われていないし、ひとりよがりで誰かに聴かせようという意思が見えない。
こんなものを世に出したところで、たいした評価はされないだろう。そのくらいは、わかる。
だけれども。
この曲を作ったときの、自分の気持ちは、たぶん、ほんとうだった。
今とは違って。
おれは画面をじっと見つめる。音楽再生プレイヤーのアイコンが動いているのを見る。見ていたところでなにも起こらない。
ベッドを見やる。誰もいない。誰もいないように、したからだ。
かちゃん、ペンが机から落ちる。拾い上げようとしたら、地面が揺れていることに気付く。なんだ、地震か、と思ったが、なかなか止まらないし、地震速報も来ない。
しかも、揺れはどすん、どすんと周期的にやってくるし、どんどん大きくなってくる。
これはなんだ?
おれはカーテンを開けて窓の外を見る。
そこには信じられない光景があった。
ミカサノ山の方に、大きなライオンに似た四足の生き物がいた。ヘリコプターから放たれる光で照らされながら、のそりのそりと歩いている。高圧鉄塔よりもだいぶ背の高いそれは、山から街に向けて降りてきているようだった。炎を吐いたりする様子はない。映画みたいだけれども映画じゃない。道端に宇宙人が落ちていたかと思えば、今度は大きなライオンだ。非日常に怯えながらも、おれの心臓は高鳴っていた。
急いでSNSを確認したら、同じ地域にいるひとたちはみなあれを見ているようだった。写真が投稿されている。フェイクニュースじゃないか? だなんてコメントが付いているが、この目で見ているからわかる、これは、現実だ。
携帯端末の着信音が鳴る。
『おいお前あれ見てるか?』
『怪獣だよ、怪獣』
タカユキからのショートメッセージだ。
『見てる』
そう送ると、スタンプがひとつ返ってくる。I got it。
サイレンが鳴り響く。近隣住民の方は避難してください、とエコーのかかった声が告げている。
避難って、どこに? 日頃避難訓練にろくに参加していなかった報いが今来たようだ。でも、ここにいたら危なそうだ。何を持っていけばいいだろうか? 携帯端末とノートパソコンと、何をリュックに詰めようかと右往左往していると、また揺れが強くなる。こっちに近付いてきているのだろう。
道なんか関係なしに、その怪物は市街地へと歩いていっていた。がしゃん、がしゃんと、何かが壊れる音がする。きっと家が踏み潰された音だろう。ベランダから道を見下ろすと、逃げ惑っているひとたちが見える。こんなことをしている場合ではない。
先程まで不明瞭だった顔もだんだんと見えてくる。それは、見かけ上はライオンに似ているが、その瞳は緑色に発光していた。たてがみに当たる部分は灰色の綿毛のような質感で、たまにぱちぱちとスパークしていた。体表には鮮やかなネオンブルーのラインが走っている。
近付いてきてみると、思っていたよりもずっと大きい。
荷物なんかまとめている場合じゃない、と、おれは急いで玄関から出ようとする。鍵をかけたままだった、外さなきゃ、ひねっているのに開かない、どうしてだ?
その瞬間、視界がまっしろになった。思わず目を閉じる。
眩しさが収まってきて、目を開ける。誰かが呼んでいるような気がして、窓の方に振り返ると、そこにいたのは巨人であった。
大きなライオンと同じくらいの大きさの。
おれは窓に駆け寄る。バルコニーから身を乗り出す。
あれは。
あれはハルカだ。
だってあれはおれのクラスTシャツだ。だってあれはおれのジャージだ。だぼついたそれらを身に着けて、おれのベッドで寝ていた時と同じような姿で、ただただ、怪獣と同じくらい巨大であった。
「ハルカ!」
おれは叫んだ。彼に聞こえているのだろうか。この地上からの叫びが。
その巨人――ハルカが振り向くことはなかった。その代わり、ハルカは怪獣の方に向かって歩いていった。そして、怪獣の頭を掴んだ。
じたばたと抵抗する四足の生き物を両手で押さえ込んで、ハルカは大きな口を開けてそいつの頭をかじった。巨大生物の頭はなくなり、ハルカはもぐもぐと咀嚼していた。まるでベルトでも食べていたときのように。怪獣の首からはどくどくと血液らしき液体が流れ出している。
辺りを飛んでいたヘリコプターも、ハルカの出現には困惑したようで、一定の距離をとって見守っている。
頭のなくなった怪獣は倒れそうになるが、ハルカは街をかばうように右手でその胴体を受け止めた。左手で左前脚を千切り、口元に運ぶ。グロテスクでありながらも、どこか神聖な、その光景をおれは見ていた。
ハルカは生きているものは食べないだなんて言っていたのに。もしかしておれたちのためにあれを食べてくれているのだろうか。
ハルカはそのまま後脚も食べて、胴体も食べて、巨大生物を食べ尽くしてしまった。ハルカ、おれは叫んでいただろうか。彼は一度だけこちらを向いてくれた。巨大な黒い瞳がおれを見ていた。それから小首をかしげて笑った。
家のベッドの上で朝日を浴びていたときみたいに。
視線が交わったのはその一瞬だけだった。ハルカが両手を上げると、光の柱が空から降ってくる。銀色と青の混じったその光が周囲を席巻し、光が消えたら、同時にハルカも消えていた。
壊れた街と、旋回するヘリコプターを残して。
「あれ、おいしかったのかな」
おれは呆然と呟くしかなかった。もしも次に会えたら、聞いてみたいものだ。
次の日のニュースは昨日の巨大生物の話題で持ちきりだった。建物はたくさん壊れたものの、奇跡的に怪我人はいなかったらしい。
『あれは地球の破滅の前触れなんですよ』
訳知り顔のコメンテーターがテレビの中で喋る。おれはテレビの電源を消す。
『前アップしてた記事、ミカサノ市大災害と宇宙人のやつ、あれソースどこ? 』
『三笠野風土記だけど』
タカユキにメッセージを送るとすぐに帰ってきたし、一応これ、と画像を添付してくれた。山より大きい巨人と、獅子のような獣が戦っている図。その横にくずし字で何行か書いてあるけれども当然読めない。
『この前のあれさ、多分これだよな』
『そうそう!だけど、警察とかに資料提出しても誰も信じてくれないんだよな』
『おれは信じるよ』
なんてったってその巨人と――小さなこどもの姿をした宇宙人と、おれは一緒に暮らしていたのだから。
一週間後、おれは「星を食べる少年」という曲を動画配信サイトにリリースした。空から降ってきた少年が、石、植物、皿、なんでも食べていって、最後には怪獣を食べて空に帰ってしまうという、バラード調の曲だ。
『もしかしてあの巨大生物の曲?』『だとしたらファンシーすぎない?』『いつものトキワっぽくない』
今までの作風と違ったからか、案の定、既存ユーザーからの反応は悪かった。
だけれども。
おれはそれでもよかったと、思っている。思ってしまっている。何も伝わらなかったのに。何かを伝えたかったということを、優先してしまったのを、青い考えを、今更実行してしまったのをよしとしてしまっている。
「これからどうしようかなあ」
『トキワ』はポップなロックを作るための機械だった。おれはその機械から吐き出された曲をリリースして評価を受け取って喜んでいた。
『ほんとうにやりたかったこと』なんてもうどこにもないけれど、ハルカが夢を食べないでいてくれてよかった。
梅の季節は終わり、早い桜が自宅から近くの踏切のそばに咲くようになった。おれは花を横目に、今日もバイトに向かう。今度はひな祭りのケーキを売らなくてはならない。
巨大生物が出てこようとも、巨人が夜に現れようとも、町が多少壊れようとも、おれの日常は変わらなかった。
ハルカが去っても。
おれはこれからも曲を作ってアップロードしつづけるのだろう。どんな曲になるかは、これからまた、決めることになるけれども。
おれは道に落ちていた石を手にとった。これは地球の一部で、ハルカが食べようとしていたものだ。それを口に含んで、噛み砕こうとしたけれども、人間の歯には荷が重かったようで、噛める気配はないし、もちろんなにもわからない。
空を見上げる。そこには太陽があって、太陽は地面に影を作っていて、おれはたったひとりで歩いている。
宇宙人が道に落ちてなんかいない。
2021-11-15
※コメントは最大500文字、5回まで送信できます