なんかいろいろばたばたしていてぜんぜんこちらが書けていなかった。2025年紅白からこちら、なんやかんやタローマンとその周辺でずっとめちゃくちゃになっていました。突然山口一郎さんが神棚の下に紅白で使ったタローマンの棒を飾っている様子が投稿されたり、それに藤井監督が「太陽が昇る場所に神棚をまつるのはとても良いことだと言われています。」と引用RPしていたりして、えっその紅白のパフォーマンスってやっぱりタローマンの概念的顕現だったんですか?!になったりしていた。タローマンがどんどん現実に現れていく。
そうこうしていたら1月18日に109シネマズ大阪エキスポシティでべらぼうフィナーレ上映祭が開催された。わたしはその日は仕事だったので行けなかったのだが、レポがたくさん流れてきたのでほんとうに助かった。そしてさまざまなレポを総合するとこうだ。
藤井監督が山口一郎さんの衣装と、山口一郎さんが紅白で振り回していたタローマンの棒(通称べら棒、藤井監督製)を借りてきて、新宝島を踊っている(偶然なのかわからないが、5人で)
映像は個人の方が撮ってくださっているものがいくつかあるので検索してもらいたい。当然ながら、新宝島とタローマンは一切関係ない。というかなかった。2025紅白までは。山口一郎さんが突然べら棒を取り出すまでは。山口一郎さんはタローマンを紅白に連れて行ってくれた。今度は藤井監督が山口一郎さんをべらぼうフィナーレ上映祭に連れてきてくれたのだろう。わりと不思議な状況なのだが、タローマンというコンテンツにはこれを許す力があると思う。
ここからは解釈の話なのだが、山口一郎さんが映画で着ていた衣装を身にまとって新宝島を踊っている藤井監督(withべら棒)は、見立てとしてフィクション山口一郎(映画のラストでフィクションということになった「彼」のこと)だったのではないだろうか、と思える。スーツアクターがヒーロースーツを身にまとうことによって「ほんもののヒーロー」を顕現させるように。フィクション山口一郎は、フィクションなのだけれども、このような遠回りをすれば「そう」なのではないか、そしてその手に持っているべら棒も、2025年紅白で見立てによって「ほんもののタローマン」であった。ということはフィクション山口一郎(見立て)がタローマン(見立て)の手を取った(見立て)ということではないだろうか。見立てばっかりなのだが、「ない」ものって見立てるしかないし、そのほうがよほど「ほんとう」である。そういうことで絵を描いた。小説も描けたらいいですね。
よかったなあと思っていたら藤井監督のXの更新がある。全体的にとてもよかったのだが、一部を抜粋する。
岡本太郎も、そして山口さんも?言っていました。 「ぼくはきみの心のなかに実在している。疑う必要はいっさいないさ。そうだろ。」
この「山口さんも?」の「?」を読んだ瞬間に、よかった、と思った。それを言ったのが現実の山口一郎さんではないという留保がそこにあるから。完全にそうだと言いきるのでもなく、もしかしたら「そう」かもねというくらいの意味合いがそこにある。それに「そう、岡本太郎も言っていた」はタローマンの根底をなすことばであり、それに「山口さんも?」が加わることによって、山口一郎さんのインタビュー部分がタローマンというコンテンツの「真正性」を担保していた(過去形)という読みもサポートする。(タローマンクロニクルの山口一郎さんの帯文は二箇所あり、最後に載っているほうが本人コメントなのだろう。そこでもフィクション山口一郎がいるということはかなり明確なのだが、今回美しいかたちで表明されたと思う)
というかフィクション山口一郎も「心のなかに実在している」んだ……になっている。最近そういう読みになってきたのがサポートされてしまった。
正直なところ、これはモキュメンタリーの体裁をとってはいるが、そうではない、と言明するのはあまり粋なことではなく、わかっていても黙っていたほうがいいことなのだろうな、と思っていたのだけれども、でも、わたしはフィクション山口一郎が「いる」ことを知ってしまったため、いないキャラクターの話をするしかなくて、ずっとしていて、それが「?」の一字でやわらかく受け止められたような、そんな気がしている。
さて、8月22日に公開1周年イベントがあるらしいですね。行けたらいいですね。
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