カテゴリー: 日記

この一ヶ月のもろもろ

ぜんぜん日記を更新できていない!!!!いやなんかばたばたしていたのと体調が微妙だったとか言っていたら一ヶ月が経過していた。たいへんだ。というかこのサイトを作ってからテキストよりもイラストの更新が多くないですか?えっと……インターネットに載せないテキストも書いているから……それはそうと最近更新分のざっくり解説とかそういうのをやります。

キュウの単独を見た

キュウの単独に行くようになってから3年が経つ。意外と経っていたな。寄席はあんまり行かないんですが単独が好き。キュウは基本的にギミックのある単独をやります。今回は幕間で話を進めていたのでそれぞれのネタに集中しやすかった(他のところでネタをやるときそのほうがやりやすいのはあると思う)(今まではネタ中に伏線が張ってあったんでシングルカットするときに編集してあった)今回はおもしろかったことを前提としてちょっと内向きすぎないか!?もあった。ここにしかないおもしろさなのはほんとうなのだが。漫才って「互いに興味がある状態の会話」なのだなあと思う。26日まで配信があるので気になる方はぜひ。今年も概念の絵を描きました。一年おきに描いていると絵がうまくなったのがわかるな。あとどこをどう見ているのかがわかる。

タローマン周りのいろいろ

タローマンは一周年で手を振ってお別れするんじゃなかったんですか!?と思いつつなんか……タローマンがサカナクション透明ツアーに花を出したし……年末のお礼ね……ということで小説を書いた。タローマンが同じことを二度繰り返すことなどないという話。もちろん紅白与太話とぼんやり関係がある。それと関係あるかはわからないが絵を描いた。こっちに手を伸ばしてきてるじゃん!!!!の絵。あと藤井監督と山口さんのツーショがあってよかったです。

なんでも食べるサンタワー(グリーティングのすがた)は高知ででたらめキッズが差し出したシールを口に入れようとしているサンタワー(頭しかかぶってない)の写真があったのでなるほどねと思って描いたやつです。

奇獣酒場アンソロに出したんで発行されたら感想とか書くと思います。コズミックホラー(怖くない)を書きました。

THE ROB CARLTON『VISITORS』に行った

 裏緑特技悲喜話がよかったのとおもしろそうだったので行った。二人四役テクニカルパワー系コントで楽しかった。この設定でどうするんだよを「パワー」でなんとかする瞬間のことを愛している。そういうのが好き。ポイピクに概念の絵を上げているけどもうそろそろサイトに載せてもいいのでは?

MCUサンダーボルツボブジョンの再録をした

こちらとなります。タイトルはズーカラデル「ダンサーインザルーム」より。このふたりに関してはちゃんと向き合ってほしい気持ちがあります。なんというか見せかけの「理解」があると逆に出会えないことってありません?なんか今年もそんな話をしていたように思いますが……それはそうとドゥームズデイが着々と近づいております。エンドゲーム再上映に行きたい気持ちはあるがあれ三時間ありますからね。長いよ。公開時三回行ったよ。推しの死に様を見届けるためにね……

あとはもりもり本を読んでレイ・ブラッドベリってよくない!?という今更のやつとか『プレゼント』の米澤穂信ってよくない!?みんないいけどさ!?をやったりしております。もうちょっと気軽に日記ページを更新したいよ!乞うご期待!

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もてなしの気持ちは伝わったほうがいい

ミステリには「日常の謎」と言われるサブジャンルがある。「人が死なないミステリ」に近いが、もうちょっと範囲が狭く、生活の中にあるささいなことの「謎」を解くものだ。わたしは米澤穂信「シャルロットだけはぼくのもの」(『夏季限定トロピカルパフェ事件』収録)が好き。シャルロットを食べたことを隠蔽しようとするだけの話なのだが……それだけでこんなに話が膨らむ。

現実の日常でも、「謎」としか言いようのないことはたまに起こる。ティラミスを6個トレイに乗せて電車から降りてきた人とか。食品サンプルだったのかな……大小二サイズあったのも妙だな……と思っているが、特に謎が解けるわけでもない。すれ違っただけなので。

今日はそのうちの一つ、「怖いラーメン屋」の話をする。お化けも怪奇現象もないので安心してください。

それはわたしが大学院生だった冬のこと、わたしと先輩は指導教員との面談時間が押しているとのことメールを受け取る。指導教員はすさまじく忙しい上に、めちゃくちゃよく喋り、それは学生思いということでもあるのだがほんとうによく喋り、アポイントメントの時間が押すことはよくあった。我々が院生だったのもあると思う。学部生は早く帰らせてあげたいですからね。そのときはすでに夜も8時となっており、学食は閉まっていた。さすがに夜ご飯を食べたい。ということでネットで検索して近くにラーメン屋があったのでそこに行くことに。

そのラーメン屋に行くのははじめてだった。大学からほど近いその店にはすぐに到着し、店員さんに二階に通された。一階には誰もいなかったのに。微妙に釈然としないところがありつつ階段を登る。

二階に上がると、わたしたちは顔を見合わせることとなる。

二階にも誰もいなかった。それはいい。それはともかく部屋が暗い。手元が見えないほどではないが、間接照明でおしゃれにしてますみたいな飲食店よりも暗い。

そして、壁にはカラフルなLEDの電飾が一周しており、ちかちかとまたたいている。この程度では暗さをごまかせない。ただ、小さな明かりが陽気に光っているだけだ。

BGMなどはなく、無音だった。

ホラー映画だったらこれから惨劇が起こるタイプの部屋だ。ラーメン屋なのに。

二階まで来て帰るわけにもいかないので、わたしたちは中央のテーブルにつき、ラーメンを注文した。しばらくすると、リフトから軽快な電子音がして、ラーメンが到着した。ラーメンはまずくはなかったが、おいしくもなかった。

ほどなくして指導教員から連絡が来て、面談を行ったが、何時に帰れたかは覚えていない。

身バレについては気にしないでほしい。なぜならこのラーメン屋をネットで探したのに見つからなかったからだ。大学の近くの中華料理店に、近い特徴を持つものはあったが、レビューをいくら読んでも二階の暗い部屋についてはまったく言及されていない。この店に行って二階に通された場合、部屋が怖かったことに言及しないの、無理じゃないですか?それを上回るほどおいしいならさておき……万が一同じ経験をしていて、もしかしてこの店じゃないかな?と思った人はDMとかクローズドな方法で連絡をください。夢じゃなかったんだ……と思えるので。別の店だったらそれはそれで怖いよ。

一応暗い部屋の謎電飾に対しては推測が可能であり、この出来事が起こったのは冬だ。確か12月くらいだ。ということはクリスマスの装飾のつもりだったのではないか?と考えるのがもっとも合理的だ。クリスマスだから店を華やかにしたかった。わかる。せっかくイルミネーションをつけたんだから見てほしいから二階に通す。わかる。わかるけどそれならもっと電飾を増やしたほうがいいし、部屋はもうちょっと明るくても電飾の光は見えるよ。もてなしの気持ちは伝わるようにしたほうがいい、もてなしの気持ちであったことを祈ります。

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トリックスターたちが家にいた

旅するトリックスターというプロジェクトがある。彫刻家の浅野暢晴さんが作っている陶器のアート作品であるトリックスターが、各地にホームステイをするというものだ。その様子は主にTwitter(現X)などのSNSで見ることができる。去年、そのホームステイ先の募集をしているのを見かけたので応募してみたら当たった。そういうわけで4月18日から5月24日まで、わたしの家にトリックスターたちがいた。

トリックスターにはさまざまな個体がいるが、わたしの家に来たのはこういうものたちである。

目がいっぱいある。後ろに目のついたなにかがいるような気もするが気のせいでしょう。おおむね机の上を定位置にしていた。そう、4月はちょうど同人誌の原稿をやっていたのである。かなり原稿を見守ってもらうことになっていた。あとは庭の植物たちと撮影したりもした。

外出するときは大きなほうは連れていけなかったが、いくつかの場所に行くことができた。

そんなこんなで1か月程度が過ぎ、今日トリックスターたちを返送した。代金を支払うことでトリックスターたちを手元に置くこともできたが、今回はそうしなかった。このようにひととき過ごしたものが、誰かの家に行くのがおもしろいのだろうと思ったので。なんらかの存在と日常を過ごし、そして誰かがまたそうしていくのだろうと思いを馳せるためのものだろうと思ったので。それはそうともしかしたらいつか別の個体を手元に置く可能性はある。土からできているのだからまあ遠縁といってもさしつかえないでしょう。

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香水を買った

誕生日だ!イェイ!誕生日は自分でめでたくしていくものですからね。そういうわけで香水を買いました。実は去年も買おうとしていましたが、カバンが急に壊れたため、カバンを買い直す代に予算が消えました。いや半年も経たずにカバンが壊れる予定はなかったんだ。なお去年買ったカバンは今も元気です。

わたしは香水がまあまあ好きなんですが、たくさんボトルを持つタイプではなく、一時期に一本ということにしています。理由は単純で、香水は基本的に一度に一種類しかつけられないからです。10mlくらいのはいいかなって買っちゃうことがあります。2年前に買った8mlがまだ残ってるだろって?でも気合を入れる時の香りだからそんなに減らなくって……あと好きだからもったいなくて……

「好きだからもったいない」を解消するためにある程度の量を買うという側面があります。香水は一定期間一緒に過ごしたほうがいろいろな側面が見られて楽しい。フルボトルのことを「ある程度の期間この香りと一緒に過ごせる権利」と思っているところがあります。あとシンプルにいい香りがするとうれしい。

とはいっても最近はあまり香水を買っておらず、その理由のひとつに職場につけていけないというのがあります。以前は大丈夫だったので仕事に行く用の香りを持っていました。そもそもそんなに濃い感じの香りが好きというわけではないので、あまりオフィス用という意識はしていなかったです。てかそのときは仕事用と趣味用を持っていたな。そのくらいは許されたい。

それからわたしはご飯を食べに行くときとか花を見に行くときは香水をつけないので、実はつけるシチュエーションがかなり限られています。なのに買うんですか?香水のことを若干時限式身体改造だと思っている節がありますね。それってファッションってやつじゃないですか?そうかも。

前置きはさておき買ったのはこれです。

Anthologieの「C’EST MUTINE(セ・ミューティン)」。フランス語で「反逆」の意。

これを選んだのにはいくつか理由があり、ひとつはジャン=クロード・エレナの関わる香水がひとつほしいなと長年思っていたことです。ジャン=クロード・エレナは有名な調香師で、メジャーどころだとエルメスの香水を手掛けていたりします。わたしが香水に興味を持つようになったのは、たまたまエレナの本を見かけて、なんとなく読んで、そこに書いてあった香水の小分けを取り寄せてなるほどな……こういう世界があるんだ……と思ったからです。でも庭シリーズのフルボトルは買わなかったんですよね、きれいだけどこれ自分がつけてて楽しいか?となってしまいました。結局最初に買った香水はトムボーイネロリだったんですが、そこにたどり着くまではまた別の話。

このAnthologieというブランドは、ルシアン・フェレーロという調香師が作っているのですが、「セ・ミューティン」と「セ・ロベル」はジャン=クロード・エレナとの共同制作となっています。香調を見た感じだと、後者のほうが好きかもしれないと思ってお店に行って、ムエットの感じもそっちが好きだったんですが、肌に乗せたら圧倒的に前者だ!になりました。

トップノートのタンジェリンは30秒くらいで消えます(わたしはシトラス系が好きですが、シトラスが秒で飛ぶ肌をしています。基本的にシトラスはすぐに消えるものなんですが、それにしても早すぎる)そのあとにしっとりしたジャスミンがゆったりと構えている。わたしはこの余裕というか、なめらかな表面を持っていると思える香りを気に入りました。白くてつやつやしてる。真珠貝みたいな感じ。たまにラズベリーの鮮やかさが現れては消える。

「反逆」という意味にしては、そんなに挑戦的ではないというか、この世にはもっと尖った香りはたくさんあるように思ったんですけど、なんだろう、質のよさ、組み合わせの妙、全体的な調和の取り方、そういったものがある香りに対してこの名前をつけることによって、逆説的に反逆を行っているのだろうなと認識しました。

あとフレーバーテキストが好き。

ノスタルジアとは真逆の存在。自由な精神を持つ者は、過去を後悔とともに振り返ることはなく、それを自分の知識と経験を分かち合うために活用する。

香水はコンセプトを売っている側面もあり、いい香りかついいコンセプトのものがうれしいですからね。なんというか自分はそんなにメジャー志向の趣味を持っていないのにがんばって擬態しようとしていたから苦しかったんだなあという再三の気付きがあり、ちゃんとVS世界をやっていこう、その決意を込めて買ったところがあります。この香りを使う度に思い出すし、使い終わった時に自分がどうなっているのかが楽しみでもあり。

香水を買うことは時間に色を付けること。いい色を塗っていきましょう。

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自分の歌を歌うということ

スパコミ1日目おつかれさまでした!わたしはタローマンオンリーで新刊を2冊出しました。ピコ通販を開けています。ご入用の際はご利用ください。

リアイベに出るのが久々だったのでずっとあわあわしてたんですけど楽しかったです。家を出てからサークルチケットを忘れたことに気付くなどしていました。すぐに気付いてよかったね。オンデマンドで刷った方の本(AUROFLOROUS)は会場で小細工+ペーパーといっしょに袋詰めをしたんですがけっこう時間ぎりぎりでした。

いろいろあったけど楽しかった!買えなかった本は……あったけど……まあそういうこともある。今は読みながらにこにこしています。さまざまなアプローチがあっていい。お声がけくださったみなさま、差し入れをくださったみなさま、ありがとうございました!お返しが途中で足りなくなってしまいすみませんでした。あと勇気を持ってフォロワーさんにスケブを頼んでよかったです。イェイ!

リアイベならではの気付きとしては、『AUROFLOROUS』の見本誌を手に取ってくださった方のほぼ全員が驚く箇所があって、それをサンプルに入れるべきだったんだ!というのがあります。そういうわけでそのポイントを通頒開始時点で出しました。あとはおしながきが不親切すぎることがわかりました。登場キャラクターがわからない。それはそう。登場キャラクターは書いたほうがいい。あまりにも自分が今まで書いてきたものの文脈を理解している人向けすぎた。

『AUROFLOROUS』については長々とあとがきペーパーに書いたんですけど、『ゼロ除算、すなわちメタフォリカルリアリティにおける光軸の(非)固定性』については内情とかそういうのを書いていないので、ここで書いてもいいんですが、かなり「全部言う」本だったのでいらないかなと思います。どちらもウェブ再録はしないと思います。込み入った話を書いたからね……

このジャンルでの今後の活動についてですが、小説はあまり書かないかなというところです。タローマンというコンテンツはまだ続くと思いますが、自分が着目しているところについてはこれ以上先がないという結論を自分で出してしまったので。現実で起こったさまざまなこと、すてきなできごとによって今回の本はつくられたわけですが、自分が見ていたものというのは、根本的に、そこではないということに辿り着いてしまったので。イラストは多少描くかもしれない。タローマンの造形が好きなので。べら棒を作った時に改めて感じましたね、タローマンの顔があるとうれしいって。

ここまで辿り着けてよかったなあと思いつつ、自分の読書ノートを検索したら(Obsidianに入れているものがある、ほんとうは全部入れたほうがいい)まあまあ前に読んだ本に2冊目とだいたい同じようなことが書いてあったので、自分の経験からは逃れられないのだなあと思いました。でもその本は当時わからないなと感じながら読んでいたため、ようやく自分が追いついたということかもしれません。ということで何度目だウィトゲンシュタインチャレンジをやっていきたいです。もちろんその他の分野に関しても。

二次創作で書けないことで一次創作をやり、一次創作で書けないことで二次創作をやるシステムを採用しているので、今回書けなかったことでなんか一次創作をやりたいなあという野望はあります。ネタはいくつかあります。しかしながら書けなかったことって書けなかったことなので輪郭が掴めていないんですよね。また書きながら輪郭を掴んでいくのでしょう。掴めたらいいですね。

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急に本が読めるようになった

お久しぶりです。最近はイベント準備でてんやわんやしていました。なんか5/5スパコミで同人誌が2冊出るっぽいです。たぶんタローマンではこれが最後になると思うのですが……いつもこれが最後だと言いながら本を作っている。イベントが終わったらその感想も書こうと思います。

それはそうとなんか最近本がたくさん読めるようになりました。ブクログによると、4月末時点で去年読了した本よりも多い冊数を読んでいるっぽいです。だいたい月20冊ペースです。たくさん読めるといっても、まあ、これより多い人はいるだろうと思います。自分はメンタルの調子を崩してからがくっと読めなくなったので、戻ってきたともいえる。

どうしてこうなったのかについてはいくつか理由があるのですが、一番大きいのは図書館に行けるようになったというのがありますね。というか、定期的に図書館に行けるようになった。読みたかった本を片っ端から予約して読むみたいなことをしています。ちょっと前の本なら高確率で借りられる。自治体に所蔵がなかったら……買おう……

というか図書館に行こうと思ったら図書館に行けるのが大きいですね。どういうことかというと、元気じゃないと図書館に行けないということです。そして平均的に元気じゃない場合、予定を入れたくなくなるというか、守れない予定を入れたくなくなるわけですね。図書館には期限があるので、それだけでまあまあストレスになってしまっていました。

あと、図書館の利用者ログインをする時に利用者番号的なものを入れるのですが、カードを取り出してそれを確認するという作業がスムーズにできるようになりました。以前はそれができなかった。なぜ?なぜかはわからないんですが、めちゃくちゃハードルがありました。

そんな感じで図書館で借りる+読みたい新刊は買うみたいな感じでもりもり読んでいます。今年は「自分の作風で読んでいそうなのに読んでいない本」を読んでいっており、『ずっとお城で暮らしてる』や『ロリータ』を読んだりしました。かなり答え合わせ感がありました。次は『華氏451度』かな。実は読んでなかったんですよ。

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できることに足を取られる

最近はタローマンの同人誌の表紙を作るためにジオラマを作っている。それについてはもろもろ完成したらまた別途記事を立てると思うのだが、それと並行して岡本太郎も読んでいる。タローマンの二次創作をやろうとするとまず岡本太郎のことばを探すという工程が発生する、そういうコンテンツなので……

というわけで『今日の芸術』を読んだ。まだ読んでなかったんですか!?いろいろ他の本を読んでいたら後回しになってしまったんだけど、早く読んでおけばよかったなと思った。まずものすごくわかりやすい。自分がそこそこ西洋絵画の歴史を知っているのはあると思うけど、そんなに知らなくてもきちんと説明されている。「今日の芸術は、うまくあってはいけない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。」というのはタローマンのOPにも引用されている有名な言葉だが、これがきちんと解説されている。自分の考えていたのとだいたい同じ意味ではあったが、原典に触れるのは大事ですからね。あと人造タローマンのくだりとかである「でたらめをやれと言われてやるのは難しい」話にも紙幅を取っている。

何より印象に残ったのが、絵を描こうとすると、どうしても自分の知っている「きれいさ」などに取り込まれてしまうということだ。それはうまく描こうとしてしまうからで、じゃあ逆に「でたらめ」にしようとしたってどうすればいいのかがわからなくなってしまう。そのわからなさに出会うこと、そしてそこから少しでも、「自分の描きたいもの」に近づけること、それが一般的に言われる「きれいさ」に適合しなくてもいい、むしろ適合しないほうがいい、そういうことは高度な訓練を受けた才能のあるひとしかできないのだから。そうではないひとは、自分の絵を描くことになる、それが何であろうとも。

わたしは2年ほど前から多少絵を描いていて、2年で技術的にうまくはなったものの、ものすごくよくできているというわけではない。でも、自分の描いた絵に関しては、技量的な面で伝わってないところがあるかもしれないが、少なくとも自分が描けるもの、描きたいものを描いているからそれでいいというか、けっこう好きなところがある。もちろん、技術的に向上すればこそ描ける絵の範囲が増えるということもあるし、もっといい絵が描けるようになりたいけれども、それは世間的に評価されたいというよりは、自分の理想に近付けたいからだ。

そう思うと、わたしはテキストの技量を上げすぎてしまい、技量に足を取られている部分があるなというところに気付かされる。当然、自分程度の技術なんかよりはるかに上のひとたちもいるだろうが、自分の実現したいもののために技術を用いるのであり、技術があるからやる、というのは本末転倒にもほどがあると思う。なんだろう、絵よりも「やれてしまう」ことによって、かえって自分が不自由になっているように思うのだ、自分の望みに対して。自分のテキストの強みはがちがちに縛ったところから噴出するエネルギー的なところかなと思っているが、これは狙ってやるものじゃないし、これにふさわしい内容がある時に自然となるべきものなんだろう。

そういうわけで、今回の同人誌は、自分の描きたいことを書こうと思う、それはいつだってそうなんだけど、だいたいそれなりの長さのテキストを読ませるなら相手に配慮しなければならないとか、わかってほしいとか、こういう状態になってほしいと思ってしまう、それをできるだけ忘れたい。そもそもお前はどうしてテキストを書いているのか、という根本に立ち返ろう。わたしは語らないことを決めた7歳のころの自分のために書いている、ずっとそうだ、その子供が何も語ることができないからわたしは書いている、この代理はできるだけ誠実であることを望む。その誠実さがあなたにとってもそうであることを祈る。

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回復のナラティブを要請する社会について

なんか大仰なタイトルになってしまったが、ここからはじまるのは極めて私的なテキストであって、特に一般化できるようなものではないということだけ言っておきたい。この社会には回復、というか「普通」に戻すための力場があって、「逆境」から「回復」したとき、その「逆境」には価値があったということにするナラティブを発生させやすいという話をする。どういうこと?

要するに「つらいことがあったけど今は大丈夫だし、そのつらいことのおかげで逆にいいことがあった」みたいな話に丸め込まれやすいということである。これは、その「つらいこと」の渦中にある人間にとっては光となる可能性がある。「自分の状態は、いつか回復し、その結果として何かを得ることができる」というのは、希望である。その希望を否定するつもりはないし、人間が回復のプロセスを踏むことはよいことであるという認識をしている。

元に戻るものについてならそれでいいのかもしれない。しかし元に戻らない、というかむしろ、そもそもそのかたちではないものに関してはどうだろうか。

治る病気と治らない病気があり、後者は一般に障害と呼ばれる。後者の場合、投薬やらなんやらの結果として寛解することもある。寛解という状態がなく、薬を飲むと「普通」に生活することが可能ということもある。しかし治らないというのは事実である。治らないものに回復するというストーリーは発生しえず、なのに「そこから何か得られるかもしれない」という期待だけがうっすらと漂っている。

「善行は報われる」「悪人には必ず罰が当たる」「努力すれば成功する」などといった考え方のことを公正世界仮説という。何が言いたいかというと、なんらかの逆境、「普通」に対する不足が発生した場合、ここから「努力」して「元に戻る」といいことがある、という素朴な信念があるのではないだろうかということである。なお、公正世界仮説は認知バイアス、要は人間が持ちやすい考え方の傾向であり、特に正しいというわけではない。それでも、だ。それでもひとは回復のナラティブを求めてしまう。何かあるんだからいいことがあるんだと思いたい。

ここで自分の話を多少すると、わたしに発達障害の診断が出たのはここ数年のことなのだが、WAIS自体は大学院のころに受けていた。通っていた大学院の大学に発達障害センターみたいなのがあって、そこで受けて、まあそのときは診断出さなくていいでしょうになってたんだけど、その結果を持って病院を変えたら即座に診断が出た。(それ以前もずっと心療内科には通っていたが、大人の発達障害を診ているところではなかったので、病院を変えた)WAISの数字というより、結果を解説したときに言われたことをよく覚えている、「これは大変だったと思います」と言われて、大変だったんだなと思った。大学院に行けていた時点で恵まれているのは重々理解しており、しかしながら大変ではあった。その後一般企業に就労しようと何回かした結果、今はバイト+フリーの仕事+資格試験の勉強みたいになっている。資格を取ったところで正規雇用につける可能性はあまり高くなく、つけたところでついていけないのは目に見えている。

どういうことかというと、回復しないということである。いや、個人の中では「前よりよく」はなっている。しかし元には戻らない。元がないからだ。ずっと大変だったし今も大変だ。これから先もそうだろう。ここから何を得られるというわけでもない。わたしには「できること」がいくつかあるが、それは社会に寄与しない。というか、資本主義に寄与しない。資本主義に寄与することは可能だが、それ以外の側面が寄与を阻害する。オフィスにいることが苦痛とか、そういうことで。

ここでは回復のナラティブを発する個人を問題としているわけではない。回復するということにはひとに希望をもたらすこともあるだろう。自分の逆境をそのようなかたちで語ることを求める社会に対して話している。「もしかしたらこれがいいことだったのかもしれない」と思わずにはいられないような話をしている。というか「回復したんで大丈夫ですよ」と言わせているのはそもそも誰なのかという話である。世間に言わないと「大丈夫じゃない」ということになる。「大丈夫じゃない」のは「よくない」ので「大丈夫だ」ということにする。そうやって人は「回復」していくし、元の社会に戻ることが許されることになる。

許しているのは誰かという話をしている。誰だよそれ。この社会における「普通」というのは、勤労している人であったら「一日八時間、週五日以上働いている人」である。学校に通っている人であったら「学校に通えている」ことである。このレールから外れるととたんに「普通」ではなくなる。「普通」はそこに戻ることを要請する。戻ってきたらよかったねということになる。

壁と卵があったときに卵の側に立つ、オーケー、いい心がけだ。卵の側に立つひとがたくさんいて、あなたはそこから動けないかもしれない。あなたは花を踏んでいるかもしれない。あなたは足を動かせないかもしれない。花の名前を知らないとしても、あなたは花を踏んでいるのだと理解してほしい。理解したところで何にもならない。そうだね。なのにそのほうが多少はマシなのだと思う、それもまた誤謬のひとつであろう。

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ことばという手段、その不確かさ

今のところメインのSNSとしているブルースカイのbioの最初は「嘘つきの見習い」だ。「ゆかいな嘘つき」とかでもよかったんだけど、なんとなく見習いにしている。嘘という概念に対する執着があるというか、自分は嘘つきだと思っている。というかほんとうのことを言ったって誰も聞いてくれないんだからせめてゆかいな嘘をつこうみたいな考えがずっとある。そうなるとこのテキストも嘘だということになる。クレタ人のパラドクスだ。

比較的ことばを使うのが得意な方なのだが、それはわたしがことばのことを信用していないからだと思う。信用していたら切り刻んだり何だりしないと思う。音韻に興味を持つことができないのに意味の連関もぐちゃぐちゃにしている。そうやっていくつかの言葉遊びを作っており、それは楽しいが、それが何になるのかはわかっていない。形式と意味に関連があるとうれしい。形式のために意味を曲げていき、それが言いたかったということにしてしまうことがある。

言いたいことなんて最初からなかったのかもしれない。

冗談めかしてなにかを言ってればほんとうのことを混ぜたって気付かれないのではないかという考えがずっとある。ぜんぶ嘘だよ。

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感触とか手触り、まとまりのなさ

小説を書いた。『怪獣、あるいは手続き的あなた』というタイトルで、こちらはカクヨムに投稿している。円城塔賞(というかカクヨムコン)の締め切りが今日の12時だったのだが、11時くらいに投稿した。ぎりぎりすぎる。なにもまとまらなくてずっとじたばたしていたが昨日2500字書いて今日3500字書いてなんとかした。なんとかなっていたらいいな。

円城塔賞、一回で終わりの予定だったらしいんですけど、なんかもう一回やるということらしいので、じゃあ何か書きたいなと思っていたのが去年。締め切り間近にならないと何もできずにずっと放置されて方向性が見えたのが先週。先週!?イメージとしてはまず「あなたは怪獣になれない」があり、かつ「あなたは怪獣だ」を成立させようというのがあり、1万字くらいの規模にするなら途中で転調がいるんで「わたし」の話をしたら一人称と二人称と三人称が交じる話になった。基本的にはやらないほうがいいとされている気がしますがまあ……わたしは……そういうのが好き……追い詰められすぎて取り繕う余地がなく、逆に原液っぽくなったのでよかった、ということにしたい。

作業用BGMはサカナクション「ミュージック」でした。「怪獣」じゃないんだ……怪獣ってなるんじゃなくてされるものだなあという感触がある。わたしは怪獣に詳しくない。

絵を描いているほうが苦しみが少ない(下手だからということもあると思う)んだけどなんかずっとテキストを書いている。わたしはプロットを立てるのが下手すぎるし、何がどういう話になるのかがわかるのが書き終わったときなんですけど、その「わかる」プロセスをやりたいんだろうと思っている。自分の理解というのは特に価値があるものではないが、価値がないことはそれをしない理由にはならない。

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「?」の一字に救われるということ

なんかいろいろばたばたしていてぜんぜんこちらが書けていなかった。2025年紅白からこちら、なんやかんやタローマンとその周辺でずっとめちゃくちゃになっていました。突然山口一郎さんが神棚の下に紅白で使ったタローマンの棒を飾っている様子が投稿されたり、それに藤井監督が「太陽が昇る場所に神棚をまつるのはとても良いことだと言われています。」と引用RPしていたりして、えっその紅白のパフォーマンスってやっぱりタローマンの概念的顕現だったんですか?!になったりしていた。タローマンがどんどん現実に現れていく。

そうこうしていたら1月18日に109シネマズ大阪エキスポシティでべらぼうフィナーレ上映祭が開催された。わたしはその日は仕事だったので行けなかったのだが、レポがたくさん流れてきたのでほんとうに助かった。そしてさまざまなレポを総合するとこうだ。

藤井監督が山口一郎さんの衣装と、山口一郎さんが紅白で振り回していたタローマンの棒(通称べら棒、藤井監督製)を借りてきて、新宝島を踊っている(偶然なのかわからないが、5人で)

映像は個人の方が撮ってくださっているものがいくつかあるので検索してもらいたい。当然ながら、新宝島とタローマンは一切関係ない。というかなかった。2025紅白までは。山口一郎さんが突然べら棒を取り出すまでは。山口一郎さんはタローマンを紅白に連れて行ってくれた。今度は藤井監督が山口一郎さんをべらぼうフィナーレ上映祭に連れてきてくれたのだろう。わりと不思議な状況なのだが、タローマンというコンテンツにはこれを許す力があると思う。

ここからは解釈の話なのだが、山口一郎さんが映画で着ていた衣装を身にまとって新宝島を踊っている藤井監督(withべら棒)は、見立てとしてフィクション山口一郎(映画のラストでフィクションということになった「彼」のこと)だったのではないだろうか、と思える。スーツアクターがヒーロースーツを身にまとうことによって「ほんもののヒーロー」を顕現させるように。フィクション山口一郎は、フィクションなのだけれども、このような遠回りをすれば「そう」なのではないか、そしてその手に持っているべら棒も、2025年紅白で見立てによって「ほんもののタローマン」であった。ということはフィクション山口一郎(見立て)がタローマン(見立て)の手を取った(見立て)ということではないだろうか。見立てばっかりなのだが、「ない」ものって見立てるしかないし、そのほうがよほど「ほんとう」である。そういうことで絵を描いた。小説も描けたらいいですね。

よかったなあと思っていたら藤井監督のXの更新がある。全体的にとてもよかったのだが、一部を抜粋する。

岡本太郎も、そして山口さんも?言っていました。 「ぼくはきみの心のなかに実在している。疑う必要はいっさいないさ。そうだろ。」

この「山口さんも?」の「?」を読んだ瞬間に、よかった、と思った。それを言ったのが現実の山口一郎さんではないという留保がそこにあるから。完全にそうだと言いきるのでもなく、もしかしたら「そう」かもねというくらいの意味合いがそこにある。それに「そう、岡本太郎も言っていた」はタローマンの根底をなすことばであり、それに「山口さんも?」が加わることによって、山口一郎さんのインタビュー部分がタローマンというコンテンツの「真正性」を担保していた(過去形)という読みもサポートする。(タローマンクロニクルの山口一郎さんの帯文は二箇所あり、最後に載っているほうが本人コメントなのだろう。そこでもフィクション山口一郎がいるということはかなり明確なのだが、今回美しいかたちで表明されたと思う)

というかフィクション山口一郎も「心のなかに実在している」んだ……になっている。最近そういう読みになってきたのがサポートされてしまった。

正直なところ、これはモキュメンタリーの体裁をとってはいるが、そうではない、と言明するのはあまり粋なことではなく、わかっていても黙っていたほうがいいことなのだろうな、と思っていたのだけれども、でも、わたしはフィクション山口一郎が「いる」ことを知ってしまったため、いないキャラクターの話をするしかなくて、ずっとしていて、それが「?」の一字でやわらかく受け止められたような、そんな気がしている。

さて、8月22日に公開1周年イベントがあるらしいですね。行けたらいいですね。

 

 

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昨日何が起こったか

あけましておめでとうございます。いつの間にか2026年になっていました。そしてもう夜になっています。わたしは一日中なんか……てんやわんやしていました。昨日2025年まとめ記事を書いた時は落ち着いていたのに……

では何が起こったのか時系列順に説明しましょう。

タローマンが紅白に出るのではないか、という説がまことしやかにささやかれていた。映画はかなりのロングランだし、なんかタローマンって縁起物っぽい感じがする。サカナクションも紅白に出るし……ということで「ないことはないかな」という感じがしていた。でもタイムテーブルにないものって出るか?紅白というビッグコンテンツで?怪獣も新宝島もタイアップ先あるし……とわたしはない寄りで考えていた。タローマンは家で見てるって監督もポストしてるし……

でも普通にサカナクションは見たいので、それまでにお風呂に入っておこうとかそういうことをしていた。年末短歌のタグをやりながらぼんやりと紅白を見ていた。星野源さんのパフォーマンスがすごかった。任天堂の「すべて」じゃん……

とか思っていたらサカナクションの出番が来る。一曲目は怪獣。演出がめちゃくちゃよかった。完全にMVの続きとなっており、「存在するはずのない邂逅」がそこにあった。MVの「主人公」は宛先に届いたのかを知らないけどきっと届いたと信じていたであろう、その気持ちの先があった。けっこう短縮されてたけどメドレーだもんな……と思っていたら新宝島の明るいセットになりーー

山口一郎さんがタローマンのうちわを持っている。

正直初見時はそこから先の記憶があまりない。山口一郎さんが笑顔でよかったな……と思っていたら終わっていた。司会のみなさんも一切タローマンには触れない。え?????

いやその……なんでこんなに動揺しているかってわたしが映画タローマンでいちばん好きなところが「タローマンとフィクション山口一郎の間に横たわる無のかたち」なので……そして現実の山口一郎さんが祝祭的パワーでタローマンを「現実」にしてきた、その事実に打ちのめされていたら一時間くらい経っており、手足が冷たくなり、動悸がすごく、なんなら熱が出ていた。なんで?

もうちょっと噛み砕いて説明すると、

  • タローマン本編の「タローマンと私」パートにはモキュメンタリー的性質があり、それは語り手山口一郎が現実に存在する山口一郎と同一であることを要請する(それが嘘だとわかっていても、そうだということにするという「お約束」が作り手と受け手の間に存在する)
  • 映画タローマンラストで語っている山口一郎はフィクション存在であることが、語っている内容やアンテナによって示される
  • なぜこれが可能になったのかというと、モキュメンタリーでなくても、タローマンは「実在」するから
  • 紅白の舞台でタローマンの顔だけが示される(なんか棒のところも腕の模様になってましたね……)
  • 新宝島は「君」を描き、「君」を歌い、「君」を連れて行く歌である
  • この「君」ってタローマンじゃん(少なくとも今この場においては)
  • タローマンが「いた」ってこと!?

なんというか、身体があるよりアイコンだけのほうが逆説的に存在強度が高いんですよ。この場においては。「それ」が「ある」ことだけが示されて、あとはすべて曲が語ってくれる。語ってくれたような気がしてしまう。実際にはなんかいろいろ事情があったのだろうしその全貌はまだ明かされていないのですが(何かあったっぽいことだけが山口一郎さんのYoutube配信などでわかる 追記:1月1日雑談配信の最初の方でお話されている)そういうのはいったん置いて、タローマンが、「現実」になったんですよ。

それで現実に打ちのめされてばかりもいられないなと思ってなんか書いたりもした。急いで書いたし気が動転してたから荒い部分もたくさんあるんだけどあのときにしか書けなかったからこれでいいと思っている。サイトに再録するならちょっと直すけど……当然ながら「ぜんぶ嘘」だし、それをわかってくれるひとに向けて書いてる。

わたしはタローマンの「現実」と「フィクション」のあわいの部分を愛しており(他の部分も好きだけどいちばん関心があるのがここ)、それを実感したイベントだった。山口一郎がタローマンを「現実」にして、タローマンが山口一郎を「フィクション」にして、そこできれいに片付いたかと思いきや山口一郎がタローマンをまた別の「現実」にした。映画のラストを美しいものだと思っているし、フィクションとしてはあれで終わりでいいと思うんだけど、なんか、ボーナスステージが急に来た。なんか終わった風に書いてるけど別にまだ落ち着いていません。落ち着くためにこれを書いている節がある。

そうですね、今年は気の利いたすてきな嘘つきを目指していきましょう。おそらくわたしの向いている方向はそちらなので。

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