なんか大仰なタイトルになってしまったが、ここからはじまるのは極めて私的なテキストであって、特に一般化できるようなものではないということだけ言っておきたい。この社会には回復、というか「普通」に戻すための力場があって、「逆境」から「回復」したとき、その「逆境」には価値があったということにするナラティブを発生させやすいという話をする。どういうこと?
要するに「つらいことがあったけど今は大丈夫だし、そのつらいことのおかげで逆にいいことがあった」みたいな話に丸め込まれやすいということである。これは、その「つらいこと」の渦中にある人間にとっては光となる可能性がある。「自分の状態は、いつか回復し、その結果として何かを得ることができる」というのは、希望である。その希望を否定するつもりはないし、人間が回復のプロセスを踏むことはよいことであるという認識をしている。
元に戻るものについてならそれでいいのかもしれない。しかし元に戻らない、というかむしろ、そもそもそのかたちではないものに関してはどうだろうか。
治る病気と治らない病気があり、後者は一般に障害と呼ばれる。後者の場合、投薬やらなんやらの結果として寛解することもある。寛解という状態がなく、薬を飲むと「普通」に生活することが可能ということもある。しかし治らないというのは事実である。治らないものに回復するというストーリーは発生しえず、なのに「そこから何か得られるかもしれない」という期待だけがうっすらと漂っている。
「善行は報われる」「悪人には必ず罰が当たる」「努力すれば成功する」などといった考え方のことを公正世界仮説という。何が言いたいかというと、なんらかの逆境、「普通」に対する不足が発生した場合、ここから「努力」して「元に戻る」といいことがある、という素朴な信念があるのではないだろうかということである。なお、公正世界仮説は認知バイアス、要は人間が持ちやすい考え方の傾向であり、特に正しいというわけではない。それでも、だ。それでもひとは回復のナラティブを求めてしまう。何かあるんだからいいことがあるんだと思いたい。
ここで自分の話を多少すると、わたしに発達障害の診断が出たのはここ数年のことなのだが、WAIS自体は大学院のころに受けていた。通っていた大学院の大学に発達障害センターみたいなのがあって、そこで受けて、まあそのときは診断出さなくていいでしょうになってたんだけど、その結果を持って病院を変えたら即座に診断が出た。(それ以前もずっと心療内科には通っていたが、大人の発達障害を診ているところではなかったので、病院を変えた)WAISの数字というより、結果を解説したときに言われたことをよく覚えている、「これは大変だったと思います」と言われて、大変だったんだなと思った。大学院に行けていた時点で恵まれているのは重々理解しており、しかしながら大変ではあった。その後一般企業に就労しようと何回かした結果、今はバイト+フリーの仕事+資格試験の勉強みたいになっている。資格を取ったところで正規雇用につける可能性はあまり高くなく、つけたところでついていけないのは目に見えている。
どういうことかというと、回復しないということである。いや、個人の中では「前よりよく」はなっている。しかし元には戻らない。元がないからだ。ずっと大変だったし今も大変だ。これから先もそうだろう。ここから何を得られるというわけでもない。わたしには「できること」がいくつかあるが、それは社会に寄与しない。というか、資本主義に寄与しない。資本主義に寄与することは可能だが、それ以外の側面が寄与を阻害する。オフィスにいることが苦痛とか、そういうことで。
ここでは回復のナラティブを発する個人を問題としているわけではない。回復するということにはひとに希望をもたらすこともあるだろう。自分の逆境をそのようなかたちで語ることを求める社会に対して話している。「もしかしたらこれがいいことだったのかもしれない」と思わずにはいられないような話をしている。というか「回復したんで大丈夫ですよ」と言わせているのはそもそも誰なのかという話である。世間に言わないと「大丈夫じゃない」ということになる。「大丈夫じゃない」のは「よくない」ので「大丈夫だ」ということにする。そうやって人は「回復」していくし、元の社会に戻ることが許されることになる。
許しているのは誰かという話をしている。誰だよそれ。この社会における「普通」というのは、勤労している人であったら「一日八時間、週五日以上働いている人」である。学校に通っている人であったら「学校に通えている」ことである。このレールから外れるととたんに「普通」ではなくなる。「普通」はそこに戻ることを要請する。戻ってきたらよかったねということになる。
壁と卵があったときに卵の側に立つ、オーケー、いい心がけだ。卵の側に立つひとがたくさんいて、あなたはそこから動けないかもしれない。あなたは花を踏んでいるかもしれない。あなたは足を動かせないかもしれない。花の名前を知らないとしても、あなたは花を踏んでいるのだと理解してほしい。理解したところで何にもならない。そうだね。なのにそのほうが多少はマシなのだと思う、それもまた誤謬のひとつであろう。
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